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2013年08月06日

漫画「はだしのゲン」

 本日は68回目の広島原爆忌。
 昨年末、作者がお亡くなりになった折に、不謹慎と言われようが、私は今夜「ラララ…」と呻き、「ラわーん」と泣くという記事を書いた。
 この機会に、少々加筆して再掲しておきたい。
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 中沢啓治さんがお亡くなりになってしまった。
 漫画「はだしのゲン」の作者である。

 何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
 だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
 それにしても、あらためて訃報を耳にすると、ショックはある。
 
 よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
 ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
 以下、一部引用。
  
 私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。
 二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。


 私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
 それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
 この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
 それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
 こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。

 私はネットをはじめてそろそろ十年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
 何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
 そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
 子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
 もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
 中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
 作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いの一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
 
 結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
 もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
 少し心配なのが、隆太だ。
 願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
 隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
 あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
 そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼む今夜である。

 ともかく、「はだしのゲン」を全人類必読書に!

●「はだしのゲン」汐文社版
 他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
 著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
 マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。

 そう言えば何年か前までは、夏休みのタイミングに合わせて「ゲン」のコンビニ版が発行されることが恒例になっていたような覚えがあるのだが、ここ1,2年は見ていないような。
 昔は学級文庫にも「ゲン」や「カムイ伝」などの強烈な作品が置かれていたものだが、今はもうそんなことはないのだろうなあ……
 広島の原爆資料館のマネキン人形も撤去されると聞く。
 3.11後の日本で、今後ますます大切になってくる作品だと思うのである。
posted by 九郎 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2013年08月08日

司馬遼太郎「播磨灘物語」

 織田信長と本願寺の天下分け目の一大決戦である「石山合戦」を、いつの日か絵解きしてみたいという願望をもっている。
 遅々とした歩みながら、関連書籍をあれこれと読み続けている。

 そんな中、書店を巡回しているときに司馬遼太郎「播磨灘物語」が平積みになっているのを見かけた。
 来年のNHK大河ドラマで黒田官兵衛が取り上げられる関係で、ピックアップされているらしい。
 司馬遼太郎の作品は中高生の頃あれこれと読んでおり、この「播磨灘物語」も一回くらいは目を通しているはずなのだが、内容はほとんど覚えていなかった。
 たしか秀吉による播磨三木城攻めあたりが中心になっていたというおぼろげな記憶があり、それならば石山合戦とも時期的に重なり、毛利や本願寺との政治的駆け引きも当然出てくるはずなので、再読してみることにした。 
 あと、私も実は播州出身で、出てくる地名になじみのある場所が多いことも、食指を動かされた要因の一つである。



●「播磨灘物語 全四巻」司馬遼太郎(講談社文庫)

 結果から言うと、石山合戦を目的とした読書という面から見れば、全くの空振りに終わった。
 作品の切り口としては、織田信長と中国毛利という二大勢力に挟まれ、もみくちゃにされる播州の小勢力の興亡を、黒田官兵衛と羽柴秀吉の交流を軸に、丹念に描いていくという体になっている。
 播磨は現在の姫路市に存在した英賀(あが)本徳寺の寺内町を中心に、一向一揆の力の強い地域でもあったのだが、作品内ではそうした要素は抑え気味になっている印象がある。
 取り扱われる史実が播磨ローカルなものが多く、登場人物の大半が世にあまり知られていない地味な人士で占められていることもあり、作品内の筋立てをより分かりやすくするために「信長VS毛利」という大きな構図を中心に据え、「本願寺・一向一揆」という要素は抑制したのかもしれない。
 何箇所かに雑賀孫市も名前だけは出てくる。
 雑賀孫市は石山合戦の期間中の10年あまり、対織田軍の司令官として転戦を続けていたので、もしかしたら英賀寺内町や攝津あたりの攻防において、黒田官兵衛と直接対決した史実も十分あり得ただろうから、そうしたシーンも作中で見てみたかった気もする。
 しかし、あの強烈な「尻啖え孫市」を、この全体に地味な作品に登場させてしまったら、大きくバランスが崩れてしまっていただろうから、名前だけの出演になったのも仕方がないことなのだろう。
 作者自身も一向一揆的要素の描きもらしについては自覚し、読者から一定数あったらしいそうした指摘は多少気になっていたようで、あとがき等でその点について解説を加えている。
 それによると、作者の先祖はそもそも英賀門徒衆であったという伝承があるらしく、主人公の黒田官兵衛とは敵対関係にあったそうだ。
 元々の着想は英賀での攻防にあり、作品を描き起こす触媒としてそのテーマは確かにあったのだが、描きすすめるうちに自然と消えていったと説明している。
 個々の小説作品内のバランスという点では納得できる説明だが、石山合戦そのものを取り扱った「尻啖え孫市」でも、主人公の孫市は本願寺の信仰を持っていなかったと設定されており、もっぱら陸上の傭兵稼業の描写ばかりだった。
 史実としての孫市(鈴木孫一)が、雑賀水軍を率いて寺内町ネットワークを活用した海上交易や海戦を行っていた面は全く描かれていなかった。
 これはもう書いてしまっていいと思うが、ぶっちゃけ司馬遼太郎は、本願寺の寺内町ネットワークや中世の海賊・水軍と言うようなテーマについて、作品の主題にできるほどには認識できていなかったということだろう。
 もちろんそうしたテーマについて「無知である」ということはあり得ないのだが、他の分野の高品質な描写に比して言えば、手薄な感は否めない。

 ただ、そうした不足は、小説の面白さとは無関係だ。
 一向一揆、石山合戦という切り口から見れば空振りに終わったのだが、作品自体は非常に楽しめた。
 黒田官兵衛はよく「軍師」と呼ばれ、次の大河ドラマでもそのような表現になるようだが、戦国当時固定的な「軍師」という役職があったわけではなく、それぞれの戦に参加したメンバーのセッションの中で、軍事戦略の相談役のような立場に相当する人物が、結果として浮かび上がってくる様子が作中でもよく描かれていると感じる。
 一般にあまり知られていない戦国末期の播磨の情勢が分かり易く描写されている。
 私も含めて播磨出身者なら、登場する同郷の面々の視野の狭い田舎者ぶりも、苦笑を浮かべつつ愛情を持って読み進められると思う。
 個人的に興味深かったのは、官兵衛に至るまでの黒田家が、薬の製造・販売を行っていたらしいという部分だ。
 播磨は古来、陰陽道、それも蘆屋道満系の民間陰陽師の影響の強い地域であり、中世においては薬の製造・販売は陰陽道の管轄になっていた。
 陰陽道の強い地域と言うのは、同時に一向衆が広まり易いという傾向があり、播磨はまさにそれに該当する。
 迷信を嫌う一神教的性格をもった一向衆と、神仏が複雑に習合した陰陽道は、一見正反対の在り方に思えるのだが、実際にはコインの裏表のように同じ地域で同居している場合が多いのだ。

 このあたり、なにかざわざわと惹かれるものがある。

 陰陽道については、以下のカテゴリで取り扱っている。

節分
 節分の豆まき行事の背後に横たわる、奇怪な神仏の物語。
 「蘇民将来」「金烏玉兎」「牛頭天王」「艮の金神」「スサノオ」
金烏玉兎
 中世陰陽師の伝説の秘伝書。その真相とは?
posted by 九郎 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

陰陽道と一向衆の交差点

 前回記事で紹介した「播磨灘物語」作中ではさほど比重が置かれていなかったが、戦国末期の播州の動静を考える上で重要地点だったと思われるのが英賀本徳寺を中心とした寺内町だ。
 中国地方の瀬戸内の海民は、多くが本願寺の信仰を持ち、石山合戦においても積極的に大坂本願寺を支援した。
 播州の河口三角州のような地形にあたる英賀の地は、中国地方と大坂本願寺の海の中継地点として機能していたはずだ。
 こうした海上交通の要所に本願寺の寺内町が存在し、それぞれ緊密なネットワークを構築していることが、一向一揆の力の源泉だった。
 信長は結局本願寺を滅ぼしきれなかったが、ともかく大坂の本山を退去させることには成功した。
 これにより、各地の本願寺寺内町ネットワークは中心部分を失った。
 信長の高転びによる死後、秀吉は基本的にはその路線を受け継ぎ、寺内町ネットワークの解体を企図した。
 英賀の地の処分でも秀吉は本徳寺自体は滅ぼさず、近隣の「亀山」を寄進して、信仰の場と海上交通の要所を分断した。

 こうした経緯については、以下の本に一章を割いて紹介されている。

●「百寺巡礼 第六巻 関西」五木寛之(講談社文庫)

 本徳寺はそれ以後、亀山の地で「霊亀山本徳寺」として現在まで存続することになる。
 
 この亀山の地は古来、「三足の亀」を祀ってきたという伝承もあり、元々は陰陽道的な信仰の場だったようだ。
 陰陽道は、中国由来の陰陽五行や風水をベースに、日本で神仏と複雑に習合してきた思想で、宗教者だけでなく、芸能民や各種商工民に対しても影響が強かった。時代が下るほどに煩瑣な迷信の巣窟になり果てて行った面もあるが、元来は実用的な思想だったのだ。

 戦国時代に入り、蓮如の活動を通して、本願寺の布教が爆発的に勢いを増した。
 蓮如はそれまでの仏教教団が主な救済の対象としてこなかった、商工民や芸能民などの「雑民」に対し、積極的に教線をのばしていき、寺内町ネットワークの力の源泉になった。
 それは陰陽道の領域に分け入ることでもあったはずで、このあたりに一向衆と陰陽道の微妙な交錯の理由がありそうだ。

 このテーマは、あまり簡単にまとめてしまわず、今後もじっくり考えていきたい。

 亀山本徳寺については、お寺さん自身のサイトが非常に充実していて参考になる。

 亀山御坊本徳寺

 この御坊、実は私も子供の頃何度も行ったことがあったりする。。。
 サイトを拝見すると、毎月「楽市楽座」というフリーマーケットも開催されている模様。
 わが縁日屋も、可能ならばぜひ一度、お邪魔してみたいものだ(笑)
posted by 九郎 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2013年08月20日

加筆再掲:本願寺側から見た石山合戦

 織田信長と本願寺の天下分け目の一大決戦である「石山合戦」を、いつの日か絵解きしてみたいという願望をもっている。
 遅々とした歩みながら、関連書籍をあれこれと読み続けている。

 他のカテゴリにアップした記事の中から、石山合戦そのものを取り扱った記事を、加筆の上再掲しておきたい。
--------(以下、再掲記事「本願寺側から見た石山合戦」-----------

 戦国史上で有名な「関ヶ原の戦い」は、「天下分け目」と呼ばれている。後の世から見て、日本の支配が徳川氏にほぼ確定した決戦と位置づけられているからだろう。
 しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座にとって変わろうが、頭がすげ変わるだけで、基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
 群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の特異な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
 本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。

 信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
 以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。



●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
 戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
 本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
 とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。

 いずれにせよ、石山本願寺は紆余曲折を経て、信長の前に屈服して、足かけ十一年に及ぶ合戦に終止符を打った。
 それは同時に、中世的自由民の生活の終焉であり、宗教教団が政治に支配・統制される序章となったのである。
 本願寺は、自ら内部対立を惹起したことで、やがて東西に分立する原因をつくり、それによって武家の宗教統制と身分制度の受け皿となったのである。
 そして、本願寺に協力して信長と、さらに秀吉の支配に最後まで抵抗した門徒衆の一部は、自由な生活形態を奪われ、身分的差別の対象とされるようになったのである。
 まさに石山本願寺合戦は、日本の中世と近世を画す大きなエポックとなる戦いであったといえよう。


●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
 社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
 石山合戦のあらすじを理解するには最適。

●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
 信長と一向宗の戦いについては、ある程度「通説」めいたイメージが存在する。「一向宗は顕如を絶対的な教主と仰ぎ、その号令一下死をも恐れず戦う熱狂的な集団であった」「信長は一向宗を徹底的に殲滅し、石山合戦に勝利した」などなど。
 この本はそうした通説の一つ一つについて、丁寧に史料を紹介しつつその実態を解き明かしてくれる。
 中でも「一向宗」と呼ばれる集団が必ずしも本願寺教団とイコールでは無く、一応本願寺の名の下に結集してはいるが、山伏や琵琶法師などかなり雑多な集団を抱えていたことや、顕如が必ずしも「絶対的な君主」ではなく、教団内の力のバランスの上に乗った象徴的なリーダーだったらしいことなど、意外な印象を受けた。


 信長といえば先進的な鉄砲戦術や楽市楽座で知られるが、鉄砲戦術においては紀州の雑賀・根来衆の方が本家であり、信長はついにそのレベルには至らなかった。楽市楽座についても信長のオリジナルではなく、例えば本願寺の寺内町でも既に類似の経済活動が行われていた。
 石山合戦は信長が本願寺へ大坂からの退去を命じたことに端を発するが、その動機は本願寺寺内町の地の利や経済的な優位、雑賀衆の軍事力などを、信仰から切り離した形で我が物にしたかったからではないかと考えられる。
 結局、石山合戦は一応信長の勝利に終るのだが、その後の本願寺教団は東西分裂状態になりながらも、日本最大の宗教勢力として江戸時代から現代まで続くことになる。
 これは本当に信長の勝利だったのだろうか?
 石山合戦から江戸時代に至る過程で本願寺が得たものと失ったものを考えることが、石山合戦とは何だったのかを知ることに繋がる。 

 信長は大坂石山本願寺の寺内町を欲したがなかなか果たせず、理想の都市計画は安土城の方で実現されることになる。
 信長の考案した「天主閣」(天「守」閣ではなく)を持つ城を中心とした城下町構造は、力のある個人をトップにした上下関係で構成される社会を端的に表現している。
 これは高層建築を作らず、次々と同じ構造の町を増やしていくことでネットワークを広げていく本願寺の寺内町の在り方と好対照に見える。
 須弥山上空から欲界を見下ろす第六天魔王を名乗った信長が垂直構造の都市計画や階層を作り、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信仰する本願寺教団が水平方向に伸びていくネットワークを作ったのは興味深い対比だ。
posted by 九郎 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする