現在も毎週金曜日、夕刻から行われている電力会社前の抗議行動。
今の住居から小一時間ほどの所に支店があるので、私も毎週ではないが、行けるときには顔を出すようにしている。
各所で場の雰囲気は様々で、大阪の関電本店前などは、時には殺伐とした空気の漂うこともあるようだ。
私がたまに顔を出す支店前は比較的小人数で、わりあい牧歌的な雰囲気が漂っている。
最近の抗議行動らしく、鳴りモノが充実しているサウンドデモ形式なので、参加するとけっこう楽しめる。
鳴りモノ以外にも各自、自作のプラカードや光モノ、自作衣装など、それぞれに楽しみを見つけながら寒空の長丁場を乗り切っている。
抗議行動時のシュプレヒコールは「原発反対!」「再稼働反対!」「子どもを守ろう!」等、様々なのだが、中には私個人としては少々違和感を感じつつ唱和しているコールもある。
今、日本国中の電力会社前で行われている金曜抗議行動は、基本的には「脱原発」のワンテーマ、シングルイシューである。
それは運動の中心にあたる金曜官邸前抗議を取り仕切る皆さんの、冷徹で的確な戦略が基本になっている。
あくまで「脱原発」ワンテーマに絞り、他のスローガンを控えることで、これまでの「運動」にありがちだった党派色のハードルを取り払い、誰もが参加し易い空気を作ることに成功したのだ。
これならば右も左も中間も「原発事故の惨禍から愛すべき国土と子孫を守る」という大義のもとに、他の主張の差異はそのままに、結集することができる。
何よりも物理的な「数」を集めて見せることで、この国の中枢に巣食う原子力マフィアどもに圧力をかけることができるのだ。
もちろんワンテーマに限定することで生じるマイナスも無いではないだろうが、今現在「数」を集めるためには、これ以上の戦術は見つからない。
各地の金曜抗議行動も、基本的には官邸前の戦術を踏襲しているので、コールに「脱原発」以外のものが叫ばれることは基本的には無い。
しかし、私がたまに参加した時に、やや違和感を持ちながらも唱和している一連のコールがある。
それは、原発の代替エネルギーとして、いわゆる自然エネルギー(太陽光、風力、地熱など)を推進しようと叫ぶタイプのシュプレヒコールだ。
正直、「あんまり唱和したくないな」と思いながら我慢して声を出している。
そのタイプのコールの間は、鳴りモノだけにしてノドを休ませたりもしている。
というのは、「原発の代替に自然エネルギー」などと言っている間は、経済性を盾に取った原発推進派の主張に必ず負けることがわかり切っているからだ。
その兆候は、既に今回の衆院選に現れていると思う。
選挙が近づくごとに電力会社は「原発を止めたことによるコスト高」という詐欺紛いのコメントを繰り返し、報道は何の検証も無く電力会社の言い分を一方的に垂れ流し続けたことは記憶に新しい。
そのためかどうか、ついに今回の選挙では原発の是非が直接争点化することは無かった。
広く実用化されている「自然エネルギー」には太陽光と風力があり、脱原発運動の中の「環境派」の皆さんも、主にその二つを念頭にコールをしていらっしゃることと思う。(他に地熱や潮力などもあるが、まだ「広く実用化」と言うほどにはなっていない)
しかし、太陽光と風力は、現状かなりコストが高く、今後も大幅に安くなる見込みは無い。
最近もてはやされがちなメガソーラーや大規模風力発電は、排出ガスと言う一点だけ見れば優秀だが、総合的には必ずしも環境には優しくないし、むしろ自然豊かな地帯を占拠し、大規模に破壊してしまう。
いわゆる「自然エネルギー」は今後数十年にわたって、エネルギー供給の主役になることは難しいし、もし無理押しすればとんでもない電力料金の高騰と自然破壊を生む。
せいぜい補助的電源として小規模な太陽光や風力を、都市部に限定して設置するのが望ましい。
「電力料金が大幅に高くなっても自然エネルギーに転換すべし!」などという主張は、ごく限られたマニアにしか受け入れられる余地はなく、一般大衆や企業経営者を説得することはまったく不可能だ。
わざわざそんな無理な主張をしなくても、電力料金を上げず、環境負荷も少なく「脱原発」を進める技術は、既に実用化済みなのだ。
従来型の大規模発電ならエネルギー効率が原発の二倍、ガスコンバインドサイクル発電。
小規模な自家発電ならマイクロガスタービン。
そして、各家庭や各ビルで発電時に発生する排熱も同時利用するコージェネレーション。
これら低コストでクリーン、まっとうなエネルギー供給体制こそ国を挙げて推進し、基幹産業にまで育てて雇用を生み出し、世界に輸出するために、公共投資をすべき分野なのだ。
抗議デモに参加し、運動を中心的に支えてくださっているであろう環境派の皆さん。
同じデモの仲間には、ウヨクの皆さんもサヨクの皆さんもいて、それぞれに少しづつ主張を我慢しながら参加なさっています。
皆さんも少し、「自然エネルギーへの転換」の主張を抑え気味にしませんか?
それを過度に主張することは、脱原発に賛同する人数を減らすことになります。
原子力マフィアどもの思うつぼです。
【参考文献】

2012年12月18日
2012年12月19日
お楽しみはこれからだ
3.11の衝撃真っ只中の2011年夏、私は当ブログの記事でこのように書いた。
私は絵描きなので「運動」や「組織」への適性は一片たりともない。
だから上記の内容はなんらかの集団行動を想定したものではなく、80年代から原発の危険性について知りながら、実際に日本で事故が起こってしまうまで何もできなかった自分への戒めとして書いたものだった。
日々の暮らしを送りながら無理なくできることとして、一応200〜300の閲覧者数を持つ自分のブログで、原発に対する考え方や参考文献を、それなりに楽しめる形で綴っていきたいという独白だった。
ところが2012年に入り、興味深い脱原発運動が出現した。
現在も継続中の、首都圏「金曜官邸前抗議」である。
こんなに自由でしたたかな抗議活動が可能であるとは夢にも思わず、私は瞠目しながらネット上の情報を追い続けた。
やがてこの「金曜官邸前抗議」は全国の電力会社前に広がり、季節は巡って冬になっても、寒空の下、継続されている。
つい先頃、この抗議行動の当事者の手で、詳細な記録をまとめた本が刊行された。
本を読んで初めて知る内容も多く、多くの疑問点が解消された。
●「金曜官邸前抗議 デモの声が政治を変える」野間易通(河出書房新社)
脱原発派にとっては大変残念な結果に終わった衆院選だが、このブログにも書き綴ってきた通り、私は「状況はさほど悪くない」と捉えている。
おそらく首都圏で抗議行動を取り仕切っている皆さんもそうであろうし、全国で声を上げ、歩きはじめている「バラバラな個人」の脱原発派の皆さんも、そうであろう。
みんなしたたかで、粘り強いのだ。
特定の団体に属していなくても、自分の頭でものを考え、判断し、それぞれのやり方で戦える個人が、少なくとも数十万人の単位で存在するのだ。
衆院選から数日経ち、落ち着いて戦況分析してみれば、今後成立するであろう安倍自民政権は、批判の矛先としてはけっこうやり易い相手だ。
これまでは野田民主政権が標的だった。
民主党は、まともな脱原発派から見れば非常に胡散臭い形であったにしろ、世間的には一応「脱原発」の範疇に入っていたはずだ。
だからこれまでの「金曜官邸前抗議」も、事情を知らない人から見れば、同じ脱原発派内の路線争いのように見えていたかもしれず、やや分かりにくい構図ではあった。
今度の安倍政権は、はっきりと「原発推進」である。
抗議の相手としては、こちらの方がすっきりと分かり易い構図になる。
抗議行動を続けてきた皆さんも、今頃は手ぐすねを引いて、次の策を練っていることだろう。
抗議行動は、今後間違いなく面白くなるのだ(笑)
3.11以降の反原発は、楽しいものでなければならない。
無理のないものでなければならない。
決して忘れず、諦めないものでなければならない。
ファッションでかまわない。
商売でかまわない。
冗談交じりでかまわない。
一枚岩でなくともかまわない。
ただ一点「原発NO」で一致していればいい。
当たり前の生活スタイルとして放射能に対する知識を得て、
原発にNOと言わなければならない。
私は絵描きなので「運動」や「組織」への適性は一片たりともない。
だから上記の内容はなんらかの集団行動を想定したものではなく、80年代から原発の危険性について知りながら、実際に日本で事故が起こってしまうまで何もできなかった自分への戒めとして書いたものだった。
日々の暮らしを送りながら無理なくできることとして、一応200〜300の閲覧者数を持つ自分のブログで、原発に対する考え方や参考文献を、それなりに楽しめる形で綴っていきたいという独白だった。
ところが2012年に入り、興味深い脱原発運動が出現した。
現在も継続中の、首都圏「金曜官邸前抗議」である。
こんなに自由でしたたかな抗議活動が可能であるとは夢にも思わず、私は瞠目しながらネット上の情報を追い続けた。
やがてこの「金曜官邸前抗議」は全国の電力会社前に広がり、季節は巡って冬になっても、寒空の下、継続されている。
つい先頃、この抗議行動の当事者の手で、詳細な記録をまとめた本が刊行された。
本を読んで初めて知る内容も多く、多くの疑問点が解消された。
●「金曜官邸前抗議 デモの声が政治を変える」野間易通(河出書房新社)
脱原発派にとっては大変残念な結果に終わった衆院選だが、このブログにも書き綴ってきた通り、私は「状況はさほど悪くない」と捉えている。
おそらく首都圏で抗議行動を取り仕切っている皆さんもそうであろうし、全国で声を上げ、歩きはじめている「バラバラな個人」の脱原発派の皆さんも、そうであろう。
みんなしたたかで、粘り強いのだ。
特定の団体に属していなくても、自分の頭でものを考え、判断し、それぞれのやり方で戦える個人が、少なくとも数十万人の単位で存在するのだ。
衆院選から数日経ち、落ち着いて戦況分析してみれば、今後成立するであろう安倍自民政権は、批判の矛先としてはけっこうやり易い相手だ。
これまでは野田民主政権が標的だった。
民主党は、まともな脱原発派から見れば非常に胡散臭い形であったにしろ、世間的には一応「脱原発」の範疇に入っていたはずだ。
だからこれまでの「金曜官邸前抗議」も、事情を知らない人から見れば、同じ脱原発派内の路線争いのように見えていたかもしれず、やや分かりにくい構図ではあった。
今度の安倍政権は、はっきりと「原発推進」である。
抗議の相手としては、こちらの方がすっきりと分かり易い構図になる。
抗議行動を続けてきた皆さんも、今頃は手ぐすねを引いて、次の策を練っていることだろう。
抗議行動は、今後間違いなく面白くなるのだ(笑)
2012年12月25日
不謹慎と言われようが、私は今夜「ラララ…」と呻き、「ラわーん」と泣く
中沢啓治さんがお亡くなりになってしまった。
漫画「はだしのゲン」の作者である。
何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
それにしても、あらためて訃報を耳にすると、ショックはある。
よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
以下、一部引用。
私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。
私はネットをはじめてそろそろ十年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いの一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
少し心配なのが、隆太だ。
願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼む今夜である。
ともかく、「はだしのゲン」を全人類必読書に!
●「はだしのゲン」汐文社版
他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。
そう言えば、何年か前までは原爆忌前後のタイミングで「ゲン」のコンビニ版が発行されていたはずだが、今年はまだ見かけていないなあ……
漫画「はだしのゲン」の作者である。
何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
それにしても、あらためて訃報を耳にすると、ショックはある。
よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
以下、一部引用。
私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。
二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。
私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。
私はネットをはじめてそろそろ十年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いの一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
少し心配なのが、隆太だ。
願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼む今夜である。
ともかく、「はだしのゲン」を全人類必読書に!
●「はだしのゲン」汐文社版
他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。
そう言えば、何年か前までは原爆忌前後のタイミングで「ゲン」のコンビニ版が発行されていたはずだが、今年はまだ見かけていないなあ……
2012年12月27日
friends after 3.11
原発について語りたいことはあまりに多く、しかしそのことに割ける時間は限られている。
このままではいけないと、この12月に入ってから書きたかったこと、今まで書けなかったことをまとめて駆け足で綴ってきた。
3.11以降、原発についてあらためて情報を集め、各地の抗議行動の経過をネットで追ううちに、活動を行っている皆さんの中に幾人か見知った名前を見つけることがあった。
面識のある人たちが各地で奮闘している様に力づけられたのだが、私にできることはせいぜいブログに自分の知る情報についてまとめたり、抗議行動の頭数として行けるときには参加するくらいだ。
その電力会社前の抗議行動も、毎回参加ではないがある程度参加回数を重ねるうちに、顔見知りもできてきた。
抗議行動は基本的に「バラバラの個人の集まり」という傾向が強く、開始時間と終了時間の前後にしばらく顔見知りと情報交換、立ち話などする以外、とくに繋がりは生じない。
それでも常連さんたちのそれぞれの「芸風」がわかり、簡単な近況報告があると、名前も知らない参加者の皆さんに、それなりの親近感は湧いてくる。
鳴りモノなどで目立った人がいて、興味をひかれてネットで調べてみると、かなり面白い活動をしている人だったりすることもある。
たとえば、だるま森さん。
色んな人がいるものだ。
3.11という惨禍を契機に、人と人との新しい繋がりができる、今年はそんなテーマの映画も公開された。
その映画は「friends after 3.11」と言うタイトルで、三月に公開。(もっと早くに紹介できればよかったのだが、ぐずぐずしているうちに年末になってしまった)
公式サイトはこちら。
飯田哲也、岩上安身、上杉隆、鎌仲ひとみ、小出裕章、武田邦彦、藤波心、山本太郎……
3.11以降、独自の存在感を示した皆さんの言葉を、監督・岩井俊二が克明に記録していく。
出演した皆さんの中で、私がとくに衝撃を受けたのは、城南信用金庫理事長の吉原毅さんの存在だ。
城南信金は吉原理事長の強い意向の元に、金融機関としては異例の脱原発活動を継続している。
興味のある人は以下に紹介する公式サイトと、吉原理事長のインタビュー動画を参照してみてほしい。
城南信用金庫
ブックレットもある。
●「城南信用金庫の「脱原発」宣言」吉原毅(わが子からはじまるクレヨンハウス・ブックレット)
●「信用金庫の力――人をつなぐ、地域を守る」吉原毅(岩波ブックレット)
私はこれまで、金融機関に対して良いイメージは持ったことがなかった。
もっと率直に言えば、強烈な不信感を思っていた。
折々いやでも目に入ってくる某経団連の酷さを見るにつけ、今の日本の「財界」なる閉じた領域には、そのサークル内の利益しか考えることのできない小人ばかりしかいないのではないかと思っていた。
ところが映画を観て、本来の意味での経済=経世済民の理念を、本気で実現しようと奮闘している金融機関と、文学を語れるリーダーが存在することにかなり強いショックを受けた。
出来ることなら城南信金に口座を開設したいところなのだが、あいにく地域的に離れすぎている。
また、たとえ開設できたとしても、ほんの小額になるであろうことが残念である。
ともかく、このような信金もあるのだということを、まだご存知でない皆さんに紹介しておきたいのだ。
3.11の惨禍を超えて広がる世界も、確かに存在する。
このままではいけないと、この12月に入ってから書きたかったこと、今まで書けなかったことをまとめて駆け足で綴ってきた。
3.11以降、原発についてあらためて情報を集め、各地の抗議行動の経過をネットで追ううちに、活動を行っている皆さんの中に幾人か見知った名前を見つけることがあった。
面識のある人たちが各地で奮闘している様に力づけられたのだが、私にできることはせいぜいブログに自分の知る情報についてまとめたり、抗議行動の頭数として行けるときには参加するくらいだ。
その電力会社前の抗議行動も、毎回参加ではないがある程度参加回数を重ねるうちに、顔見知りもできてきた。
抗議行動は基本的に「バラバラの個人の集まり」という傾向が強く、開始時間と終了時間の前後にしばらく顔見知りと情報交換、立ち話などする以外、とくに繋がりは生じない。
それでも常連さんたちのそれぞれの「芸風」がわかり、簡単な近況報告があると、名前も知らない参加者の皆さんに、それなりの親近感は湧いてくる。
鳴りモノなどで目立った人がいて、興味をひかれてネットで調べてみると、かなり面白い活動をしている人だったりすることもある。
たとえば、だるま森さん。
色んな人がいるものだ。
3.11という惨禍を契機に、人と人との新しい繋がりができる、今年はそんなテーマの映画も公開された。
その映画は「friends after 3.11」と言うタイトルで、三月に公開。(もっと早くに紹介できればよかったのだが、ぐずぐずしているうちに年末になってしまった)
公式サイトはこちら。
飯田哲也、岩上安身、上杉隆、鎌仲ひとみ、小出裕章、武田邦彦、藤波心、山本太郎……
3.11以降、独自の存在感を示した皆さんの言葉を、監督・岩井俊二が克明に記録していく。
出演した皆さんの中で、私がとくに衝撃を受けたのは、城南信用金庫理事長の吉原毅さんの存在だ。
城南信金は吉原理事長の強い意向の元に、金融機関としては異例の脱原発活動を継続している。
興味のある人は以下に紹介する公式サイトと、吉原理事長のインタビュー動画を参照してみてほしい。
城南信用金庫
ブックレットもある。
●「城南信用金庫の「脱原発」宣言」吉原毅(わが子からはじまるクレヨンハウス・ブックレット)
●「信用金庫の力――人をつなぐ、地域を守る」吉原毅(岩波ブックレット)
私はこれまで、金融機関に対して良いイメージは持ったことがなかった。
もっと率直に言えば、強烈な不信感を思っていた。
折々いやでも目に入ってくる某経団連の酷さを見るにつけ、今の日本の「財界」なる閉じた領域には、そのサークル内の利益しか考えることのできない小人ばかりしかいないのではないかと思っていた。
ところが映画を観て、本来の意味での経済=経世済民の理念を、本気で実現しようと奮闘している金融機関と、文学を語れるリーダーが存在することにかなり強いショックを受けた。
出来ることなら城南信金に口座を開設したいところなのだが、あいにく地域的に離れすぎている。
また、たとえ開設できたとしても、ほんの小額になるであろうことが残念である。
ともかく、このような信金もあるのだということを、まだご存知でない皆さんに紹介しておきたいのだ。
3.11の惨禍を超えて広がる世界も、確かに存在する。
2012年12月29日
年末年始に理論武装
小人数とは言え脱原発の一つのブロックではあった未来の党が、分裂した。
何のための分裂なのか全く不透明で、むなしい限りである。
小沢グループ、亀井静香、嘉田知事ともに、今後もまさか脱原発の旗を降ろすことはないだろうが、結局この人たちの中での原発政策は、優先順位の低いものだったのだろうと判断せざるを得ない。
それはどう考えても戦術としてマズいとしか思えないのだが、政治家の考えることは理解不能である。
私にはとうてい理解できない何事か最優先事項に従って行動しているのだろうが、これでもう今後、未来の党の一派が脱原発を望む有権者の広範な支持を集めることは無いだろう。
私は今すぐ放射能対策で有効な手を打たなければ国民の健康に重大な影響が出、国内全原発の即時廃炉を進めなければ次なるフクシマが起こってしまうのは時間の問題だと考えているので、こうした危機感の薄い悠長な政治家たちの言動に一喜一憂している余裕はない。
現在の国会議員の中には、自民党の中にすらある程度の人数の脱原発派が存在することはわかっているものの、原発政策に対する認識の甘さ、優先順位の低さはいかんともしがたい。
そもそも「議員に託して何かしてもらう」ことを期待する方が間違っているのかもしれない。
有権者側で原発の危険性、非経済性に対する認識を深め、「議員の尻を叩く」くらいでなければならないのだろう。
私は私個人にできることを、ただ淡々と続けるのみである。
大切な「事実」は以下のようにまとめられる。
・今すぐ国内全原発の廃炉を決定しても、電力不足は絶対に起こらず、無理な節電も全く必要ない。
・代替エネルギーは、まずは最新の火力(現行の電力会社も使用しているガスコンバインドサイクル)で十分である。
・中長期的には燃料電池やコージェネレーションの普及でエネルギー効率を上げれば、同量のエネルギーを得るために費やされる資源や排出ガスを、劇的に減らすことができる。
・コスト的には原発ほど高くつく発電方法は他にない。
以上のような「事実」は、検証困難な特殊情報でもなんでもなく、関心を持って調べていけば誰にでもたどり着くことができる。
無理なく理論武装できる参考図書をまとめて紹介しておきたい。
●「城南信用金庫の「脱原発」宣言」吉原毅(わが子からはじまるクレヨンハウス・ブックレット)
前回記事で紹介した異色の金融機関、城南信用金庫の吉原毅理事長が、会社ぐるみで脱原発宣言をするにいたった経緯をつづったブックレットである。
金融機関のリーダーとして、採算の取れる形での節電や自家発電、既存の電力会社を使用しないことによるコストダウン、今すぐにも脱原発が可能である事実を、がっちりした数字を示しながら「実証」し尽くしている。
ブックレットなので小一時間もあれば通読でき、上質な講義を一コマ受講したような充実した読後感を得ることができる。
語り口はあくまでソフトで平易であるけれども、行間に著者の生来の気の強さと反骨精神がにじんでいるように感じるのは気のせいだろうか(笑)
●「信用金庫の力――人をつなぐ、地域を守る」吉原毅(岩波ブックレット)
今回、吉原毅という異色の信金経営者のことを知り、はじめて「信用金庫」とはいかなる発祥を持つ金融機関なのかを知った。
信金は単に「規模の小さな銀行」ではなく、「お金というものが本質的に持つ弊害」に対抗し、地域社会を守るための組織を起源に持つのだ。
先代会長に「銀行に成り下がるな!」と一喝され、それを糧に現在も気概を持って経営にあたる著者が、昨今の様々なお金にまつわる事象を、極めて平易に読み解いてくれる。
最終章にはそうした信金の理念が脱原発宣言と整合性を持って紹介されている。
このブックレットも、上質な一コマの講義のような一冊である。
そして以下の二冊はこの十二月投稿の記事でも紹介してきた異能の語り部、広瀬隆の著作紹介の再録である。
●「原発ゼロ社会へ! 新エネルギー論」広瀬隆(集英社新書)
言わずと知れた異能の語り部、広瀬隆の最新刊である。
津波による原発事故の可能性を2010年に警告した広瀬隆は、3.11後も多くの著作を通して一貫した主張を行ってきた。
1、福島を中心とした汚染地域の子供たちを、一刻も早く国の責任において疎開させるべし。
2、全原発を即時停止し、燃料棒を抜き取るべし。
3、放射性物質は、一か所に大量にまとめてはならない。
4、全原発を即時停止しても電力が不足することは無い。
5、太陽光、風力よりも、ガスを中心にした最新の火力や燃料電池をまずは推進すべし。
今回の新刊では、これらの主張のうちの「4、5」の論点について、詳細に語り尽くしている。
電力会社の垂れ流す「電力不足」という恫喝を、誰にでも確認可能な公開情報を元に完膚なきまでに叩き潰す手際は、相変わらず痛快だ。
新書なので2〜3時間もあれば誰にでも通読でき、新エネルギー技術は既に実用化段階に達していること、日本の未来に対して原発は有害無益でしかないことがきっちり「実証」されている。
報道ぐるみで「脱原発による電気料金高騰」という悪質な虚偽情報が蔓延する昨今、この一冊はその嘘を暴く最強の照魔鏡として機能するに違いない。
全国民必読!
●「新エネルギーが世界を変える―原子力産業の終焉」広瀬隆(NHK出版)
3.11後の2011年刊。
前掲新書は、実はこちらの本の内容をコンパクトにまとめたものである。
新エネルギーの技術解説はこちらの方がはるかに詳しく、広瀬隆の「怒り芸」がちょっと苦手な人にとっては、むしろ本書の方が落ち着いて読めるかもしれない。
この本、特に後半の燃料電池に関する章を読んでいると、自身が技術者であった広瀬隆の、新技術に対する愛情と知的興奮が生き生きと伝わってくる。
広瀬隆は、もし原発という魔物と出会っていなければ、こうした技術解説の本を嬉々として書き続けていたのではないだろうか。
私は根っからの文系人間であるが、それでも子供のころは男子として当然、発明・発見の物語をこよなく愛していた。
幾多の技術者たちがしのぎを削って新しいものを創り出す過程は、久々に私の中の「メカ好き男子」の魂を呼び覚ましてくれた。
単なる反原発の次元を突き抜けて、技術立国日本の未来に実現可能な明るい夢を描かせてくれる好著である。
かつての「メカ好き男子」よ、今すぐ手に取るべし!
この年末年始、少し時間が取れるなら、これらの本を読んでみませんか!
何のための分裂なのか全く不透明で、むなしい限りである。
小沢グループ、亀井静香、嘉田知事ともに、今後もまさか脱原発の旗を降ろすことはないだろうが、結局この人たちの中での原発政策は、優先順位の低いものだったのだろうと判断せざるを得ない。
それはどう考えても戦術としてマズいとしか思えないのだが、政治家の考えることは理解不能である。
私にはとうてい理解できない何事か最優先事項に従って行動しているのだろうが、これでもう今後、未来の党の一派が脱原発を望む有権者の広範な支持を集めることは無いだろう。
私は今すぐ放射能対策で有効な手を打たなければ国民の健康に重大な影響が出、国内全原発の即時廃炉を進めなければ次なるフクシマが起こってしまうのは時間の問題だと考えているので、こうした危機感の薄い悠長な政治家たちの言動に一喜一憂している余裕はない。
現在の国会議員の中には、自民党の中にすらある程度の人数の脱原発派が存在することはわかっているものの、原発政策に対する認識の甘さ、優先順位の低さはいかんともしがたい。
そもそも「議員に託して何かしてもらう」ことを期待する方が間違っているのかもしれない。
有権者側で原発の危険性、非経済性に対する認識を深め、「議員の尻を叩く」くらいでなければならないのだろう。
私は私個人にできることを、ただ淡々と続けるのみである。
大切な「事実」は以下のようにまとめられる。
・今すぐ国内全原発の廃炉を決定しても、電力不足は絶対に起こらず、無理な節電も全く必要ない。
・代替エネルギーは、まずは最新の火力(現行の電力会社も使用しているガスコンバインドサイクル)で十分である。
・中長期的には燃料電池やコージェネレーションの普及でエネルギー効率を上げれば、同量のエネルギーを得るために費やされる資源や排出ガスを、劇的に減らすことができる。
・コスト的には原発ほど高くつく発電方法は他にない。
以上のような「事実」は、検証困難な特殊情報でもなんでもなく、関心を持って調べていけば誰にでもたどり着くことができる。
無理なく理論武装できる参考図書をまとめて紹介しておきたい。
●「城南信用金庫の「脱原発」宣言」吉原毅(わが子からはじまるクレヨンハウス・ブックレット)
前回記事で紹介した異色の金融機関、城南信用金庫の吉原毅理事長が、会社ぐるみで脱原発宣言をするにいたった経緯をつづったブックレットである。
金融機関のリーダーとして、採算の取れる形での節電や自家発電、既存の電力会社を使用しないことによるコストダウン、今すぐにも脱原発が可能である事実を、がっちりした数字を示しながら「実証」し尽くしている。
ブックレットなので小一時間もあれば通読でき、上質な講義を一コマ受講したような充実した読後感を得ることができる。
語り口はあくまでソフトで平易であるけれども、行間に著者の生来の気の強さと反骨精神がにじんでいるように感じるのは気のせいだろうか(笑)
●「信用金庫の力――人をつなぐ、地域を守る」吉原毅(岩波ブックレット)
今回、吉原毅という異色の信金経営者のことを知り、はじめて「信用金庫」とはいかなる発祥を持つ金融機関なのかを知った。
信金は単に「規模の小さな銀行」ではなく、「お金というものが本質的に持つ弊害」に対抗し、地域社会を守るための組織を起源に持つのだ。
先代会長に「銀行に成り下がるな!」と一喝され、それを糧に現在も気概を持って経営にあたる著者が、昨今の様々なお金にまつわる事象を、極めて平易に読み解いてくれる。
最終章にはそうした信金の理念が脱原発宣言と整合性を持って紹介されている。
このブックレットも、上質な一コマの講義のような一冊である。
そして以下の二冊はこの十二月投稿の記事でも紹介してきた異能の語り部、広瀬隆の著作紹介の再録である。
●「原発ゼロ社会へ! 新エネルギー論」広瀬隆(集英社新書)
言わずと知れた異能の語り部、広瀬隆の最新刊である。
津波による原発事故の可能性を2010年に警告した広瀬隆は、3.11後も多くの著作を通して一貫した主張を行ってきた。
1、福島を中心とした汚染地域の子供たちを、一刻も早く国の責任において疎開させるべし。
2、全原発を即時停止し、燃料棒を抜き取るべし。
3、放射性物質は、一か所に大量にまとめてはならない。
4、全原発を即時停止しても電力が不足することは無い。
5、太陽光、風力よりも、ガスを中心にした最新の火力や燃料電池をまずは推進すべし。
今回の新刊では、これらの主張のうちの「4、5」の論点について、詳細に語り尽くしている。
電力会社の垂れ流す「電力不足」という恫喝を、誰にでも確認可能な公開情報を元に完膚なきまでに叩き潰す手際は、相変わらず痛快だ。
新書なので2〜3時間もあれば誰にでも通読でき、新エネルギー技術は既に実用化段階に達していること、日本の未来に対して原発は有害無益でしかないことがきっちり「実証」されている。
報道ぐるみで「脱原発による電気料金高騰」という悪質な虚偽情報が蔓延する昨今、この一冊はその嘘を暴く最強の照魔鏡として機能するに違いない。
全国民必読!
●「新エネルギーが世界を変える―原子力産業の終焉」広瀬隆(NHK出版)
3.11後の2011年刊。
前掲新書は、実はこちらの本の内容をコンパクトにまとめたものである。
新エネルギーの技術解説はこちらの方がはるかに詳しく、広瀬隆の「怒り芸」がちょっと苦手な人にとっては、むしろ本書の方が落ち着いて読めるかもしれない。
この本、特に後半の燃料電池に関する章を読んでいると、自身が技術者であった広瀬隆の、新技術に対する愛情と知的興奮が生き生きと伝わってくる。
広瀬隆は、もし原発という魔物と出会っていなければ、こうした技術解説の本を嬉々として書き続けていたのではないだろうか。
私は根っからの文系人間であるが、それでも子供のころは男子として当然、発明・発見の物語をこよなく愛していた。
幾多の技術者たちがしのぎを削って新しいものを創り出す過程は、久々に私の中の「メカ好き男子」の魂を呼び覚ましてくれた。
単なる反原発の次元を突き抜けて、技術立国日本の未来に実現可能な明るい夢を描かせてくれる好著である。
かつての「メカ好き男子」よ、今すぐ手に取るべし!
この年末年始、少し時間が取れるなら、これらの本を読んでみませんか!
2012年12月30日
愛と憎しみの大河「平清盛」
今年のNHK大河「平清盛」が完結して一週間。
大河ドラマ50周年記念作品にして、最低視聴率を更新したとのことで、散々の酷評の嵐である。
今年一年、私自身もブログで散々叩いてきた一人なのだが、あまりに批判一色だと一言物申したくなる。
確かに手放しで褒められる出来ではなかったが、「大河史上最低の出来」だったかと言えば、そんなにひどくはなかったんじゃねーの、と思ってしまう。
まあ、単に私がへそ曲がりなだけかもしれないが。
試みに、これまで当ブログにアップしてきた「平清盛」評をピックアップしてみる。
久々に観たNHK大河ドラマ
平氏の時代と平家琵琶
「今様」を今うたうなら
「今様」を今読むなら
曼荼羅なめんなよ
マイヒーローは今も
けっこう書いているが、読み返してみると真正面からのドラマ評というよりは、ドラマを観て折々感じたことの覚書という感じだ。
このあたりの距離感に、ありえない部分に突っ込みながらも結局観続け、色々頭の中を整理するきっかけにしていた私の、「平清盛」との付き合い方があらわれているようだ。
やりたいことはよくわかる。
その志は買う。
しかし、そのやり様はないだろう。
端的に言葉にするならば、上記のようになる大河ドラマだった。
通常、本格的な「武士の世」の到来と理解される源頼朝の鎌倉幕府に先駆けて、平清盛がその先行形態を作り上げていたのではないかという視点。
瀬戸内を中心とした海上交易、海賊、水軍にスポットライトを当てる視点。
白拍子や今様など、当時の芸能を後白河院を軸に捉えなおそうという視点。
どれも、私にとってはひどくそそられる視点である。
そうしたある意味マイナーな視点を、大河ドラマという広範な視聴者を対象にした大舞台で取り上げようとした心意気自体は大いに買いたかった。
しかしながら、出来上がって毎週放映されるドラマを視聴すると、なんとも微妙な感覚を抱くことになってしまう。
海上交易や海賊、水軍は、予算の関係からかほとんど実際のシーンとして描写されることは無かったし、当時の芸能も中途半端に現代風で、どこまでが創作でどこまでが再現なのか判然としなかった。
源平時代を描くなら一番の売り物となるべき合戦シーンも、さほど華やかなものにはなっていなかった。
主要メンバーの着用する大鎧がひどくみすぼらしく映ったのは、よく言われる画面の不鮮明さだけではなく、予算があまり割かれなかったせいではないかという感想を持たざるを得ない。
そして、これが一番の問題点だったと思うのだが、演出の一つ一つが悪い意味で「漫画的」だった。
念のために書いておくと、私の漫画に対する愛情は人後に落ちない。漫画こそは人類の生み出した表現形態の中でも最上のものの一つだと信じている。
しかし漫画の演出方法は、あくまで「漫画の絵=略画」を土台にした表現方法であって、実写のそれとは全くノウハウが異なるはずである。
記憶に新しいところでは、最終回で清盛が高熱で倒れるときに、巨木がメリメリと音を立てて倒れる効果音が重ねられているシーンがあり、さらに高熱にうなされる清盛の体が浴びせられた冷水を沸騰させているようなシーンもあった。
どんな効果を狙っているかは説明されなくてももちろん理解できるが、観ていて思わず失笑してしまったのはこちらのせいではないだろう。
というか、
そういう演出を実写でやるな、アホ!
と画面に向かって呟いてしまったのも、私だけではないだろうと思う。
このレベルのありえない演出が、各話に一回ずつぐらいは必ず紛れ込んでいて失笑してしまった印象が、今回の「平清盛」には抜き難くある。
個人的に興味のある領域が扱われているので、どうしても毎回観てしまう。
観てしまうと稚拙な部分が目について文句を言いたくなる。
さりとて見るのをやめてしまうほど全体が酷いわけではなく、脚本と演出のはっきりした欠陥に比して、各役者はむしろものすごく頑張ってドラマを盛り立てようと奮闘している様が見て取れる。
結果、なんとも言い難い複雑な感情をドラマに対して抱くことになってしまう。
ともかく、役者の皆さん、とくに主演の松山ケンイチさんには、一年間本当にお疲れ様でしたと心からの賛辞を送りたい。
私自身にとっては、一年間ドラマに付き合うことを通して、芸能を含めた同時代の時代背景について、多くを学ぶことができたのは得難い収穫だった。
とくに「平家物語」に対する認識を深めることができたことには、深く感謝しているのである。
この一年、様々な本を読んできたが、一冊挙げるとするならば↓これをお勧めしておきたい。
●「平家物語の読み方」兵藤裕己(ちくま学芸文庫)
現代の私たちが「平家物語」を鑑賞する場合、まず最初に手に取るのは(原文か現代語訳かの違いはあれ)文章になったものを黙読するという形態になりがちだ。
しかし長く伝承されてきた「平家物語」は、主に盲目の琵琶法師によって口唱されてきたものであり、それを聞いた聴衆の心に受け止められた物語の印象は、テキストをただ黙読した場合に感じられるものと、また違った印象のものになるはずである。
そうした、言われてみれば当たり前なのだが、言われるまではなかなか気づけない切り口で、「平家物語」という不思議な物語の成立過程と受容の歴史をわかりやすく解説してくれる一冊である。
大河ドラマで時代背景に関心を持った人は、一度は目を通す価値があると思う。
大河ドラマ50周年記念作品にして、最低視聴率を更新したとのことで、散々の酷評の嵐である。
今年一年、私自身もブログで散々叩いてきた一人なのだが、あまりに批判一色だと一言物申したくなる。
確かに手放しで褒められる出来ではなかったが、「大河史上最低の出来」だったかと言えば、そんなにひどくはなかったんじゃねーの、と思ってしまう。
まあ、単に私がへそ曲がりなだけかもしれないが。
試みに、これまで当ブログにアップしてきた「平清盛」評をピックアップしてみる。
久々に観たNHK大河ドラマ
平氏の時代と平家琵琶
「今様」を今うたうなら
「今様」を今読むなら
曼荼羅なめんなよ
マイヒーローは今も
けっこう書いているが、読み返してみると真正面からのドラマ評というよりは、ドラマを観て折々感じたことの覚書という感じだ。
このあたりの距離感に、ありえない部分に突っ込みながらも結局観続け、色々頭の中を整理するきっかけにしていた私の、「平清盛」との付き合い方があらわれているようだ。
やりたいことはよくわかる。
その志は買う。
しかし、そのやり様はないだろう。
端的に言葉にするならば、上記のようになる大河ドラマだった。
通常、本格的な「武士の世」の到来と理解される源頼朝の鎌倉幕府に先駆けて、平清盛がその先行形態を作り上げていたのではないかという視点。
瀬戸内を中心とした海上交易、海賊、水軍にスポットライトを当てる視点。
白拍子や今様など、当時の芸能を後白河院を軸に捉えなおそうという視点。
どれも、私にとってはひどくそそられる視点である。
そうしたある意味マイナーな視点を、大河ドラマという広範な視聴者を対象にした大舞台で取り上げようとした心意気自体は大いに買いたかった。
しかしながら、出来上がって毎週放映されるドラマを視聴すると、なんとも微妙な感覚を抱くことになってしまう。
海上交易や海賊、水軍は、予算の関係からかほとんど実際のシーンとして描写されることは無かったし、当時の芸能も中途半端に現代風で、どこまでが創作でどこまでが再現なのか判然としなかった。
源平時代を描くなら一番の売り物となるべき合戦シーンも、さほど華やかなものにはなっていなかった。
主要メンバーの着用する大鎧がひどくみすぼらしく映ったのは、よく言われる画面の不鮮明さだけではなく、予算があまり割かれなかったせいではないかという感想を持たざるを得ない。
そして、これが一番の問題点だったと思うのだが、演出の一つ一つが悪い意味で「漫画的」だった。
念のために書いておくと、私の漫画に対する愛情は人後に落ちない。漫画こそは人類の生み出した表現形態の中でも最上のものの一つだと信じている。
しかし漫画の演出方法は、あくまで「漫画の絵=略画」を土台にした表現方法であって、実写のそれとは全くノウハウが異なるはずである。
記憶に新しいところでは、最終回で清盛が高熱で倒れるときに、巨木がメリメリと音を立てて倒れる効果音が重ねられているシーンがあり、さらに高熱にうなされる清盛の体が浴びせられた冷水を沸騰させているようなシーンもあった。
どんな効果を狙っているかは説明されなくてももちろん理解できるが、観ていて思わず失笑してしまったのはこちらのせいではないだろう。
というか、
そういう演出を実写でやるな、アホ!
と画面に向かって呟いてしまったのも、私だけではないだろうと思う。
このレベルのありえない演出が、各話に一回ずつぐらいは必ず紛れ込んでいて失笑してしまった印象が、今回の「平清盛」には抜き難くある。
個人的に興味のある領域が扱われているので、どうしても毎回観てしまう。
観てしまうと稚拙な部分が目について文句を言いたくなる。
さりとて見るのをやめてしまうほど全体が酷いわけではなく、脚本と演出のはっきりした欠陥に比して、各役者はむしろものすごく頑張ってドラマを盛り立てようと奮闘している様が見て取れる。
結果、なんとも言い難い複雑な感情をドラマに対して抱くことになってしまう。
ともかく、役者の皆さん、とくに主演の松山ケンイチさんには、一年間本当にお疲れ様でしたと心からの賛辞を送りたい。
私自身にとっては、一年間ドラマに付き合うことを通して、芸能を含めた同時代の時代背景について、多くを学ぶことができたのは得難い収穫だった。
とくに「平家物語」に対する認識を深めることができたことには、深く感謝しているのである。
この一年、様々な本を読んできたが、一冊挙げるとするならば↓これをお勧めしておきたい。
●「平家物語の読み方」兵藤裕己(ちくま学芸文庫)
現代の私たちが「平家物語」を鑑賞する場合、まず最初に手に取るのは(原文か現代語訳かの違いはあれ)文章になったものを黙読するという形態になりがちだ。
しかし長く伝承されてきた「平家物語」は、主に盲目の琵琶法師によって口唱されてきたものであり、それを聞いた聴衆の心に受け止められた物語の印象は、テキストをただ黙読した場合に感じられるものと、また違った印象のものになるはずである。
そうした、言われてみれば当たり前なのだが、言われるまではなかなか気づけない切り口で、「平家物語」という不思議な物語の成立過程と受容の歴史をわかりやすく解説してくれる一冊である。
大河ドラマで時代背景に関心を持った人は、一度は目を通す価値があると思う。