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2014年07月11日

ようきたな まあすわれや

 もう二十年ほど前になってしまうが、学生の頃、学校のトイレに記事タイトルの落書きがあった。
 男子トイレの大便用個室に入ると、ちょうど目の前に書いてあったのだ。

「ようきたな まあすわれや」

 その落書きを見た私は、いつも「ふ〜」とため息をつきながら便座に腰を下ろしていた。

 あれから遥かに時は流れた。
 今日、出先でたまたま入ったトイレの個室で、全く同じ落書きを見つけてしまった。
 記憶は一気によみがえる。
 私も二十年前と全く同じく、「ふ〜」とため息をつきながら、便座に腰を下ろした。
 腰の痛みにちょっと気を使いながら座る姿勢だけが、違っていた……



 久々の記事がこんなネタか。
posted by 九郎 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年07月12日

よみがえれ指先の記憶力

 秋口にちょっと試験を受けなければならなくなった。
 筆記試験なんていったい何年ぶりだろうか?
 けっこうなボリュームのテキスト二冊分を学習して、レポート提出と筆記試験が課されている。
 学習とレポートの分量自体は大したものではない。
 このブログを運営するに当たっては、分量的にも内容的にも、もっともっと歯応えのある読書や作文をこなしてきている。
 ブログ運営のような「積極的な学習意欲」からのものではない「義務的な試験勉強」であるところがネックだが、まあレポート提出はなんとかなるだろう。
 自分でいうのもなんだが、絵描きの中ではちょっとは勉強できる方だ。

 問題は持ち込み不可の筆記試験だ。

 元々、学生時代から暗記物は大の苦手だった。
 記憶力云々以前に、「丸暗記」という行為自体に拒否感があったのだ。
 若い頃ですらそのざまであったので、記憶力の衰えまくった今、筆記試験には不安を感じる。
 長年ワープロやPCを使ってきたせいで、漢字が読めはするが全く書けなくなってきている問題もある。

 勉強するなら時間的に多少余裕のある夏の間しかない。
 だから一念発起して、ノートとシャーペン、ボールペンで手書きの勉強を開始した。
 まずはテキストの目次や、章別の表題、見出し語をそのまま書き写すことから。
 試験当日、もちろん手書きで受験しなければならない。
 論述問題で「他人様が判読できる字で、資料無しで書き上げる」のに備えて、鍛え直さなければならない。

 よみがえれ、指先の記憶力!
posted by 九郎 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年07月15日

おれの宇宙の外でやれ

 サッカーワールドカップ。
 ようやく終わったか。

 別に(俄を含めた)サッカーファンにはなんのうらみもない。
 気持ちよく至高の舞台を楽しんでくれればいいと、他人事として願っていた。
 私はといえば、とくに興味がないので毎度スルーしてきた。
 みんなが盛り上がっているときに、わざわざ「興味がない」などと表明するのも野暮なので、ただ黙ってきたが、決勝も終わって一段落したので、ちょっと一言書いておきたいことがある。

 この「縁日草子」はマイナーな神仏イラストブログであるけれども、何かのキーワードで画像検索した場合、上位に当ブログ掲載の自作イラストが並ぶことも多々ある。
 そうしたイラストは、著作権に対する認識の甘い人に無断使用されてしまうことも多い。
(例えば、この記事にまとめたイラストなど)
 そして、サッカーワールドカップが話題に上る時期になると、パクリがとくに急増し始めるのが以下のイラストだ。

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 言わずと知れたヤタガラスをモチーフにした画像である。
 ヤタガラスは日本神話に登場するキャラクターだが、日本サッカーのシンボルとしても採用されているので、この時期アクセスとパクリが急増する。
 念のために書いておくと、ヤタガラス自体には著作権は存在しないが、それをモチーフにしたイラストやシンボルマークには、それぞれの作者の権利が発生する。
 上のイラストで言えば、ヤタガラスの三本足を密教法具風にデザインし、如意宝珠を頭上にいただいて神仏習合画像風に仕上げたところに、私のオリジナルがある。

 元々商売で描いたものではないので、単なる無断使用であれば「画像を気に入ってもらえたのだな」と納得することもできるのだが、パクられて非常に不愉快な場合ももちろんある。
 いわゆる「ネット右翼」みたいな奴等のtwitterのアイコン画像に、当該画像が使用されてしまっているケースである。
 
 私はパワーバランスとしての心情左翼を自認しているけれども、日本の海山河や、そうした風土が育んできた文化を愛する「愛国者」でもある。
 ただ「国家」というものに対しては、歴史上しばしば国土や庶民の生活を荒廃させてきたケースがあるので、無条件では肯定しない。
 真っ当な保守と、パワーバランスとしての左翼がしのぎを削っておとしどころを探っている状態が、現状では「よりマシ」だと思っている。
 頭の悪い右翼が幅を効かせ、グダグダの腰抜け左翼が自滅する状態は最悪に近いと思っている。
 そんな私にとっては、不勉強なネット右翼風情に、自分が心血を注いだ画像をパクられるのは耐えがたい苦痛である。

 ことのついでに、ヤタガラスについても少し覚え書きを残しておこう。
 ヤタガラスと言えば「三本足」というイメージが一般にも広く知られているが、この「三本足」という要素の源流は、おそらく中国の少数民族の神話からきたもので、日本神話固有のものではない。
 カラスという鳥は、世界各国の古い神話に登場し、善悪含めて多義的な役割を果たしており、中々一筋縄では読みとけない難物である。
 少なくとも、日本の幼稚な国粋主義者などの手に負える代物ではないのだ。
 
 私の描いたヤタガラスをパクってアイコンにしたネット右翼が、調子こいて某隣国のパクリ行為などをこき下ろしている様を見ると、心底うんざりする。
 私のマイナーな画像だけでなく、アニメやゲームのキャラの画像をパクってアイコンにしている奴等は、見ているだけで身もだえするほど恥ずかしい。
 おまえら、国籍は違っても似た者同士だよ。
 まあ好きなだけやりあえや。
 ただし、おれのイラストを即刻削除して、おれの宇宙の外でやれ。


 まあ、私がこんな毒を吐くまでもなく、世間のサッカー熱が冷めるとともに、移り気なパクリ野郎共は次なる流行りものにアイコンを変えるのだが。。。
posted by 九郎 at 22:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2014年07月16日

新たな身体バランスを求めて

 一年あまりで13キロ近く減量した。
 大雑把に言えば、減量前の体重から二割減ということになる。
 さらに大雑把にたとえれば、2リットルペットボトル6本以上の体積を、体からはずしたことになる。
 イメージとしては、おしりから両腿にかけて1本ずつ、腹回りから3本ほど、その他から合計1本あまりのボトルを、それぞれボコボコ取り外した感じだろうか。

 急激に落としたわけではなく、月に1キロほどのペースでじわじわ減量してきたので、体感として何かが劇的に変わったということはない。
 変化は非常にスローペースで、普段ずっと顔を合わせている皆さんには、減量していること自体に気づかれなかったくらいだ。

 ただ、さすがに気づかされる変化もある。
 普段リュックで背負っている荷物が、以前ほどには担げなくなってきたのだ。
 こと荷物を担ぐという行為に限って言えば、単純に体重が重い方が有利である。
 筋力云々以前に、カウンターウエイトとしての体重があれば、バランスでそれなりに荷物は担げてしまう。
 体重を失えばその分、筋力で持たなければならなくなるので、同じ荷重でも重く感じ、疲労する。
 たぶん歩く姿勢などを改良すれば、多少軽く担ぐこともできるのだろうけれども、まだ新しい身体バランスをつかみきれていない。
 これだけゆったりペースで減量しても、身体バランスの変化に対応できていないのだから、やはりあまり急激な減量はやめておいてよかったと思う。
 体調を崩すか、どこかの関節を痛めた可能性が高い。
 せいぜい月に1〜2キロくらいの減量ペースが適当なのだろう。

 無理して腰痛を悪化させてはいけないので、普段使いのリュックを二回りほど小さくした。
 容量で言えば30リットルを17リットルに変更したのだ。
 以前のリュックが、普段使いにしてはデカすぎだったということもある。
 今にして思えば、体重のおかげで下手に荷物が担げてしまっていたせいで、骨格や筋力の許容量を超えた荷重が、支点である腰に日常的に掛かってしまっていたのだろう。
 私の腰痛の根本原因は、どうやらそのあたりにあったのではないか。
 
 普段担ぐ荷物はなるべく減らし、腰を養生しつつ、新しい身体バランスを模索する。
 いつかまた、ふらりと遍路の旅に出かける日のために。
posted by 九郎 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2014年07月21日

せっかくの海辺

 せっかく海辺の街に住んでいるのだから、たまには釣りにでも行きたいと思いながら、なかなか果たせずにいた。
 確かコンパクトな竿とリールは持っていたはずなので、あとは仕掛けを仕入れ、バケツやロープなどを揃えて自転車を飛ばせば、明日にでも釣りに行ける。
 わかってはいても、十年以上釣りから遠ざかっていると、ほのかな意欲はあっても、なかなか面倒臭さの壁を破れずに今まで来てしまっていた。
 この「海の日」を含む連休、思いきり心を奮い立たせてついに釣りにいった。

 長年ためにためてようやく釣りにいくのだから、ここはなんとしてもボウズは避けたい。
 感覚を取り戻すリハビリも兼ねて、まずはアホでも釣れる港のサビキ釣りから。
 サビキ釣りの仕掛けは100均でも入手可能だが、地元の釣り場情報を仕入れるためにも、近所の釣具店に行く。
 アミエビの冷凍ブロックと仕掛け一式、折り畳みのビニールバケツを購入し、近所の釣り場マップももらう。

 翌日、海へ。
 まあ、サビキ釣りだからどうやっても釣れます。
 久々のリール操作に手間取って糸を絡ませたりしながらも、のんびり小一時間。
 釣果はイワシ22匹と豆アジ6匹。
 さっさと食べきれる分量釣れたら、欲張らず撤収。
 このくらいあっさり帰った方が、次にまた出かける意欲が残る。

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 帰ったら、釣れた喜びの残っているうちに間髪おかずすぐさばく。
 ぐずぐずしていると生来の無精者なので、せっかくの新鮮な魚を台無しにしてしまう。
 簡単なさばき方をググってみて、イワシの頭と内蔵だけ手早く簡単に取り除く方法を見つけ、さっそく実行。
 豆アジと合わせて28匹を20分ほどで処理。
 やっぱり店で売っているのと色つやが全然違う。

 後は骨まで丸ごと食べるために唐揚げ。
 手間は最小限で、ものすごく美味しくいただけた。

 釣ったら食べる。
 食べない釣りならやらない。

 キャッチアンドリリースを趣味とする人を否定はしないが、自分の中のルールはこんな感じ。

 この夏の間に、また行きたい。
posted by 九郎 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2014年07月23日

ストレスの軽減

 kindleがまた一時、無反応になった。
 ちょっとスイッチを切ってもう一度点けようとすると反応がない。
 そのままうんともすんとも言わない状態が丸一日ほど続き、その後また正常に戻った。
 前にも一度、まったく同じ症状があったので、今回はやや余裕をもって回復を待つことができたが、余計なストレスであることには違いない。
 現状、私のPC環境は、オフラインで使用を続けているXPデスクトップと、ネット接続用のkindleだけ。
 kindleがイカれるとメールチェックすらままならなくなる。

 さっさとデスクトップを買い換えてネットもできるようにすれば問題は解決なのだが、なかなか踏み切れない。
 私の用途であれば5万円程度のデスクトップで十分間に合うし、いくら貧しいとはいえそのくらいの出費は大丈夫なのだが、PCの買い換えというものは金の問題だけではない。
 データの移行や、各種設定、ソフトのセッティングなど、新規購入後に待ち受ける膨大な作業量が、無精者の意欲を限りなく減退させる。
 加えて、私は絵描きなので、現状で慣れ親しんだペイントソフトや各種ツールが、新しいPCで果たして問題なく使えるのかどうかということも、非常に問題である。
 結果として「壊れないうちは現状のまま」という消極的な選択になってしまう。

 PCメーカーは、本当に買い換えて欲しいなら、このあたりのストレスの軽減をもっと本気で考えるべきだ。
 
 しかしまあ、秋口の試験が一段落したら、さすがに買い換え時か。。。
 
posted by 九郎 at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 電脳覚書 | 更新情報をチェックする

2014年07月25日

ダブルミーニングの魔力1

 久々に「怖い」ディズニー映画だったのではないだろうか。
 主題歌「Let it go」とともにロングヒットの「アナと雪の女王」のことである。
 映画本編に対しても主題歌に対しても、数限りなくレビューが乱れとび、ネット上でも様々な意見が飛び交っているようだ。
 その一つ一つについてはフォローしきれないし、そうしたくなるほど熱心なディズニーファンでもないのだが、この作品についてはちょっともの申したくなるだけの何かがあると感じる。
 世界的な大ヒット作について、あまり共感してもらえるとは思えないが、私的な妄想をつらつら書き綴ってみたい。

 私は今までディズニー作品をさほどきちんと追ってきたわけではない。
 子供の頃、子供として当然のように何作か観た(親に観せてもらった)あとは、思春期以降ずっと鑑賞から遠ざかっていた。
 本格的にディズニー作品と「再会」し、あらためてその凄みに気付いたのは大人になってからのこと。
 古い作品の著作権が切れ、廉価版DVDが書店のワゴンセールに一斉に並んでいた時期に、よく購入していた。
 中でもお気に入りは「ファンタジア」「白雪姫」の二作だった。
 公開から遥かな年月が流れてもまったく古びない「ファンタジア」の映像美やセンス、「白雪姫」の演技の細やかさ、上手さは、ほとんど異様ですらあった。
 時代の流れとともにディズニー作品の表現法方は3Dとなり、技術レベルや制作費は格段に上がったが、古い作品群には最近のものにはない「凄み」があると感じた。
 むしろ、作品にとっての「技術革新の意義」とは何なのだろうかと、考え込んでしまったりもする旧作鑑賞体験だった。
 単に私の好みの問題もあるのだろうけれども、旧作には色濃く漂っていた、お伽噺の「毒」や「狂気」の部分が、近年作になるほど薄れてしまってきている気がして、とくに3D形式になってからはほとんど食指が動かなくなってきていた。

 そんな私の視界に「アナと雪の女王」が飛び込んできて、激しく興味をひかれたのは、実際の映画公開よりもかなり前のことだった。
 何かの映画を観に行ったとき、その作品に先だって流れていた予告映像のなかに「アナと雪の女王」のものがあったのだ。
 人間界から逃避して一人山にこもったエルサが、その魔力を存分に解放して「雪の女王」と化し、主題歌「Let it go」を歌い狂う。
 今となってはあまりに有名になった、あのカタルシス溢れる予告編だ。
 観た瞬間、「うわー! これは売れるわ!」と唸ってしまったのを覚えている。
 その印象が強すぎて、その日なんの映画を観に行ったのかすら、もう思い出せないぐらいだ(苦笑)
 人形じみた3Dモデルがしきりに人間っぽく演技しながら動きまわる気味悪さは相変わらず好きになれなかったが、エルサの魔力で氷雪の城が築かれる映像美は、さすがの迫力だった。
 往年の「ファンタジア」を思いだしたのは、私だけではないはずだ。

 ただ、私の知っている「雪の女王」とあまりにかけ離れた内容が、少々気にかかった。
 原案となったアンデルセンの「雪の女王」は何度かアニメ化されている。
 確か子供の頃、ソ連で制作されたものを観たことがあったし、数年前にも日本でTVアニメ化されていて、友人が原画スタッフだったこともあり、何度か観た。
 原作もそれらのアニメも、幼馴染みの少年カイを雪の女王にさらわれた、少女ゲルダの旅の物語が主題だったと記憶している。


●「雪の女王 七つのお話でできているおとぎ物」
●ソ連版「雪の女王」
●NHKアニメ版「雪の女王」

 アンデルセンの原作は現在、著作権が失効しているので、各種無料本でも読める。
 原作に登場する「雪の女王」は、恐ろしい力を持つ謎めいた精霊で、あまり感情移入の対象にはなりにくいキャラクターだった。
 昔のディズニー映画なら「魔女」のカテゴリーで登場するべき役柄で、名作と評価されるソ連アニメ版では、まさしくそうした「魔女」的な描かれ方をしていた。
 アンデルセンの原作を久々に読み返してみると、雪の女王は必ずしも「魔女」ではなく、日本の近年作TVアニメではそのあたりの多義性も含めて描かれていたが、今回の映画はそれとも全く違う。
 新たな「雪の女王」はかなり可憐で、自分の持つ魔力のせいで孤独を抱えた悩める少女として、鮮烈に登場した。
 予告編から内容を察するに、今回の映画は「雪の女王の視点から見た物語」であるはずで、おそらく不思議な力を持つ孤独な少女が「雪の女王」になるまでを描いた、「エピソード0」的なものになるのではないかと思われた。
 実際公開された映画は、そんな私の予想をはるかに超えて、原作がほとんど原型をとどめないほど魔改造されたストーリーになっていて驚いた。
 たぶん企画段階では私が予想したような方向性だったのではないかと思うのだけれども、「雪の女王」という存在を現代のディズニーヒロインとして肯定的に描く過程で、「全く別物」に変わっていったのではないだろうか。
 原作には登場しない妹アナの存在が救いとなって、ついに魔的な「雪の女王」にはなりきらなかった少女エルサの、パラレルワールドの物語とも解釈できる。

 原案になった物語を、何がなんでもハッピーエンドに持っていかずにはおかない近年のディズニー映画のあり方には、もちろん批判もあることだろう。
 かくいう私も、最近作のそういう「ぬるさ」が気にくわなかった一人なので、それはわかる。
 しかしもう大人なので、莫大な制作費をかけて世界的なヒットが義務付けられたスタッフの艱難辛苦も、それはそれとして当然理解できる。
 今回の映画、とりわけ予告編の凄まじいクオリティは、商業的な成功や、年少者向け表現抑制にがんじがらめに縛られたスタッフが、それでも表現者としての自我を押し通した離れ業ではないかと思える。
 ものすごく高度なダブルミーニングがあの予告編には込められているのではないかというのが、私の今回の「妄想」なのだ。

 ここであらためて、あまりにも有名になった今回の映画の予告編を振り返ってみよう。
 動画サイトでも公開されているので、観たいときに観ることができる。

 わずか数分の映像だがものすごく密度が濃く、何度観ても飽きない。
 映画本編の面白さは予告編を上回ることはない、とはよくいわれることだが、「アナと雪の女王」についてもそれは当てはまるだろう。
 劇中で最も印象的でハイクオリティな数分間を、惜しげもなく予告編として先行公開したことが、今回の世界的な大ヒットの原動力になったのは間違いない。
 映画本編とともに、こちらも大ヒットとなった主題歌「Let it go」を口ずさむとき、誰もが頭に思い浮かべるのは予告編の映像だろう。
 あの主題歌は、映画のワンシーンで少女エルサが歌い狂う「劇中歌」と、エンディングで流れるPOPSバージョンがあり、日本語版では前者を松たか子、後者をMayJ.が歌っている。
 どちらの出来も良いのだが、どうしても「劇中歌」バージョンの方が脚光を浴びてしまうのは仕方のないことだろう。
 なにしろ、劇中での映像と歌声のイメージが強烈すぎたのだ。
 下手をしたら、劇中でその後色々あったストーリー展開を全部吹っ飛ばしてしまうほどに、エルサが「ありのまま」の姿を見せるシーンは凄まじかった。
美しい映像、解放感のあるメロディに、日本語版では松たか子の伸びやかな歌声が加わって、理屈抜きのカタルシスを観るものに与えてくれる。
 日本語の歌声と、本来英語版に合わせて作られているはずのエルサの口の動きが、ほとんどずれて見えないところがまた凄い。
 映像美と素晴らしい歌声に酔いしれながら、しかし私はエルサが歌のおしまいに「少しも寒くないわ」と呟きながらパタンとドアを閉めるシーンで、ふと我に返ってしまった。

「これ、人間界で生きることを諦めて、たった一人引き込もって自己実現するってシーンだよな?」

 映画本編ではその後もストーリーは続き、妹アナの挺身により、エルサは自分の持つ氷雪の超能力を制御して人間界に還ってくるまでが描かれている。
 ストーリーの上では一応ハッピーエンドの形になっているのだが、あの衝撃的な予告編で描かれているのは、あくまで「エルサが人間であることを諦めたことによるカタルシス」なのだ。
 歌詞の中で「もう自由よ、なんでもできる」と独白するエルサは、確かにこの世のものならぬ豪華で美しいお城とドレスを創り出すけれども、相変わらずたった一人だ。
 幼い頃からずっと城の一室に閉じこもってきた少女は、自分では「なんでもできる」と思っていても、リアルに思い描いて創り上げることができるのは、自分がこれまで与えられてきた「お城とドレスと孤独」という環境から一歩も踏み出せていないのだ。
 美しいけれども、なんと痛々しい「解放」だろうか。
 結局、この時点でエルサが解放されたのは、国を治める王女としての責任と、自分を隠さなければならない重圧からだけであって、何一つプラスとして得たものはない。
 巨大すぎるマイナスが、多少小さくなっただけなのだ。
 そして、そのささやかな解放の代償として支払ったものは、普通の人間として生きていく幸せのほとんど全てということになる。
 考えれば考えるほど「怖い」シーンなのだ。
 劇中歌は全世界で大ヒットしているけれども、予告編でも使われたシーンそのままの意味で受け取られているとは到底思えない。
 とくに日本語版では、ただ一見口当たりの良い「ありのままに〜」という言葉のイメージと、映像の美しさ、解放感の部分、ストーリー終盤のハッピーエンドの展開が大いなる「誤読」を生んで、多くの支持を得ているとしか私には思えないのだ。
 そしてその「誤読」による商業的な成功は、世界最高峰のエンターテインメント制作集団が意図的に仕掛けた、巧妙なダブルミーニングではないかとも思えるのである。

 創作を志す人間の内には、必ず魔的な部分が存在する。
 それは言いかえれば狂気であるし、うまく制御できなければ自分や周囲を滅ぼし、そのまま世に出せば強烈な毒になりかねない部分だ。
 その構図は「自分が生まれ持った魔力をもてあますエルサ」と相似していて、作り手側がエルサに感情移入しやすいのはある意味当然だ。
 ものを作ろうとする人間は、多かれ少なかれ「人としてあたりまえ」を諦めて、その場に立っている。
 作り手が作品に深く感情移入すればするほど、その表現は鮮烈となり、印象は強くなる。
 ごく限られた鑑賞者を対象とした作品であれば、作り手は自分の内の狂気や魔力を、それこそ「ありのままに」存分に解放することができる。
 しかし、対象とする範囲が広ければ広いほど、表現には幾重にも枷が嵌めらる。
 今回の映画の場合、作り手が本当に表現したかったのは予告編に取り上げられた「人間界を捨てることの解放感」の数分間で、その後のハッピーエンドに至るまでの展開は、意地悪な見方をすれば「毒を薄めるための長い言い訳」なのではないだろうか。
 そうした視点から劇中歌の歌詞を再読すると、なんとなく聴いていたときの印象が、ことごとく裏返る。
 あくまで「聴きようによっては」ということであるけれども、劇中歌は甘美に「魔の領域」に誘いかけるのだ。

 人並みを諦めよ
 孤独を愛せよ
 たった一人で自分だけの美しい城を築け
 
(つづく)
posted by 九郎 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2014年07月28日

ダブルミーニングの魔力2

 ありのままで……
 自分を好きになって……
 自分を信じて……

 世界的な大ヒット中のディズニー映画「アナと雪の女王」。
 その日本語版主題歌の中で、繰り返し発せられるメッセージである。
 翻訳の正確さの問題として、原題「Let it go」の日本語訳が「ありのままで」で本当に良いのかという議論は当然あるだろう。
 タイトルだけでなく、直訳するとかなり刺激的な英語詞の内容が、全体にかなりマイルドに改変されているのは確かだ。
 あくまで現代日本の国民性に合わせ、作品内のニュアンスと、バランスとして近くなるように綿密にリサーチした結果であろうから、そこの差異は本質的な問題ではないと思う。
 また、なるべく英語の口の動きと似た日本語を探さなければならないという制約もあっただろう。

 例によって偏屈者の戯言と聞き流してほしいのだが、私はこの歌詞に見られるような「ありのまま」とか「自分を好きになって」とか「自分を信じて」とかいうメッセージが、あまり好きではない。
 それこそ「ありのままに」ぶっちゃけると、世に多数存在するそうしたメッセージを発する作品や作者が大嫌いであるし、喜んでそれを受け取っている客もバカではないかと思っている。

「そうよね、ありのままでいいよね」とか、
「もっと自分を好きにならないとね」とか、
「もっと自分を信じないとね」とか、
 そんなことを安易にお気楽に思ってしまう人間に対しては、
「もっと血を吐くほど苦労した方がいい」と思うし、
「一回とことん自分を嫌いになってみろ」と思うし、
「こんな未熟で欠点だらけでつまらない自分なんて、信じられるわけなんてないだろ」と思う。

 はい、気違いですとも。
 どーもすみません。

 責任感が強かったり、感覚が鋭敏であったり、生真面目な努力家であったりして、自己否定的な気分になりがちな者に対して、ぎりぎりの救いとしてそのようなメッセージはあってよいと思う。
 しかし、日常生活の中で普段使いの言葉として持ち出すのは違う。
 世に溢れる「ありのまま」という擬似餌に食いつく者の大半は、結局「自分を甘やかしてくれそうな気持ちいい言葉」を消費しているだけであって、その餌に一旦食いついてしまうと、世間的にはとことん「使えない」人間に成り果てていく。
 最初から人間的な努力を放棄して、ぬるま湯に浸かって自己充足する人間ばかり量産する「ありのまま真理教」は、まことに罪深い。
 似たような嫌悪を感じるものに、「癒し」とか「ヒーリング」とか「スピリチュアル」とか「自分らしく」とか「オンリーワン」等の言葉がある。
 本来の意味で用いることには敬意を払いたいと思うが、非常時用に大切にとっておくべき「気付け薬」を、だらだらと普段から節度なく弄ぶような用法は、正直キモい。

 今回の映画の中の少女エルサが独白する「ありのまま」は、そのようなぬるま湯連中とははっきり違う。
 エルサの背負う重圧は、特異な能力にしても、国を治める責任にしても、生まれながらのものであって、本人が選択できる性質のものではない。
 劇中のエルサは、理不尽極まりない宿命の中で、なんとか責任を果たそうともがき苦しんできた少女であり、故意ではないにしても可愛い妹を殺しかけてしまったという悲惨なトラウマを持つ少女である。
 幼い頃から人並みの暮らしを全て捨て、ただただ自分の能力を隠し通すことだけを教えられ、途中からは両親の庇護すら失ってしまった少女である。
 それだけの犠牲を払ってもなお望む結果を得られずに、人間界を捨てなければならなくなった少女である。
 そんな少女が、生死のぎりぎりの境目で、「ありのままの自分」を「好きになる」とか「信じる」という最後の一線に、必死でとりすがろうとするのは理解できる。
 エルサの歌う劇中歌としての「Let it go」は世界的な大ヒットだけれども、エルサの孤独な心の叫びとしての「ありのまま」と、巷の皆々様が気持ちよく唱和する「ありのまま」は、用法が全然違いやしませんかと、マイナーブログを運営する偏屈者はどうしても余計な一言を挟みたくなるのだ。

 今回の映画の主題歌が世界的にヒットしている現状は、作り手側の巧妙なダブルミーニングが効を奏した結果ではないかと妄想している。
 表向きは万人受けしやすい「ありのまま真理教」的な言葉の断片。
 しかし作り手の真意は、世界のどこかにいる、生死の境目で切実に「ありのままで」という救いを必要とする者たちへのメッセージ。
 万人向けのライトな表現の裏に隠された、ほんの一滴の刺激物。
 それが感じられるからこそ、偏屈者が柄にもなくこの超メジャーな作品について長々と書き連ねているのである。

 日本語版劇中歌、松たか子の歌声にも、ちょっと特別なものを感じる。
 街中の喧騒、例えばコンビニ等でかかっていても、すぐに耳に飛び込んでくるのは、あの伸びのある特徴的な歌声だ。
 松たか子の本業は女優。
 過去にもヒット曲はあるものの、歌はあくまで「余技」であると、本人も思っていることだろう。
 今回は歌劇仕立ての作品だったので、演技の中の一要素として劇中歌も歌っている。
 女優として厳しく訓練された声なので、もちろん素人レベルとは比較にならないが、歌手的な歌の上手さとは種類が違う。
 生まれもった声質を最大限に活かしながら、雪の女王エルサそのものになりきって「演技」しているからこその印象深さなのだ。

 それはバージョン違いの主題歌を歌っているmayJ.と比較すればよくわかる。
 MayJ.はカラオケ番組でもよく知られた歌唱力クイーンで、元になった英語版主題歌を、非常に高いレベルで日本語におきかえてカバーしている。
 映画のエンディングで流れるバージョンの主題歌は、エルサの歌う劇中歌とはアレンジが違っていて、同じ歌詞の内容を一旦「雪の女王の独白」から切り離して、「普通の女の子の心情」を歌っていると受けとりやすいものになっている。
(私の妄想で解釈すれば、ダブルミーニングのうちの「表」のニュアンスを担当していると言っても良い)
 さすがMayJ.は、要求されている課題に対し、100点満点に近い解答をしているのだけれども、印象としては(本来「裏」担当であるはずの)松たか子の劇中歌に及ばない。
 それはある意味しかたのないことで、いくら超絶歌唱力であっても、そこには観るもの誰もが目を見張った、あの予告編の「雪の女王の乱舞」が存在しないのだ。
 歌唱力クイーンのMayJ.は今回、女優松たか子という「天然モンスター」と競いあってみて、様々に思うところはあっただろう。
 いくら歌番組でその超絶技巧を披露しても、結局松たか子の劇中歌バージョンに、評価を全部持っていかれてしまうのだ。
 表現の世界には、そういう不公平が普通に存在する。
 この理不尽を闘いきることで、MayJ.は「TVで見たことがあるカラオケ名人」から、一段階脱皮することが出来るかもしれない。
 MayJ.の場合は、タイプ的にその壁を乗り越える鍵は「更なる過剰な技術の研鑽」ということになるだろう。

 これだけヒットしているにも関わらず、当の松たか子がほとんどメディアに露出せず、一向に生歌を披露しないことについても、色々言われている。
 おそらくディズニーとの契約内容がものすごくシビアなのであろうことは容易に想像できる。
 詳しい事情は知らないが、私から見れば女優が公演中に役作りを最優先することには、なんの不思議も感じない。
 映画本編の公開からDVDリリースに段階は進んだけれども、「アナと雪の女王」はいまだ絶賛「公演中」の作品である。
 劇中で「一人氷雪の城に閉じ籠る」ことで、物語に強烈な求心力を持たせる役柄の女優は、公演中にひょこひょことバラエティー番組などに出演して素の顔を晒してはいけないのである。
 それは劇中の孤独なエルサのイメージを激しく損なう。
 何もしないことで逆に存在感を示し続けるというのは、演技のなかでもかなり高度な部類に属するが、今回の松たか子はいまだにその高度な演技を強い精神力で持続し続けているように見えるのだ。
 もう一人の主人公である妹アナ役の神田沙也加がTV出演しているのは、とくに問題無い。
 映画の中で、一人動かないことで求心力を作った姉エルサに対し、アナは縦横無尽に動き回ることで物語の推進力になったのだから、それを演じた女優が積極的にメディアに露出することは作品のイメージを壊さない。
 動かない松たか子と、動き回る神田沙也加の対比が、うまく回転しながらヒットをさらに煽っている。
 その絵図を描いている特定の個人が存在するのかどうか、私は知りうる立場にない。
 しかし、もしそうした個人が存在するなら、世の中には恐ろしいほど頭の回る人間がいるのだなと驚嘆せざるを得ない。

 そもそも、松たか子と神田沙也加というキャスティング自体が絶妙なのだ。
 二人とも超一流芸能人の親をもつ「二世」であり、その生い立ちが今回の「孤独な王女姉妹」という役柄への感情移入や役作りにプラスに働いたであろうことは想像に難くない。
 両者ともに、実年齢から考えるとかなり印象の若いタイプであることも、劇中の姉妹と共通している。
 劇中のエルサとアナの年齢設定は、それぞれ20才と17才くらいだろうけれども、文字通りの箱入り娘、お姫様育ちであったせいで、精神的な発達段階としては14才と10才くらいに感じる。
 そうした役柄を、たとえ声だけとは言え演じるためには、あまり成熟したタイプの女優では不可能だっただろう。

 松たか子の場合、劇中歌で披露された「伸びやかで特徴的な声質」という先天的要素を存分に活かした役作りをしており、「生まれながらの特殊能力を持つ少女」を演じるにあたって、シンクロしやすかったのではないかと想像してしまう。
 やや生硬に見える演技や歌声も、「長年幽閉状態にあったせいでコミュニケーションが苦手な少女」というエルサの役作りとしては、ぴたりとハマる。

 神田沙也加の場合、「本人はわりと普通だが、ごく近い肉親に強烈な個性をもつ女性長上者がいる」という、映画の内容に近い構図がある。
 そのことが今回の役作りに影響を及ぼしていると考えるのは、妄想が過ぎるだろうか。
 主題歌「Let it go」とともに親しまれている劇中歌「雪だるま作ろう」「生まれてはじめて」「とびら開けて」などは、いずれも神田沙也加の抜群の「演技力」が光っている。
 声や歌唱力ももちろん素晴らしいが、特筆すべきは「演技力」だろう。
 彼女の歌声のなかに、誰もが知る「あのお母さん」の声によく似た響きを聞き取ることは容易い。
 しかしこれらの作品の輝きはそうした「先天的な声質」というよりは、芸能人として有名すぎる母親を持つ神田沙也加が、血の滲むような舞台女優としての修練の果てに獲得したであろう技術、つまり「後天的な修行」の賜物ではないかと感じる。
 少女アナへの感情移入と役作りの成功が、劇中歌の印象深さの源泉になっているのだ。

 ここ二ヶ月ほど、映画「アナと雪の女王」の音楽を収録したCDを聴き狂っている。


●「アナと雪の女王」オリジナル・サウンドトラック -デラックス・エディション-


 聴き狂いながら、私の妄想はとめどなく続き、ついにはこうして長い記事を書き記すまでに至った。
 この極めて高度な「演劇的空間」は、日本においてはまだまだ長くつづくだろう。
 どこかの時点で、岩戸隠れ状態の「エルサ役の松たか子」が表に出てくることが、真の終幕になると思うのだが、それはどんな形になるのだろうか。
 期待しつつ、その時を待っている。
posted by 九郎 at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

蝉時雨追想

 もう何周目か定かではないけれども、マイ長渕ブームの真っ只中である。
 数年に一度、このマイブームは訪れる。
 ここしばらく毎日毎日飽きもせず、ウォークマンで聴き続けている。
 少し前までは、まったく種類の違う音楽を聴き狂っていたのだが、針が逆方向に振れ始めているようだ。

 私は中高生の頃から長渕ファンだったのだが、常時聴き続けるタイプではなく、数年に一度、波長の合った時だけ短期集中で聴き狂うタイプだ。
 がっちり歯応えのある音と言葉の世界を腹一杯貪って飽和したら、またしばらく一切耳に入れない時期が続く。
 カラオケの持ち歌もいくつかあるが、普段は歌わない。
 だってカラオケでナガブチは、まわりの目が気になるじゃないですか(笑)

 長渕剛という異能の語り部については、以前にもかなり長い記事を書いた。

 狂気を封じる鎧1
 狂気を封じる鎧2
 狂気を封じる鎧3
 狂気を封じる鎧4
 狂気を封じる鎧5

 自分の中では十分に語り尽くしてもう何も出てこないのだが、この一ヶ月ほどアクセス解析で上掲記事の閲覧がけっこう増えていた。
 何事かと思ったら、ナガブチのベスト盤が出ていた。


●「Tsuyoshi Nagabuchi All Time Best 2014 傷つき打ちのめされても、長渕剛。」 (初回生産限定盤)(DVD付)

 そう言えば、近所のローソンでツアーのポスターが貼ってあったり、「語録」が並んでいたりしてたっけ。
 ローソンは以前から何故か「長渕推し」だ。
 ファン歴こそ長いけれども、私は期間限定の断続的な聴き手なので、常に注視しているわけではない。
 だから長渕の動静はけっこうローソンの店頭ではじめて知ったりする。

 ベスト盤かあ……
 それなりの枚数、長渕剛のCDを持っている身からすると、ちょっと微妙なのである。
 ベスト盤となると、どのアーティストでもシングルコレクション的なものになりがちだ。
 まあライトなファンにとってはお買い得感があるかもしれないが、同じような曲調が十数曲続いたりして、まとめて聴くには苦しかったりする。
 ラーメンにたとえると「チャーシュー15枚のせ」みたいな感じになって、ちょっとキツい。
 長渕剛の場合、ファンに長く愛されている曲はシングルカットされていないものも多い。
 シングルコレクションではなく、そういうアルバム曲が多数収録された場合であっても、それはそれで濃い曲ばかり集まった「ナガブチ特濃絞り汁」みたいな感じになって、キツいのである。
 しつこくラーメンにたとえると「トッピング全部のせ」状態で、自分が今何を食っているのか分からなくなり、若い頃に比べめっきり食の細くなった身にはしんどいのである。
 当たり前だが、それぞれの曲はそれぞれが収録されたアルバムの中で、ストーリーに沿って聴くのが一番だ。
 
 ただ、今回のベスト盤は4枚組ということで、シングル曲もアルバム曲も一応CD一枚ずつの起承転結は考えて収録されているようだ。
 昔の曲のリメイクはなく、昔のあのバージョンのまま、音質だけ現在のレベルにリマスターされているのは良い選択だと思う。
 ナガブチの場合、リメイクすると曲が全く別物になってしまいがちで、今回のように「昔のまま収録」の機会はかえって貴重だ。
 今の各種再生機器に相応しい音質で昔の名曲をまとめて入手したい人には、チャンスかもしれない。
 
 正直、古くからのファンには「今さら」感の漂うベスト盤なのだが、そこらへんはちゃんと対応策がとってある。
 初回限定盤に、かなりレアな映像が収録されたDVDがプラスされている。
 このDVD、単なるオマケとあなどるなかれ、とくに80年代後半のナガブチにハマった人間は、何をおいても入手すべき秘蔵映像なのだ。
 アルバム「Stay Dream」ツアーの新発掘ライブ映像だと聞けば、それだけで心がざわつき始めるアラフォーはけっこういるだろう。
 なんのことか分からない人は、以下の文章を読む必要はない。
 ある特定の年代に向けた、半ば私信のような内容になる(笑)

 あの頃、私には一人の友人がいた。
 海辺の街で一人暮らす、ハックルベリー・フィンみたいな少年だった。
 別に孤児というわけではなかったが、親元から離れているということと、孤独を愛するキャラクターがハックやスナフキンを思わせたのだ。
 この友人のことは、上掲の長渕剛関連記事やその他で、何度か取り上げてきた。
 実際によく遊んでいた期間は中高生の頃の一年間くらいなのだが、私の中で一番影響を受けた友人の一人である。
 実はいまだにその影響は続いている。

 カテゴリ「どんと」
 竜巻追想

 感性が鋭くて、同世代で一人だけ、別の世界を眺めているような少年だった。
 私はそんな彼の趣味嗜好に関心があって、よく海辺の部屋に遊びにいっていた。
 漫画や小説、音楽など、彼の部屋ではじめて手にとって、後に私のフェイバリットとなったものは数多い。
 書いていて思い出したが、大友克洋も平井和正も、最初は彼の部屋で読んだのだった。
 その中に長渕剛のレコード(!)もあった。
 そう言えばあの頃が、ちょうどレコードからCDへの移行期だった。
 彼のレコードを原盤にダビングした長渕のテープは、仲間内みんなが所持していた。
 ギター弾きでもあった彼は長渕のギター教本を持っていて、そこからコピーさせてもらったコードネーム入りのページを歌詞カードがわりに、毎日日課のようにテープを聴き込んでいた。
 自分でもギターを手に取り、好きな歌を口ずさむ伴奏程度にいじって遊び始めたのもその頃だった。
 これも、今に続く私の趣味のひとつである。
 
 当時は長渕剛のキャリアの中でも一番の転換期にあった。
 後のインタビューで、長渕自身が「二度目のデビュー作」というニュアンスで語っているアルバム「Stay Dream」がリリースされたあとで、これも後に「伝説」と呼ばれるようになったギター一本の弾き語りツアーがはじまっているタイミングだったと記憶している。
 あの頃、アコースティックギター好きの人間はみんな長渕に注目していたと思う。
 尾崎豊も活躍していたが、私の仲間内では断然長渕だった。

 その年の年度末あたり、かの友人が学年末試験の直前に長渕のライブに行った。
 今から振り返ってみると、長渕の熱心なファンが「あの伝説のツアー」を体感するためなら、試験勉強を投げるのも十分「あり」だと思う。
 しかし、自分が見に行こうとしているライブがそのような「伝説」になるかどうかなど、事前に予測できるわけがない。
 学校生活が生きることのほとんど全てであるような年若いファンに、そのような選択をさせてしまうほど、当時の長渕には「何かが降りてきていた」ということだろう。
 かの友人の鋭敏な感覚が「何をおいてもこれは見ておかなければならない」と告げたということもあっただろう。
 その後、友人は諸事情で転校していき、私と彼の交流も一旦途絶える。(その後、思わぬ形で再会することになる)

 長々と何を書いているかというと、今回リリースされた長渕のベスト盤の初回特典DVDが、その「伝説のツアー」を収録したものなのだ。
 伝説とまで呼ばれながら、今まで映像も音源もあまり出回らなかったライブが、ついに公式に発表されたのだ。
 収録されているのは追加公演分なので、まさにかの友人が見に行ったライブそのものである可能性もある。
 私の中に少しばかりは残っている「いつかの少年」の部分が、ざわざわと蠢き始めるのである。

 実は私は、その当時のライブを収録した録音テープは持っていた。
 別に違法なものではなく、FMの音楽番組で放送されたライブの模様をエアチェック(この言葉も懐かしい!)したものだ。
 今でも探せばどこかに残っているはずで、「そろそろデジタル化しないとな」と思い続けてもう何年も経つ……
 弾き語りアレンジの各曲はどれも絶品だったし、ラジオ番組の女性司会者との会話も良かった。
 当時流れていた長渕剛ナレーションのカップヌードルCM「おーい、トム・ソーヤー」も挟まっていて、時代の空気をそのまま詰め込んだ、私の宝物のような録音テープだった。
 友人の去った後、元々持っていた孤独癖が更に強まった私は、いつまでも飽きずに繰り返しそのテープを聴いていた。

 初回特典DVD目当てに、ベスト盤を買った。
 映像を見ながら、色々記憶がよみがえってくる。
 「一人美術部」として夏休み明けの文化祭展示に備え、ひたすら絵を描き続けていた8月も、あのテープをずっと聴いていた。
 
 今でも私は、夏の間には何かまとまった作品を手掛けなければならないような強迫観念が残っている。
 

 試験勉強もしないといけないのだが(笑)
posted by 九郎 at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする