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2014年01月02日

2014新年のご挨拶

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新年明けましておめでとうございます。
今年も『縁日草子』をよろしくお願いします!
posted by 九郎 at 16:35| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記 | 更新情報をチェックする

2014年01月05日

初詣2014

 今年は元日に初詣に行くことができた。
 山間部の静かな神社だ。

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 社務所に立ち寄ったとき、銀杏をいただいた。
 銀杏は好物なので、嬉しかった。
 食べ方は色々あるが、めんどくさがりなので、ごく簡単な方法でツマミにした。

1、厚手の茶封筒に銀杏をザラっと入れる。
2、封筒の口を何度か折る。
3、レンジでチン。

 厚手の茶封筒に入れるのは、銀杏が弾けた時の対策。
 割れ物に入れたり、フタなしでは危険だ。
 加熱時間はレンジの機種や銀杏の量にもよる。
 だいたい一回破裂音が聞こえたくらいで食べごろになる。
 後はカラを割って一つずつ味わう。

 いただいた銀杏はまだ少し残っている。
 正月気分の名残を楽しみながら、あと一回は楽しめそうだ。
posted by 九郎 at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2014年01月15日

祭礼の夜5

 1月9〜11日にかけて、「十日戎」の祭礼があった。
 近所のゑびす神社では、結構盛大にお祭りが行われるので楽しみにしている。
 露店の立ち並んだ一画を夜中にそぞろ歩きし、気に行った店に飛び込んで一杯やるのは格別だ。
 今の住居に移ってから数年、毎年のように足を運び、「縁日の風景」についてあれこれ妄想している。

【過去記事】
祭礼の夜
祭礼の夜2
祭礼の夜3
祭礼の夜4

 ここ数年、一気に進んだ祭の露店からのヤクザ排除の影響も心配していたのだが、「ちょっと店が減ったかな?」というくらいで、風景に大きな変化は見られなかった。
 ただ、いわゆるテキ屋さん風のお店が多少減った分を、日本各地のB級グルメやエスニック料理の露店で埋めている印象はあった。
 私は個人的に「合法的なシノギくらいは問題にしない方が治安にとってはプラスである」と考えているので、テキ屋さんにはこれからも変わらず商売を続けて欲しいと思っている。

 縁日の風景は毎年変わらず繰り返されているように感じるけれども、そこには世相がじわりじわりと反映されて、ゆっくりではあるけれども変化していく。
 目立ちやすいところでは、籤引や射的の景品になっているオモチャやお面のキャラクターは、子供番組の切り替わりとともにガラッと入れ替わる。
 籤引のお店などは、昔から続く縁日の露店の胡散臭さを今に伝える大切なパートだ。
 幼い頃からこういう「ちょっとしたインチキ」に触れておくことは、子供の成長に是非とも必要なことだと思う。
 私も幼い頃から露店や駄菓子屋のおっちゃんおばちゃんたちと散々バトルを繰り広げてきたおかげで免疫がついて、神仏やオカルト、精神世界などに興味を持ちながらも、悪徳商法やカルト宗教にハマらずに済んできたような気がするのだ。

 今年はお面屋の店先で、仮面ライダーやプリキュアが並ぶ中に、「進撃の巨人」のお面を見かけて笑ってしまった。
 客層はどのへんに設定しているのだろうか?
 あの漫画、周りが「面白い、面白い」と言うのでものすごく期待して読んでみたら、まあ面白いのだけど、さほどでもなく感じて以来、続きを読んでいないなあ……
 何年かしてほとぼりが冷めたらもう一度再読してみよう。

 縁日の期間中、昼間通りかかったとき、ちょっと面白いおじさんを見かけた。

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 ボロボロのギターをかき鳴らしながら、なにごとか唱え続けているおじさん。
 最初は「流しかな? 今時珍しい……」と思っていたのだが、近づいてみるとどうやらキリスト教の布教をやっているようなのだ。
 佇まいといい、歌唱法やギターの構えといい、まるで中世の琵琶法師が蘇ったかのようだった。

 まるで宗教は違うのだが、こんなおじさんを飲み込んでもびくともしない、十日戎の猥雑さは今年も格別だった。
posted by 九郎 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

奇跡のような平穏

 本日、1月17日は阪神淡路大震災のメモリアルだ。
 過去記事でも述べてきた通り、私は19年前、震度7の激震と、その後長く続く被災生活をくぐり抜けた。
 あれから時は過ぎ、2011年の東日本大震災、津波、原発事故の惨禍を目の当たりにし、そして90年代と似通った世相の動向を見るに付け、考えることも多い。

 最近とくに思うのは、多くの人がその一生の中で、戦争や経済破綻、災害、事故もなく過ごすということは、ほとんど奇跡に近いのではないかということだ。
 遅かれ早かれ、「それ」はかならずやってくる。

 だからといって地道な日常生活に意味がないということにはならない。
 それもまた、忘れてはいけない。

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posted by 九郎 at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2014年01月19日

身体と「体重」で対話する

 突然だが、かなり体重を落とした。

 色々理由はあるが、一番は腰痛対策だった。
 腰痛に限らず、身体のトラブルはその箇所だけ独立して問題にしない方がよい。
 全身のバランスの中での、たとえば腰痛という結果なので、腰だけケアしても効果が薄いことは経験上よくわかっている。
 幸いなことに私の腰痛はまだ「筋肉痛」のレベルで、骨格の痛みにまでは達していないと思われる。
 これまでの私の腰痛対策としては、温めたりストレッチしたりするのがかなり有効だった。
 その際にも腰だけでなく、肩や背中を含めて温めたり、臀部や腿を含めたストレッチがよく効いた。
 より根本的にはどうしたらよいかと考え、腰痛がなかった時期と今で、一番変化したと思われる「体重増」という要素の解消を目指すことに決めたのだ。
 年令的に、他のトラブルが出ないうちに、落とせるものならそろそろ落としといた方がいいということも、もちろんあった。

 昨年のゴールデンウイーク頃から8か月ほどかけて、最大で7キロ近く落とした。
 一年ほどかけて10キロ前後落とすことを目標にしてきたので、今のところ悪くないペースで進行している。

 減量を開始するにあたって、どんな方法が自分にとって一番有効か検討した。
 TVなどで定期的に評判になるような、「短期間で簡単に痩せる○×ダイエット」みたいなのに騙されない程度には年を食っている(笑)
 現在の体重という結果は、普段の運動量と食事内容(つまりは生活習慣)という原因から生じる。
 体重という結果を変えるには、生活習慣という原因を変えるしかない。
 短期集中で「○×ダイエット」を行って、一時的に体重を落とすことに成功しても、続かなければリバウンドしてより悪い結果を招くだけだ。

 とある世代以上は、「減量」というとすぐ「力石」と連想してしまうおバカが多い。
 水分を取らず、サウナなどに入って飢えと渇きに死に物狂いで堪えるイメージだ。
(おバカとは他人のことではなく、私のことである)
 確かに水分を制限して汗をかけば、簡単に1〜2キロは落ちて「力石気分」を味わうことはできる。
 しかしそれは単に一時的な脱水状態になっているだけなので、体脂肪を落とすこととは何の関係もない。
 昔ならいざ知らず、現代の体重制スポーツ選手も、普段から長期的に水分を制限したりはしない。
 そんなことをしてもどんどん弱くなるだけなのは明らかで、水分を抜くのはあくまで計量直前の最終仕上げだ。
 本当に体重を落とすなら、筋量を上げ、代謝を促進するために、むしろ水分は十分に補給しなければならない。
 長期的に無理なく、生活習慣として定着できる程度の方法で、体重を漸減させていくのが減量の王道だろう。

 運動量と食事内容の収支決算を、日常生活の中でどう変化させられるかを検討する。
 私の場合、肉体労働とは比べるべくもないけれども、普段からそこそこの運動量(おそらく外回り程度)はあり、時間的にこれ以上トレーニングに割くのは難しい。
 ならば、食事内容を変えるしかない。
 もともと和食党で、一般的に言えば高カロリーの「太るメニュー」に、さほどの執着はない。
 コメのご飯が好きで、おかずは標準から言うと少なめだったと思う。
 そのような現状から食事量を削減するとしたら、ご飯などの主食の炭水化物を減らすしかないことになる。

 と言うことで、以下のような日常の食事の注意点を設けた。

・炭水化物の量を意識的に減らす。
 (飲酒する場合は炭水化物無し)
・満腹は避ける。
・間食は避ける。

 まずは無理のないところで以上三点に気をつけてみることにした。
 あまり厳格に考えず、数日〜一週間程度の収支で考えると実行しやすい。
 食べ過ぎたと思ったり、付き合いで間食や飲酒をしたら、次の食事をごく軽めにするという程度なら、さほど頑張らなくても十分可能だ。

 すると、最初の一カ月で簡単に1キロ以上減った。
「ああ、こんなに簡単に体重は減るのか」
 そう分かると気が楽になった。
 基本的には主食の炭水化物を半分程度に抑えるだけ。
 おかずに関しては、面倒なカロリー計算やメニューの制限など一切必要ない。
 ただ、満腹にならないように気をつけるだけ。

 その後も続けた。
 はじめの3〜4か月ほどは、月に1キロ程減っていき、その後も徐々にペースは落ちてきたが、減り続けている。
 体感で言うと、このまま続ければあと2〜3キロは落ち、二十歳代前半の体重に戻りそうだ。

 今のところ一応減量に成功しているのは、逆説的だが年令のおかげもあると思う。
 まだ若くて胃腸が頑丈で、食欲旺盛な頃は、炭水化物を減らすことには耐えられなかっただろう。
 年とともにやや胃腸が弱くなり、ちゃんと噛まないと腹痛を起こすということを学んだおかげで、若い頃から続くご飯をのどごしで味わうという悪癖を改めることができた。
 振り返ってみると、ご飯を一気に食べて満腹感を味わう感覚は、快感を伴った一種の「ご飯中毒」だったのではないかと思う。
 意識的に減量を開始する前から「よく噛む」という第一歩を踏み出していたことで、中毒症状から離れるのに成功できたのではないだろうか。

 年食ってはじめてできるようになることも、結構あるのだ。
posted by 九郎 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年01月21日

身体と「食」で対話する

 減量を始めてから、日常的に体重計に乗るようになった。
 こまめにチェックしてみると、体重というものは短時間でもかなり変動するということがわかる。
 1日のうちでも1キロ前後は変わるし、数日から一週間のスパンで言えば、2キロぐらいは普通に増減する。
 私の場合は曜日によって運動量や食事内容が違うせいもあり、「太る曜日」と「痩せる曜日」がかなり明確に区別される。
 だから一回ずつの計測結果に一喜一憂する必要はなく、決まった曜日の決まった時間を指標にしておくと、自分の体重が今現在、増加・停滞・減少のうちの、どの過程にあるのか把握しやすくなる。
 細かく日常的に計測する意味はどこにあるのかと言えば、個別の食事内容が体重にどのように反映されるかということを読み解くヒントになるのだ。

 前回の記事にも書いたが、私の減量前の食事内容は、コメのご飯が中心だった。
 高カロリーで脂質の多い、いかにも太りそうなメニューは、昔からさほど好きではなかった。
 子供の頃は肉が食えなかったこともあり、一般的にみれば低カロリー傾向の食の好みだったと思う。
 体重増加のタイプとしては、一気にどかっと太ったわけではなく、1年1キロに満たない微増傾向が二十年近く続いた結果の増加だった。
 そこから分析して「炭水化物を意識的に減らす」という手法を選択した。
 元々主食の割合が高めだったので、減らせるのはそこだけだったのだ。

 昔から「食」に対してはあまりこだわりがなく、空腹が満たされればそれで良かったのだが、コメのご飯だけは大好きだった。
 ご飯にあう簡単なおかずがあれば満足なので、好きに食べると毎食、食堂の「朝食メニュー」のようになってしまう。
 こうした食の好みは生来のもので、人格とともに容易には変わらないものだと思いこんでいたのだが、実際にご飯を減らしてみると別に辛くも何ともなかった。
 酒を飲むときに炭水化物無しにしてみても、無いなら無いで問題なく食事を楽しめることがわかった。
 強固な「ご飯真理教信者」であった私にとって、これは大きな発見だった。
 今でもご飯は大好きで、食べるとおいしいと思うが、「是非とも無くてはならない」という思い入れは消えてしまった。
 むしろ「炭水化物を減らせばそれだけ体重も減るらしい」という、自分自身を実験台にした計測結果が、ゲーム的に面白くなってきた。
 少なくとも私個人に関して言えば、カロリーより炭水化物の摂取量の方が体重の増減要因として大きいのではないか?
 そう考えると、元来低カロリーであっさり好みだった私の体重が長らく微増傾向で推移してきたこと、主食を減らすよう心がけるだけでかなり体重が減ってきたことの理屈は通ってくる。

 減量開始から半年ほど経ち、食事内容と体重の増減の因果関係が自分なりに理解できてきた頃、書店に並んだ以下の本のタイトルに視線が吸い寄せられた。
 

●「炭水化物が人類を滅ぼす」夏井 睦(光文社新書)
 
 かなり大仰な書名だが、内容の、とくに前半部分については非常に論理的で納得できるものだった。
 私が自分の体感で確認してきた「炭水化物と体重の関係」は、より正確には「糖質と体重の関係」であり、自分なりに試してきた「主食を減らす減量法」が、本書で推奨される「糖質制限ダイエット」という手法を、大雑把になぞったものになっていることがわかった。
 この本では、私もやってきた「毎食の炭水化物を意識的に減らす」というレベルからはじまり、それをはるかに超えて「糖質摂取自体を0に近づける」という、過激な手法が紹介されている。
 こうした一種の「極論」には、当然ながら数々の反論もなされ、議論が誘発されているようだ。
 私個人に関して言えば、自分の体感ともよく合致した内容なので、さほど違和感は無い。
 「半年から1年ほどの期間で無理なく減量する」という目的に限れば、かなり容易で実行しやすい手法ではないかと思う。
 とくに「糖尿病対策としての糖質制限」という考え方は注目に値する。
 血糖値を下げるには、血糖値を上げる食べ物を減らせば良いという発想は、目から鱗というか、言われてみればごく当たり前の話だ。
 糖質には砂糖を使った菓子などの「わかりやすく甘いもの」だけでなく、ご飯など体内で速やかに糖に変化して血糖値を上げる炭水化物もある。
 通常の食事の中で大きな割合を占める炭水化物を減らせば、血糖値も自然に下がる。
 ところが、糖尿病治療のスタンダードは現状では「カロリー制限食と投薬」になっており、その「カロリー制限食」とは「炭水化物を中心にしたいわゆる粗食」で、これは血糖値を直接下げるものではない。
 確かにちょっと不思議な気がする。

 この本で紹介されている「糖質制限」は、増えてしまった体重を何はともあれ減らしたり、手っ取り早く血糖値を下げたりということに関して、絶大な効果を発揮することは間違いなさそうだ。
 ただ、様々な体質や年齢層の人々が、長期的に糖質制限を行った場合どんな統計が出るかということについては、まだ未知数の部分も残っていると思う。
 
 様々な部分で議論はあれども、一読に値する本である。
posted by 九郎 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年01月24日

「満腹感」と「満足感」


●「炭水化物が人類を滅ぼす」夏井 睦(光文社新書)

 前回記事で、上掲本に紹介されている「糖質制限ダイエット」について触れたが、この本はいわゆる「ダイエット本」ではない。
 このブログの記事を読んで興味を持ち、詳細な「糖質制限ダイエット」の解説を求めて手に取ると、ちょっと戸惑うかもしれない。
 この本の前半3分の1では、外科医である筆者が自分で糖質制限を試みた体験談と、ごく簡単な注意点を紹介してある。
 私の場合はすでに我流でやっていた「主食を減らす減量法」が、たまたまゆるめの糖質制限になっていた。
 だからこの前半部だけでも自分の体験に照らして十分納得でき、読後にはより合理的に体重を減らすのに役立てることができた。
 もし知識・経験0の状態から糖質制限ダイエットのことを知りたいなら、まずは筆者ご自身のサイトを覗いてみることをお勧めする。
 
 この本の後半、残り3分の2を占めている内容は何かといえば、筆者が糖質制限生活を通して考えた、一種の「文明論」である。
 おそらくこの部分に反発したり、胡散臭さを感じたりする読者も多いことと思うが、私はこういう「与太話」(言葉は悪いが)の類はけっこう好物だったりする。
 何しろ私自身が神仏与太話Blog「縁日草子」の管理人ですから(笑)

 と言うことで、今回の記事ではこの本の中から、「神仏与太話ブロガー」である私・九郎が、とくに面白いと思った内容について紹介してみようと思う。

 この本の中で、とりわけ納得できた内容として、食事時に感じる「満腹感」と「満足感」の区別が挙げられる。
 以下、私自身の経験に照らしながら、その違いについて書いてみよう。

 コメのご飯をかき込んで腹一杯になったときの感覚は誰にでも経験があると思う。
 あの、ちょっとぼんやりして眠くなるような、何とも言えず快い幸福感や酩酊感は、また格別だ。
 減量前の私が長らく「ご飯真理教信者」であったのも、あの得も言えぬ満腹感を愛してやまなかったからだ。
 体重を減らそうと思い立って主食を減らし始めた当初は、あの快感を味わえなくなったことを物足りなく思った。
 主食を減らした分、おかずは多少増やしているのだが、炭水化物以外のおかずではあの満腹感は生じないのだ。
 しかし、しばらく我慢して主食減らしを続けているうちに、炭水化物をかき込んだことで得られる「満腹感」とは別の感覚があることに気付いた。
 炭水化物の満腹感に比べるとごく微細な感覚なのだが、落ち着いて食事をしていると、「ああ、この食事量でもう十分だ」と感じる瞬間が来る。
 その体感に従って箸を止めれば、体重が増えるほど食べ過ぎることはないのだ。
 この本の筆者はそれを「満足感」と表現している。
 個人的には、この感覚をつかめるかどうかが、炭水化物を減らすタイプの減量法に成功するかどうかの分岐点ではないかと思う。
 私の場合はよく噛んで落ち着いて食べることでその感覚に気づくことができ、体重の漸減につなげることができた。
 そして次の食事までに空腹を感じることも少なくなった。

 炭水化物を腹いっぱい詰め込んだことによる「満腹感」は意外に持続時間が短い。
 2〜3時間もたてば小腹がすいてきて間食の誘惑に駆られる。
 そういう時は「ちょっと甘いものでもつまむか」とか、「おにぎり一個ぐらいは食べておこうか」とか、「軽くカップ麺でも」とか、やはり糖質を含む食べ物を身体が求めがちだ。
 この本の筆者はそうした欠乏感を、一種の禁断症状ではないかと考察している。
 糖質を摂取した後の血糖値の上昇は快感を伴っており、時間経過とともに血糖値が下降すると、その分だけ無性に糖質に対する欲求が昂じてくるのではないかと言うのだ。
 糖質には糖質を呼ぶ習慣性があるのではないか?
 それはニコチンやアルコール依存の状態とよく似ているのではないか?
 私たちが普通「空腹感」とか「満腹感」だと思っている感覚は、実は糖質に対する「欠乏感」や「充足感」である場合が多々あるのではないか?
 私は幼い頃おばあちゃん子であったせいか、酒飲みのくせに和菓子好きで、おまけに無類のご飯好きでもあったので、このあたりの考察には耳の痛さを感じながらも、深くうなずいてしまうのだ。
 
 ここまででも十分刺激的なのだが、この本の筆者の「仮説」はさらに拡大し、人類と穀物の出会い、世界各地の神話で語られる穀物への神聖視には、糖質のもたらす肉体的な快感が関わっていたのではないかと説きすすめる。
 この辺りになると読者の賛否の分かれるところだと思うが、神仏与太話Blogの管理人にとっては面白くて仕方がなくなってくるのである……
(続く)
posted by 九郎 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年01月27日

「日本人本来の食」という神話

 日本には、稲作を国の基本と考える根強い伝統がある。
 史実としても弥生時代以降の日本の食糧供給の中心軸は稲作であったし、そうした史実を反映しているとみられる日本神話もまた、稲作を至上の美徳としている。
 稲作を中心とする農業は、それ以前の狩猟採集生活からは考えられないほど食料の安定供給をもたらし、人口は飛躍的に増えた。
 稲作がこれほど重視されるのは、食料供給や備蓄において有利であっただけでなく、経済活動の基礎にもなっていたことが大きい。
 近世になって貨幣経済が普及するまで、国の富は米の出来高をベースに考えられていた。
 稲作は狩猟採集生活に比べてはるかに長時間ではるかに過酷な労働を必要としたが、それと引き換えに与えられる豊かな「文明」を、人々は喜びを持って選択した。
 かくして農業に勤しむ人こそ国の宝であり、自然の恵みの象徴である米に感謝を惜しまないという、日本人の心に深く根差した美徳が生まれた。

 農業離れが進んだ現代でも「日本人本来の食は米を主食としたものであり、度を越した食の西欧化は日本人の身体に合わない」という考え方は、通念として定着している。
 健康的とされるのは、いわゆる「病院食」に代表されるような、炭水化物を中心にしたカロリーと脂質が控えめのメニューだ。
 そうした食事は日本人が神話の時代から受け継いできた美徳ともよく合致しているので、「これが健康食です」と言われれば素直に疑いなく受容しやすい。

 ところが、一連の記事で紹介してきた以下の本は、そうした「日本人の食の常識」を、神話のレベルから否定する。


●「炭水化物が人類を滅ぼす」夏井 睦(光文社新書)

 私も含め多くの人が本能的にこの本で紹介される「糖質制限ダイエット」に感じるであろう衝撃と反発は、日本人が大切にしてきた美意識、米に対する素朴な信仰を、根こそぎ解体するものであることに起因する。

 筆者は(おそらく問題提起のためにあえて挑発的に)極論を連発する。
 炭水化物は果たして人間という生物にとって必要不可欠なものなのか?
 よく「日本人本来の食事」というが、米(とりわけ白米)を中心に腹を満たす生活は、稲作が開始された後ですら長らく一般的ではなく、せいぜい近代以降のことなのではないか?
 「本来の食」ということであれば、稲作以前の狩猟採集生活の方がはるかに期間としては長く、その時代には今ほど炭水化物は摂っていなかったのではないか?
 我々はいつの間にか、炭水化物のほんのり甘い味覚や、腹一杯食べた時の「満腹感」の魔力にとりつかれ、生物としては不自然な食生活を選んできたのではないか?
 炭水化物の大量摂取こそが、肥満や成人病などの健康被害を生んだ「主犯」なのではないか?
 大量の炭水化物を供給するためにコストを削減した大規模農業は、土の荒廃や淡水の枯渇でもはや限界になっているのではないか?
 人類は炭水化物に頼らない食を模索すべき時期に来ているのではないか?

 これらの問題提起は衝撃的ではあるけれども、おそらく基本的な発想としては間違っていない。
 自分でゆるめの糖質制限をやってみた体感からもそう思う。
 ただ、炭水化物の魔的な部分は認めつつ、糖質制限の顕著な効果も認めつつ、それでも私自身は「糖質0」までは踏み込まずにいる。
 昔ほどの盲目的な偏愛ではないけれども、今も変わらず「ご飯好き」であるし、たまには甘いものを飲み食いしたい。
 当面「糖質0」まで行かなくとも、「糖質半減」程度で順調に体重が減っていることもある。
 極端な糖質制限はせずとも、その効果は十分ではないかと思う。
 著者のアピールする「糖質0」には毀誉褒貶分かれることだろうけれども、「普段の食事の炭水化物を減らす」という方向性自体は、今後広く受け入れられていくのではないだろうか。

 筆者・夏井睦は、いわゆる「玄米食」についても否定的で、似非科学だと批判している。
 玄米食は「日本人本来の食」の王道として根強い人気を誇っているが、その根拠はと言えば論者の主観ばかりが目立つというわけだ。
 私も玄米食は科学ではなく「信念」「信仰」の範疇だとは思っているが、個人的には玄米食と糖質制限は結構相性がいいのではないかとも考えている。
 まず根本的な問題として、玄米は白米ほどのど越しが良くない。
 白米のおかずの多くは、そのままでは玄米の味には合わず、栄養バランスも崩れる。
 多くの人が玄米食をさける理由はそのあたりにある。
 玄米をおいしくいただくためには、玄米向けのおかずとともに、よく噛んでゆっくり食べなければならない。
 玄米は、白米ほどには食えないものなのだ。
 白米のように少々の塩気だけで大量にかき込むことができないこうした「欠点」は、炭水化物削減メニューとしては利点になりうるのではないかと思うのだ。
 また、米を玄米として食用にする場合、農法にも気を配らなくてはならない。
 玄米は胚芽の部分の栄養素が大切なのだが、その胚芽部分は汚染物質が集まりやすい個所でもある。
 だからできる限り農薬や、今なら放射性物質に汚染されないよう、丁寧に育てられる必要がある。
 玄米食を進めることは、環境負荷の少ない日本の伝統的な農法を保全し、里山を保全することにつながる。
 それは同時に、農薬や化学肥料を使い放題、地下水くみ上げ放題の、コストの安い大規模農法に歯止めをかける効用も期待できるはずだ。

 稲作を中心に据え、炭水化物を偏重した「穀物中心神話」は、健康面からも環境面からも、ある程度解体されなくてはならない。
 ただ、現状の人口を飢えさせないだけの食料供給には、穀物の役割はまだまだ大きいだろう。
 この本の、あまりに面白くて刺激的、挑発的な問題提起には拍手を送りつつ、ちょっと落ち着いて「食」のことを考えなおしてみたい。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年01月28日

「本来の教え」というフィクション

 前回記事で、よく使われる「日本人本来の食」という表現は、一種の「神話」なのではないかという考え方について取り上げたが、似たようなケースは他の分野でもけっこうありそうなので、覚書に残しておく。

 例えば宗教。
 宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
 前回記事の「食」のテーマでも触れた日本神話も、歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
 一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
 純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
 事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「新たな神話大系」だ。
 国家神道にいたっては「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかなく、史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼした官製カルト宗教だと言う見方だってできる。
 実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
(念の為に書いておくと、私は記紀神話自体は好きだし価値があると思っている。国家神道が一種のカルト宗教だったと評価しているだけである)

 仏教で言えば、最近は原始仏教が「釈迦本来の教え」ということで脚光を浴びることが多い。
 お釈迦様在世当時の仏教のあり方を、学問的にきちんと研究することにはもちろん価値がある。
 お釈迦さまに比較的年代の近い原始仏典からある程度推定することは可能だろう。
 しかし、そうした研究成果や現代の上座部仏教の教説の中から、現代人の眼から見て理解しやすい合理的なお釈迦様の姿だけを抽出するのは、それはそれで新たな神話の創作にすぎない。
 原始仏教を盾にとり、お釈迦様がまるで唯物論、無神論者であったかのような自説を開陳する論者もいるけれども、原始仏典を素直に読む限りそんなことはない。
 お釈迦様と言えども約2500年前のインドの思想・世界観をベースに教えを説いたのであって、原始仏典には神も悪魔も輪廻転生も登場する。
(輪廻する主体は何であるかという議論もあるけれども、ここでは立ち入らない)
 お釈迦様はそうした神も悪魔も輪廻も、そしてこの物質世界もひっくるめて「迷いの世界であり、実体がない」としたのであって、少なくとも現代人が考えるような無神論、唯物論ではないと、私は理解している。

 それぞれの時代、それぞれの地域で、それこそお釈迦様の精神を活かすために、仏教は姿を変えてきた。
 お釈迦様の教えのうちの衆生済度の面を強調すれば大乗仏教となり、密教となるだろうし、日本独自の展開と捉えられることの多い鎌倉仏教諸宗派にも、それぞれに「釈尊の精神に帰れ」という一面はあったのだ。
posted by 九郎 at 20:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2014年01月29日

あるシャンソン歌手のこと

 私がその歌手を知ったのは、もうはるか昔、確か中学生の頃だったと思う。
 当時、ラジオの深夜放送をよく聴いていた。
 今時の中高生の夜の過ごし方はまた違うのだろうけれども、その頃は若者向けの深夜番組が全盛期だったのだ。
 特に好きな番組が週にいくつかあって、うち一つがその歌手の司会だった。
 ジャンル分けするならば公開録音の音楽ライブ番組ということになるだろう。
 司会のその歌手と、これまた歌手である女性アシスタントが、毎週招かれるゲストミュージシャンをライブ演奏を交えながら軽妙に紹介するといった体だった。
 ホストである歌手コンビ二人のしゃべりが、そんじょそこらのお笑い芸人では太刀打ちできないほどに面白く、リスナーはゲストのライブと言うよりは司会コンビのトーク目当てに番組を聴いていた。
 司会コンビは「本業」の歌手としての実力も折り紙付きで、たまに番組内で歌を披露した際にはゲストミュージシャンを完全に食ってしまうこともあった。
 後にTVの世界でも活躍することになるその歌手だが、当時はまだそれほど知られていなかった。
 番組が関西ローカルだったこともあり、ゲストの中にはトーク内容からはじめて司会者が歌手であるらしいことを知り、驚愕する人もいたりした。
「さすが関西、面白いアナウンサーの人がいると思っていたら、歌手!?」
 というわけだ。
 お笑い芸人ではなくアナウンサーと勘違いされたのは、眼鏡をかけた地味目の風貌のせいだろうか。

 その歌手は、トークの中でよくシャンソンへの思い入れを語り、時には歌っていた。
 今から思い返してみると、歌としゃべり両方いける「芸風」は、シャンソンへの思い入れと不可分だったのだろうと思う。
 ささやきから朗々とした歌いあげの声量の幅、語りと歌の自在の緩急のつけ方は、シャンソンというジャンルの面白さそのものでもあるのだ。
 ある時、番組内でその歌手が歌ったシャンソン曲「O Toi La Vie(おお我が人生)」は、本当に素晴らしかった。
 音質の悪いAM放送であったにも関わらず、いつまでもしみじみと記憶に残る歌声だった。

 それから十年以上経って、格闘マンガ「バキ」の中で、ドリアンという死刑囚キャラが、闘いながらこの歌をうたいあげている強烈なシーンがあった。
 私の脳内では当然のようにその歌手の声で再生されていた。
 それからずっと、その歌手のうたう「O Toi La Vie」の音源を探しているのだが、まだ見つけられていない。

 マイナーな番組で惜しみなく披露される極上の歌としゃべりのギャップに、中学生の私は夢中だった。
 当時のその歌手には、場末で飲んだくれている手練れの素浪人といった風情があり、大人のかっこよさとはこういうことかと感じていた。
 後に活躍の場がTVへ移ると、無頼のキャラクターとしゃべりの面が強調されていき、シャンソンの歌い手としての面はあまり表にでなくなった。
 もちろん歌は続けていたのだろうけれども、公共放送の中ではその割合は減っていった。
 実力に周囲の評価が追い付き、活躍の場がメジャーになっていくにつれ、私が好きだった場末の凄腕浪人の佇まいは薄れていってしまったのだが、これはご自身の問題ではない。


 その歌手、やしきたかじんさんが、先頃お亡くなりになってしまった。
 機会があればもう一度、「O Toi La Vie」が聴きたかったのだが、もうそれもかなわなくなった。
 そういえば、死蔵している録音テープの中に、もしかしたらあの歌声が残っているかもしれない。
 磁気テープが朽ちる前に、ぼちぼち探してみようか……
posted by 九郎 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする