blogtitle001.jpg

2015年10月13日

長袖

 バタバタしてる間にもう十月も半ばか。
 書いておくべき記事もたまりっぱなしだが、とりあえず長袖に着替えた。
 
 子供の頃から薄着で通してきた。
 小学生の頃、真冬はさすがに上着を着ていたが、半ズボンが基本だった。
 母親が「私が着せてると思われる!」と悲鳴を上げていたが、太ももに網目模様を浮き立たせながらも半ズボンだった。

 大人になってからも一年のうち七ヶ月近くはTシャツだった。
 さすがに半ズボンは真夏だけになったが、町で自分以外の半袖シャツの人を見かけなくなるまで、だいたいTシャツで過ごすことが多かった。
 時期にすれば十月下旬。

 しかし、近年はいい加減歳くってきたので、半袖シャツは一年のうち6ヶ月程度に短縮した。
 十月の最初の週末頃、「そろそろ長袖でも引っ張り出すか」と、きわめてめんどくさそうに最低限の衣替えをするようになった。
 持病のぎっくり腰と胃腸炎を避けるためである。
 どちらも睡眠不足と冷えが引き金になりやすいことは、経験上わかってる。
 このところバタバタしていて睡眠時間が削られがちだったので、せめて暖かくしておかないと、あとでひどい目に遭うことになる。
 とくに胃腸炎はヤヴァいのである。
 前回はあやうく入院レベルになるところだった。
 
 自分の体調についてブログに記録するようになってから、多少の学習効果はあった。
 これで一年半ほど、どちらの持病も発症させずに済んでいる。
 
 普段、できるだけ薄着がいいというのは基本。
 ただ、何事もやり過ぎる性格なので、「ほどほどに」と念仏のように唱えつつ、年を取っていかねばならぬ。
posted by 九郎 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

文学フリマ大阪2015

 もう一ヶ月前になってしまったが、文学フリマ大阪に参加してきた件を記事にしておかなければ。

 文学フリマというイベントの詳細は、公式サイト参照。

 一応文章表現がメインの同人誌即売会だが、扱うネタの制限は極めて緩く、出店側が「これが文学だ」と信ずるならば、けっこうなんでもありに近いようだ。
 同人誌即売イベントでは漫画/コミックが主流で、中でもメジャー作品を元ネタにした「二次創作」と呼ばれるジャンルが大半を占めている。
 私なりの理解では、文学フリマはそうした二次創作コミック主流の即売会では埋もれ、こぼれ落ちがちな創作活動を掬い上げる試みの一つではないかと思っている。

 私の同人誌制作歴はかなり長く、もう四半世紀を超えつつあるけれども、いままで「即売会」形式のイベントとは縁がなかった。
 今こうして神仏与太話ブログで書き綴っているような内容を、以前は同人誌中心でやっていたのだが、二次創作コミック主流の即売会には馴染まないだろうなと初めから諦めていたのだ。
 数十部単位でコピー手製本の冊子を作り、関係者に配布したり、厳選したフリマ会場に並べるのが相応だと考え、実際そのようにしてきた。
 ブログを始めてからはこちらがメインになって、紙の本の制作ペースは落ちていた。
 自分の主な興味の対象には、世間的な需要は少ないだろうという自覚があるので、どうしても読者の限定される紙の本より、ワード検索でたどり着いてもらいやすいネットの方に重心が移ってくる。

 しかし同時に、ネットでの表現の限界というものも、感じてはいた。
 炎上避けや、個人特定避け、その他様々な理由で、踏み込んだ内容が書けないケースが意外と多いのだ。
 そうなると、再び紙の本を作ってみたくなってくる。
 今回の文学フリマ大阪開催は、私のそんな気分とタイミングにぴったり合っていたのだ。

 折よく、学生時代に所属していたサークルの後輩の皆さんが、出店するらしい。
 何しろ同人誌即売会は足を運ぶこと自体が初めて。
 勉強のため、便乗して本を置かせてもらうことにした。
 けっこう年齢差があるので、年寄りが邪魔しないよう遠慮しながら……

 紙の本にしたいネタなら色々ある。
 そろそろ10年になろうとするブログの中で、上記のような理由から内容的に「寸止め」になっているものは多いし、いまだに記事としてアップせず温存しているネタは「ネットで広く公開」に馴染まず、どちらかというと紙の本向けであるとも言える。
 あれこれ迷う中から、今回は以下の二冊を制作することにした。

bf0004.jpg


●「図工室の鉄砲合戦」
 特設ブログ放課後達人倶楽部で公開中の児童文学作品。
 個人的には、久々に「完全燃焼」の感覚が味わえた、現時点の自己ベスト作である。
 角川つばさ文庫の新人賞、二次選考通過作品。
 ブログではカラーイラストを添えて公開中だが、紙の本にするために約40点の線画をモノクロ印刷向けに描き直し、文章にも少々加筆。
 A5サイズ84ページ、コピー印刷手製本。
(ポップによる紹介)
「小学校で銃撃戦?! 地味でイケてないメガネ男子、一世一代の大勝負!!」

●「怪しき夢路 〜UGLY DREAMER〜」
 カテゴリで順次公開中の内容を、先取りして一冊にまとめたもの。
 四半世紀に及ぶ夢記録の中から、厳選した怪夢39点に、奇ッ怪イラスト75点を添付。
 夢だけに、ネット公開せず紙の本限定のネタも多い。
 A5サイズ60ページ、コピー印刷手製本。

 原価割れしないよう、またなるべく釣り銭が煩雑にならないよう、どちらも定価300円に設定。
 とにかく「読んでもらう」のが目的なので、値段は高すぎても安すぎてもいけない。
 儲けは期待しない方が良いけれども、原価割れで「無料配布」に近い状態で受け取ってもらっても、まず読んではもらえない。
 続けることが負担にならないよう、また、自分で作品の価値を卑下しないよう、原価+αくらいの値段設定にはした方が良い。
 少しでも興味をもって立ち止まってもらえたら、とにかく積極的に話す。
 内容はブログでも公開中であることを明らかにし、購入に至らない人にもブログ「縁日草子」や、フリーマーケットでの屋号「縁日屋」の宣伝チラシを一枚でも多く手渡す。

 ……等々、同人誌即売会は未経験ながら、以上のようなフリーマーケットで学んだ心得は、文学フリマ当日も役立ってくれた。

 イベント自体、物凄く楽しかった。
 間借りさせていただいたサークルの後輩の皆さん、参加ブースの中で「これは」と感じた皆さんと交流できたのが何よりも良かったし、本も渡すべき人には渡ったと思う。
 
 次回は是非、フルスペックの縁日屋を出店し、絵解き説教など披露してみたいと思う。
 
posted by 九郎 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2015年10月27日

魔神追悼

 イラストレーター、生ョ範義先生がお亡くなりになったようだ。
 以前の投稿した関連記事を加筆再掲して追悼としたい。
------------------
 送付されてきた!!!
 以前にも記事にしたイラストレーター生ョ範義(おうらい のりよし)展の図録である。
 私が最もリスペクトするイラストレーターの一人が生ョ範義先生で、展示とあれば是非とも駆けつけたいところなのだが、なにせ九州開催・・・・・
 せめて図録だけでも手に入れようと思ったのだが、その時点で通販の受付はすでに終了していた。
 3月1日から始まった二次受付になんとか滑り込みで間に合い、待ち焦がれていた図録が送付されてきたのだ。

 じっくり見る。
 じっくり視る。
 じっくり観る。

 色々記憶がよみがえってくる。
 私が「生ョ範義」というやや難読の名を、その独特の強烈な作風とつなげて認識したのは中高生の頃だった。
 当時の私はSF作家・平井和正の作品に耽溺しており、その頃の平井作品の挿画の大半を担当していたのが生ョ範義だったのだ。
 日本人が描いたとは思えないような重厚で豪華な画風に圧倒され、表紙絵等のバージョン違いのためだけに平井作品を買い漁ったりしたことを、懐かしく思い出す。
 そこから遡って、それ以前に接した吉川英治の三国志イラストや、映画「スターウォーズ」のポスターなども氏が手がけた作品であったことを知り、驚愕した。
 さらに子供の頃繰り返し開いていた学研の図鑑「人とからだ」の、超絶人体イラストも氏が手がけていたことも知り、驚愕は重なる。
 当時から自分でも絵を描いていた私は、その画風の万分の一でも吸収しようと、油絵のように厚塗りできるリキテックスを買い込み、修練に励んだ。
 とくに「幻魔大戦」シリーズの荒々しいタッチの表紙絵は、生ョイラストの表現上の特徴がよく表れていて参考になった。
 例えば以下のようなイラストには、はるかに時の流れた私の画風にもその影響が残っている気がする。
(あくまで「影響」ですよ……)

respect02.jpg


majin-z-01.jpg


setu-20.jpg


 遅ればせながらCGで描くようになってからも、私はあまり多くの機能は使わず、どこか「手描き」風味にこだわり続けているが、その源流が生ョ範義先生にあることは間違いない。
 
 今回の図録、過去に出版された作品集に寄せたご自身の言葉なども収録されている。
 そう言えば私が学生の頃、図書館で1980年代に出版された画集を見つけ、何度もくり返し借りたり、飽きずに閲覧し続けたりしたことも思い出す。
 多分図書館にあったあの本を一番多く開いたのは私ではないだろうか(笑)
 映画のポスターも多く手がけられた生ョ範義先生の画風を眺め続けたおかげで(?)、学生時代に映画館の看板描きのバイトをやった時も「なかなか速くて上手いな」と社長に褒められたっけ。
 90年代当時ですら、もう手描きの映画看板は絶滅寸前だったので、あれはいい経験だったなあ……
 絵を描くことが収入につながったのは、あのバイトが最初だった。
 
 少し前の新日曜美術館アートシーンで、この展示のことが取り上げられていて、ご本人の映像も少し流れていた。
 車椅子の姿が少し気になっていたのだが、今回送付されてきた図録の解説によると、わがイラスト魔神は今、病と闘っておられるそうだ。
 脳梗塞の後遺症で、もう2年ほど絵筆をとれない日々が続いているという。
 
 魔神再臨を強く強く希う。
----------------

 以上、一年半前の記事である。
 記事中の平井和正先生も、今年の1月にお亡くなりになった。
 ただただ、惜しい。
posted by 九郎 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 生頼範義 | 更新情報をチェックする

2015年10月28日

蓬莱岩

 帰り道、輝く満月を眺めてきた。
 本当は昨日が満月なのだが、昨夜は雨が降っていた。
 今夜は晴れ渡り、ほぼ真ん丸のお月さまなので、これで十分。

 十月の満月である。
 毎年この時期になると、もう二十年以上前になってしまったあるお祭りのことを思い返す。
 カテゴリどんとで紹介してきた「月の祭」だ。
 あの祭のことはいまだに消化しきれておらず、ずっと考え続けている。

 たぶんまだ書き漏らしていたと思うのだが、このお祭会場になった小さなビーチは、和歌浦にある。
 和歌浦は古来知られた景勝地で、狭いエリアの中に数限りなく見所が詰め込まれている。
 その中の一つ、私が好きなスポットに「蓬莱岩」という場所がある。

fmp15.jpg


fmp16.jpg


 小さなビーチへと続く遊歩道の一画に、奇岩が海へと突き出している。
 岩の上には小松が生え、中央部には自然のトンネルが貫通している。

 この岩場からは、どんとの遺灰の一部が海へと流されている。
 そして2001年に行われたどんとの追悼ライブの翌日、あるフシギがあったとされている。

fmp14.jpg


 トンネルからのぞくと、向こう側に「月の祭」の会場になったビーチの傍らに立つ、古い小さな灯台が見える。

fmp17.jpg


 ぽっかり予定が空いた日、私は何度か、ウクレレを片手にふらりと蓬莱岩に行った。

fmp18.jpg


 どんとの「波」を口ずさみながら、今でも考え続けている。
posted by 九郎 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | どんと | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

上人窟 その後

 和歌浦の蓬莱岩のことを書いて、近場の「上人窟」のその後の情報を思い出した。
 忘れないうちにメモしておこう。

 この岩窟のことは、以前一度記事にしている。
 当ブログの主要な探求テーマの一つに、織田信長と本願寺の戦国頂上決戦「石山合戦」がある。
 その石山合戦終結時、大坂本願寺を退去した教如が、雑賀衆の元に身を寄せた際に隠れたとされるのがこの岩窟で、一応現存しているらしい。
 史実であれば、近所の鷺ノ森に移転した本願寺には義絶されていたため入れず、やむなく雑賀衆の庇護を受けながら隠棲していたということなのだろう。
 何度か行ってみようとトライしたのだが、近年は岩窟へと続く道が台風で崩落してしまった模様。
 以前は雑賀崎にある観光灯台から降れたようなのだが、ここ数年はいつ行っても入口が閉鎖されたままだ。
 それならばということで、海側から登ってみようかと試したこともある。

waka-34.jpg


 おそらく上掲写真の丸印のあたりに「上人窟」はあるはずだ。
 遠目には通路らしきものも見えるので、なんとかよじ登れないか堤防を越えてみると、こんなことが書いてあった。

waka-35.jpg


 ……いろんな意味で怖い。

 当方としては入場料を払って見学したいと思っているのだが、どこに話を持っていけば良いのかわからなかった。
 そしてその後、写真の赤丸印の上にチラッと見えている雑賀崎灯台を再訪した折りに、ようやく管理人さんに直接会うことができた。
 確認してみたところ、依然として岩窟への通路は崩落したままで、今は近づくこともできないそうだ。
 場所は丸印で大体あっている模様。

 岩窟には行けないけれども、それがどんな場所であるかは、灯台下の漁港側から眺めれば想像できる。
 およそ人間が快適に暮らせるような場所ではない。
 教如上人はこの岩窟を含め、かなりの期間、流浪の生活を続け、辛酸をなめ続けている。
 
 このような経験を重ね、教如上人は父・顕如上人とはまた違った形で鍛え上げられ、強力なリーダーへと変貌していったのだろう。
 両者の性格の違いは、はるかに時を経た東西両本願寺の在り方の違いにまで影響を及ぼしているのではないかと感じることもある。

【関連記事】
石山合戦のキーマン 教如上人
石山合戦のキーマン 教如上人2
石山合戦のキーマン 教如上人3
posted by 九郎 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする