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2016年01月06日

金縛りと幽体離脱3

 オカルトに対して本気ではないとはいえ、実際に金縛りなどを体験してみると、やはり恐怖心が先に立つことが多い。
 本能的な恐怖感に対して、科学的、合理的な判断は、それがいくら正しくても急場の役には立たないものだ。
 子供の頃から度々経験してきたこと、さほどはっきりした「幽霊話」のような体験に至らなかったことで、私の場合は長ずるとともに、だんだん「金縛り」には慣れることができた。
 子供の頃はさすがに怖かったけれども、成長とともに、それなりに対処できるようになってきたのだ。

 成人してからは熊野遍路の真似事をするようになり、その過程で見よう見まねで覚えたいくつかの真言や祝詞などで、「金縛り」に対処するようになった。
 金属音とともに何者かの気配を感じた場合、不自由ながら多少は動かせる腕で「九字を切る」という修験者の所作を行ったり、真言や祝詞を口中で唱えることで、恐怖心を払えるようになったのだ。
 それがオカルト的な文脈で言われるような心霊現象であるのかどうかはさておき、そのような「現象」に対処する手段として、伝統的な宗教の所作は確かに役に立った。
 中でも効果があった(と思えた)のは、不動明王の真言だった。
 一応近代的に構築された私の表層意識の薄皮を一枚剥ぐと、その中にはドロドロとした訳の分からない領域があって、半ば夢の世界である金縛りなどに対しては、呪術の力が機能しやすいのだろう。
 また、幼児の頃の原風景として、様々な密教尊を宇宙で活躍するヒーローと同列に眺めていた私にとって、無意識の領域ではいまだにお不動さんは感情移入しやすい強力な守護者であるのかもしれない。

 私に本当の「信仰」と呼べるものがあるのかどうか、正直分からない。
 しかし、神仏や霊の世界には実体がないと一応理解していても、そうした物語に感情移入することで現れる様々な心象は面白いと思うし、探究しがいのあるものだと思っている。

 だからこその神仏与太話「縁日草子」なのだ。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする