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2012年11月03日

絵解き「石山合戦」への長い道

 「そうだ、京都に行こう」
 そんなどこかで聞いたようなフレーズが頭に浮かんだ。
 今日、ぽっかり予定が空いたので、どうしようかと考えていた時のことだ。

 電車内に掲示されていたポスターで、とある展示のことを知っていた。
 龍谷ミュージアム:特別展「“絵解き”ってなぁに?」
 龍谷ミュージアムにはまだ行ったことがなかったのだが、以前から興味深い展示をやっているなと思っていた。
 ただ、私が現在住む地域から京都までは、けっこうビミョーな距離がある。
 旅行と言うほどには離れていないが、ちょっとお出かけと言うには遠い気がして、なかなか実際に出かけるには至らなかった。

 しかし、今回の特別展はテーマが「絵解き」だ。
 日本の中世から近世にかけて、各種曼荼羅の入った厨子を背負い、辻や市でその曼荼羅を広げて功徳を語り、札などを売ったりする「絵解き」と呼ばれる人々がいた。
 彼らは旅芸人であり、遊行乞食でもあった。
 アマチュアながら、現代の絵解きを志す私としては、これは行かねばならない(笑)

 西本願寺から道路をはさんだ向かい側にある龍谷ミュージアムは、こじんまりとしているが良い雰囲気の会場だった。
 中世から近世にかけて「絵解き」に使われた様々な絵図の現物が展示されており、中でも圧巻は一辺約2mの当麻曼荼羅の、黒々と鈍い光沢を放つ版木だった。
 となりには実際に刷りあげたものも展示されており、白描画ながら極楽浄土の在り様を鮮烈に描写してあった。
 館内のシアターでは、「絵解き」を実演してみた映像が流されており、ショップでは解説の充実した図録も販売されていた。これはもちろん買い。

 ついで参りになるが、せっかくだから東西両本願寺も参拝。
 京都に行くと、どうしても「せっかくだから」とあちこち行きたくなるものだが、あまり欲張るとどこも中途半端になってしまうので、ねらいはしぼった方が良い。
 今回は、ミュージアムと両本願寺。

 お西さんでは参拝すると、ちょうど結婚式をやっていたところで、外国人観光客の皆さんが喜んでいた。売店で「御文章」のCD購入し、続いてお東さんへ。
 一応説明しておくと、JR京都駅の真北にあるのが「お東さん」の東本願寺、そこからしばらく西に歩いた所にあるのが「お西さん」の西本願寺だ。
 両本願寺はもちろん元は一つだったのだが、戦国時代の石山合戦をきっかけとして、二つに分かれた。
 数年前から石山合戦にハマっている私は、どうしてもそれに関連した資料を探してしまう。
 石山合戦を考える上では、当時の門主・顕如上人と、その息子・教如上人の関係が重要になってくるのだが、教如上人については東本願寺の方に行かなければ得られるものは少ない。

 大規模な改修工事中の東本願寺を参拝後、売店をのぞくと、私の望みにぴったりの本があった。


●「教如上人と東本願寺創立-本願寺の東西分派」東本願寺 教学研究所編

 石山合戦当時の本願寺の系譜、時代背景、寺内町の状況などについて、極めてわかり易くまとめてある。
 やっぱり、たまには両本願寺に行っとかないとね。

 いつになるかわからないが、自分なりの石山合戦の絵解きを完成させるために、じわじわと1mmずつでも私は這って行かなければならない。



 付記しておくと、お東さんの方は入口付近に、はっきりと「脱原発」を表明した声明文が掲示してあった。
 ことこの点にかんしては、お西さんの動きはやや鈍いと言わざるを得ない……
posted by 九郎 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2012年11月10日

雑賀で売れるにはどうしたらいいか?

 2010年頃のことだが、立てつづけに「雑賀孫市」や「雑賀衆」をテーマにしたマンガの連載が開始された時期があった。
 私は2006年頃から雑賀衆や石山合戦に興味を持ち始め、じわじわとのめり込んで関連資料などを漁り、挙句の果てには、雑賀衆をテーマにした自主製作映画にほんの少しだけ関わらせてもらったりしていたので、こうした流れは素直に嬉しく思い、「ついに雑賀の時代が来たか!」などと妄想したりしていた。
 当時連載中だった主な作品は以下の通り。
 

●「戦国八咫烏 1」小林裕和(少年サンデーコミックス)
●「雷神孫市 1」さだやす圭(プレイコミックシリーズ)
●「雑賀六字の城 壱」津本陽(原作)おおのじゅんじ(漫画)(PHPコミックス)

 三作のうち、「戦国八咫烏」は週刊少年サンデーというメジャー誌、「雷神孫市」は著名漫画家さだやす圭作で、期待が高かった。
 しかし両作品ともに、雑賀衆をテーマにした場合の物語のクライマックスになるべき、織田信長との直接対決までは、ついに描かれることは無かった。
 やはり「連載打ち切り」と言うことなのだろう。
 私が一番気に入っていた「雑賀六字の城」にいたっては、掲載誌そのものが休刊になってしまった。(参照:続きが読みたい!
 質的にはかなり高い作品だっただけに大変残念だったのだが、その後月刊コミック乱と言う雑誌で連載再開されていることを知り、一安心した。
 こちらはいよいよ、雑賀衆と信長の直接対決が始まろうとしているので目が離せない。

 ぶっちゃけ雑賀をテーマにした漫画は、どれも苦戦中である。
 石山合戦や雑賀衆は、物語の素材としては極上だと思うのだが、それが「売れる」かどうかはまた別問題のようだ。
 私は自分でもいつの日か石山合戦をテーマにした絵解きをやってみたいと志しているので、「どうやったら雑賀衆で受けるか」ということには、ちょっと関心があり、つらつら考えてみたところ、苦戦している三作品には共通した傾向があるのではないかと思い至った。
 それは、織田信長の出番が少なく、扱いが軽いということである。
 戦国ブーム、歴史ブームと言われ始めてから既に久しいが、少なくとも現代の歴史エンターテインメントの中で不動の一番人気を誇っているのが織田信長その人であることは、議論の余地がないだろう。
 信長には需要がある。信長は「客」を持っている。
 信長を扱えば、一定数の読者を引きつける要素にはなる。
 それは逆に言うと、信長を「悪く」「軽く」扱うと、それだけで「客」を逃がす要素になり得るということだ。

 雑賀衆や一向一揆をテーマに扱うということは、信長を相対化するということと、ほぼイコールだ。
 一向一揆側からの視線で信長を眺めれば、そこには残虐極まりない「魔王」が映らざるを得ないし、史実を丁寧に検討していくと、信長だけが突出して優れていた訳ではなく、織田軍の鉄砲隊が必ずしも戦国最強ではなかったことが明らかになってくる。
 これでは世に星の数ほど存在し、現在の戦国ブームを支えている「信長ファン」という読者層からは、あまり歓迎されなくなってしまうのは仕方がない。
 だから一向一揆側から見た石山合戦を描く場合、信長を単なる悪役にしてはならないのだ。

 信長は強大な魔王でありながら、なおかつ魅力的な「悪のカリスマ」として描かれなければならない。
 広く読まれることを志すなら、信長とその思想をカッコよく描き、同時にそれと拮抗する別の魅力的な価値観をぶつける存在として、一向一揆や雑賀衆を描かなければならないのだ。
 その場合のサンプルの一つとしては、やはり「北斗の拳」で描かれた覇者ラオウに、まったく正反対の生き方をぶつけて散って行った「雲のジュウザ」の姿が浮かんでくる。

 しかし、そもそも雲のジュウザは、司馬遼太郎「尻啖え孫市」を下敷きにしているのではないかと思われるので、結局「司馬遼太郎ってやっぱりキャラクター作りがむちゃくちゃ上手いなあ……」という振り出しに戻ったりする(苦笑)
posted by 九郎 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2012年11月11日

信長と竜馬の名を使うものには御用心

 織田信長と坂本竜馬、日本の歴史物語に登場する人物の中ではトップクラスの人気を誇る二人である。
 両者とも実在の人物だが、敢えて「歴史物語の登場人物」と表現するのは、二人の人気が必ずしも史実に裏付けられたものではなく、小説をはじめとするフィクションの世界での活躍によるところが大きいからだ。
 どちらもよく似た持ち上げられ方をすることが多い。
 すなわち、「古い時代に忽然と現れた、近現代の合理性を備えた人物」という設定だ。
 こうした構造の物語がなぜ現代の読者の心をつかみ易いかについては、以前にも一度記事にしてみたことがある。
 フィクションの中で、主人公のキャラクターを際立たせるための設定としてそのように描くことには、とくに問題は無い。
 作家と言うものは「見てきたようなもっともらしい嘘」を、さも本当のことであるかのように語るのが仕事であるし、その嘘が面白い嘘で、読者が心から楽しめる限りにおいて、全ては許される。
 実際の信長も龍馬も、鮮烈な個性でそれぞれの時代を駆け抜けた魅力ある人物だったことは間違いないだろうし、作家はそうした史実を種に、想像力で独自の物語を紡ぎだすものだ。
 問題なのは、実在の人物をフィクションで扱った場合、読者の側に「お話はいくら面白くてもしょせんお話」という見識がないと、フィクションの世界で描かれた人物像が史実そのものであるかのように錯覚してしまうことがあるということだ。
 そしてそのような錯覚を利用し、あやかることで、自分の意見を都合よく正当化し、利益を得ようとする輩が、著名な人物の中にもいくらでもいるということだ。
 御用心、御用心。
 選挙の時に信長や竜馬の名前を出す候補者。
 歴史は専門外のはずなのに、信長や竜馬に仮託して己の意見を広めようとする経済評論家。
 そいつら、全員アウトです!
 フィクションと現実の見分けがつかないバカか、己の利益のために一般庶民をだまくらかそうとする詐欺師であるかのどちらかです。
 選挙が徐々に近づきつつある中、信長と竜馬の名を使ったり、彼らにちなんだ用語を使う輩にはくれぐれも御用心!
posted by 九郎 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年11月15日

辺境からの長い旅

引き続き、恒川光太郎作品を読んでいる。
【関連記事】
 暗く恐ろしく優しき異界
 異界に映る自分
 たがための異界か
 異界の作家が移住した異界

 以下は今現在、刊行済みの中では最後の一冊。


●「金色の獣、彼方に向かう」恒川光太郎(双葉社)
 短編集である。 
 鼬に似た「獣」のイメージが、それぞれの作品を繋ぐともなく繋いでいる。
 はっきり連作短編と言うほどの緊密度はないが、「草祭」に近い距離感で連環している。
 四作品の表題は以下の通り。

 1、「異神千夜」
 2、「風天孔参り」
 3、「森の神、夢に還る」
 4、「金色の獣、彼方に向かう」
 
 「風天孔参り」「金色の獣、彼方に向かう」は、これぞ恒川光太郎と言った雰囲気の作品で、現代またはそれに近い時代設定の中、民俗的な異界のイメージと、それに出会ったときの人の心の在りようが、極めて精緻に描写されていく。

 「森の神、夢に還る」は、ちょっと珍しい二人称の物語。スタンダードな三人称や一人称と違った異様な語り口なのだが、視点がある若い女性に取りついた憑霊からのものだと分かってからは、なるほど二人称で表現するのが一番自然だと感じられるようになる。
 普通なら二人称であることが展開上終了した時点で、作品として完結させてもおかしくないと思うのだが、そこからさらにもう一歩、搾り出せるだけのイメージを搾り尽くしているのが恒川光太郎の真骨頂だと思う。

 「異神千夜」は、はっきりそのように描写されているわけではないが、他の作品に登場する「獣」の起源にまつわる物語になっているようだ。
 元寇の時代が舞台で、元に滅ぼされた辺境の国の女巫術師が「獣」を日本にもたらして異様な進化を遂げていく筋立てになっている。
 辺境で生まれたごく小さな信仰が、何かのきっかけで移動を開始し、長い旅を続けるうちに思わぬ進化を遂げていくことは、現実の世界でも頻繁に起こる事例だ。いくつかの例は、当ブログでもカテゴリ大黒や、節分として紹介している。
 考えてみれば世界宗教として広まっているキリスト教や仏教も、はじまりに時点では先行する民族宗教の異端的改革派に過ぎなかった。
 神仏に限らず、様々な文化や、もっと言えば病原体等も、それを媒介する人の移動とともに、変容しながら生き延びていく。
 武術が近代化された維新後、日本では必要とされなくなった柔術が南米やヨーロッパに伝えられ、その技術が現代の総合格闘技の基礎として、再び日本や世界に復活した経緯なども、なんとなく思い返してしまう。
 人と、その隣に存在する何者かの、長い旅について、あれこれ空想してしまう作品だった。


 今月末には恒川光太郎の、沖縄をテーマにした最新刊が出る。

●「私はフーイー 沖縄怪談短篇集」恒川光太郎(メディアファクトリー)
posted by 九郎 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2012年11月18日

虚実のはざまにみる景色

 しばらく前の話になるが、アニメ映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」を観た。
 一言で言うと、「絵作り」の素晴らしい映画だった。
 おさえた色彩の人物と、対照的に豊かで鮮やかな色彩の背景画のバランスが絶妙で、パッと見た瞬間から感覚的に作品内の世界観が伝わってきた。
 とくに印象的だったのは、やはり江戸城と吉原の風景描写だ。
 そびえ立つ石垣と天守閣の江戸城は、まるで西洋の城のように鋭角的。
 吉原の極彩色には要所要所にピンクとパープルが配色されて、「和」の領域はギリギリ守りながらも、異国情緒を漂わせている。
 どちらも江戸風景の「写実表現」ではあり得ないのだが、これはこれで感覚的にはまっとうな表現だと感じた。
 江戸時代当時の人々が天守閣を見上げた時に感じる「高さ」や、不夜城吉原を歩いた時に感じる極彩色から受けたショックの度合いを表現する場合、史実に基づいた「写実」では、超高層や極彩色に飽和した現代人の中に同様のショックを生むことが難しい。
 感覚や感情を伝えることが優先されるフィクションの世界では、これぐらいやり切ってしまうことは当然「アリ」だと思う。
 忘れてはならないのが、そうした派手な情景と対照的な、おさえた色彩の人物を含む、生活感あふれる下町の風景が、精緻に描きこまれていることだ。
 江戸城と吉原の絢爛を際立たせるためには、絶対にこうした「生活感」の描写はおろそかに出来ない。
 私がいつか描いてみたいと志している石山合戦の絵解きの際にも、大坂本願寺寺内町のめくるめく都市風景は、これくらいド派手に、そして細やかにやってみたいと、憧れるレベルで素晴らしかった。

 シナリオの方は、率直に言うとやや消化不良と感じた。
 原作は桜庭一樹「伏 贋作里見八犬伝」で、私はこの原作小説の方は未読なのだが、虚実のはざまを行き来する重層的な物語であるだろうことは推察できる。
 今回の映画でもそれは感覚的に伝わってくるほどには再現されているのだが、主人公の少女とその周辺の丁寧な描きこみに比して、物語全体の構造はやや駆け足で流されてしまっている感じがした。
 これは単純に、物語の要求する諸要素にたいして、二時間と言う尺が短すぎたということなのだろう。
 前半の吉原、後半の江戸城で分割して二部作にしていればなんとかなったのではないかとも思うのだが、それも含めて、スタッフの皆さんは与えられた条件の中で最善を尽くしたであろうことは想像に難くない。

 ともかく、見事な江戸の幻を見せてもらえただけでも、納得のできる映画だと思った。
posted by 九郎 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2012年11月19日

どことはいわんが

 9月頃、愛用のノートPCに不具合が生じた。
 ACアダプターを繋いでもバッテリーの充電ランプが点きづらくなってきたのだ。
 常識的にはACアダプターの接触不良を疑うべきだろう。
 しかし接触不良であれば、どこに不良個所があるかはだいたい分かるものだ。
 今回の場合は、充電ランプが点く時と点かない時で、ACアダプターの配置やコードの角度に法則性は見られず、どうも接触不良ではなさそうに思えた。
 後はバッテリー周辺か、ランプ単体、ACアダプター自体の劣化等が考えられそうだ。
 そうこうしているうちに全く充電されなくなってしまったのが9月中旬。
 2009年秋に約4万円で購入の安価なネットブックである。
 けっこう使い倒して3年目という状況を考えればそろそろ寿命かもしれないのだが、長期保証の期間内なので一応修理に出してみることにした。
 某大手家電量販店の修理カウンターに持ち込み、状況を説明する。使っていた感じでは、接触不良ではなさそうだということも、一応参考意見として述べておく。
 量販店さんの説明では、こちらのメーカーは海外修理になるので少々時間がかかるとのこと。目安としては3週間、場合によっては4週間ほどかかることもあるらしい。
 以前使っていた国内メーカーの修理が2~3週間だったことを考えると、期間は長めだ。

 どことは書かないが、今回のネットブック、ある沖縄っぽい名前のメーカーの製品である。
 私はそのメーカーに対してとくに何の先入観も持っていなかった。
 価格の割りには、この3年間とくに問題もなく愛用してきており、むしろ好印象すら持ってきたと言ってよい。
 だから国内メーカーより修理に多少時間がかかったとしても、まあ、そのくらいは仕方がないかと思っていた。
 そう、この時点では。

 ネットブックを修理に出してからは、けっこう不便を感じていた。
 移動の多い商売柄である。
 自宅に「母艦」としてのデスクトップはあるものの、やはり外に持ち出せる「戦闘機」は必要だ。
 なんとか文字打ちはPOMERAで間に合うが、絵描きのハシクレとしては画像が扱える環境があった方が良い。
 じりじりしながら修理完了を待つ。
 
 3週間後、量販店から電話連絡があった。
 ようやく修理が完了かと思って話を聞いてみると、どうも様子がおかしい。
 チェックしてみたが、修理依頼の不具合が再現されないというのだ。
 そんなはずはないのだが、メーカー側が不具合が存在しないと言うのなら仕方がない。一旦受け取るので返却してくれるよう、依頼した。
 この時点で、私は「ああ、これはちょっとモメるな……」と、量販店の修理窓口での一悶着を半ば覚悟しつつあった。
 その後の一週間、修理に出したPCのことを思い出すたびに、ちょっと気が重くなった。
 
 そして一週間後(修理に出してから4週間後)、再度量販店から電話連絡があった。
 やっと返ってきたかと話を聞いてみると、意外な報告があった。「最終チェックでACアダプターに不具合(やはり接触不良ではなかった)が見つかった」と言うのだ。
 思わず電話口で舌打ちしてしまった。
(ほら見ろ、いわんこっちゃあらへんがな!)
 生来、極めて短気な質である。
 年齢とともに多少忍耐は身に付けてきたものの、頭に血が昇るハードルは相変わらず低い。
 それでも矛先を向ける相手を間違ってはいけないので、そっと深呼吸しながら、努めて冷静に受け答えする。
「量販店さんに言っても仕方がないですけど、それ、最初のチェックで分からなかったんですかねえ?」
「……はあ……」
「バッテリーの充電ランプが点かないという場合、普通PC本体しか調べないもんなんですか? 最初はそれで突き返そうとしたわけでしょ?」
「……う〜ん」
「本体に不具合が見つからなかったら、当然ついでにACアダプターの方も調べるもんだと思うんですが、私の感覚は変わってますかねえ?」
「そうですねえ……」
「これでもう修理に出してから一カ月ですよ。いつになったら返ってくるんですかねえ」
 しゃべりながら本来責任外の量販店の担当者さんが気の毒になってきた。
 ぼちぼち矛を収めることにしたのだが、やはりお店側にも「販売責任」と言うものはあると思うのだ。
 クレーマー扱いされるかもしれないが、一応言うべきは言っといた方が良い。
「じゃあ、他に不具合がないよう、ちゃんとチェックしてもらえるよう、量販店さんからもメーカーに伝えておいてくださいね」

 結局、PCが返ってきたのはそれから2週間後のことだった。
 たかがACアダプターの不具合を見つけるのに1か月、問題のアダプターが交換されて戻ってくるまでだと6週間。
 どことは書かないが、沖縄っぽい名前のメーカーである。

 物は悪くないですよ。普通に使えてます。

 でもねえ、サポートは糞。

 まあ、このぐらいのことは書かせてもらっても罰は当たらんだろ。
posted by 九郎 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 電脳覚書 | 更新情報をチェックする

2012年11月28日

だから季節の変わり目には注意せなあかんがな!

 二日前、軽くやってしまった。
 ぎっくり腰である。
 身動き一つ取れないほどの重篤さは無く、一応仕事はできる状態だが、体勢を変えると痛みがあり、前屈姿勢がとれない。
 二日前の夜、寝ぼけたまま不用意にものを持ち上げようとしてやってしまった。
 それでも瞬間的に「あ、ヤバい!」と気づいて姿勢を変え、最悪の事態は回避することができたのは不幸中の幸い。
 最近、夜から朝にかけて急激に冷え込むことがあり、そう言えば数日前に布団をはねたまま腰を冷やしてしまったことがあったのを思い出した。
 おそらく、遠因はそれである。

 二週間前には数日間続く腹痛があった。
 私にとっては腰痛とともにおなじみの症状だが、こちらも痛みが出る少し前から違和感を感じて食べ物に気を付けていたので、最悪の事態は回避できた。

 一応、対処できるようにはなってきているか。
 ここからさらに一歩進んで、症状自体が出ないように意識化できれば万全。
posted by 九郎 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2012年11月29日

遅ればせながらMD卒業

 かれこれ6年ほど使ってきたMDウォークマンのバッテリーがへたってきた。
 ウォークマンを入手したのは遅かったが、MDラジカセは2001年ぐらいから使っていたので、MDとの付き合いはけっこう長い。
 しかしMDプレーヤーの生産も既に終了。手持ちのMD内の音楽データの移行も考えると、完全に故障してしまう前に、ぼちぼち次の再生機器を考えなければならない。

 そこで当然ながら頭をよぎるのは「スマホ」という選択肢なのだが、普通のケータイすら2009年まで持っていなかった私である。あくまでよぎっただけですぐに選択肢からは外れる。
 ていうか身の回りのスマホユーザーの皆さんが、肝心の電話連絡が必要なシーンで非常に頻繁にバッテリー切れを起こしているのを見るにつけ、つくづく「通信と娯楽は機械ごと分けといた方がいいんじゃね?」という感想を持ってしまうのだ。(←あくまで個人的見解)
 携帯用の充電機器を別に持ってもいいだろうが、それだと結局同じようなかさのものを二つ持つことになり、通信と娯楽の機器を分けておくのとあまり変わらないではないか。
 
 ということで、やっぱり音楽は音楽で完結させることにし、携帯プレーヤーを物色した。
 ウォークマンも現行のものをもちろんチェックした。カセットテープ、CD、MDと歴代見てきたが、だいたい値段は1万数千円〜で一定していてあまり変動がない印象だ。
 ソニー以外で探せば、同じ形態のプレーヤーでもっと安いものがいくらもある。
 たとえばUSB接続、PC経由で音楽を取り込むスタイルのものなら、2〜3千円くらいから売っている。
 もちろん、ソニーの価格が法外であるということはないだろう。
 何よりも製品自体の「当たり外れ」が少なく、品質、耐久性はノーブランドのものより保障されてはいるはずだ。
 
 しかし、である。
 家電製品の耐用年数が、目に見えて短くなった昨今。
 昔は10年くらいなら普通に使い続けてきた家電が、いつの間にか4〜5年、下手したら2〜3年で使用不能になってしまい、とくにPC周辺機器の耐用年数は非常に短い。
 どうせ2〜3年の使用なら、割り切って安物買いを試してみるかと、入手したのが以下のプレーヤー。


●8G タッチパネルMP4プレーヤーYTOM5007
 音楽再生、非常に小画面ながら動画再生、簡易カメラ、音声録音、FMラジオ機能も付属して、実売6千円弱。私はさらに安売りで4980円で購入。
 購入からそろそろ2カ月だが特に問題なく、「多機能なUSBメモリ」として使用している。
 音楽データの管理ソフトなどは付属していないので、データの管理はすべて自分で行わなければならないが、いまのところさほど不都合は感じていない。
 ネットで同機種を検索してみると、液晶画面がやや破損しやすいという情報もあるので、一応保護フィルムを貼り付け、100均で購入したケースに入れて携帯している。
 音質も、まあブランド商品に比べれば細かな差はあるのだろうが、こちとら弁当箱くらいあるカセットテープのウォークマンから見てきた古参である。
 携帯性も、音質も、「一番じゃなくていい」のである。
 もう充分。
 西郷どんじゃないけど「もうここらでよか」ということはあるのだ。

【追記】
 やっぱり耐久性に難アリでした。。。
 詳しくは一年後の記事へ。
posted by 九郎 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 電脳覚書 | 更新情報をチェックする