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2014年02月01日

香具師と神輿の奇妙な言説

 どこかの選挙の話題が、前評判ほどの盛り上がりは感じられないままに、ニュースで断続的に流れる今日この頃である。
 稀代の香具師が、これまた稀代の神輿を担いだにしては、今ひとつ、ふたつ、みっつ。
 いや、今よっつぐらいか……
 それもこれも、香具師と神輿コンビの掲げる「脱原発」が、どうにも付け焼刃で、もどかしいばかりなのだから仕方がない。
 なぜこうなってしまうのか?
 
 私が原発論議を眺める場合、見るべき価値があるかどうかの判断基準にしているのが、代替エネルギーの問題をいかに述べているかだ。
 原発に賛成であっても反対であっても、筋道として駄目なものは駄目なのだ。

 大前提として、原発を日本の電源の中心であったかのように扱っている論者は、その時点で失格である。
 日本の発電は一貫して火力が中心であり、原子力が基幹を担った事実は過去に一度もない。
 日本の電力のうち、「最大に見積もっても三分の一を担った時期もあった」という程度なのだ。
 原発は出力の小回りが利かず、メンテナンスに長期間がかかる稼働率の極めて低い施設なので、必ず火力その他の電源による十分なバックアップを必要とする。
 原発は、通常運転であっても「稼働しなくても問題ない程度の他の電源を必要とする」のである。
 3.11以降、日本の原発がほぼ停止しているにもかかわらず、一度も電力不足が起こっていないのはそのせいである。 
【関連記事】
原発は巨大な「海水あたため機」で、ことのついでに発電しているだけ

 次に「代替には自然エネルギーを」などと持ち出す論者も、その時点で失格である。
 エコロジー趣味の人がもてはやしがちな太陽光や風力は、発電コストの面で高くつきすぎ、その問題がここ十年、二十年で解決される見通しも全くない。
 地熱や水力も含め、いわゆる「自然エネルギー」に分類される発電法は、大規模に開発すると必ず自然破壊を伴うという欠点もある。
 自然エネルギーは、現状では家庭や地域など、ごく小規模なものを補助的に使用するくらいが、もっとも相応しいのだ。
【関連記事】
至急戦術ヲ変更スベシ
 
 結論を言えば、「火力で十分」なのである。
 このように書くと「電気代が上がったらどうするんだ?」という突っ込みが飛んできそうだが、電力会社の詭弁を真に受けてはいけない。
 原発停止後、電気料金が上がったのは「動かせない原発を抱えた電力会社が、その設備を維持したまま火力の稼働を増やした」からだ。
 これは単に電力会社の経営問題であって、原子力に比較して火力がコスト高であるという事実はない。
 そもそも原発には膨大な税金が投入されており、その上3.11後は事故処理や保障のため、東電支援は天井知らずになっている。
 もし国策として再稼働0の方向性が決定されると、電力会社の保有する原子力関連施設は、即座に不良資産と化し、経営は破綻する。
 電力会社が再稼働にこだわり続けるのもまた、経営問題に過ぎないのである。
 今後、廃炉や廃棄物処理にさらに天文学的な血税が投入されるのは確実で、電気代で取られなくてもどのみち税金で盗られるのである。
 盗られる身銭を少しでも減らすためには、浪費の穴を一刻も早くふさがねばならない。
【関連記事】
電気料金と原発の本当のコストを混同させる詐術
化石燃料は枯渇しないし、原子力は石油の代わりにならない

 日本や世界のまっとうな技術者の皆さんのまっとうな努力により、火力は凄まじい進化を遂げた。
 大規模発電でも家庭用の小規模発電でも、発電時に発生する熱エネルギーも同時利用することにより、エネルギー効率は飛躍的にアップする。
 要する燃料は削減し、得られるエネルギーは増大するということは、電力会社が原発再稼働の口実として振りかざす「燃料費の増大」を、あっさり否定することができるということだ。
 しかも環境面の基準もきちんとクリアーできている。
 そんな数々の新技術が、すでに実用化済みなのだ。
 待望の燃料電池も、そろそろ実用化といってよい段階に入ってきた。
 そもそも、電力消費地から遠く離れた場所で大規模発電するという供給体制自体が、時代遅れなのだ。
 もっと小規模な発電施設を消費地の近くに設置し、排熱も同時利用するのがベストで、それは既存の電力会社でなくとも十分可能だ。
 3.11位以降、電力会社自らが保身のためにばらまいた「電力不足デマ」により、企業等の自家発電設備は格段に普及した。
 毎年膨大に垂れ流される原子力関連予算のうち、ほんの僅かでもこうした新技術の普及に充てれば、さらに簡単に問題は解決する。
 困るのは原発を抱えこみ、既に「詰み」になっている電力会社だけだ。
 投了が遅れれば、それだけ国民が払わなければならない無駄金が増えるのである。
【関連記事】
アホな絵描きのハシクレを反原発弁士に仕立てるネタ本 

 ……という程度の考察は、香具師と神輿コンビについている優秀なブレーンの皆さんの名を見る限り、みんな承知しているはずなのだ。
 それなのに、当のコンビの発言はと言えば、「代案は出さない!」とか「再生可能エネルギーで」とか、寝言のようなことをのたまっている。

 もうそろそろ、まともな議論を始めませんか?

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2014年02月03日

節分2014

 今日は節分。
 この陰陽道の影響が強い民俗については、当ブログ最初期から取り上げてきた。

【関連カテゴリ】
 節分
 金烏玉兎

 断続的に図像の考察なども進めているうちに、一つの成果として密教尊的な牛頭天王像を自分なりに描くことができた。

 鬼を統べる神

 詳しい解説は上の記事を覗いていただくとして、今年は五年前の作品に多少手を入れてバージョンアップしたものを掲載してみよう。

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 他者の評価とは関わりなく、絵描きには「これが描けてるうちは、俺はまだ大丈夫」というような、本人だけに分かる感覚があると思う。
 私の場合、自分で納得できる「魔神」と「地蔵」が描けているうちは「まだ大丈夫」なのだ。
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2014年02月04日

事故がなければ安全か?

 3.11以後も、以下のような「消極的原発容認」の声は根強い。

「経済性を考えれば、当面は原発を動かさざるを得ないのではないか?」
「将来的には脱原発するにしても、当面は安全が確認されれば再稼働してもいいのではないか?」

 まずは穏当な意見だとも言えるけれども、私は経済面、安全面ともに、まずはきちんとした情報提供が行われていない現状があると考えている。

 原発関連カテゴリ前回記事では、原発の経済性について考えてみた。
 今回は記事タイトルの通り、事故を起こさない通常運転の状態の原発が、本当に安全と言えるかどうかについて、考えてみたい。

 今、手元に一冊のブックレットがある。



 タイトルは「いのちを奪う原発」で、真宗ブックレット(東本願寺出版部発行)の一冊である。
 注目すべきは発行年で、2002年1月に第一刷発行となっており、2011年7月、第三刷と表示されている。
 3.11以降の目で見てみれば、タイトルに端的に表れているような反原発テーマのブックレットは、とくに珍しいものではない。
 しかし2000年代初頭と言えば、反原発運動がかなり盛り下がっていた時期だったと記憶している。
 チェルノブイリ原発事故の衝撃から盛り上がった80年代後半から90年代初頭における反原発運動は、その後国と電力会社、大手広告代理店の圧倒的物量作戦により、銭の奔流に押し流されてしまう。
 1995年、高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事故。
 1999年、東海村JCO臨界事故。
 2007年、中越沖地震による柏崎刈羽原発事故。
 そして2000年代に事故が頻発してまともに稼働していない六ヶ所村再処理工場など、他にもあるが、それぞれの時点で原発から撤退しておけばよかったと判断せざるを得ない事故があったにもかかわらず、結果として3.11を迎えてしまった。
 日本の宗教界が原発について「公式見解」を表明するのは、3.11以降であればいくつか例があるが、2002年の時点での発表はかなり早く、その点では「お東さん」の英断と言ってよいだろう。
 本書の編集後記には、本来なら1989年に真宗ブックレット第一号として発行されるはずだった「原発を問う」が、様々な内外からの圧力で日の目を見なかった経緯が率直に語られている。
 東本願寺では原発以外にもハンセン病や大逆事件、国家神道への屈服、被差別部落と宗派の関わりなどの問題について、かなり厳しい自己批判を含んだ内容を発表し続けている。
 本書もそうした流れの中、原発立地に門徒が多かった経緯も含めて、かなり踏み込んで論じられている。
 日本のエネルギーの全般についても、藤田祐幸氏による極めて冷徹な分析がなされており、原発を止めても直ちに電力不足が起こることはなく、発電時に発生する排熱を有効利用すれば長期的にもエネルギー不足は起こらないという見立ては、十年以上経った現時点でもまったく古びていない。
 それだけでもしっかりした内容なのだが、このブックレットの眼目は、原発労働や周辺住民の生活、原発立地で起こっている目を覆うような「現実」が、現地で門徒の皆さんと実際に向き合ってきた真宗僧侶の視点から取り上げられていることである。
 国と電力会社の圧倒的な物量により、地元住民は分断され、それまでの地域社会が破壊される様。
 立地周辺に健康被害が出ている疑いがあるにもかかわらず地元の声は決して届かず、陰湿な差別だけが広まっていく現実。
 原発労働者の被曝管理の極めて杜撰な実態、そのことが原因で起こった作業員の被曝死、因果関係証明の高すぎる壁。
 それでもいくつかのケースでは、被曝労働と作業員の死亡や疾病に因果関係が認められ、労災が認められた事実関係。
 
 被曝労働と、原発近隣の健康被害については、過去記事でも参考書籍を紹介したことがある。
 穏やかな昼下がり
 本を買って原発を止めよう


●「原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録 」堀江邦夫(現代書館)
 実際に原発労働の現場に入って書かれた、伝聞取材ではない貴重なルポの原点である。
 3.11後に復刊された増補版。
 福島の作業現場が決死隊の様相を帯びてきており、単純に「英雄視」できるような状態にないことはすでに周知の事実だが、原発労働と言うものは現在のような「非常時」だけでなく、「平時」においても悲惨な実態を持っていたことが、本書を読めば理解できる。
 設計段階から、原発は人が十分な検査やメンテナンスを行えるような構造にはなっていないのだ。
●「原発労働記」堀江邦夫(講談社文庫)
 こちらは文庫版。ほぼ同内容だが、諸事情から抜粋されているようだ。
●「福島原発の闇 原発下請け労働者の現実」堀江邦夫 水木しげる(朝日新聞出版)
 「原発ジプシー」のダイジェストに、マンガ家水木しげるがイラストを添えた異色作。
 被曝労働を知る最初の一冊にはお勧め。


●「敦賀湾原発銀座[悪性リンパ腫]多発地帯の恐怖」明石昇二郎(宝島SUGOI文庫)
 90年代の「週刊プレイボーイ」は非常に社会派の一面を持っていた。(今でもその片鱗は残っているが、過去を知る者にとってはヌルすぎる)
 グラビアと漫画、非常にくだらない(注:褒め言葉である)娯楽記事の中に、一号に数本は「社会派」記事が掲載されており、そのカオス具合いが面白く、勢いがあった。
 そうした「社会派」記事の中に、私が大好きで掲載を心待ちにしていたシリーズがあった。
 明石昇二郎の「責任者、出て来い!」である。
 中でも「原発銀座」と呼ばれる敦賀の地で、悪性リンパ腫が多発しているのではないかと言う噂の真相をたしかめるために現地に乗り込む企画には、毎回興奮させられた。
 雑誌の発売が待ち遠しくて、明け方のコンビニに走ったりしたものだ。
 あの「週プレ」の取材班が、往年の「電波少年」のアポ無し収録のような体裁をとりながら、「責任者」どもを追い詰めて行く様子にはぞくぞくする様な痛快さがあり、それと同時に「事実」に対する怒りが込み上げてきたものだ。


 私個人としては、これらの現実を知った上で、それでも「原発は必要悪」というような、「穏健」な意見をもつのは困難ではないかと思っている。
 住民の健康被害が疑われ、風説が流れているにも関わらず、公的機関の疫学調査が全く行われない現実。
 裁判の過程で被曝労働と作業員の死の因果関係がはっきり認められた現実。
 過去の公害の事例を考えれば、こうした「表面化」した例を氷山の一角として、実態ははるかに凄まじいものであると考えるのは、決して荒唐無稽なことではない。
 原発は、事故のない通常運転であっても、決して安全ではないのである。
 累計数十万人に及ぶ被曝労働と、地元の終わりのない苦悩の上に成り立っているのだ。
 通常運転ですらこの有様であるから、3.11の惨禍を経た後であれば、なおのことである。

 ところが、どこかの選挙では、耳を疑うような放言がまかり通っている。
「50年間、運転中の原発で亡くなった方は1人もいない」
「放射能は少量ならむしろ健康に良い。1年100ミリシーベルトまで安全だ」
 不都合な現実には目をつぶり、耳に快い言説だけにとびつく、一見勇ましい精神主義者。
 このような輩が間違って指導的な立場(とりわけ軍部)にいたことが、先の大戦で国民全体に多大な被害を与え、国土を焼け野原に変えたのだろう。
 泡沫候補の電波発言にいちいち目くじらを立てるのもどうかと思うが、こういう現実認識の極めて甘い人間に「危機管理」を語る資格は一切ない。
 当人のことよりも、支持表明している著名人の方をしっかりと記憶し、以後の判断材料とするべきだろう。

 ただ、こんな輩であっても、正直に自分の思うところを述べているという点では、候補者として最低限の筋は通しているとも言える。
 前回記事であげつらった香具師と神輿コンビも、付け焼刃ではあるけれども、自分の思うところを述べていることは確かだろう。
 その点では、過去に原子力業界の広告塔をやっていたくせに、「自分は以前から脱原発派」などと平気な顔で嘘をつく「最有力候補」などより、はるかにマシである。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2014年02月07日

時代劇の「ご当地表現」についての覚書

 2代前の「平清盛」から、NHK大河ドラマを視る習慣が復活した。
 子供の頃は親と一緒になってよく視ていたのだが、年とともに段々遠ざかってそのままになっていた。
 「清盛」では中世の瀬戸内海交易や、「梁塵秘抄」の時代の芸能がどのように表現されるか関心があり、それなりに楽しんで視ていた。
 次の「八重の桜」では江戸末期〜明治にかけての鉄砲戦術がどのように変遷したかに主な興味があって、そのまま日曜夜に大河を視る習慣が定着した。

 私が視はじめた頃から、大河ドラマの視聴率の低さが頻繁に取りざたされるようになったように思う。
 それまでも長期低落傾向にあったのだろうけれども、毎週のように最低記録の更新が報じられるようになったのはここ数年のことではないだろうか。
 そもそも歴史物、時代劇自体が低迷傾向にあるうえに、「清盛」「八重」ともに、時代設定が安定した人気の戦国から外れていたこともあっただろう。
 たしかに「清盛」は突っ込みどころの多い作品で、当ブログでも何度か問題点を取り上げてきた。
それでも作り手の「何か新しいことをやってやろう」という意欲は感じられ、批判しつつも応援してきたつもりだ。

 愛と憎しみの大河「平清盛」

 続く「八重」は、「清盛」に比べるとあからさまにおかしな所は少なかったと思う。
 主演の綾瀬はるかも好演だったし、脇役もそれぞれに熱演していた。
 個人的には、小泉孝太郎や反町隆史のことを初めて「上手い!」と思ったし、吉川晃司の西郷隆盛も意外にハマっていた。
 斉藤一役のDragon Ash 降谷建志は、ふつうの意味での「役作り」や「演技」とは違うアプローチだろうけれども、様になってかっこよく見えた。血筋というものもやはり侮れない。

 ただ、案の定というか、戊辰戦争以後の展開がちょっと地味だった。
 後半の実質主演・オダギリジョーは、与えられた役柄を100点満点以上にこなしていたと思うが、あの展開で数字を取れというのはちょっと酷だろう。

 なんだかんだ言いながら、現在放映中の「軍師官兵衛」も続けて視ている。
 待望の戦国時代で、けっこうしっかり作ってあると思うのだが、それでも視聴率はふるわないらしい。
 というか、大河を含めた時代劇を「家族そろってテレビで見る」という習慣自体が、日本人から消え去りつつあるのだろう。
 これはもう「こんなもの」と納得するしかないのではないか。

 数字の話はともかく、主演の岡田准一、今どきのアイドルとしては比較的小柄で日本人体系に見えるが、かえって戦国衣装が良く似合い、カッコいい。
 片岡鶴太郎の例のメイクは、最初はどうなる事かとハラハラしたが、視続けていると意外に「あり」になってきて感心している。
 一歩間違えばコントになってしまいそうな危ういメイクだが、お笑い出身の役者だからこそコントとシリアスの境目が良く分かっており、一線は踏み越えないのだろう。
 逆に、一般的なイメージの信長像を忠実になぞっている江口洋介あたりの方が、演技としては危うく見えてしまったり……

 世間的な評価はどうあれ、私はけっこう楽しんで視ている。
 ドラマが終わってから簡単な場面紹介のコーナーがあるが、そこで毎回「ああ、そう言えばこのドラマ、播磨が舞台だったな」と気づく。
 これは決して批判ではないのだが、播磨出身である私には、今回のドラマからはあまり「いかにも播磨」という雰囲気は感じられない。
 風景にしても言葉づかいにしても登場人物の気質にしても、作り手にはあまり「ご当地を再現しよう」という意識は無いように思う。
 たとえば前作「八重の桜」では、会津の風景、言葉づかい、気質などの再現に、かなり重点を置いた表現がなされていた。
 その再現がどれほどのレベルであったかは、ご当地会津の皆さんにしか判定しようがないと思うが、少なくとも「往時の会津の再現」が作り手の意識に強くあったことは確かだろう。

 端的には「セリフの方言の度合い」ということになる。
 今回のドラマ「軍師官兵衛」のセリフは、現代の標準語をベースに時代劇っぽさを交えたもので、歴史物のセリフ表現としてはごく当たり前のものだ。
 全国に放送されることを前提に、現代の播州言葉の要素を交え、ある程度「ご当地感」を出すことも可能だっただろう。
 しかしその方向性をいざ実行に移すと、かなりガラの悪いドラマになってしまうであろうことは、播州出身の私には容易に想像がつく(苦笑)
 他の地域の皆さんが視聴した場合、登場人物が全員893に見えてしまうかもしれないし、そんな方向性は主演の岡田准一ファンの皆さんが断固拒否するであろう……
 それに、細かく言いだすと「姫路と加古川と明石あたりはそれぞれ言葉が違う」とか「そもそも戦国時代の播州の言葉づかいと現代の播州言葉が違うだろう」とか、キリがなくなってくる。
 舞台になった地域の、舞台になった時代の言葉を、仮に完璧に再現できたとしても、その作品には字幕が必要になるだろう。
 結局、広い範囲の視聴者を対象にしたエンターテインメント作品においては、よほどご当地再現を志向した作品でないかぎり、方言の再現にあまりこだわる必要はないという結論に至る。
 今回のドラマと同じ素材を扱った司馬遼太郎「播磨灘物語」も、播州人の気質の再現は多少試みていると見受けられるが、言葉の再現にはとくにこだわっていない。

 戦国時代の「ご当地感」がよく出ている作品と言えば、私はすぐに津本陽の描く紀州を舞台にした小説群を思い出す。


●「雑賀六字の城」(文春文庫)
 この物語についてはこれまでにも何度か紹介してきた。
 雑賀衆関連の小説の中では、当ブログ一押しの作品である。


●「鉄砲無頼伝」「信長の傭兵」(角川文庫)
 タイトルに連続性がなく、表紙イラストも全く無関係で分かりにくいのだが、同じ物語の上下巻である。
 主人公は紀州に鉄砲をもたらしたと伝えられる津田監物。
 雑賀衆と並び称される戦国最強の鉄砲集団、根来鉄砲衆の始祖的人物だ。
 物語はこの人物が紀州に鉄砲を持ち帰ったところから、石山合戦の終結までを描いている。


●「天翔ける倭寇〈上〉〈下〉」(角川文庫)
 雑賀衆は鉄砲隊だけでなく、海洋交易の担い手としての面もあった。
 この物語は雑賀衆の中の一団が「倭寇」として大陸に進出し、一獲千金の夢を求めて得意の鉄砲戦術で転戦を続ける様が描かれている。

「鉄砲無頼伝」「天翔ける倭寇」については、いずれまた単独記事で詳しく紹介してみたい。


 これらの作品のセリフ回しは、戦国時代の実際の紀州言葉というわけではもちろんなく、現代の紀州(とくに和歌山市周辺)の言葉や気質をベースに再現された仮定の表現だ。
 しかしそこには地元出身でないと決して醸し出せない「リアル」が、確かに存在する。
 のんびりとした紀州言葉と、時に苛烈な気性の荒さの対比が、とんでもない実在感をもって迫ってくるのだ。
posted by 九郎 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2014年02月10日

スピリチュアル嫌い

 この十カ月近く、ゆるめの糖質制限をやってきたせいで、食べ物についての関心の持ち方がかなり変化した。
 以前ものすごく好きで、たまに食べに行くのを楽しみにしていたメニューに、とある喫茶店のホットサンドがある。

 わしにホットサンドを食わせんかい!

 トーストにあふれるほどのポテトサラダとハムとチーズがサンドされているもので、以前の炭水化物大好物人間だった私には、たまらない一品だった。
 現在は炭水化物を含めた糖質に、食べる前からちょっと抑制が働くようになっているため、昔ほど食欲はわかない。
 今でも食べたら美味しいと思うだろうけれども、炭水化物たっぷりメニューは自分の意識の中で「かなりハメを外した嗜好品」のような位置づけに変わったので、そんなに頻繁に食べようとは思わないのだ。
 甘いものも相変わらず好きだが、糖質を減らす食生活が基本になると、「甘さ」に対する感度が前より上がり、同じものを食べてもより甘く感じるようになった。
 自然と「甘さひかえめ」のものを選ぶようになり、とくにジュース類の多くは甘ったるすぎて、進んで飲みたいとは思わなくなった。
 余所で出していただいた場合には、ありがたくいただくけれども、普段の飲み物はお茶など無糖のものが中心だ。
 コーヒーをブラックで飲むことに慣れてしまうと、もう砂糖を入れようとは思わなくなるのと同じような嗜好の変化が、食べ物全般に起きているような感じがする。

 そんな調子なので、いくつか行きつけの喫茶店の類が入れ替わった。
 私がとぐろを巻く場所の条件は、以下の二点。
・お値段ひかえめでコーヒーが飲め、軽食がそこそこ美味しい。(今ならこれに「炭水化物ひかえめで」という条件が加わる)
・それなりに時間を取って、本を読んだり書き物をしたりするのを許容してくれる。
 これだけ満たしてもらえれば、混雑時は避けるなど、なるべくお店の邪魔にならないように空気読みつつ、常連にさせていただいている。
 ただ、単価の安い客の分際で文句を言って申し訳ないのだが、せっかくとぐろを巻いている甘美なひと時なのに、心の底から来店したことを悔やむ場合がある。
 わしにホットサンドを食わせんかい!でも述べたような、マルチの商談に出くわしてしまった場合である。
 これはお店の責任では全くなく、居合わせた客の問題だけれども……

 私は個人的にマルチ商法のやり口が大嫌いなので、勧誘する方もされる方も含め、一切関わりを持ちたくない。
 精神衛生上非常に悪いので、できれば同じ空間で呼吸をしたくないし、視界にも入ってきてほしくないと願っている。
 マルチの中でもとくに気に食わないのが、健康食品や浄水器、アロマ・石鹸等のグッズの類で、そういう商品を扱う奴らは高い確率で次のような効能を詐称する。
 一つは原発事故を受けてはびこり始めた放射能対策(?)、もう一つはスピリチュアルな「癒し」関連のものである。
 
 神仏与太話などと銘打ったブログを運営しておきながらこんなことを書くと「おまえが言うな!」と呆れられるかもしれないが、私は率直に言って「スピリチュアル」とかいうやつが嫌いだ。

(ここで言う「スピリチュアル」とは、書店の一画で「宗教」の隣に並んでいるような、一昔前であれば「精神世界」という分類になっていた一群の書籍や著者のことを指す)

 あまり関心のない人には似たり寄ったりに見えるだろうけれども、当ブログを管理するにあたっては、「スピリチュアル」な内容にならないよう、極力注意を払っている。
 どこまでいっても素人の「神仏与太話ブログ」の分をわきまえ、神仏について自分が見聞したり、読書から得た知識を紹介するにとどめているつもりなのだ。
 間違っても上から目線で「生きるヒント」を説いたり、安易に癒したり癒されたりなどという卑しい内容にならないよう気をつけている。
 amazonで本やその他の商品の広告を貼る場合にも、自分で熟読したり、実際購入して使ってみたりして、責任を果たせる範囲で紹介してきた。
 アクセス数のさほど多くないマイナーなブログであるけれども、自動広告の設定にすれば多少の収入にはなるのはわかっているのだが、今までやらずにきた。
 それは、キーワードマッチで自動的に記事中の単語を拾われると、スピリチュアル関連の書籍の広告が入りまくることが目に見えていたからだ。
 自分のブログがそうした納得できない本の広告で「汚される」ことに、私は感覚的に耐えられないのである。

 もちろん「スピリチュアル」のジャンルだからと言って、100パーセント全てが悪い内容であるわけではない。
 幾人か、「この人の言うことであればOK」と納得できるものもある。
 たとえば美輪明宏さんの発言や著書などは、ご本人の壮絶な人生や卓越した「芸」の重みがしっかりあるので、考え方に自分と違うところがあっても、さほど違和感なく受け取ることができる。
 しかし名前は挙げないけれども美輪さんと一緒にスピリチュアル番組に出演していた「相方」の方は、いかなる意味でも当ブログではお勧めしない。
 書店の「スピリチュアル」な本棚に並ぶ本のうち、許容できるものがごくわずかなので、大雑把に言うと「私はスピリチュアル嫌い」ということになるのだ。

 ネット上でもスピリチュアルなブログは数多い。
 人様のやることなので、自分と無関係であるならば、別にそれは構わない。
 しかし、たまに私の望まない形で関わりを持たされてしまうことがある。
 画像や文章を、無断転用されている場合である。

 当ブログの著作権についての考え方は、こちら
 
 予断を持って人を評価することは避けるべきだが、私の経験した範囲では、スピリチュアルブログを運営している皆さんの中には、相当数、画像や文章のパクリに対する認識の甘い人が存在する。
 私は、自分がそうならないように注意を払いながら作成した絵や文章が、適当に切り貼りされてスピリチュアルな記事の中に埋め込まれてしまうことに、耐えがたい苦痛を感じる。
 たとえ悪気がなかったとしても、私にとってそれは面と向かって侮辱されたに等しい。
 だから無断転用を発見した場合は、当該する画像や文章の速やかな削除または差し替えを求める。
 その際、無断転用の状態さえ解消されれば十分なので、こちらから謝罪を求めることはないし、記事自体の削除なども求めたことはない。
 こちらのブログのコメント欄でもたまに当事者になったブログの管理人から連絡をいただくことがあるが、そういう皆さんは考え方の違いはあれ、ごく真っ当な感覚をお持ちだと思う。

 ところが、ネット上で導師面をしてあれこれ発言している輩に限って、無断転用を指摘すると、画像をこちらのコメントごと素知らぬ顔で「証拠隠滅」し、恥じない奴がいる。
 そう言う奴がまた高確率で、アロマだの石鹸だの健康食品だのというマルチ商品のネット販売員になっていたり、有料でカウンセリングもどきを行っていたりするものだから始末が悪い。
 別に謝ってほしいわけではないが、他人さまに対して「心の在り方」を説く者ならば、それなりの挨拶のしようがあると思うのだ。
 バカバカしいのでそれ以上深追いはしないが、他の記事でもパクった画像や文章を元に説教垂れている様を、生温かく観察させてもらっている。

 もう一度書いておく。
 他人には似たようなものに見えるかもしれないけれども、私はスピリチュアルが好きではない。
 商売でスピリチュアル・カウンセラーや、マルチ商品のネット販売をやってる奴は最悪だ。
 個人の自由があるから、そういうのが好きな人同士でやってもらうのはかまわないが、私の方からは一切関与したくない。

 だから、画像の無断使用などで、おかしな縁を作らないでくださいね。
 夜露死苦!
posted by 九郎 at 21:21| Comment(4) | TrackBack(0) | ブログ・マップ | 更新情報をチェックする

2014年02月11日

サンマの丸干し

 近所で開かれていた物産展で、サンマの丸干しを見つけた。
 名前の通りサンマの干物で、一般的な「開き」ではなく、イワシなどのようにそのまま干してある。
 あまり有名ではないかもしれないが、熊野の名産である。
 サンマの脂がうまみに変わって凝縮されているような感じがして大好物なのだが、ご当地以外で見かけることは少ない。
 物産展などでもなかなか見かけないので、たまに発見した時は即買いする。
 今回は三重県産のもののようだ。
 熊野は和歌山、奈良、三重の南部にまたがっているのだ。

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 五匹で400円。
 昔、和歌山県南部のスーパーで買ったときは1匹100円〜200円くらいだった記憶があるので、けっこう安い。
 今回ゲットしたものは、少ししっとり加減の干し具合だった。
 欲を言えばもっと干し上げたものの方が好きなのだが、この際ぜいたくは言えない。

 いただくときには、表皮が金色っぽくなるぐらいにあぶると美味い。
 味が凝縮されている分、ちょっと塩辛い。
 ご飯のおかずに最高なのだが、最近の私は糖質制限中なので、酒のあてにする。
 酒も、ビールなら糖質カットのものがあるし、焼酎なら元々問題ない。

 サンマの丸干し、お勧めです。
 干物好きの皆さんは、どこかで見かけたら一度はお試しを。
posted by 九郎 at 20:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

追悼再掲「もう一人の孫市」

 作家の山本兼一さんが、今月13日お亡くなりになった。
 57歳、40代半ばを越えてからのデビューだったので、まだまだこれからのご活躍が期待されるなかの訃報だ。
 代表作は映画化もされた「火天の城」「利休にたずねよ」。
 当ブログでも雑賀孫一に関連して作品を紹介したことがある。
 代表2作に劣らぬ力作なので、追悼再掲しておきたい。
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 もう一人の孫市


●「雷神の筒」山本兼一(集英社文庫)
 映画化された「火天の城」「利休にたずねよ」と同じ著者による一冊。
 「火天の城」は安土城築城に関わった技術者を主人公にした物語で、大名の華々しい活躍に焦点が向きがちな戦国時代小説として異彩を放っていた。
 この「雷神の筒」は、織田信長の領国尾張で流通業を営んでいた橋本一巴が、商いの途中に出会った鉄砲の威力に魅せられ、やがて信長の鉄砲の師匠となり、織田軍鉄砲隊の中心人物になっていく様子が描かれている。われらが雑賀孫市も作中に登場し、主人公の手強い好敵手として活躍している。
 主人公・橋本一巴は主に陸運業者として活動しているのだが、鉄砲の火薬に使用するため品薄になった塩硝を求めて旅するうちに、紀州から種子島、琉球までを股にかけて手広く海運業を営む雑賀孫市と出会うことになる。
 雑賀孫市は鉄砲隊のリーダーとしての面ばかりが注目されがちであるが、実在の鈴木孫一一党は本業が海運業で、他に割のいい副業として傭兵活動も行っていたというところが実像に近いと思われる。
 そうした生業を史実に近い形で描写してある作品は珍しく、孫市を扱った作品の中で最も名高い司馬遼太郎「尻啖え孫市」にも描かれていない部分である。
 流通業者であり、鉄砲隊を率いるリーダーでもある橋本一巴は、いわば織田家中の「もう一人の孫市」なのだ。
 中でも興味深いのは、それまで海外からの輸入に頼るほかなかった火薬の原料になる塩硝が、国内で独自に精製され、流通に乗り始める描写だ。戦略物資の調達ルートの確保が物語の核になっている所など、知的興奮を呼び覚まされる。
 鉄砲戦術についても詳細で、長篠の戦における有名な「織田鉄砲隊の三段撃ち」を冷静に否定する描写があり、リアリティに徹した姿勢は読んでいて心地よい。
 孫市の登場する最近作の中では白眉だろう。
posted by 九郎 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2014年02月21日

今日はこれぐらいにしといたるわ!

 近況報告など。

 昨年、「第2回角川つばさ小説賞」という、少年少女向け小説の募集がありました。
 実はふと思い立って応募してたのですが、このたび三次選考の発表があり、残念ながら私の作品は最終候補4作品には残ることができず、二次選考通過にとどまりました。

 途中結果発表(最終結果は3月3日発表)

 リンク先の二次選考通過17作のうち、「図工室の鉄砲合戦」(烏帽子九郎)というのが、私の作品です。
 まあ、残念は残念なんですけれども、ここは三次選考まで進めたことを素直に喜んでおきたいと思います。
 結果としては「決勝進出ならず」なので、今後この作品は自由に扱えるということもプラスに考えていきたいです。 

 応募原稿に添付したあらすじは、以下のようなものです。

【あらすじ】
 舞台は現代、瀬戸内海の大阪湾よりに位置する小さな港町の、小学6年美術部。
 主人公の名前は鈴木ヒサト。二子浦小学校(通称「浦小」)の新6年生。小柄でメガネをかけており、三度の飯よりも工作が大好きで、友人からは「コーサク」と呼ばれている。親友の土橋タツジ(通称タツジン)とともに美術部に入っており、最近は輪ゴム鉄砲作りに熱中している。クラスの中ではちょっと浮いた変人コンビである。
 コーサクのクラス6年1組には、新学期に入って小学生離れした体格を誇る超大型の転校生が登場した。名前は佐竹アキノブ、通称バンブー。コーサクはさっそく友達になり、転校生バンブーも美術部に入ることになった。新メンバーを迎え、輪ゴム鉄砲作りはさらに盛り上がる。
 コーサクをはじめとする美術部の面々は、地元のお寺で開催された「戦国まつり」で、本物の火縄銃の鉄砲演武を見学し、戦国時代の鉄砲集団「雑賀衆」の戦術を学ぶことで、さらに輪ゴム鉄砲の技を磨いていく。
 しかし、よく目立つ超大型少年と親しくなったことが原因で、コーサクはクラス内のボスグループに目をつけられ、ちょっかいをかけられるようになる。ボスグループからの嫌がらせは徐々にエスカレートし、クラス委員の神原シオネや学校一の秀才・殿山マサルも巻き込んで、ついに図工室で輪ゴム鉄砲合戦が行われることになってしまう。
 学校一の秀才やスポーツ万能のボス少年グループを向こうに回し、苦境に立たされるコーサクと美術部。しかし転校生バンブーや、クラス委員神原シオネの協力もあり、合戦は白熱する。そして最後には、戦国時代の雑賀鉄砲衆の秘伝を駆使し、見事美術部側を勝利に導くコーサク。
 合戦で武勲を上げたコーサクは、それまでちょっと浮き上がっていたクラス内で、独自の居場所を確保することになる。


 このブログを長く読んでくださっている皆さんには、お馴染みのモチーフも含まれています。
 一応、小学高学年〜中学生ぐらいまでを対象にしていますが、需要ありますかね?
 本人としてはかなり気に入った作品なので、何らかの形で日の目を見せてあげたいですね。

 実は三年ほど前にも、とある地方の原稿募集に応募して、受賞・出版に至った作品(小説ではない)があるのですが、そちらは本名でしたので、この匿名ブログでは告知していませんでした。

 また「次回」があるように、今後とも精進していく所存です(笑)

 とりあえず、お約束の一言。

 よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!
posted by 九郎 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

イラスト魔神、生ョ範義

 イラストレーター、生ョ範義先生の展覧会が開かれているようだ。

生ョ範義展

 しかし、、、しかし、、、九州か、、、(悲)
 これだけリスペクトしているのに現地に行く甲斐性のない己が憎い。。。
 私が氏の画業から受けた影響は、例えば↓このような絵にあらわれている。

respect01.jpg


setu-20.jpg


 わかってる! 皆まで言うな!
 あくまで「影響」だ。足元にも及ばんのは承知している!
 
 中高生の頃愛してやまなかったSF作家・平井和正の著作を彩る、絢爛にして重厚、豪華にして華麗な筆さばきに魅了され、「こんな風に分厚く塗ってみたい!」と、リキテックスを手にとった日が、昨日のように懐かしく思い出されてくる。
 我流ながら生ョ画風を真似て厚塗りを試し続けた日々のおかげで、進学してから受講した油彩の授業では、それまで全く油絵の経験がなかったのに全然困らなかったっけ。。。
 
 私がこだわっている絵画的テーマの一つに「魔神」があるが、そのルーツは確実に永井豪と生ョ範義にある。

 図録、なんとか手に入れよう。
posted by 九郎 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 生頼範義 | 更新情報をチェックする