2010年頃のことだが、立てつづけに「雑賀孫市」や「雑賀衆」をテーマにしたマンガの連載が開始された時期があった。
私は2006年頃から雑賀衆や石山合戦に興味を持ち始め、じわじわとのめり込んで関連資料などを漁り、挙句の果てには、雑賀衆をテーマにした自主製作映画にほんの少しだけ関わらせてもらったりしていたので、こうした流れは素直に嬉しく思い、「ついに雑賀の時代が来たか!」などと妄想したりしていた。
当時連載中だった主な作品は以下の通り。
●「戦国八咫烏 1」小林裕和(少年サンデーコミックス)
●「雷神孫市 1」さだやす圭(プレイコミックシリーズ)
●「雑賀六字の城 壱」津本陽(原作)おおのじゅんじ(漫画)(PHPコミックス)
三作のうち、「戦国八咫烏」は週刊少年サンデーというメジャー誌、「雷神孫市」は著名漫画家さだやす圭作で、期待が高かった。
しかし両作品ともに、雑賀衆をテーマにした場合の物語のクライマックスになるべき、織田信長との直接対決までは、ついに描かれることは無かった。
やはり「連載打ち切り」と言うことなのだろう。
私が一番気に入っていた「雑賀六字の城」にいたっては、掲載誌そのものが休刊になってしまった。(参照:続きが読みたい!)
質的にはかなり高い作品だっただけに大変残念だったのだが、その後月刊コミック乱と言う雑誌で連載再開されていることを知り、一安心した。
こちらはいよいよ、雑賀衆と信長の直接対決が始まろうとしているので目が離せない。
ぶっちゃけ雑賀をテーマにした漫画は、どれも苦戦中である。
石山合戦や雑賀衆は、物語の素材としては極上だと思うのだが、それが「売れる」かどうかはまた別問題のようだ。
私は自分でもいつの日か石山合戦をテーマにした絵解きをやってみたいと志しているので、「どうやったら雑賀衆で受けるか」ということには、ちょっと関心があり、つらつら考えてみたところ、苦戦している三作品には共通した傾向があるのではないかと思い至った。
それは、織田信長の出番が少なく、扱いが軽いということである。
戦国ブーム、歴史ブームと言われ始めてから既に久しいが、少なくとも現代の歴史エンターテインメントの中で不動の一番人気を誇っているのが織田信長その人であることは、議論の余地がないだろう。
信長には需要がある。信長は「客」を持っている。
信長を扱えば、一定数の読者を引きつける要素にはなる。
それは逆に言うと、信長を「悪く」「軽く」扱うと、それだけで「客」を逃がす要素になり得るということだ。
雑賀衆や一向一揆をテーマに扱うということは、信長を相対化するということと、ほぼイコールだ。
一向一揆側からの視線で信長を眺めれば、そこには残虐極まりない「魔王」が映らざるを得ないし、史実を丁寧に検討していくと、信長だけが突出して優れていた訳ではなく、織田軍の鉄砲隊が必ずしも戦国最強ではなかったことが明らかになってくる。
これでは世に星の数ほど存在し、現在の戦国ブームを支えている「信長ファン」という読者層からは、あまり歓迎されなくなってしまうのは仕方がない。
だから一向一揆側から見た石山合戦を描く場合、信長を単なる悪役にしてはならないのだ。
信長は強大な魔王でありながら、なおかつ魅力的な「悪のカリスマ」として描かれなければならない。
広く読まれることを志すなら、信長とその思想をカッコよく描き、同時にそれと拮抗する別の魅力的な価値観をぶつける存在として、一向一揆や雑賀衆を描かなければならないのだ。
その場合のサンプルの一つとしては、やはり「北斗の拳」で描かれた覇者ラオウに、まったく正反対の生き方をぶつけて散って行った「雲のジュウザ」の姿が浮かんでくる。
しかし、そもそも雲のジュウザは、司馬遼太郎「尻啖え孫市」を下敷きにしているのではないかと思われるので、結局「司馬遼太郎ってやっぱりキャラクター作りがむちゃくちゃ上手いなあ……」という振り出しに戻ったりする(苦笑)