2012年10月21日

異界に映る自分

 恒川光太郎の本を読みふけっている。「夜市」を手にとって以来、スイッチが入ってしまった。
 何年かに一度、私はこういうハマり方をして、気に入った作家の可能な限り全作品を読みふけることがある。
 二冊目は刊行順に従って「雷の季節の終わりに」を手に取った。


●「雷の季節の終わりに」恒川光太郎(角川ホラー文庫)

 凄い。
 デビュー作「夜市」と同じく異界を扱った作品で、今度は単行本一冊丸ごとの長編である。
 これは単なる想像なのだが、作者としてはこの二作目の方が「本命」だったのではないかと思った。
 作家デビュー以前からずっと暖めていた構想で、もしかしたら試作原稿なんかも手元にあったのではないだろうか。
 この二作目を読むと、デビュー作「夜市」が、ある意味では「名刺代わり」の作品だったのだなと感じる。
 独特の作品世界を世に出すために、まずは読むためのハードルの低い中短編でデビューし、一定数の読者と本を出せる立場を確保する……
 そして自分の作品の持つ世界観と読み方、楽しみ方について一種の「啓蒙」を行い、作品世界に適切な語り方も確立し、満を持して本命作品を発表したのではないか……
 そんな妄想を抱いてしまうほどに、凄まじい第二作である。
 それ自体が凄みのある完成度を持つ「夜市」の読後、「このデビュー作を超えるのは大変だろうな」と、やや不安を抱きながら二冊目を手に取ったのだが、まったくの杞憂だった。

 恒川作品は一応「ホラー」というジャンルに入れられている。
 確かに「怖い」作品で、恐怖を呼ぶ設定がしっかりと作りこまれているのだが、読んでいて一番「怖い」と感じる点はそうした設定の部分ではない。
 登場人物の大半がその人格においてまったく平凡であり、普通の人が普通であること自体に潜む「怖さ」を曝け出す所に、恒川作品の特色があると思う。
 おそらく作者は、ことさらに「ホラー小説」を書いているという意識は希薄なのではないだろうか。自分の作品を世に出すにあたって、日本の出版状況の中から適切なカテゴリを選んだ結果として、現在の立ち位置を保っているようにも感じる。

 現代の創作技術の一つに「キャラを立てる」というものがある。 ごく簡単に述べると、とにかく登場人物を印象深く特長的に設定し、物語はその登場人物達がぶつかり合うことで自然に紡ぎだされてくるという創作手法だ。
 上手くいくと作者、作中人物、物語の成長が同期して、作品にダイナミックなライブ感が生まれ、読者や作者自身の予測を上回る展開を得ることができる。
 しかし、下手に使うとエキセントリックな登場人物が支離滅裂にドタバタ暴れるだけになったり、類型的登場人物がどこかで見たような展開に終始するだけの作品になってしまう。
 元々は週刊少年マンガの世界で発達した技術だと思うが、最近はジャンルを問わず、創作全般に広く意識化されている。
 恒川作品はそうした意味での「キャラを立てる」という手は、あまり使われていない。
 特殊な能力を持っていたり、特殊な状況に巻き込まれているという設定はあるけれども、そこで登場人物は読者にとって容易に了解可能なごく普通の物の考え方をし、行動する。
 ことさらに登場人物の印象付ける類の「キャラ立ち」は行われていないけれども、各登場人物のものの考え方は、非常に丁寧に書きこまれている。
 特殊な状況下における普通の人のものの感じ方、言動を、緻密に書き連ねていくことで、物語は推進されていく。

 デビュー作「夜市」はある兄弟の物語だったが、前半は兄の物語として綴られていた。ところが後半、弟の存在感が急激に重くなり、物語全体を飲み込むことになる。
 私が作中で最も「怖い」と感じたのは、無垢な被害者であったはずの幼い弟が、過酷な境遇の中でふと破壊衝動にとり憑かれ、自分がされたことと同様の加害を他者に与えそうになる瞬間の描写だった。
 前半の兄の視点で最後まで描かれても成立し得る作品だったと思うのだが、もしかしたら兄から弟への視点の転換は、登場人物の心情を緻密に描写していく流れの中で、自然に起こったのかもしれない。
 作者自身も明確には予期していなかったからこそ、日本ホラー小説大賞の撰者に名を連ねる、手練れ揃いの作家の方々の予想を上回る展開になることができたのではないかと、勝手な想像をしてしまう。

 「夜市」の弟は、結果としては破壊衝動に身を任せることは無かったのだが、どちらに転んでもおかしくない心情描写の蓄積があるだけに、読んでいて非常に辛かった。
 恒川作品を読んでいると、度々このようなスリリングな登場人物の分岐点に出会う。
 ある者は破壊衝動に身を任せ、ある者はなんとか持ちこたえる。
 どちらに転んでも一概に「正しい」とは言い切れない状況が頻出するので、それ以上読むのが恐ろしくなり、本を閉じることもしばしばある。
 警察力の埒外にある「異界」で、登場人物は否応なく「これをやっても法に問われず、捕まることもない」という状況下に置かれる。
 自分がやらなくとも、対面している相手が仕掛けてきた時にどうするかと言う状況も、考えなければならない。
 法治国家から隔絶された場所では、普段どんなに温和に見える者であっても内心の凶暴性を隠す必要は無くなるし、逆に普段から荒れた生活を送っているアウトローの方が自分を律することができる可能性もある。
 倫理、美学、矜持、なんと表現しても良いのだが、法による強制を超えたところに自分自身の掟を持っていない者は、「異界」によって容赦なく凶暴で醜悪な素顔を暴かれてしまう。

 自分ならどうするか?
 その時、人として汚いことをやらずにおれるかどうかは、同じ状況に立って見ないと分からない。
 大丈夫だという自負もあるが、時折感じる自分の中の凶暴性に、背筋が寒くなる瞬間がある。
 魅力的な作品に引きこまれ、耽溺して読み進めるうちに、作中の「異界」に自分の素顔まで映しこまれそうになって、我に返る。
 私の思う恒川作品の「怖さ」は、そこにある。
posted by 九郎 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする