引き続き、恒川光太郎の作品を読み続けている。
【関連記事】
暗く恐ろしく優しき異界
異界に映る自分
●「秋の牢獄」恒川光太郎(角川ホラー文庫)
短編三作。「秋の牢獄」は少しSF的な異界、「神家没落」は作者らしい民族的な異界。
三作目「幻は夜に成長する」には一見、異界が登場しないが、「波」と表現されるものがそれに当たるとも言えそうだ。
各作品に直接的な関連は無い。
●「草祭」恒川光太郎(新潮文庫)
同じく短編集だが、「美奥」という架空の山間地域にまつわる作品が連ねられている。
ただ、それぞれの作品には「連作短編」と言うほどの関連性は無く、「美奥」とその周辺に生まれた小さな物語の断片集といった趣だ。
一冊目に登場した「市」「古道」は、いずれも民俗的なイメージが濃厚だった。
二冊目の「隠れ里」は、民俗的な世界から少しファンタジックな領域に入り始め、三冊目、四冊目と書きすすめるごとに、作者は描ける「異界」の領域をじわじわ拡大しつつあるように感じる。
いずれも丁寧に描かれた、魅力的な世界だ。
こうして短編の執筆を重ねることで内なる「異界」は成長し、またいずれ二冊目「雷の季節の終わりに」のような長編が生み出されるのかもしれない。
恒川光太郎に次なる「波」が訪れるのはいつの日か。
恒川作品に耽溺し、少しでも人に勧めたいと思いながら記事を書きつづけている。
誰に勧めたいかと言えば、もちろん当ブログを読む、興味の範囲が私と重なる部分のある皆さんであるのは当然のことだが、年若い人たちにも勧めてみたい気がする。
小学校高学年から中高生あたり、ちょうど恒川作品の登場人物の多くが該当する年代の子供たち。
ただ、子供なら誰にでも読んで欲しいというわけではない。
恒川作品には、ときにかなり凄惨な暴力が描かれるので、誰彼となく勧めることは少々ためらわれる。
一般には、親が我が子に安心して勧められる類の作品ではないだろう。
ある意味、恒川作品は毒のある「いけない本」だ。
間違っても学校で課題図書になったりはしないだろう。
しかし、子供にはそうした「いけない本」も、また必要なのだ。
とくに十代の親離れの時期、家族よりもそれ以外の対人関係の比重が増し、広い世界に旅立つ準備を進める時期に、読んでおくべき種類の本がある。
例えば私は同じ時期、永井豪「デビルマン」や、SF作家平井和正の作品に救われ、癒され、鍛えられ、闘う力を得た。
強烈な「毒」を含みながらも、中核部分に清んだ透明な泉をたたえている、そんな作品を必要とする子供たちは、いつの時代もある一定数存在する。
思いかえしてみれば、十代の少年少女が多くの時間を過ごす「学校」という空間は、一般社会と対比してみた時、多分に「異界」としての性質を備えていたことに気付く。
まず、同年代の少年少女のみが閉鎖空間に多数収容されていること自体が、世間一般から見ればかなり特殊な環境である。
その「学校」という閉鎖空間では、しばしば国の法律とは違うルールが設定されており、普通なら犯罪として取り締まりの対象になりかねない行為が罪に問われない場合もある。
そしてそのような特殊な環境が、収容されている少年少女にとってはほとんど唯一の社会であると思い込まされていて、そこから外れてしまうことに恐怖感すら抱きがちであることが異様である。
「いじめ」という名を借りた暴力行為は、そのような特殊なルールが設定された、特殊な環境から生じがちだ。
知的好奇心が強く、なんとなく周囲に溶け込めず、内に秘めた想いを抱える少年少女たち。
この世のまことを求める少年少女たちよ、誰にも言わず、一人静かに書物を手に取ってみないか?
読むべき本がここにある。
作品の刊行順からは外れるけれども、恒川光太郎が文を担当した絵本もある。
●「ゆうれいのまち」恒川光太郎(著)東雅夫(監修)大畑いくの(イラスト)(岩崎書店 怪談えほん4)
読んでみると「子供向け」とは言いながら、間違いなく恒川作品の世界だ。
イラストの相性が絶品で、この絵で小説作品の挿絵も見てみたい。
暗く、恐ろしく、楽しくて、果てしなく連環する異界。
春の夜の夢は、いつから始まったのだろうか?