2013年の十日戎、本ゑびすの夜である。
ゑびす縁日を楽しみながら、あれこれ考える。
本日のお題は戦後の神戸とヤクザについて。
参考書は以下の三冊。
●「神戸今昔散歩」原島広至(中経の文庫)
●「近代ヤクザ肯定論 山口組の90年」宮崎学 (ちくま文庫)
●「実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界」山平重樹(双葉文庫)
明治期、現在のJR神戸駅付近一帯に「福原」と呼ばれる遊郭があった。
古来、港街にはそうした「悪所」がつきものだったが、鉄道敷設に伴い移転。
少し西に行ったところにある湊川のほとりに「新福原」が築かれ、すぐに「新」ははずされて、単に「福原」と呼ばれるようになった。
まだ田園風景の残る川べりにぽっかりと出現した遊郭は、夜毎異界の輝きを放っていたことだろう。
現在はもちろん遊郭など存在しないが、新開地東側一帯の福原町は、今でも歓楽街として知られている。
湊川は度々氾濫を繰り返す暴れ川だった。
一部天井川だった名残が、今の湊川公園の幹線道路を上からまたぐ特殊な立地に見られる。
明治後期には大規模な付け替え工事が行われ、西側の長田方向に川筋の迂回する現在の新湊川になった。
埋め立てられた当初の旧湊川は、両岸の土手が繋がった平地の形だったので単に「土手」と呼ばれていたらしい。
明治44年には湊川遊園地(現在の湊川公園)が開園。
大正13年には公園内に神戸タワー開業。
開業当初の神戸タワーは高さ90メートルで、通天閣をしのぐ東洋一の塔だったという。
昭和43年に老朽化で解体されるまで、神戸のシンボルの一つだった。
現在は同じ場所に時計台が立っていて、鐘を鳴らしながら時を刻んでいる。
新開地には明治40年にいち早く劇場が誕生。以来旧川筋には劇場、芝居小屋、映画館が林立し、福原遊郭とともに一大歓楽街が出現する。
神戸タワーの足もとに広がる猥雑な空間は、たぶん大阪の新世界と同じ匂いのする場所だったことだろう。
歓楽街と言うものは、それ単独で存在するわけではない。
周辺に大量の人口が集中し、行き場を求める欲望の渦がなければ歓楽街は生まれない。
明治後期の神戸は海外貿易が飛躍的に増加し、造船所などの大規模工場も出現していた。
労働力の需要はいくらでもあり、周辺の農村や漁村で働き口を見つけられなかった若者たちが「神戸に行けば食える」とばかりに押し寄せてきていた。
明治後期だけで人口が約二倍に増え、こうした流入人口の多くは日雇いの港湾労働者になり、いくつもの広大なスラム街を形成した。
膨大な数の荒くれ男達の中から、やがて顔役として頭角をあらわすものが出るのは、ある意味必要不可欠なことだったに違いない。
明治39年、職を求めて労働者が押し寄せる神戸に、一人の男が現れた。
妻と幼い子供を連れた25歳の若者の名を山口春吉という。
春吉は沖仲士と呼ばれる最下級労働者から出発し、徐々に頭角を現した。
派手な荒事を好む性格ではなかったが、寡黙で篤実、義理堅く、人の嫌がる仕事を率先して行い、周囲から頼られる顔役の一人になった。
やがて頼ってくる荒くれ男達と、自分の家族の生活を守る必要からヤクザになり、小さな組を構えた。
これが後の日本最大のヤクザ組織、山口組の始まりである。
当時の他の多くのヤクザ組織も同様だったが、山口組もその発祥は困窮する下級労働者の互助会としての面が強く、ある意味では「労働組合」でもあったのだ。
春吉は仕事熱心だったので港湾労働者の統括は徐々に軌道に乗り、事業は拡大していった。
浪曲と相撲が好きだったので、組の皆の福利厚生の一環として芸能興行も手掛けるようになった。
下級労働者の統括と芸能興行は、後々まで山口組の「本業」として継続されることになる。
大正7年に勃発した神戸米騒動では、随所で山口組の面々が活躍していたらしい。湊川公園に集まる民衆を煽り、米屋や大型商店を次々に包囲し、交渉を行った者たちの姿には、ヤクザ者の影がちらついている。
春吉は自分が性格的にヤクザにさほど向いていないと思っていたらしく、大正14年に長男・登が23歳になると、跡目を譲って事業部門に専念するようになる。
生活の必要からヤクザになった初代と違い、二代目は少年の頃から勇名を馳せたやんちゃ者だった。
荒事も辞さない武闘派路線と、初代の堅実な事業路線が結び付き、地元神戸を中心に勢力を拡大していった。
戦中の昭和初期には二代目・登が早くに亡くなったが跡目がなかなか決まらず、また戦時体制の締め付けもあって、山口組の勢力はギリギリまで縮小された。
戦争末期の大空襲により、一面焼け野原となった神戸で、山口組三代目を襲名したのが田岡一雄だった。
戦後、法を守ることと普通に生活することが一致しなくなった闇市の世界では、法外の領域も自在に泳げるヤクザ者が秩序を守る逆転現象が起きる。
警察権力が崩壊した神戸の街で、その治安を守ったのが山口組だったことは紛れもない事実だ。
今では想像することすら困難だが、警察側から警護を依頼した記録もはっきり残っている。
山口組が地元神戸で恐れられながらも、長く庶民社会と共存出来てきたのは、戦後の「頼れる」イメージも一役買っているようだ。
三代目・田岡一雄は山口組を再建するにあたって、ともかく組やその周辺にいる者たちを「いかに食わせるか」ということに腐心した。
元々山口組は下級労働者の集まりという性格が強かったので、田岡は組員に食っていけるだけの合法的な職業を持つことを、積極的に勧めた。
歴代組長が得意とした港湾労働と芸能興行の二部門は、やはり事業の中心に据えられた。
戦前戦中とは港や興行の在り方が根本的に変わっており、ほとんどゼロからの出発だったが、精力的に事業を拡大していった。
港湾事業ではしばしば労資間の調停に力を発揮し、労働条件の改善に貢献した。
興行部門では「神戸芸能社」が設立され、美空ひばりをはじめ錚々たる芸能人を抱えた。
金払いが良く警備も強力、抱えた芸能人を大切に扱ったので、芸能人側の評判は非常に高かった。
ただ、こうした合法的事業の伸長も、武闘派部門の「力」の裏付けがあってのことではあった。
港湾事業と芸能興行という両輪は山口組を広域化させた要因になったが、巨大化することで元々の「地域の顔役」という側面は徐々に薄れていった。
私は決してヤクザをロマンティックに賛美するつもりはないのだけれども、戦後神戸という混沌に、田岡一雄という個性が居合わせたことは、そこで生きていかざるを得ない庶民にとって幸運なことだったのではないかと思う。
戦後の混乱期を終え、警察力が強化されてくると、山口組のような巨大な民間の「武力」は、当局のターゲットにされるようになってくる。
70年代以降、とくに芸能興行部門は警察の圧力で縮小せざるを得なくなり、90年代の暴対法により、さらに非合法の領域へと追いやられて行った。
95年の阪神大震災時には、炊き出しや救援活動で久々に庶民の喝采を浴びたが、それ以降もヤクザ排除の風潮は警察主導で推し進められ、2011年、芸能人をターゲットにした「見せしめ」により、その路線は総仕上げに入ろうとしている。
私は特にヤクザと個人的な付き合いも無いし、今後もその予定は無いが、こうしたヤクザ排除の路線が本当に庶民にとって「得」になるのかという点については、疑問を持っている。
日本の文化は伝統的に、異端を排除せず、適度に受け入れてやり過ごすことで、調和を保つ知恵があった。 当ブログのカテゴリ節分でも度々書いてきたが、あまり潔癖に病原体を排除しようとすると、免疫機能が低下し、逆に病原体側は強力になる。
それは社会についても同様だと考えている。
私は自分がダメ人間であるという自覚を持っているが、たとえば明日から「ダメ人間排除条例」が施行されたとしても、急にダメ人間をやめることはできない。
むしろ排除されたことで更にダメになり、周囲の迷惑度はアップするだろう。
ダメ人間はそれが笑える範囲であればそっとしておく方がいい。
ヤクザ特有の論理に「放っておけば悪くなる一方の若い者を、身柄を預かって最低限の仁義を教えてきた」というものがある。
身勝手な自己正当化ではあるが、それは一面の真実でもあったのだ。
ヤクザの犯罪行為は厳しく取り締まれば良いが、合法的な事業やヤクザであること自体を排除しようと下手にいじれば、ヤクザも生きるために非合法化の度合いを強めざるを得なくなるだろう。
現在、ヤクザやその関係者と認定されてしまえば銀行口座も開けなくなっていると聞く。
これではヤクザ本人だけでなく、家族までわざわざ悪の道へ叩き落としているのと同じである。
かつてヤクザの組事務所は公然と看板がかけられており、構成員の名前や現況なども全て「公開情報」だった。
警察は完全にヤクザの動向を把握しており、それは時には癒着と呼ばれる程だった。
ヤクザとの不透明な関係を解消することは、それ自体は「正しい」としか言い様がないが、対決姿勢を強めることで逆に警察は闇社会の動向を掴みづらくなってしまっている。
これは本当に社会的コストとして「得」な状態なのだろうか。