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2012年12月03日

秋の色彩2012

 10月中はけっこう暖かかったのに、11月に入ると急に寒くなり、秋はバタバタと過ぎ去ってしまった感がある。
 あまり紅葉を楽しむ余裕はなかったが、それでも近所でいくつか、秋の色彩を見つけることができた。

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 ススキは逆光がよく似合う。

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 一昨年から近所の公園のナンキンハゼに注目している。
 今年も地面は美しい絨毯になっていた。

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 モミジは全面赤くなっているよりも、やっぱり途中経過の見える状態が好きだ。


 先週やってしまった軽めのぎっくり腰は何とか回復。
 今は痛みのあった箇所をかばっていたために生じた、周辺部分の筋肉痛が少し残っているくらいだ。
 時間を見つけて、またお風呂屋さんに行こう。


 次回更新から、しばらく反原発記事を続ける予定。
 
posted by 九郎 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2012年12月06日

原発即時停止、廃炉こそが急務である

 何度かアップしたことのある画像を、印刷で出やすく加工。
 よろしければ、デモなどでご自由に使ってください。
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 報道によれば、「脱原発」の民意は、少なく見積もっても過半数以上であることが多いが、いくつかの余計な「但し書き」が付加されている。
 大体以下のような点が挙げられることが多い。

1、原発再稼働しないと電力不足が起こり、無理な節電や経済活動の縮小をまねく。
2、火力は燃料費がかかり、温室効果ガスを排出する。
3、化石燃料はもうすぐ枯渇する。
4、代替エネルギーはまだ未開発である。
5、自然エネルギーはコストがかかる。
6、よって原発を再稼働しないと電気料金が上がる。

 1〜6の論点から、民意の多くは「脱原発」を指向しておりながらも、急速な「脱原発」を進めると、なにか耐乏生活を強いられるかのような印象を与えられることが多い。
 そのため、そろそろ近づいてきた衆院選でも「脱原発」の民意が直接投票行動に結びつかず、選挙後、原発推進勢力が大勢を占める結果になりそうな雲行きである。

 しかし、そうした「脱原発による耐乏生活」の印象は、事実と全く異なっていると、私は判断している。
 原発を再稼働しなくても電力は余っているし、原子力に比して火力が割高であるというのは悪質な虚偽であるし、「CO2によって地球が温暖化している」と言うのは極めて怪しい仮説にすぎないし、化石燃料は無尽蔵に存在するし、低コストで環境負荷の小さい代替エネルギーはとっくに実用化済みである。
 現時点で高コストで環境負荷が大きく、効率の悪い自然エネルギーを中心に据える必要は全くない。
 原発を動かさなければ確かに電気料金は上がるだろうが、それは現行の電力会社の経営問題に過ぎず、原発の再稼働が進められれば、これまでと同様、税金が湯水のように原発に投入され続けることになる。
 原発再稼働によって現時点での電気料金の高騰が抑えられたとしても、廃棄物処理や事故対策の費用はこれから膨大に膨れ上がっていくし、いずれは電気料金とは別に税金の形で徴収されることになるのだ。

 国内全原発を即時停止し、速やかに廃炉の工程に入ることで、すでに実用化済みの様々なエネルギー技術の普及は進み、それは巨大な産業となって日本経済の柱になりうる。
 そして強硬な反原発論者である私としては非常に腹立たしいことながら、廃炉工程に入った原発はどんなに少なく見積もっても今後数十年にわたって廃炉作業が必要になるので、それはそれで巨大公共事業にならざるを得ない。
 〜十年後の脱原発などというぼんやりした努力目標でなく、はっきりと「国内全原発即時廃炉」と打ち出すことこそが、情緒的な問題だけでなく、経済分野においても日本の国益であると私は考えている。

 と言うような内容について、これから何度かにわけて記事にしていきたい。
 興味のある人は、どうぞ。
posted by 九郎 at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年12月07日

化石燃料は枯渇しないし、原子力は石油の代わりにならない

 子供の頃の話である。
 当時は「終末ブーム」の世相もあり、子供向け雑誌の特集ページ等でも様々な「近未来に想定される終末」が紹介されていた。
 中でも「石油資源の枯渇による終末」は、非常に大袈裟な描写でイラスト表現されており、私を含めた子供たちの恐怖を煽った。
 廃墟となった都市、暗く凍てついた風景、絶望に打ちひしがれる人類。
 当時は新聞でもTVでも学校でも「石油はあと三十年でなくなる」とはっきり断言していたので、子供の目には非常にリアルな未来像としてそのイラストは映った。
 
 そして三十年経ってみると、この通り。

 なんともバカバカしい限りである。
 相変わらず「石油はあと40年ほどでなくなる」という言説がまかり通っている。
 一応、理屈では「新しい油田の発見や、採掘技術の進歩により、年限が延びた」と言うことになってはいる。
 しかしそのような説明を鵜呑みにできるほど、私も純真無垢ではなくなってしまった(笑)
 「あと30〜40年」という年限があくまで「現時点で採掘可能な原油の残量」に過ぎず、もっと言えば石油を扱う巨大企業の営業戦略としてもっとも効果的な期間なのであって、実際の埋蔵量とはとくに関係がないのだろうと判断を下せるくらいの知恵はついた。

 実際の原油埋蔵量は、1000年分あるという数字や、もっとはるかに長い数字も存在する。
 他の化石燃料の埋蔵量については、石炭は2000年、天然ガスは500年と言われている。
 個々の数字に対しては様々な意見が当然ある。
 ここでは詳細な議論については立ち入らないが、少し関心を持って調べてみれば「実際の埋蔵量」が数十年分しかないということは絶対にないと言うことは、誰にでも納得できるはずである。
 手始めにまずはこのあたりから読んでみてもいい。
 ごく常識的な判断として、本当に原油が40年でなくなるとしたら、脱石油にむけて先進各国や石油メジャーが本気で技術開発に取り組んでいなければおかしいのだが、もちろんそんなことはない。
 推して知るべしである。

 昔はよく「限りある石油を節約するためにも原発が必要」という説明がされていた。
 今はさすがに原発推進派ですらこんなアホな推進理由を口にする者は少なくなったが、それでもまだたまにTV等で見かけることがある。
 そういう人間は、不勉強であるか、故意に騙そうとしているかのどちらかであるから、そのような解説を聞いたら、以後はその論者の意見は黙殺して差し支えない。
 一応確認のためにまとめておく。

1、現代文明が「石油文明」と呼ばれるのは、エネルギーとしての利用のほかに、プラスティックをはじめとする様々な合成素材の原料に使用されているからである。
2、石油の広範な用途の内、原発で代替できるのはせいぜい質の劣った重油を燃やす火力発電の分野だけであり、素材の代替にはまったくならない。
3、原発を稼働するためにはエネルギー、素材含めて、膨大な量の石油が必要である。
4、したがって、原発を稼働することはまったく石油の節約にはつながらず、石油の用途全般を代替することなどできるはずもない。

 原発はあくまで石油文明内のほんの一部であって、石油が枯渇すればそもそも原子力も成り立たない。そしてウラン燃料はおそらく化石燃料よりもはるかに早く枯渇する。
 その後には膨大な石油資源を費やしながら管理しなければならない放射性廃棄物だけが残る。
(続く)
posted by 九郎 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年12月08日

電気料金と原発の本当のコストを混同させる詐術

 原発関連では腹の立つニュースが多すぎて、本当なら一つ一つがもっと大きく取り上げられなければならないはずの記事が、日々流れ去ってしまっているという歯がゆさがある。
 少し前、こんな報道があった。

【電気料金「安過ぎた」=原発ゼロで上昇へ―枝野経産相】
(時事通信 11月30日(金)12時17分配信)
 枝野幸男経済産業相は30日、閣議後の記者会見で、従来の電気料金には原発事故のコストなどが含まれていないことから「今までが安過ぎた。間違った料金を取っていた」との認識を示した。
 2030年代の原発ゼロを進める中で、電気料金は今後上昇するとの見方を示した。


 様々なレベルで、奇妙なニュースである。
 まず、普通の国語力を持っていれば、見出しと内容が食い違っていることにすぐ気付くことだろう。
 見出しだけ読めば、あたかも原発ゼロになることが原因で電気料金が上昇するかのような印象を与えている。
 しかし記事内容は全く違う。
 枝野経産相の発言が記事通りだとすれば、あくまで「従来の電気料金には原発事故のコストなどが含まれていない」ので「今までが安過ぎた。間違った料金を取っていた」と言っているのである。
 論理的に考えれば、これまでの原発コストの算定・料金設定が間違っていたということなので、今後仮に原発を再稼働するとしても料金は上がるという意味にしかなりようがない。
 もう一歩踏み込めば、原発を即時停止して放射能汚染を引き起こす可能性が低減されれば、それだけ電気料金の上昇幅を抑えられるという解釈もし得る。
 末尾の「2030年代の原発ゼロを進める中で、電気料金は今後上昇する」という個所には、枝野経産相の発言そのものを示すカギカッコが付いていないので、常識的には記事を書いた人間による付加だろう。
 見出し及び末尾の一行を加えることで、枝野経産相の発言趣旨は全く違った印象を与えられている。
 枝野経産相の発言趣旨では、あくまで料金上昇の原因は原発にあるにも関わらず、記事全体としては原発をゼロにすることが料金上昇の原因であるかのような印象になっている。

 世界的にも高いと言われて久しい日本の電気料金を「今までが安過ぎた」などと安易に口走ってしまう枝野経産相の言葉の薄っぺらさも問題ではある。
 3.11後に連発して批判を浴びた「直ちに影響はない」以来、相変わらず反省の色が見られないが、これだけ趣旨を捻じ曲げた記事を書かれたら抗議して良いレベルではないだろうか。
 この奇怪な記事構成が端的に示しているが、昨今の報道における「脱原発=電気料金の上昇」という短絡的なまとめ方には、何か意図的なものを感じざるを得ない。
 報道全般に「脱原発は料金が上がる」という印象操作で一致していることが、目前に迫った衆院選で脱原発の民意が投票行動に直接結びつかない傾向を補強しているように感じられる。

 関西電力をはじめとする電力各社は、原発停止による火力の燃料費上昇を理由に、電気料金を上げようと画策している。
 とくに関西電力は福井県という日本最大の原発銀座を抱え、原発依存度が突出して高かったせいで、火力燃料費の件を強調して理解を求める作戦であるようだ。
 しかし、それならば「安い原発」の依存度が突出して高かった関電の電気料金は、他の各社に比べてこれまで突出して安かったのであろうか?
 残念ながらそんなことは全くない。
 関電が電気料金を上げる必要があるのは、今後稼働できるかどうか不透明な原発をそのまま抱え続けながら、同時に火力の稼働を増やしているせいではないか。「火力の燃料費の上昇」はその部分だけ切り取れば嘘ではないだろうが、他にどうしても捨てることのできない重荷を背負っていることこそが料金値上げの本当の原因ではないのか。

 個人的には、関電の経営は、もう「詰み」になりかかっているのではないかという印象を持つ。
 抱え込んだ多数の原発が、収益を上げられず、コストだけは膨大にかかる不良資産の山と化すことを恐れて、あらゆる手段を使った再稼働の理屈付けが行われている。
 しかし、行き着く先はどのみち、顧客に過重な負担を強いる方向しかない。
 火力に切り替えれば燃料費が必要になる。
 既存の原発を稼働させるにも、新たな耐震・対津波、事故対策に巨額の費用がかかる。
 大飯のように、直下に活断層の存在が疑われる危険極まりない原発を無理やり再稼働すれば、厳しい批判がいつまでも続く。
 老朽原発を廃炉工程に乗せなければならない時期は目前に迫っている。
 枝野経産相の発言によれば、原発を稼働させようとさせまいと、電気料金は上げざるを得ない。
 原発事故対策の費用は、料金に上乗せされない場合は結局、国、つまり税金から支払われ、国民負担になる。
 行くも地獄、帰るも地獄。
 このまま電気料金の高騰が続くならば、産業界の体力のある大企業から順に、コストの安い自家発電への切り替えが進んでいくだろう。原発停止を理由にした、私に言わせれば「虚偽に満ちた」夏季の節電要請を経て、その流れは既に始まっている。
 主要電力会社の火力発電が料金値上げのきっかけになるのは、動かせない原発を抱えたまま火力の稼働を増やすことが原因であって、それは電力会社の経営問題に過ぎない。
 電力会社を経由しない、企業の自家発電による火力は、今後コスト的に割安になっていくことだろう。
 八百長抜きでコストを比較すれば火力の方が安くなるのは、ずっと昔から指摘され続けてきたことだ。
 大口需要先から順に、泥船から脱出を図るながれは止まらなくなるのではないだろうか。
 加えて、電力消費量の少ない小口の需要に対しても、すでにコスト的に見合うだけの自家発電技術は実用化されつつある。
 電力会社の理不尽な料金値上げは、こうした自家発電の流れに対して強力な追い風になりえる。
 何しろ競争相手が勝手に値上げしてくれるのだから、自家発電側にとってこんなに楽な試合はないだろう。
posted by 九郎 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年12月10日

再掲:放浪者的こころ

 ここしばらく反原発記事をまとめてアップする予定だったのだが、どうしても素通りできない訃報があったので、一回お休み。
 本日、小沢昭一さんがお亡くなりになってしまったという。
 追悼にかえて、過去記事「放浪者的こころ」を、一部加筆修正の上、再掲する。

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 ふとした瞬間に、耳に蘇ってくる「音の記憶」がいくつかある。
 例えば私は夕刻になると、軽快な口笛のメロディが、たまに蘇ってきて耳の奥、頭の中で繰り返される。
 何のメロディだったかなと、記憶を探ってみると、小学生の頃の情景に行き当たる。
 当時私は、週二回剣道の教室に通っていた。当時も今も小柄で、スポーツは全般に不得意だった。短距離走や球技は特に苦手だったのだが、剣道は少しばかり適性があったらしく、同年代の中ではけっこう強い方だった。さほど熱心ではなかったが、高校生頃まで剣道を続けていたおかげで、体力的な貯金が今も残っている気がする。
 小学生の頃通っていた剣道教室は、少し離れた校区の小学校体育館で開かれていた。防具一式を持って歩いて行くには距離があったので、バスか、父親の運転する車で送り迎えをしてもらっていた。
 夕刻、父の車で送ってもらっている時に、カーラジオからよく流れてくる番組があった。
 今でも耳に残っている軽快な口笛のメロディとともに始まるその番組は、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」という。
 ある年代以上にとっては説明の要もないほどに有名な長寿人気ラジオ番組なのだが、私の年代以下でこの番組名を知っている人は少ないかもしれない。私も、父親の車に同乗していなければ、知ることはなかっただろう。
 大学生の頃、サークル活動をやっている時になんとなくあのメロディを口笛で吹いていたら、一人だけ反応した後輩がいた。その後輩は、高校生の頃よく通っていた古本屋で番組を聴いていたそうだ。

 ともかく、小沢昭一のことである。
 今この名前を出すと、字面の類似から個性の強い某政治家の顔が浮かんでくるかもしれない。
 小沢昭一と言う人の肩書を一つに定めるのは難しい。一番無難なのは「俳優」ということになるのだろうけど、私はその方面の小沢昭一をほとんど知らない。
 子供の頃に聴いた口笛のメロディに導かれ、歴史・民俗・宗教に関心を持つようになってから再会したのは、日本やアジアの「放浪芸」の研究家としての小沢昭一だった。
 今はもう失われつつある放浪芸の世界は、はるか日本の中世〜古代にまでつながり得る可能性を持つ。文字記録として残りにくい「音」と「声」の豊かな伝承世界だ。
 そうした世界が、たとえば雅楽のように保護された伝統芸能ではなく、地べたを這いずるような俗の極みの領域の中で、連綿と繋がってきたことには、なんとも形容しがたい感情を覚える。

 私は「放浪芸」の記録者としての小沢昭一に再会してまだ日が浅い。
 amazonや図書館の検索サービスでこの名前を調べてみると、けっこうな分量の読みたい本や聴きたい音がヒットしてくる。
 当ブログを介してとりあえず、小沢昭一という人物を知りたい人には、以下の二冊がお勧めだ。


●「文藝別冊 小沢昭一 芸能者的こころ」(KAWADE夢ムック 文藝別冊)
●「日本の放浪芸 オリジナル版」小沢昭一(岩波現代文庫)

 今後も折々、紹介していくことになると思う。


【追記】
 あの口笛のメロディを再現してるのを見つけたのであわせてご紹介。
posted by 九郎 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2012年12月11日

原発は巨大な「海水あたため機」で、ことのついでに発電しているだけ

 原子力と言うと、何か文明の最先端を行く高性能技術であるかのようなイメージが、今だに根強く残っている。
 3.11後、高名な文化人の中で、私もその発言に信を置いていた幾人かが、「たった一度の事故で原子力を捨てるのは反文明である」というような主旨の発言をしており、ひどく落胆した覚えがある。
 今にして思えば、これは「原子力が先端技術である」であるという、根強いイメージに引きずられたものではなかったかという気がする。
 はたして原子力は、本当に優れた先端技術なのであろうか?
 と言うのが、本日のお題。

 確かに原子力は、他の発電方法に比べて歴史は浅い。
 そうした意味では「比較的新しい技術」ではある。
 しかし原理的に新しいことと、文明に対して貢献する最良・最先端であるかどうかは、まったく別問題だ。

 エネルギー効率、という言葉がある。
 今回は発電方法に関するお話なので、「発電時に発生した熱がどれだけ電力として回収されるか」と言うほどの意味に解してもらって差し支えない。
 現在広く使われている主要な発電技術は「タービンを回転させることによって電気を発生させる」という原理を使用している。
 落下する水によって回転させれば水力発電、ガスを燃焼させた噴出力で回転させればガスタービン発電、何かを燃やして水を沸騰させることで回転させれば火力発電で、何を燃やすかによって石油火力、石炭火力、ガス火力等に分類される。
 原子力発電は、単に火力発電の熱の発生方法を置き換えただけのもので、水を沸騰させて発電する仕組みは同じである。
 火力に対して原子力が優位であるのは「より巨大な熱を発生させる」という点なのだが、最初の段階で発生した熱がどれだけ電力として回収されるかを比較してみると、原子力の効率はかなり低い。
 ガス火力のエネルギー効率が約45パーセント、最新のガスコンバインドサイクル発電が約60パーセントであるのに対して、原子力はその半分の約30パーセントにすぎない。
 原発は発生させた巨大な熱の内、おおよそ七割を温排水として海に捨てているのだ。
 つまり、エネルギー効率から見れば今回の記事タイトルの文章が成立することになる。

 原発は巨大な「海水あたため機」で、ことのついでに発電しているだけ。

 発電方法としては極めて非効率なので、原発への依存度を上げれば上げるほど立地周辺の海は火力に比して無駄に温められ続けてしまうことになる。
 この一点だけでも、原子力が「最新の先端技術である」という認識が、誤ったイメージであることがわかるだろう。

 加えて、原発には「おそろしく小回りが効かない」という欠点がある。
 常に重大事故の危険性と隣り合わせの発電方法なので、些細なトラブルでも停止させて点検しなければならない。
 いったん止めると多人数の被曝労働によって検査やメンテナンスを行わなければならない。
 ようやく起動してもフル出力になるまでに数日かかるため、トラブル以外の理由で頻繁には止められない。
 出力調整がトラブルを生む可能性もあるため、基本的に夜昼かまわず一定の出力で運転することしかできず、季節や時間の電力需要に応じたフレキシブルな運転が不可能である。
 夜間も本来必要ない余分な電力を生み出し続けざるをえないので、その「捨て場」として進められたのが「揚水発電」や「オール電化」「電気自動車」である。
 フレキシブルな供給に対応するためや、急なトラブルによる停止に対応するため、火力を多数併用しなければ使い物にならない。3.11以降、全原発が停止しても全く電力不足が生じなかったのは、そもそもそれだけの予備発電所を用意しなければ原発の運用が不可能だったせいである。
 事故対策(という理由を電力会社は一度もカミングアウトしたことは無いが)のため、人口密集地付近に造ることができず、遠隔地から送電しなければならないので、送電ロスが生じるという問題もある。
 そして何よりも、破局的な事故を起こす可能性、まだ処理方法すら確立していない放射性廃棄物の問題もある。

 このような欠点を抱えているので、原発が日本の電力供給の主役になったことは今までに一度もない。
 主役は一貫して火力であって、日本の電力の約三分の二を担ってきた。
 原発はせいぜい三分の一、近年では3.11以前であっても四分の一を担ってきたに過ぎない。
 そして3.11以降は、原発がなくても電力不足が起こらないことが完全に実証され、追い詰められた電力会社が持ち出してきた最新の詭弁が「脱原発による電気料金の値上げ」なのだ。

 原子力は「壮大なエネルギーの無駄」の上にしか成り立ちようのない、図体ばかりでかくて劣った古臭い技術なのである。

 本当の最新のエネルギー技術は、つまるところ「エネルギー効率をいかに高めるか」ということに尽きる。
 エネルギーの発生段階で徹底的に無駄を省くことで、使用する資源を削減(=環境負荷を削減=コスト削減)することこそが本当の「技術革新」なのであって、無駄の多い劣った技術に固執して電力不足を喧伝し、消費者を恫喝してちまちまと節電させ、さらに加えて過重な電気料金を貪るなどということは、もはや悪質なカルト宗教と言う他ない。

 ガスコンバインドサイクル発電のエネルギー効率60パーセントをはじめ、発電時に発生した熱を捨てずにその場で使用するコジェネレーション技術の発達により、すでにコスト的にも電力会社から電気を買うことと比較して、十分勝負になるレベルのエネルギー技術が実用化済みだ。
 原発はその危険性に加えて、コストや環境に対する負荷の面で最新技術に淘汰されることが決定済みの、過去の技術なのである。
 それにもかかわらず、報道が「脱原発で電気料金が上がる」などという電力会社の経営的な言い分だけを垂れ流し、差し迫った衆院選の投票行動に原発問題が直接影響しないように配慮しているかに見える現状は、異様ですらある。
posted by 九郎 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年12月12日

アホな絵描きのハシクレを反原発弁士に仕立てるネタ本

 ここまで、原発がその危険性だけでなく、経済性においても環境に対する負荷の面においても劣った技術であり、日本の全原発を即時停止しても何の問題も起こらないということについて、講釈を垂れてきた。
 科学技術に対して特に素養も何もない人間が、このようにいっぱしの弁士面ができてしまうのは、もちろんネタ本が存在するからである。
 一応ネタ本の内容の中から自分なりに確認し、消化できたと思われる事柄について、語り口を選びながら書き進めてはきたが、元になる情報がネタ本の受け売りであることには変わりはない。
 一読しただけで一介の絵描き素浪人をして反原発弁士に仕立て上げてしまう、強烈無比なネタ本とは、以下に紹介するものである。


●「原発ゼロ社会へ! 新エネルギー論」広瀬隆(集英社新書)
 言わずと知れた異能の語り部、広瀬隆の最新刊である。
 津波による原発事故の可能性を2010年に警告した広瀬隆は、3.11後も多くの著作を通して一貫した主張を行ってきた。

1、福島を中心とした汚染地域の子供たちを、一刻も早く国の責任において疎開させるべし。
2、全原発を即時停止し、燃料棒を抜き取るべし。
3、放射性物質は、一か所に大量にまとめてはならない。
4、全原発を即時停止しても電力が不足することは無い。
5、太陽光、風力よりも、ガスを中心にした最新の火力や燃料電池をまずは推進すべし。

 今回の新刊では、これらの主張のうちの「4、5」の論点について、詳細に語り尽くしている。
 電力会社の垂れ流す「電力不足」という恫喝を、誰にでも確認可能な公開情報を元に完膚なきまでに叩き潰す手際は、相変わらず痛快だ。
 新書なので2〜3時間もあれば誰にでも通読でき、新エネルギー技術は既に実用化段階に達していること、日本の未来に対して原発は有害無益でしかないことがきっちり「実証」されている。
 報道ぐるみで「脱原発による電気料金高騰」という悪質な虚偽情報が蔓延する昨今、この一冊はその嘘を暴く最強の照魔鏡として機能するに違いない。
 全国民必読!


●「新エネルギーが世界を変える―原子力産業の終焉」広瀬隆(NHK出版)
 3.11後の2011年刊。
 前掲新書は、実はこちらの本の内容をコンパクトにまとめたものである。
 新エネルギーの技術解説はこちらの方がはるかに詳しく、広瀬隆の「怒り芸」がちょっと苦手な人にとっては、むしろ本書の方が落ち着いて読めるかもしれない。
 この本、特に後半の燃料電池に関する章を読んでいると、自身が技術者であった広瀬隆の、新技術に対する愛情と知的興奮が生き生きと伝わってくる。
 広瀬隆は、もし原発という魔物と出会っていなければ、こうした技術解説の本を嬉々として書き続けていたのではないだろうか。
 私は根っからの文系人間であるが、それでも子供のころは男子として当然、発明・発見の物語をこよなく愛していた。
 幾多の技術者たちがしのぎを削って新しいものを創り出す過程は、久々に私の中の「メカ好き男子」の魂を呼び覚ましてくれた。
 単なる反原発の次元を突き抜けて、技術立国日本の未来に実現可能な明るい夢を描かせてくれる好著である。
 かつての「メカ好き男子」よ、今すぐ手に取るべし!
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2012年12月14日

法律学者からのメッセージ

 たきもと しげこさん(法律学者)からのメッセージはこちら

 その他の皆さんのメッセージ
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2012年12月16日

負けっぱなしのダンディズム

 衆院選が終わった。
 午後八時の段階の開票速報で、自民の歴史的圧勝が決定済み。
 3.11以降、基本的には政治ネタはやらないことにしていた当ブログで、例外的に扱ってきた「反原発」という視点から見るならば、全く、ぐうの音も出ないほどの敗北である。
 どこの政党も選挙公約を観る限りは、濃度の差こそあれ「脱原発」という印象を与えるものになっており、原発の是非は主要な争点になっていなかったという感がある。
 きちんと重要政策が議論されず、盛り上がりを欠いて投票率が約10パーセントも下がったこの程度の選挙戦で、「脱原発」の民意がなかったことにされてしまうのは全く納得いかない。
 納得はいかないけれども、まずはこの度の「完敗」は受け止めなければならない。

 以下に、今後の主要各政党が(選挙公約がどうあれ)どのような姿勢をとるかを考えてみる。
 あくまで、私的なまとめである。

●自民党
 今後はまず間違いなく、原発推進、再稼働の方針をとる。
 元々日本の原子力政策を強烈に推進してきた張本人であり、電力業界との癒着も激しい。
 個々の議員の中には「脱原発」「反原発」も散見されるが、現在の安倍・石破のツートップが強烈な推進派なので、いずれ露骨に原発再稼働を進めていくことになるだろう。
 今回、絶対的な多数を握ったので、連立を組むであろう公明(一応脱原発)に対し、配慮する必要性は薄くなる。
 とくに警戒すべきは、来年の参院選後である。

●公明
 一応、脱原発政策を掲げているが、自民と連立を組む限り、今後進められるであろう原発推進政策は、「追認」という形にならざるを得ず、今回の自民絶対多数の選挙結果では「歯止め」の役割もほぼ期待できそうにない。
 もし連立が解消されれば、それ以降は一定の役割を期待できる。
 憲法改正にからみ、自民に使い捨てにされる前に目をさましましょうね。

●維新
 原発については二転三転しており、結局、選挙戦を通じて党としての態度をはっきりさせられなかった。
 東京側代表の石原慎太郎が「脱原発」を否定しており、自民との連立にすら含みを持たせている現状では、大阪側がいくら議員の頭数を揃えて中身の薄い「脱原発」の主張を行った所で、かの御仁に対してなんの歯止めにもならないだろう。
 早晩、大阪と東京で分裂するのではないかと思うが、分裂したところで大阪側の代表・橋下の脱原発は、今一つ二つ三つ信用できない。
 一番まずいのはその時々で主張する政策がコロコロ変わることで、これでは民主同様、真面目に検討するだけ時間の無駄である。

●民主
 一応「脱原発」を掲げてはいたが、トップの野田が、どう考えてもまやかしの福島原発「事故収束宣言」をし、大飯原発(←直下に活断層の疑い)の再稼働、大間原発の建設再開を許してしまったことから判断すると、脱原発は単なるポーズに過ぎないのではないかという疑問を持たざるを得ない。
 他に、前回選挙時の主要マニフェストをあっさり変更した「前科」もあり、この党に何か期待しても無駄である。「原発に関しては自民よりマシ」という程度の存在意義しかない。

●みんな
 渡辺代表の脱原発の意志は、一応本物と見る。
 今後も安易な妥協はしないことを願う。

●未来
 小沢一郎の脱原発の意志も、一応本物と見る。というか、もうそれ以外に生き延びる道は無いだろう。
 嘉田代表は今夏の大飯再稼働騒ぎ以来、ちょっとまだ勉強不足。実用化済みの安価な代替エネルギーについて、しっかり理論武装すべし。

●共産
 はっきりと脱原発である。

●社民
 はっきりと脱原発である。

 こうしてまとめてみると「脱原発」派のなんと弱弱しく頼りないことか。
 議員はあてにできないので、今後の数年間は個々人がしっかりと情報収集し、意見表明していくしかない。


 脱原発デモがかつてない盛り上がりを見せたこの一年だったが、その締めくくりの時期の選挙では大変残念な結果になってしまった。
 各地のデモに参加していた、とくに年若い皆さんの落胆はいかばかりのものであろうか。
 しかしながら、日本の反原発運動は、これまでもずっと「負けっぱなし」だったのである。
 チェルノブイリ事故が世界を震撼させた80年代ですら、国内の反原発運動は「一定の広がり」と言う程度で終息し、日本の原発は増え続け、結局3.11という最大の敗北を招いてしまったのである。
 
 だから今回、派手に負けたからと言って一々落胆することはない。
 3.11直後の黒々とした絶望感に比べれば、一定数の「脱原発」の民意が確認されている今は、はるかに状況は良いとも言える。
 脱原発デモの矛先としては、「胡散臭い脱原発派の野田」より、「絵に描いたような原発推進派の安倍」の方が構図として分かりやすいというメリットもある。打たれ弱くてお調子者、そのくせ自分の意見に固執しやすい傾向をもつ安倍は、原発で激しい批判にさらされると、必ず不用意な発言をする。

 原発が争点化しなかった選挙で結果が出なかったことなど、道端でちょっと石ころにつまずいた程度のことだ。
 こんなものは、単なる過程に過ぎないのである。

 ここは一つ、日本で一番イカしたちっちゃいおっさん、池乃めだか師匠のダンディズムに倣わなければならない。

「よっしゃ、今日はこのぐらいにしといたるわ!」

 
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2012年12月17日

戦況分析

 唯一のはっきりした原発推進政党、自民党が歴史的圧勝を遂げた今回の衆院選。
 選挙前から圧勝の情勢は報じられていたが、当の自民党候補者ですら「とてもそんな手ごたえは感じられない」と警戒心を強めるケースが多々あったという。
 それもそのはずで、獲得議席数と言う表面だけ見れば自民圧勝で間違いないのだが、実際の得票数に注目してみると、全く違った実態が見えてくる。
 今回自民が獲得した得票数は、選挙区2564万票、比例区1662万票で、大敗した前回09年衆院選より選挙区では165万票、比例区では200万票以上減らしているのである。
 これでは選挙戦中に有権者の生の反応に接した自民候補者が、圧勝報道に疑問を抱いたのも無理はない。
 前回大敗時よりも冷やかな有権者の様子を、肌で感じていたはずなのだ。
 今回の自民圧勝は、「自民が有権者から圧倒的な支持を受けた」結果ではなく、「前回ボロ負けした時点より更に支持を減らした自民」が、「奢り高ぶって壮大に転んだ民主」より、相対的に転び方が少なかっただけのことなのだ。
 民主のあまりの支離滅裂ぶりに余裕の選挙戦を戦ったはずの自民が、なぜ得票をかなり減らしてしまったのか謎である。
 まず真っ先に思いつくのは、調子に乗っておかしなネット右翼みたいな路線を強調しすぎた安倍が、前回惨敗時に支持してくれた層からみてもキモかったのではないかという理由であるが、本当のところは分からない。
 民主が前回獲得した大量の得票は、今回他党にも多少は流れたのだろうが、最も大きな移動先は投票率で減った約10パーセント、つまり棄権に回ったということだろう。

 結果的に大幅後退してしまった衆院の脱原発勢力だが、今後は「今回棄権に回った票」を、どのように掴んでいくかにかかっている。
 そのためには、一部ストイックで真面目な層だけを対象にした脱原発ではなく、広く一般にアピールできる、経済面もきちんと視野に入れた、まっとうな戦術をとらなければならないのだ。
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