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2016年01月01日

2016年、新年のごあいさつ

 新年あけましておめでとうございます。

 今年はいよいよブログ開設から11年目に突入します。
 一日一日悔いのないようにということと、できることをできるときにできるだけということの両立を目指し、鋭意記事更新していく所存です。

 今年も神仏与太話ブログ「縁日草子」を、よろしくお願いします。

 一回り昔の申年の年賀状デザインをアップして、新年のごあいさつにかえさせていただきます。

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posted by 九郎 at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

年頭の朗報!!!

2016年4月16日〜5月29日、兵庫県明石市立文化博物館にて、生ョ範義展 The Illustraor が開催されるという情報が流れている!!!

これはもう、絶対行く!!!
posted by 九郎 at 09:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 生頼範義 | 更新情報をチェックする

2016年01月04日

金縛りと幽体離脱

 夢や眠りにまつわる事象の一つとして、または悪夢の一形態として、いわゆる「金縛り」がある。
 夜半に目が覚めてみると、意識はあるのに体が動かず、非常な恐怖感にとらわれるという現象だ。
一般には、そこから心霊現象めいた体験談が始まったりするイメージが強いことだろう。
 私もこうした「金縛り」を、いままでに何度となく経験してきた
 経験してきた感じでいうと、こうした現象も、細部にはかなり個人差があるのだろうなと思っている。

 私の場合、夜半に目が覚めて、意識はあるのに体が自由に動かないという状態から始まるのは一般的なイメージ通りだ。
 体は完全に硬直してしまっているわけではなく、不自由ながらも腕を多少動かしたりすることはできるし、寝返りを打つように姿勢を変えることも、なんとか可能だ。
 特徴的と思われるのは、耳元で電気的なノイズ、または金属を擦り合せているような異音が鳴り続けていることだ。
 子供の頃は、この「金属音」のイメージと、「金縛り」という字面を結び付けて納得していた覚えがある。
 金属音に縛り付けられるから金縛りというのだろうなと、子供なりの関連付けをしていたのだ。
 また、私の記憶する最古の悪夢(「繰り返す夢」の章で紹介)に出てきた、「金属の塊」のイメージとも結びつけて捉えていたはずだ。

 私にとっては頻出のこうした異音が、広く一般に「金縛り」に伴うものであるのかどうかはよくわからない。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

金縛りと幽体離脱2

 耳元で響く金属音と、身体が重く不自由であることに加え、自分とは違う何者かの気配を感じることもあった。
 自分が陥っている「金縛り」が、その気配の主の仕業ではないかと感じられ、かなり恐ろしい体験だった。
 ただ、それ以上のこと、たとえば幽霊の姿を見たり、声を聞いたりするような、はっきりした「霊現象」までに至らなかったのは、幸運なことだったと思う。

 医学的には色々説明がつき、ことさらに怪奇現象扱いする必要はないのだろう。
 ぶっちゃけ私はオカルト趣味があるけれども、それはあくまで趣味であって、本気で信じているわけではない。
 神仏与太話と銘打ったブログを運営しながら、オカルト趣味があり、しかし本気で信じているわけでもなく、スピリチュアル嫌いと言うと、かなり分裂した分かりづらい立場であると思われるかもしれないが、自分の中ではあまり矛盾はない。

 世に不思議はある。
 一見不思議に見えても、そのほとんどは合理的に説明がつく。
 しかし、合理では割りきれない部分も確かに残る。
 そのグレーゾーンを、性急に結論付けずにちまちま楽しむ。
 虚実の狭間で時に信じ込みそうになったりするのを自ら笑うのが、私のオカルト趣味なのだ。
 プロレスを楽しむのと同じ位相でオカルトを楽しんでいると書けば、私のスタンスを理解してくれる人も多いだろう。

 金縛りや、後に述べる「幽体離脱」についても、そうした「体験」自体は自分のものとして確かにあるので、否定しない。
 それらは基本は合理的な説明がつくものだけれども、実際に体験している最中に、冷静な判断力は持てないないし、何の役にも立たないことが多い。
 
 そこで、趣味としてのオカルトの出番が回ってくるのだ。
posted by 九郎 at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月06日

金縛りと幽体離脱3

 オカルトに対して本気ではないとはいえ、実際に金縛りなどを体験してみると、やはり恐怖心が先に立つことが多い。
 本能的な恐怖感に対して、科学的、合理的な判断は、それがいくら正しくても急場の役には立たないものだ。
 子供の頃から度々経験してきたこと、さほどはっきりした「幽霊話」のような体験に至らなかったことで、私の場合は長ずるとともに、だんだん「金縛り」には慣れることができた。
 子供の頃はさすがに怖かったけれども、成長とともに、それなりに対処できるようになってきたのだ。

 成人してからは熊野遍路の真似事をするようになり、その過程で見よう見まねで覚えたいくつかの真言や祝詞などで、「金縛り」に対処するようになった。
 金属音とともに何者かの気配を感じた場合、不自由ながら多少は動かせる腕で「九字を切る」という修験者の所作を行ったり、真言や祝詞を口中で唱えることで、恐怖心を払えるようになったのだ。
 それがオカルト的な文脈で言われるような心霊現象であるのかどうかはさておき、そのような「現象」に対処する手段として、伝統的な宗教の所作は確かに役に立った。
 中でも効果があった(と思えた)のは、不動明王の真言だった。
 一応近代的に構築された私の表層意識の薄皮を一枚剥ぐと、その中にはドロドロとした訳の分からない領域があって、半ば夢の世界である金縛りなどに対しては、呪術の力が機能しやすいのだろう。
 また、幼児の頃の原風景として、様々な密教尊を宇宙で活躍するヒーローと同列に眺めていた私にとって、無意識の領域ではいまだにお不動さんは感情移入しやすい強力な守護者であるのかもしれない。

 私に本当の「信仰」と呼べるものがあるのかどうか、正直分からない。
 しかし、神仏や霊の世界には実体がないと一応理解していても、そうした物語に感情移入することで現れる様々な心象は面白いと思うし、探究しがいのあるものだと思っている。

 だからこその神仏与太話「縁日草子」なのだ。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

金縛りと幽体離脱4

 金縛りとともによく体験していたものに、自分では「平行移動」と呼んでいた感覚がある。
 眠っていてふと目覚めたとき、眠っていたその姿勢のまま、自分の体がビョーンと滑っていくような感覚に襲われることが、たまにあった。
 滑る方向は様々で、布団から頭の方向に「発射」されるように滑ることもあれば、横滑りになることもある。
 もちろん本当に平行移動しているわけではなく、あくまで「そういう感じがする」と言うだけで、目が覚めてみると普通にその場に寝ていることが多い。
 金縛りと違って恐怖感は薄いのだが、足元の方向に掃除機で吸引されるように滑ることもあり、その場合は何処かに引きずり込まれるような気がして少し怖かった。
 その時は目覚めてみると、必死で布団にしがみついている姿勢のままだった(笑)
 頭の方に「発射」された場合などは、そちらにある自室の壁を突き抜けていくような感覚があり、むしろ面白い体験だった。

 そうした「平行移動」も、場数を踏むとともに「飛距離」が増していった。
 自室の屋外とか、見知った街路あたりまで飛ばされることもあった。
 あくまで感覚の中でのことであって、物理的に体が移動しているわけではない。

 飛距離が長くなるにつれ、どうやら自分が「平行移動」と密かに呼んでいる感覚が、オカルト的な概念では「幽体離脱」と呼ばれているものに似ているらしいことがわかってきた。
 肉体とは別にそれと重なる意識体の存在を想定し、魂とか幽体とか名付けられる意識の部分だけが肉体から離脱する状態を指す。
 よくあるのは、ベッドで眠る自分の姿を少し上方から眺めているというエピソードだ。
 もっと現実世界からの距離が離れると、伝承の中の脱魂や異界探訪説話に近づいていく。

 私の「平行移動」の場合は、大抵は自分でよく行くような場所どまりで、見知らぬ風景まで移動することはなかった。
 出先で何か「証拠」が残せないかと試したこともあったが、当然ながら一度も成功しなかった。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

金縛りと幽体離脱5

 こういう類の体験は、あまり人とは話さなかった。
 話しても大丈夫そうな友人をよく見極めて、情報交換を楽しんだ。
 中高生の頃の友人に一人「幽体離脱仲間」がいた。
 当ブログでもよく登場する、例の友人である。
 私の人生の「ちょっとアカン」要素には、結構な割合で彼が関与している(笑)

 彼の場合は、寝ているときに自分の身体が宙に浮いているような感じがするというオーソドックス(?)なタイプだったそうだ。
 蛍光灯が間近に見え、天井が触れそうに感じたという。
 なんとか「証拠」を残そうと、鉛筆を持って寝て、天井に書き込みを残そうとしたりなど、色々試行錯誤したが、結局一度も成功しなかったそうだ。

 金縛りや幽体離脱以外にも、入眠時の不思議な現象は色々あるようだ。
 これはまた別の友人から聞いた話では、床について眠ろうとした時に足元に何か「毛玉」のようなものが触るのを感じたが、確かめるのが怖くて、蹴飛ばしてそのまま眠ったという。
 また別の友人に聞いた話では、夜半に目が覚めて流しの方を見ると、蛇口から何かガムのようなものが吹き出して宙を飛んでいたという。
 これらの体験は、体験した当人にとっては確かに存在し、疑う余地が無いのだが、それを他者に対して「証明」しようとすると、するりと手からすり抜けていく。
 世の不思議は大抵そのような性質を持っている。

 夢もそうだが、眠りにまつわる事柄は、基本的に現実の役には立たない。
 無理に役立たせようとすると、多分精神的におかしくなってくるのではないかと思う。
 頭から否定するのではなく、また安易にオカルトちっくに解釈するのでもなく、ただ不思議体験を楽しむくらいのスタンスが適当ではないだろうか。

 というわけで、当ブログでは「夢」も雑談、与太話の一環として紹介しているのである。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月09日

祭礼の夜7

 今夜は十日戎の宵宮。
 6年前にたまたまえべっさんの盛んな地域に引っ越してきて以来、毎年この時期の三夜を楽しみにしています。
 参拝したり、そぞろ歩きを楽しんだり、露天で一杯引っかけながら色々妄想したりで、何度も記事を書いてきました。

 祭礼の夜
 祭礼の夜2
 祭礼の夜3
 祭礼の夜4
 祭礼の夜5

 以前描いた十日戎のイラストも、まとめサイトにのせられたりで、けっこう無断転載されてます。
 過去には勝手にバーゲンセールの広告に使われてしまったことも……
 まあ、なんにしろ自分の描いた絵が好評をいただくのはまんざらでもありません。
 ちょっと複雑な気分ですが(苦笑)

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 今夜もぶらりと出掛け、焼酎が置いてある店を見つけたので立ち寄りました。
 今年は全く寒くもないのですが、気分的にお湯割りとつぼ焼きを注文。
 安いお店にありがちな、「サザエではない大きな貝殻」で刻んだ何かの貝の身とチクワを出汁で煮たフェイクつぼ焼きと、薄いお湯割りが出てきたのは御愛敬。
 別にグルメで頼んだわけではなく、縁日の雰囲気を楽しんでいるだけなので、まあこれで十分。

 ちょっと目についたのが「ラストオーダー10時半、11時閉店」の張り紙。
 ん?
 ちょっと早すぎへんか?
 私は比較的新参者ですが、以前はもっと遅くまで盛り上がっていたイメージがあるのです。

 お店の人に聞いてみると、二〜三年ほど前から近隣住民の苦情もあって、深夜営業はご法度になったとのこと。
 警察も増員されて、どの店も11時にはキレイに閉めてしまわなければならないそうです。
 
 ……そうですか。
 つまらんこと言いますねえ。

 そうなんですよ、お客さんにはものすごく不評なんですけどねえ……

 こうして「非の打ち所の無い正論」をたてに、どんどんつまらん世の中になるのでしょうね。
 お上の側から小うるさくくちばし突っ込んでくるというよりは、小市民の側が自ら望んで息苦しい世の中にしていくのがまた情けない。

 仕方がないので早々と帰宅し、ろくに酔いもできずにぐちっぽい記事を書く。
 そんな宵宮です。
posted by 九郎 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2016年01月10日

祭礼の夜8

 今夜は十日戎本宮。
 祭礼の夜にふさわしい、奇想の物語にまつわる本を御紹介。 


●「中世の貧民―説経師と廻国芸人」塩見鮮一郎(文春新書)
 中世の廻国芸人が街角で喜捨を募りながら説いて回った「説教節」。
 その演目の中から「小栗判官」のストーリーを主軸に、「山椒大夫」「しのだ妻」といった代表的な演目を絡めながら、奴隷、病者、芸人など中世の貧困層の生活や感情を概観する一冊。
 内容とタイトルがあまり合っていないような気がする。
 あくまで「小栗」の道行きがメインの旅ガイドのような本で、タイトルほどに固く重い内容ではない。
 文春新書からは同著者で各時代の貧困層の生活を詳述する「〜の貧民」という本が何冊か出ていてシリーズになっているようで、便宜上それに合わせたタイトルになっているのだろう。
 重い内容ではないとうっかり書いてしまったが、扱う対象はどれも現代人の心に突き刺さる。
 試みに本のオビ裏面に並ぶ言葉を引用してみると、以下のようになる。

 ◎蔓延する疫病と頻発する一揆
 ◎遊女と奴隷を確保する人身売買
 ◎生活のために放浪する賤民
 ◎合戦にともなう略奪と暴行
 ◎店を張れず、物を売り歩く行商人
 ◎障害者を使った「人間カカシ」
 ◎ホームレスや病者が流れ着く「こじき町」

 どれもかつての日本では、また世界では当たり前に見られる光景であるけれども、現代ニッポンでは表面上「あってはいけないもの」とされ、多大な手間隙をかけて綺麗に包み隠されている社会の有り様である。
 この上もなく悲惨で重い現実の中、それでもしぶとくしたたかに生き抜いてきた貧民たちの、諦念混じりの軽みがこの本の語り口の中にはあるのだ。

 ほんのひととき太平の夢、清潔で健康的な世にまどろめたこのニッポンも、儚い夢から覚めなければならない刻限が、そろそろ迫る。
 中流社会、皆保険、皆年金、稲作がなんとか支えてきた食料自給、里山、麗しの山河、みな総崩れになる世がやって来る。
 中世物語を再び開き、用意なされよ。
 庶民の感情豊かでしぶとい心性をもう一度。


●「説経小栗判官」近藤ようこ(ちくま文庫)
●「説経 小栗判官」近藤ようこ (ビームコミックス) [Kindle版]
 中世の説教「小栗判官」そのままの語り芸は、現在もう伝承されていない。
 文字化されたものや、やや表現形態の変わったものが伝わっているのみだ。
 魅力的なモチーフであることは変わらないので、現代でも「小栗」に着想を得た数々の「新作」が制作されている。
 その中でも、余計なアレンジのない、無印良品的な佳作が、このマンガ版だと思う。
 線の少ないシンプルな絵柄は、過去に制作されてきた絵巻物や奈良絵本を思わせるし、ストーリー全体を過不足なく網羅してあるのも素晴らしい。
 絵描きのハシクレから見ると、こうした原典に忠実な「我を抑えた表現」は、描き手に物凄い勉強量と実力を要求することが分かるだけに、凄みを感じてしまうのである。


●「説経節―山椒太夫・小栗判官他」(東洋文庫)
 現代語訳されていない古典原文は、普通に楽しみとして鑑賞するには敬遠されがちだが、中世以降の物語の場合、実際読んでみるとさほど難読ではない場合が多い。
 説教節もその例に漏れず、声に出して音読してみると、わりとすんなり意味が入ってくる。
 とくに上で紹介したマンガ版などを先に読んでいれば、なんの困難もなく原文を楽しむことができる。
 中高生の頃の古文漢文学習法で、色々な古典のマンガ版を読んで内容を把握し、世界観や考え方を体得しておくと、細かな文法が苦手でも読解問題は解けるという手法がある。
 この方法は、単にテストで点を取るだけに使うのはもったいない。
 古典原文を「楽しむ」ことにも、十分有効なのだ。
 説教節の文章化された名品の数々を楽しむには、やはり平凡社東洋文庫版がお勧めだ。

 
 烏帽子を被り、顔に墨を塗った美女
 長い髪を振り乱し、裾をからげ
 笹の葉に幣をつけて物狂い

 えいさらえい
 えいさらえい
 
 照手の姫に先導されるのは
 子供に引かれた土車
 一引き引いたは千僧供養
 二引き引いたは万僧供養

 えいさらえい
 えいさらえい

 その土車にのせられるのは
 小栗のなれの果て
 餓鬼阿弥陀仏
 熊野を目指して引かれます

 えいさらえい
 えいさらえい
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2016年01月12日

玄関で

 夢を見た。

 広い和風玄関。
 靴脱場には灰色の玉石が敷き詰められ、左手に大きな靴箱、右手に箱庭。
 僕は敷物の上に立ち、チャックを開けておしっこを始める。
 一旦出始めるとなかなか止まらない。
 ジョロジョロといくらでも出る。
 いつ玄関の戸が開くかと思うと気が気ではなく、さっさと切り上げたいのだが、尿意はいつまでたっても収まらない。
 しまいには敷き詰められた玉石が水没し始めるが、それでも止まらない。
 さすがにマズいと思い、無理して尿を止めてしまう。
 靴箱の上に置物がある。
 こいつかと思って手をかけると、がくんと動く。
 ズゴゴゴゴゴゴゴと溜まった尿が流れていく。
 玄関は元通りになり、一安心する。

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posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする