8月終盤からもうずっと天候不順だ。
それまでの猛暑から一転、長雨が続いたり、連日スコールのような集中豪雨に襲われたりで、夏は一気に過ぎ去ってしまった感がある。
たぶん、もう一回ぐらいは暑さが戻ってきて、夏の余韻にひたれるのではないかと思うのだが、この週末もまた雨、雨。
報道などを見ていると、竜巻が各所で発生したりしているようだ。
竜巻というものが、映像付きで臨場感を持って報道されるようになったのは最近のことではないだろうか。
スマホなどの普及で、誰もが突発する自然災害をそれなりの画質で撮影できるようになり、映像付きで被害状況がリアルに報道されるようになり、それまで馴染みのなかった竜巻のイメージが一般化したのがここ数年。
竜巻も「竜巻」という言葉が存在するからには、昔からそれなりの頻度で発生していたのだろう。
……つい前置きが長くなった。
竜巻と言えば、思い出す作品がある。
アメリカ児童文学「オズの魔法使い」のことだ。
この作品は、カンザスで暮らす主人公の少女ドロシーが、竜巻で家ごと吹き飛ばされ、不思議な世界に迷い込むシーンで幕を開ける。
家を吹き飛ばすような竜巻が本当にあるのかどうか気になって、それなりに手間暇かけて調べてみたら、アメリカではけっこうあるらしいと知って驚いた記憶がある。
今のようにネットでなんでもすぐに調べられるようになる、はるか昔のことだ。
この作品、個人的に思い出深い。
高1の文化祭の時、放送部の友人に誘われて、放送劇で「オズの魔法使い」をやることになった。
私は上演中にスライド映写するためのイラストを描き、ブリキ男役で声の出演もした。
子供の頃に読んで以来の作品だったが、10枚ほどの絵を描き、出演する必要に迫られて再読。その魅力的な別世界に、あらためて夢中になった。
高1文化祭での経験があまりに楽しかったので、高2の文化祭の時には更にどっぷり「オズの魔法使い」漬けになった。
当時私は、美術部の部長兼会計兼渉外兼部員、つまり「一人美術部」だった。
文化祭では各文化部に教室一つが割り当てられるのだが、高1高2の二年間、私は一人で教室一つを埋め尽くさなければならなかった。
高2の私は「オズの魔法使い」全シーンをイラストで描き尽くすことを思い立った。
前年の放送劇イラストは主要シーンのみだったのだが、描くために作品を読み込んだことで、実際に描いた分量を超えるイメージが湧いてしまっており、出口を求めていたということもあった。
そして私を放送劇に誘ってくれた親しい友人が、諸事情により高1限りで転校してしまい、その時の感情のケリのつけどころを、なんとなく探していたということもあったと思う。
夏休みが終わってすぐの9月、文化祭は行われるのだが、高2の私は夏休みの大半を費やして、B4サイズで60枚に及ぶイラストを描き通した。
手法はGペン+水彩絵具。
グロス単位で購入していたGペンを次々に使い潰しながら、取り憑かれたようにカケアミを駆使して漫画原稿用紙に描線を刻み込み続けた。
作品現物はカラーで着色して割り当ての教室に展示したのだが、着色前に一旦コピーをとり、モノクロ版に簡単な文章をつけてコピー誌も製作した。
振り返ってみると、この体験は私の一つの原点になっていると思う。
夏の終わりに竜巻のニュースを見ながら、そんな昔の記憶が蘇ってきた。
そう言えば、以前ワゴンセールで買ってそのまま観ていなかった、映画「オズの魔法使い」のDVDがあったなと、ゴソゴソ引っ張り出してみる。
私が購入したのは上掲のものではなく廉価版だが、それでもこの映画の素晴らしさは十分味わうことができた。やっぱり名のある古い映画は、チャンスがあれば観ておくものだ。
歴史に残る名作について、今さらのように書くのも恥ずかしい話なのだが、何よりも主演のドロシー役・ジュディ・ガーランドが素晴らしかった。
観ていて息が詰まるほど可愛らしい。
そう言えば私が「オズ」のイラストを描いた高校生の頃、TV放送された「ラビリンス 魔王の迷宮」という映画を観て、ヒロイン役の少女時代のジェニファー・コネリーのあまりの可愛らしさに頭がくらくらしたことがあった。
今回、それと同じくらい感動してしまった。
私は絵描きとしては美少女に対する関心が弱い部類に入り、そのことは絵描きとしての弱点にもなっていると思うのだが、それでもごくまれに柄にもなくハマってしまうことはある。
得意分野ではないが、ともかく一枚スケッチ。
……駄目だ。
白人種の少女は年若くても骨格が立派すぎて、そのまま絵に描いて「可憐」な感じに見せるのはなんとも難しい。
多少日本人的に幼く描いてなんとかこの程度。
まだまだ修行が足らんなあ。
ともかくこの映画、観たことのある人には今更だろうけれども、まだ観ていない人は機会があれば必見である。
1939年作ということだが、映像に全く古さが感じられない。
当時の最新技術を存分に叩き込みながらも、技術第一の罠に陥らず、あくまで演出重視で作りこんでいることが、作品を古びさせないのだろう。
原作から筋立てはそれなりに改変はされているけれども、映画化ということを考えれば十分に納得できる範囲だ。
一番大きな相違点としては、灰色の現実と虹色の魔法の国を往還したドロシーが、それでも灰色の現実を肯定していくその度合いだ。
映画では帰るべきカンザスの家の大切さはより強調され、原作よりかなり尺が割かれている。
この時代にはまだ、子供向けの映画を作るにあたって「子供を幻想の世界で思う存分楽しませたら、きちんと現実の世界に戻してあげなければならない」という作り手の倫理のようなものがあったのだろうか。
例えば近年作の映画「アバター」では、主人公は「灰色の現実」をあっさり捨て、「夢色の国」に転生して帰ってこなくなる。
そしてそのあまりに魅力的な3D映像の別世界に耽溺した観客の中には、現実を放棄して映画館に入り浸ってしまう人も出たと報道されていた。
同じ「時代の最先端の映像美」を駆使した作品でも、時代によって作り手の立ち位置が違ってきて見えるのは興味深い。
今回記事を書くにあたって主演のジュディ・ガーランドについて調べてみて、彼女が年若い頃から勝ち得た「芸」の世界の名声とは裏腹に、「実」の世界では苦しみに満ちた人生を送ったことを知った。
それを知ってから、映画の中で「虹の向こう」に限りないあこがれを感じながらも、「家」の大切さをくり返し叫ぶ彼女を観ると、悲しいことだがさらに演技の輝きは増してくる。
芸の世界は、しばしばそういう残酷さを表現者に強いる。
ここまで書き進めてきて、もう一つ思い出した。
昔、私を放送劇に誘い、転校していった友人とは、その後とある海岸のお祭で再会していたのだった。
その顛末はカテゴリどんとに紹介してある。
そうか、彼には何度も別世界に誘ってもらっていたのだな。
放送劇に声とイラストで参加したことが、後に断続的に続けている演劇活動につながり、不思議なお祭りに参加したことが、このブログにつながっていることを感じる。
嵐の断続する夏の終わりに、しばし追想。