2014年01月28日

「本来の教え」というフィクション

 前回記事で、よく使われる「日本人本来の食」という表現は、一種の「神話」なのではないかという考え方について取り上げたが、似たようなケースは他の分野でもけっこうありそうなので、覚書に残しておく。

 例えば宗教。
 宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
 前回記事の「食」のテーマでも触れた日本神話も、歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
 一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
 純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
 事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「新たな神話大系」だ。
 国家神道にいたっては「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかなく、史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼした官製カルト宗教だと言う見方だってできる。
 実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
(念の為に書いておくと、私は記紀神話自体は好きだし価値があると思っている。国家神道が一種のカルト宗教だったと評価しているだけである)

 仏教で言えば、最近は原始仏教が「釈迦本来の教え」ということで脚光を浴びることが多い。
 お釈迦様在世当時の仏教のあり方を、学問的にきちんと研究することにはもちろん価値がある。
 お釈迦さまに比較的年代の近い原始仏典からある程度推定することは可能だろう。
 しかし、そうした研究成果や現代の上座部仏教の教説の中から、現代人の眼から見て理解しやすい合理的なお釈迦様の姿だけを抽出するのは、それはそれで新たな神話の創作にすぎない。
 原始仏教を盾にとり、お釈迦様がまるで唯物論、無神論者であったかのような自説を開陳する論者もいるけれども、原始仏典を素直に読む限りそんなことはない。
 お釈迦様と言えども約2500年前のインドの思想・世界観をベースに教えを説いたのであって、原始仏典には神も悪魔も輪廻転生も登場する。
(輪廻する主体は何であるかという議論もあるけれども、ここでは立ち入らない)
 お釈迦様はそうした神も悪魔も輪廻も、そしてこの物質世界もひっくるめて「迷いの世界であり、実体がない」としたのであって、少なくとも現代人が考えるような無神論、唯物論ではないと、私は理解している。

 それぞれの時代、それぞれの地域で、それこそお釈迦様の精神を活かすために、仏教は姿を変えてきた。
 お釈迦様の教えのうちの衆生済度の面を強調すれば大乗仏教となり、密教となるだろうし、日本独自の展開と捉えられることの多い鎌倉仏教諸宗派にも、それぞれに「釈尊の精神に帰れ」という一面はあったのだ。
posted by 九郎 at 20:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする