2014年02月07日

時代劇の「ご当地表現」についての覚書

 2代前の「平清盛」から、NHK大河ドラマを視る習慣が復活した。
 子供の頃は親と一緒になってよく視ていたのだが、年とともに段々遠ざかってそのままになっていた。
 「清盛」では中世の瀬戸内海交易や、「梁塵秘抄」の時代の芸能がどのように表現されるか関心があり、それなりに楽しんで視ていた。
 次の「八重の桜」では江戸末期〜明治にかけての鉄砲戦術がどのように変遷したかに主な興味があって、そのまま日曜夜に大河を視る習慣が定着した。

 私が視はじめた頃から、大河ドラマの視聴率の低さが頻繁に取りざたされるようになったように思う。
 それまでも長期低落傾向にあったのだろうけれども、毎週のように最低記録の更新が報じられるようになったのはここ数年のことではないだろうか。
 そもそも歴史物、時代劇自体が低迷傾向にあるうえに、「清盛」「八重」ともに、時代設定が安定した人気の戦国から外れていたこともあっただろう。
 たしかに「清盛」は突っ込みどころの多い作品で、当ブログでも何度か問題点を取り上げてきた。
それでも作り手の「何か新しいことをやってやろう」という意欲は感じられ、批判しつつも応援してきたつもりだ。

 愛と憎しみの大河「平清盛」

 続く「八重」は、「清盛」に比べるとあからさまにおかしな所は少なかったと思う。
 主演の綾瀬はるかも好演だったし、脇役もそれぞれに熱演していた。
 個人的には、小泉孝太郎や反町隆史のことを初めて「上手い!」と思ったし、吉川晃司の西郷隆盛も意外にハマっていた。
 斉藤一役のDragon Ash 降谷建志は、ふつうの意味での「役作り」や「演技」とは違うアプローチだろうけれども、様になってかっこよく見えた。血筋というものもやはり侮れない。

 ただ、案の定というか、戊辰戦争以後の展開がちょっと地味だった。
 後半の実質主演・オダギリジョーは、与えられた役柄を100点満点以上にこなしていたと思うが、あの展開で数字を取れというのはちょっと酷だろう。

 なんだかんだ言いながら、現在放映中の「軍師官兵衛」も続けて視ている。
 待望の戦国時代で、けっこうしっかり作ってあると思うのだが、それでも視聴率はふるわないらしい。
 というか、大河を含めた時代劇を「家族そろってテレビで見る」という習慣自体が、日本人から消え去りつつあるのだろう。
 これはもう「こんなもの」と納得するしかないのではないか。

 数字の話はともかく、主演の岡田准一、今どきのアイドルとしては比較的小柄で日本人体系に見えるが、かえって戦国衣装が良く似合い、カッコいい。
 片岡鶴太郎の例のメイクは、最初はどうなる事かとハラハラしたが、視続けていると意外に「あり」になってきて感心している。
 一歩間違えばコントになってしまいそうな危ういメイクだが、お笑い出身の役者だからこそコントとシリアスの境目が良く分かっており、一線は踏み越えないのだろう。
 逆に、一般的なイメージの信長像を忠実になぞっている江口洋介あたりの方が、演技としては危うく見えてしまったり……

 世間的な評価はどうあれ、私はけっこう楽しんで視ている。
 ドラマが終わってから簡単な場面紹介のコーナーがあるが、そこで毎回「ああ、そう言えばこのドラマ、播磨が舞台だったな」と気づく。
 これは決して批判ではないのだが、播磨出身である私には、今回のドラマからはあまり「いかにも播磨」という雰囲気は感じられない。
 風景にしても言葉づかいにしても登場人物の気質にしても、作り手にはあまり「ご当地を再現しよう」という意識は無いように思う。
 たとえば前作「八重の桜」では、会津の風景、言葉づかい、気質などの再現に、かなり重点を置いた表現がなされていた。
 その再現がどれほどのレベルであったかは、ご当地会津の皆さんにしか判定しようがないと思うが、少なくとも「往時の会津の再現」が作り手の意識に強くあったことは確かだろう。

 端的には「セリフの方言の度合い」ということになる。
 今回のドラマ「軍師官兵衛」のセリフは、現代の標準語をベースに時代劇っぽさを交えたもので、歴史物のセリフ表現としてはごく当たり前のものだ。
 全国に放送されることを前提に、現代の播州言葉の要素を交え、ある程度「ご当地感」を出すことも可能だっただろう。
 しかしその方向性をいざ実行に移すと、かなりガラの悪いドラマになってしまうであろうことは、播州出身の私には容易に想像がつく(苦笑)
 他の地域の皆さんが視聴した場合、登場人物が全員893に見えてしまうかもしれないし、そんな方向性は主演の岡田准一ファンの皆さんが断固拒否するであろう……
 それに、細かく言いだすと「姫路と加古川と明石あたりはそれぞれ言葉が違う」とか「そもそも戦国時代の播州の言葉づかいと現代の播州言葉が違うだろう」とか、キリがなくなってくる。
 舞台になった地域の、舞台になった時代の言葉を、仮に完璧に再現できたとしても、その作品には字幕が必要になるだろう。
 結局、広い範囲の視聴者を対象にしたエンターテインメント作品においては、よほどご当地再現を志向した作品でないかぎり、方言の再現にあまりこだわる必要はないという結論に至る。
 今回のドラマと同じ素材を扱った司馬遼太郎「播磨灘物語」も、播州人の気質の再現は多少試みていると見受けられるが、言葉の再現にはとくにこだわっていない。

 戦国時代の「ご当地感」がよく出ている作品と言えば、私はすぐに津本陽の描く紀州を舞台にした小説群を思い出す。


●「雑賀六字の城」(文春文庫)
 この物語についてはこれまでにも何度か紹介してきた。
 雑賀衆関連の小説の中では、当ブログ一押しの作品である。


●「鉄砲無頼伝」「信長の傭兵」(角川文庫)
 タイトルに連続性がなく、表紙イラストも全く無関係で分かりにくいのだが、同じ物語の上下巻である。
 主人公は紀州に鉄砲をもたらしたと伝えられる津田監物。
 雑賀衆と並び称される戦国最強の鉄砲集団、根来鉄砲衆の始祖的人物だ。
 物語はこの人物が紀州に鉄砲を持ち帰ったところから、石山合戦の終結までを描いている。


●「天翔ける倭寇〈上〉〈下〉」(角川文庫)
 雑賀衆は鉄砲隊だけでなく、海洋交易の担い手としての面もあった。
 この物語は雑賀衆の中の一団が「倭寇」として大陸に進出し、一獲千金の夢を求めて得意の鉄砲戦術で転戦を続ける様が描かれている。

「鉄砲無頼伝」「天翔ける倭寇」については、いずれまた単独記事で詳しく紹介してみたい。


 これらの作品のセリフ回しは、戦国時代の実際の紀州言葉というわけではもちろんなく、現代の紀州(とくに和歌山市周辺)の言葉や気質をベースに再現された仮定の表現だ。
 しかしそこには地元出身でないと決して醸し出せない「リアル」が、確かに存在する。
 のんびりとした紀州言葉と、時に苛烈な気性の荒さの対比が、とんでもない実在感をもって迫ってくるのだ。
posted by 九郎 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする