六月中、毎年楽しみにしているアジサイを堪能していた。
山間部ならまだまだ見頃が続いている。
過去記事は以下の通り。
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
今年は六月中旬頃まで雨が少なく、アジサイも干からびがちだったが、下旬になってようやく雨天が続き、持ち直していた。
ガクアジサイが曼荼羅や華厳の世界観に重なって見えて以来、毎年この時期には近所の庭先や、近場にあるアジサイの名所を巡回している。
その間に興味の対象も微妙に変化してきているのだが、近頃は花が集合した時の色彩の変化にハマっている。
たくさんの花の集合や、株の連続を楽しみたい場合は、やはり名所と呼ばれるところに行くのがいい。
山間部なら、木漏れ日による味付けもプラスされる。
2013年07月02日
2013年07月06日
演劇漫画のリアルって?
学生時代、90年代前半、そして2000年代の2年間ほど、少々演劇に関与してきた。
三期とも、主に舞台美術スタッフとしての参加。
90年代前半に所属していた劇団が、今年旗揚げ二十周年だという風の便りを聞く。
おめでとうございます。
その節は、ご迷惑を……
時が流れて振り返ってみると、チームプレイが苦手だった私をよく我慢して使ってくれていたものだと、昔の仲間たちには申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
同時に、予算20万なら20万の範囲内で演出の注文を最大限形にするという点では、他の誰にもできないレベルで舞台を作っていたなという思いもある。
舞台美術だけでなく、小道具やイラストなど細かな工作物も一通りこなせたので、旗揚げ前後に一人いると便利なタイプだっただろうなと、我ながら思う。
そこからもう一歩進んで、「もっと金と人をかけた舞台美術をやりたい」という欲が出ていれば、もしかしたらその後もずっと続けていたかもしれないが、私はそこまで演劇に対して貪欲にはなれなかった。
幾人かの先輩や後輩、仲間たちのように、演劇で生きていくほどの覚悟はついに持てなかったものの、今でも関心は持ち続けている。
最近、ふとしたはずみで手にとった漫画が、演劇テーマでものすごく面白かった。
演劇漫画と言えば、誰もが最初に頭に浮かぶのは「ガラスの仮面」だと思うが、私が今回読んだのは「ライジング!」という作品。
●「ライジング!」原作:氷室冴子 漫画:藤田和子(小学館文庫 全7巻)
宝塚を思わせる歌劇団の音楽学校に、成り行きで迷い込んだ帰国子女の物語。
もう三十年以上前の作品だが、描かれる業界の細部は全く古さが感じられない。
少々演劇をかじってきた者の目から見ても、かなりリアルな描写であるという印象を持つ。
格闘漫画でたとえると、「ガラスの仮面」=「北斗の拳」ならば、本作「ライジング!」=「拳児」という風に置き換えられるかもしれない。
(念のため書いておくと、作品のリアルさの度合いと面白さは無関係で、リアルであるから面白いとか、リアルでないから面白くないということは全くない)
この作品には、「ガラスの仮面」のように「ほとんど超能力者レベル」というキャラは登場しない。
現実の演劇界には、「たった数日間の準備で大舞台の代役を見事につとめてしまった宮沢りえ」などというとんでもない超人が、結構な頻度で実在したりもするのだが、フィクションでそういうことを描いてしまうと、読者には「ああ、この作品はファンタジーなんだな」と分類されてしまう。
いくら本当にあったことでも、読者がそれを読んでリアリティを感じられるかというと、それはまた別問題なのだ。
本作「ライジング!」は、あくまで現実にありえる(と読者に思わせる)程度の写実性で、登場人物の感情が描き込まれているところが素晴らしい。
役者が生来持っている「華」と訓練で習得する技術の問題。
スタンドプレイとチームプレイの微妙な関係。
いくら才能があってもチーム内のバランスでそれが発揮されないことも多々あるという厳しい現実。
その他、かなり綿密な取材からしか出てこないような描写が目白押しだ。
少女歌劇というそれ自体がファンタジックで特種な世界、小劇場という閉鎖空間、作中劇、役者の生理など、読み込むうちに「リアルな描写ってなんやねん?」という思考実験が、様々に展開されていくようだ。
何よりも、文庫サイズ全7巻という程よい長さで完結しているというのが良い。
演劇に関心のある皆さん、「手頃な長さで面白い漫画ないかな〜」とお探しであれば、一度手にとってみてください!
三期とも、主に舞台美術スタッフとしての参加。
90年代前半に所属していた劇団が、今年旗揚げ二十周年だという風の便りを聞く。
おめでとうございます。
その節は、ご迷惑を……
時が流れて振り返ってみると、チームプレイが苦手だった私をよく我慢して使ってくれていたものだと、昔の仲間たちには申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
同時に、予算20万なら20万の範囲内で演出の注文を最大限形にするという点では、他の誰にもできないレベルで舞台を作っていたなという思いもある。
舞台美術だけでなく、小道具やイラストなど細かな工作物も一通りこなせたので、旗揚げ前後に一人いると便利なタイプだっただろうなと、我ながら思う。
そこからもう一歩進んで、「もっと金と人をかけた舞台美術をやりたい」という欲が出ていれば、もしかしたらその後もずっと続けていたかもしれないが、私はそこまで演劇に対して貪欲にはなれなかった。
幾人かの先輩や後輩、仲間たちのように、演劇で生きていくほどの覚悟はついに持てなかったものの、今でも関心は持ち続けている。
最近、ふとしたはずみで手にとった漫画が、演劇テーマでものすごく面白かった。
演劇漫画と言えば、誰もが最初に頭に浮かぶのは「ガラスの仮面」だと思うが、私が今回読んだのは「ライジング!」という作品。
●「ライジング!」原作:氷室冴子 漫画:藤田和子(小学館文庫 全7巻)
宝塚を思わせる歌劇団の音楽学校に、成り行きで迷い込んだ帰国子女の物語。
もう三十年以上前の作品だが、描かれる業界の細部は全く古さが感じられない。
少々演劇をかじってきた者の目から見ても、かなりリアルな描写であるという印象を持つ。
格闘漫画でたとえると、「ガラスの仮面」=「北斗の拳」ならば、本作「ライジング!」=「拳児」という風に置き換えられるかもしれない。
(念のため書いておくと、作品のリアルさの度合いと面白さは無関係で、リアルであるから面白いとか、リアルでないから面白くないということは全くない)
この作品には、「ガラスの仮面」のように「ほとんど超能力者レベル」というキャラは登場しない。
現実の演劇界には、「たった数日間の準備で大舞台の代役を見事につとめてしまった宮沢りえ」などというとんでもない超人が、結構な頻度で実在したりもするのだが、フィクションでそういうことを描いてしまうと、読者には「ああ、この作品はファンタジーなんだな」と分類されてしまう。
いくら本当にあったことでも、読者がそれを読んでリアリティを感じられるかというと、それはまた別問題なのだ。
本作「ライジング!」は、あくまで現実にありえる(と読者に思わせる)程度の写実性で、登場人物の感情が描き込まれているところが素晴らしい。
役者が生来持っている「華」と訓練で習得する技術の問題。
スタンドプレイとチームプレイの微妙な関係。
いくら才能があってもチーム内のバランスでそれが発揮されないことも多々あるという厳しい現実。
その他、かなり綿密な取材からしか出てこないような描写が目白押しだ。
少女歌劇というそれ自体がファンタジックで特種な世界、小劇場という閉鎖空間、作中劇、役者の生理など、読み込むうちに「リアルな描写ってなんやねん?」という思考実験が、様々に展開されていくようだ。
何よりも、文庫サイズ全7巻という程よい長さで完結しているというのが良い。
演劇に関心のある皆さん、「手頃な長さで面白い漫画ないかな〜」とお探しであれば、一度手にとってみてください!
2013年07月19日
広げた風呂敷の畳み方1 漫画「GANTZ」のこと
先ごろ、週刊ヤングジャンプに長期連載されていた漫画「GANTZ」が完結した。
終盤は何よりも「完走」を重視してやや急ぎ足の展開になった印象があり、語り残しも多々あるのではないかと感じるが、そのあたりは単行本化の際の加筆で多少は補完されるのだろう。
長期連載の人気作はどのように終わらせても文句は出るもの。まずは完結まで持ち込んだ作者の力量に拍手である。
私が本格的に読み始めたのは2年ほど前、映画化され、コンビニ版が発行されたタイミングからだった。
もちろんそれ以前からこの作品の存在は知っていた。
ヤングジャンプは毎週一応チェックしている雑誌なので、2000年の連載開始初回は、たしか誌面で読んだはずだ。
漫画家・奥浩哉の作品、デビュー当時はこまめに追っていた。
ちょっと変わった絵柄と感性の短編連作が面白かったが、けっこうマイナーな味わいなので売れそうもなく感じ、応援の意味も込めて初期の単行本を買ったりしていた。
その後作品が定期連載となり、絵柄も作風も洗練され、見事人気作家の仲間入りを果たした。
私はと言えば、その様を少しの寂しさとともに拍手を送りつつ見送り、やがて奥浩哉の作品を追わなくなって行った。
そして人気作「HEN」の連載終了後、3DCGを大幅導入した「01 ZERO ONE」を目にした時、「お、また何か儲かりそうもない変なことを始めたなw」と嬉しくなってしまったりしたのだが、案の定売れずに中断。
そんな流れの中での2000年「GANTZ」連載開始だったと記憶している。
第一話を読んだ時点で、奥浩哉の「本気」を感じた。
生来持っているマイナーだが深みのある持ち味をそのまま活かしながら、同時にプロになってから身につけた「売る」ための技術を最大限に駆使していく覚悟を感じた。
「これは雑誌で細切れで読むのはもったいない。ここは溜めておこう」
そう決心した私は、それ以来、鋼の意志をもって誌面の「GANTZ」を黙殺し続けた。
それから10年以上が経ち、どうやら連載が終盤に入った気配を感じた私は、満を持して「一気読み」に入ったのである。
(実は同様の読み方で「溜めて」いた作品は、他にも何作かある)
溜めに溜めた末の一気読み。
極上の作品に耽溺する日々。
日常生活の空き時間をすべて作品の読み込みに費やし、それでも足りずに乏しい睡眠時間をさらに削って再読、また再読。
漫画読みにとって無上の時間である。
正直に言えば、最終エピソードの「カタストロフィ編」に入った直後くらいまでが、作品の面白さのピークであったのではないかと思う。
それまでの「閉鎖空間」での濃縮された演出。感情描写に比して、「カタストロフィ編」は舞台が壮大になり、登場人物も場面も拡散した結果、個々の登場人物の感情の掘り下げや、アクション描写の緊張感は、やや散漫になった印象がある。
物語は生き物なので、どんなに技術的に優れた語り手であっても、登場人物の感情の全てをコントロールすることは困難だ。
作品世界が展開の半ばでピークを迎えてしまったとき、作者にははっきりとした予感があるはずだ。
「このまま展開を追って行っても、おそらく今迎えている作品のピークを超えることはない」
こうした時、作者には二つの選択肢がある。
作品のテンションを重視し、無理に風呂敷を畳まずにそこまでで「第一期完結」として中断するか、読者に対する義理を果たすため、ともかく完結させてしまうかだ。
この場合、登場人物の感情のピークは既に過ぎているので、展開の巧みさや絵的な壮大さなど、別の面の「見せ場」は必要になってくる。
二つの選択肢は、ある意味どちらも正解で、奥浩哉の場合は後者を選択したのだと思う。
今のタイミングを逃せば、おそらく同じ体制で再チャレンジできる環境は持てなくなる公算が高いだろう。
作画に多大なコストをかけ、単行本数十巻に及ぶ長編を描きあげるという週刊誌連載漫画の在り方は、今後急速に消滅していくかもしれない。
それほどに「紙」の出版界の凋落は、深く静かに進行中なのだ。
豪華な画面作りの超大作、最終盤の作品になるかもしれない一作だと思う。
終盤は何よりも「完走」を重視してやや急ぎ足の展開になった印象があり、語り残しも多々あるのではないかと感じるが、そのあたりは単行本化の際の加筆で多少は補完されるのだろう。
長期連載の人気作はどのように終わらせても文句は出るもの。まずは完結まで持ち込んだ作者の力量に拍手である。
私が本格的に読み始めたのは2年ほど前、映画化され、コンビニ版が発行されたタイミングからだった。
もちろんそれ以前からこの作品の存在は知っていた。
ヤングジャンプは毎週一応チェックしている雑誌なので、2000年の連載開始初回は、たしか誌面で読んだはずだ。
漫画家・奥浩哉の作品、デビュー当時はこまめに追っていた。
ちょっと変わった絵柄と感性の短編連作が面白かったが、けっこうマイナーな味わいなので売れそうもなく感じ、応援の意味も込めて初期の単行本を買ったりしていた。
その後作品が定期連載となり、絵柄も作風も洗練され、見事人気作家の仲間入りを果たした。
私はと言えば、その様を少しの寂しさとともに拍手を送りつつ見送り、やがて奥浩哉の作品を追わなくなって行った。
そして人気作「HEN」の連載終了後、3DCGを大幅導入した「01 ZERO ONE」を目にした時、「お、また何か儲かりそうもない変なことを始めたなw」と嬉しくなってしまったりしたのだが、案の定売れずに中断。
そんな流れの中での2000年「GANTZ」連載開始だったと記憶している。
第一話を読んだ時点で、奥浩哉の「本気」を感じた。
生来持っているマイナーだが深みのある持ち味をそのまま活かしながら、同時にプロになってから身につけた「売る」ための技術を最大限に駆使していく覚悟を感じた。
「これは雑誌で細切れで読むのはもったいない。ここは溜めておこう」
そう決心した私は、それ以来、鋼の意志をもって誌面の「GANTZ」を黙殺し続けた。
それから10年以上が経ち、どうやら連載が終盤に入った気配を感じた私は、満を持して「一気読み」に入ったのである。
(実は同様の読み方で「溜めて」いた作品は、他にも何作かある)
溜めに溜めた末の一気読み。
極上の作品に耽溺する日々。
日常生活の空き時間をすべて作品の読み込みに費やし、それでも足りずに乏しい睡眠時間をさらに削って再読、また再読。
漫画読みにとって無上の時間である。
正直に言えば、最終エピソードの「カタストロフィ編」に入った直後くらいまでが、作品の面白さのピークであったのではないかと思う。
それまでの「閉鎖空間」での濃縮された演出。感情描写に比して、「カタストロフィ編」は舞台が壮大になり、登場人物も場面も拡散した結果、個々の登場人物の感情の掘り下げや、アクション描写の緊張感は、やや散漫になった印象がある。
物語は生き物なので、どんなに技術的に優れた語り手であっても、登場人物の感情の全てをコントロールすることは困難だ。
作品世界が展開の半ばでピークを迎えてしまったとき、作者にははっきりとした予感があるはずだ。
「このまま展開を追って行っても、おそらく今迎えている作品のピークを超えることはない」
こうした時、作者には二つの選択肢がある。
作品のテンションを重視し、無理に風呂敷を畳まずにそこまでで「第一期完結」として中断するか、読者に対する義理を果たすため、ともかく完結させてしまうかだ。
この場合、登場人物の感情のピークは既に過ぎているので、展開の巧みさや絵的な壮大さなど、別の面の「見せ場」は必要になってくる。
二つの選択肢は、ある意味どちらも正解で、奥浩哉の場合は後者を選択したのだと思う。
今のタイミングを逃せば、おそらく同じ体制で再チャレンジできる環境は持てなくなる公算が高いだろう。
作画に多大なコストをかけ、単行本数十巻に及ぶ長編を描きあげるという週刊誌連載漫画の在り方は、今後急速に消滅していくかもしれない。
それほどに「紙」の出版界の凋落は、深く静かに進行中なのだ。
豪華な画面作りの超大作、最終盤の作品になるかもしれない一作だと思う。
2013年07月26日
プラモは身を助く
ガンプラ世代であり、かつてプラモ少年であったことは、何度か書いてきた。
小中学生の頃、現在に比べて製品としてはまだまだ未発達なプラモを作りこんできたおかげで、造形や塗装の基本技術を一通り体験することができたのは幸いだった。
今の私はしがない絵かきのハシクレであるけれども、なんとか生存できているのは、子供の頃に身につけたいくつかの「芸」のおかげである。
学生時代、それなりに訓練したデッサン技術。
受験技術、学習指導。
プラモで身につけた造形に関する知識、技術。
このあたりの延長線上で、なんとかしのいでいる。
ただ、プラモに関して言えば、少年時代行以降、あまり本格的には続けてこなかった。
私の持つ模型技術はせいぜい二十年前くらいのもので、かなりクラシックな部類に入るだろう。
最近またちょっとプラモへの興味が再燃してきているので、今の技術がどんなものなのか知りたくなった。
ちょうど、模型月刊誌にDVD付きの特集があったので、購入。
●「月刊アーマーモデリング」2013年8月号
ほんの少しお付き合いのある山口まさかず監督も、作例や映像監督として参加なさっている。
付録DVDはダイジェスト版だが、すぐにでも参考にできそうなちょっとした技も、けっこうあって興味深かった。
私の知らない間に、便利な道具も増えているようだ。
造形技術はつまるところ、いかに適切に道具を使いこなすかということに尽きるので、参考になる。
ただそれはそれとして、私がかつて憧れていた松本州平先生のように、「無改造、筆塗りのみ」という枠内での技術研鑽も、今も変わらず価値があると思うのだ。
小中学生の頃、現在に比べて製品としてはまだまだ未発達なプラモを作りこんできたおかげで、造形や塗装の基本技術を一通り体験することができたのは幸いだった。
今の私はしがない絵かきのハシクレであるけれども、なんとか生存できているのは、子供の頃に身につけたいくつかの「芸」のおかげである。
学生時代、それなりに訓練したデッサン技術。
受験技術、学習指導。
プラモで身につけた造形に関する知識、技術。
このあたりの延長線上で、なんとかしのいでいる。
ただ、プラモに関して言えば、少年時代行以降、あまり本格的には続けてこなかった。
私の持つ模型技術はせいぜい二十年前くらいのもので、かなりクラシックな部類に入るだろう。
最近またちょっとプラモへの興味が再燃してきているので、今の技術がどんなものなのか知りたくなった。
ちょうど、模型月刊誌にDVD付きの特集があったので、購入。
●「月刊アーマーモデリング」2013年8月号
ほんの少しお付き合いのある山口まさかず監督も、作例や映像監督として参加なさっている。
付録DVDはダイジェスト版だが、すぐにでも参考にできそうなちょっとした技も、けっこうあって興味深かった。
私の知らない間に、便利な道具も増えているようだ。
造形技術はつまるところ、いかに適切に道具を使いこなすかということに尽きるので、参考になる。
ただそれはそれとして、私がかつて憧れていた松本州平先生のように、「無改造、筆塗りのみ」という枠内での技術研鑽も、今も変わらず価値があると思うのだ。