最近とみに「ああ、俺は今、90年代の後始末をやってるな」と感じることがよくある。
このカテゴリ90年代を断続的に書き続けていることもそうだ。
阪神淡路大震災についてはひとしきり綴り終えたので、その他のことについてもぼちぼち書いていきたい。
まずは以前の記事を再掲。
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個人的に、1995年と2011年はけっこう似ている感じていた。
何よりも両年とも大震災の年であったし、オウム関連でも2011年から2012年にかけて、動きがあった。
はじめは私のごく個人的な感じ方かと思っていたのだが、鈴木邦男さんが2012年の年頭ブログで同じような指摘をしていたのを読み、「自分だけではなかったのだな」と思った。
最近感じるのは、2010年代の世相が、90年代のそれと似た雰囲気のものになりつつあるのではないかということだ。
90年代はとくにカルチャーの面で、70年代リバイバルといった雰囲気が強かった。
だから90年代とよく似た2010年代も、70年代の世相と繋がってくる面があるかもしれない。
もう少し具体的に書いてみよう。
私は90年代半ばごろから、やや真面目に神仏関連の読書をはじめたのだが、その当時よく読んでいた本の中に、以下のものがある。
●「宗教を現代に問う〈上中下〉」毎日新聞社特別報道部宗教取材班(角川文庫)
1975〜76年にかけて、毎日新聞紙上で274回にわたって連載された記事の集成。
単行本は76年、文庫版は89年に刊行された。
70年だ半ばの時点での宗教状況について、広範に取材された労作である。
上巻には当時の水俣の取材も含まれており、今そこにある地獄の中で、地元で多くの門徒をかかえる浄土真宗や、民間宗教者がどのように苦闘したかが記録されている。
私が本書を手にした時には初出から20年が経過していたが、ほとんど違和感なく「現代」の内容として読み耽ったことを覚えている。
そこから更に20年弱が経過した今読んでみても、多くの内容で「現代」そのものを感じる。
70年代、90年代、2010年代の、とくにカルチャーの分野がよく似て見える理由は、なんとなく理解できる。
70年代の文化を空気として呼吸した子供達は、90年代には青年となって表現する側にまわり、リバイバルの原動力になっただろう。
70年代の青年は90年代には「先達」となって、日本各地に、何かを表現したい若者が集える「場」を作り上げていた。
それから20年経った2010年代にも、同じようなスライドが起こっているのではないだろうか。
昨今の反原発デモの映像の中に、年配の方々の表現を借りれば「ヒッピー風」の若者たちの姿がよく見られるのも、たぶんこうしたスライド現象が根底にあると思う。
今につながる70年代の精神文化については、以下の本も非常に面白い。
●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)
そして、最後に追記である。
この本をここで紹介することには、ためらいがあった。
内容の重さがお手軽なレビューを拒む本というものがあって、間違いなくこの本もそうした一冊だ。
●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)
本書の第一章は、水俣にほど近い海辺に生まれた、ある兄弟の物語から始まっている。
その物語は、70年代と90年代、そして現在を結び、ミナマタからフクシマへと続く国と企業による「虐殺」を、地獄の側から凝視するものである。
本書の存在が、読むべき人たちに十分認識されているとは言い難いのが残念でならないのだが、重すぎる内容が逆に足枷となってしまっているのはやむを得ないのかもしれない。
私は今の時点で、この本について詳しく書く準備ができていないのだが、ここまでのごく簡単な紹介でも、読む人が読めば何のテーマについて扱った本なのかピンとくることと思う。
そういう人にはぜひ一度手に取って見てほしい一冊だ。