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2016年02月21日

夢の修行1

 眠りに落ちる瞬間は、一体いつなのだろう?

 子供の頃からずっと気になっていた。
 おきている状態と眠りの境目がどんなものか知りたくて、小学生の頃から試行錯誤を続けていた。
 色々試したがなかなか分からず、気がついてみれば眠っていたり、夢の中にいたりした。
 そうこうしているうちに時は流れて中学二年の頃のこと。
 私はついに「自分が眠りに落ちる瞬間」を体験した、と感じた。

 床に着き、目を閉じる。
 まぶたの中の、想像上のまぶたが幾重にも閉じていき、布団の上に寝ている自分がゆっくりどこまでも「下」に沈み込んでいくイメージ。
 やがて意識がふっと途切れ、眠りに入ることができる。
 今考えると、「眠りに落ちる瞬間」そのものというよりは、「このようにイメージすれば眠りに入りやすい」というパターンのようなものだったのではないかと思う。
 そうしたイメージを記憶し、私は眠りの度ごとにそれをなぞるようになった。
 高校生になる頃には、静かでリラックスできる環境なら、わりと意識的に入眠できるようになっていた。
 のび太くんレベルである。

 ある程度自由に眠りに入れるようになると、それがきっかけになって夢のコントロールも試みるようになった。
 結果、「コントロール」と呼べるほど大したことはできなかったが、多少の自由は効くようになった。 
 二十歳前後の頃には、そうした私の「夢見術」は最高潮に達していて、調子が良ければ夢の中でけっこう自覚的に行動できるようになっていた。
 好きだった「空を飛ぶ夢」の中での技は以前紹介したことがある。
 その他にも、例えば眠る前に手に握ったものを夢の中に持ち込むのも何度か成功した。
 夢の中で「これは夢だ」と自覚し、その後も目覚めることなく夢を見たり、一度目覚めて夢が中断された時、もう一度眠って続きを見たりすることも、わりに出来るようになっていた。
 現実の絵や文章の続きを夢の中で描き、そこからヒントを持ち帰ったりすることも度々あった。
 学生時代の卒業制作の頃、それでかなり助かった。
 締め切りに追われ、泊まり込みでサイズの大きな絵を描き続けていた時、行き詰まったら仮眠をとることで「夢のお告げ」を得て見通しを立てることが度々あった。
 夢の中で何か謎めいたことを教えられ、ずっと後になってふと思い当たることも、時々ある。

 その中の一つ、以前記事にした「夢告」を、次回再掲しておこう。
posted by 九郎 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

夢の修行2

【夢告・平家物語】
 昔、夢を見た。
 夢の中の人物に「平家物語にはこの世とあの世のまことの姿がある」と教えられたのだ。
 内容的に気になったのでメモを書きとめながら、私は少し首をかしげていた。
 当時の私の平家物語に関する知識は、教科書通りの「軍記物語」という程度でしかなかった。
 なぜ平家の栄枯盛衰や合戦の様子を描いた物語に「この世とあの世のまこと」があるのか、今ひとつピンとこなかった。
 「あの世」のことまで含まれるのなら「今昔物語」の間違いではないかとも思ったのだが、夢の中の人物ははっきり「平家物語」と言ったはずだ。
 なんとなく納得いかないまま、何年も過ごしてきた。

 その間、読書の幅が広まってきたこともあり、少しずつ「平家物語」に関する認識も改まってきた。
 「この世」のことだけが書いてある書物ではなく、当時流布されていた様々な中世神話が反映され、奇怪な神話の領域まで含まれる物語であることがわかってきた。

 そして最近手に取った一冊の本により、ようやくずっと昔の「夢のお告げ」を納得するに至った。



●「琵琶法師―“異界”を語る人びと」兵藤裕己(岩波新書) 
 平家物語はそもそも書物ではなく、琵琶法師によって語り継がれた物語であった。
 琵琶法師は盲目の芸能者であり、宗教者でもある。
 盲目であるということと、芸能者・宗教者であるということは、そのまま「あの世」と「この世」の境に身を置くことと繋がる。
 有名な「耳なし芳一」のイメージに、異界の声を聞き、語りによってあの世とこの世を結びつける琵琶法師というものの本質がよく表現されている。
 平家物語と琵琶法師の成立過程には、中世から近世にかけての「この世」の社会制度と、神仏入り乱れた中世の精神世界が色濃く反映されているようなのだ。
 
 付録のDVDには「最後の琵琶法師」による貴重な記録映像も収録されている。
 震え響く声と琵琶の音に、ふと昔見た「夢のお告げ」に思い当たり、一人何度もうなずいたのだった。
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2016年02月23日

夢の修行3

 学生時代ぐらいまではけっこう研鑽していたこれらの「夢の技術」だが、残念ながら今はもうあまり出来ない。
 夢をコントロールするには、目覚めている間も夢のことを頭のどこかで考え続けていることが大切だ。
 普段から夢を意識していることで、夢の中のやや散漫な心の状態の中でも「これは夢だ」と自覚し、行動できるようになる。
 しかし、そのような意識状態を現実世界で保てるのは、せいぜい暇な学生時代までだ。
 現実の生活が重みを持ち、社会に出て働くようになると、そんな「夢うつつ」の状態でいられなくなるのは当たり前のことだ(笑)
 もし私が原始社会に生まれていたら、夢を操る呪術師になっていたかもしれない。
 たぶんそうした素養は、少しはあったと思う。
 そう言えば、口の中から「舎利」が出てきたこともあったっけ。
 生まれる時代がもっと早ければ、「播磨の国の絵仏師、口中より舎利の出でたること」などという説話の主人公になっていたりして。
 いや、それ以前に幼少時は弱視だったので、医療の行き届かない時代に生まれていれば琵琶法師になっていたかもしれない……

 しかしながら、ここは日本であり、今は21世紀である。
 近代医療と国民皆保険の恩恵を受け、幸いにも私はごく普通の健康な暮らしに恵まれた。
 そしてこの国には、いくら素養があっても、真っ当な呪術師を育てたり、受け入れたりする文化はもう存在しない。
 夢と現実の比重が大きく夢の方に傾いてしまえば、現代の社会・文化の在り様の中では、「心の病」に分類されてしまう。
 さもなければ、エキセントリックな芸術家か、はたまた胡散臭い霊能者か。
 いずれにしてもまともには生活できない。
 今更インチキ臭い占い師になるつもりはないし、ネット上でしたり顔のスピリチュアル導師を気取るつもりもない。
 今の私にできることは、せいぜい絵描きとしての「夢の記録」ぐらいである。
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2016年02月24日

夢日記1

 夢見の技術がピークに達していた二十歳前後の頃から、断続的に夢を記録・採集してきた。
 見た夢をシリアスに受け取ったり、解釈を試みたりということは、基本的にしない。
 ただメモにとり、スケッチを描き、形にできそうなものは残してきた。
 枕元に筆記用具と紙を常備し、面白い夢を見た場合は出来る限り文章にし、スケッチを残す。
 簡単なメモ書き程度でも良いから残しておくと、その夢は記憶の中から呼び返すことができる。
 どんなに強烈な夢でも、すぐに記録したり、せめて頭の中で何度か反芻しておかないと、翌日午後には綺麗さっぱり記憶から消えてしまう。
 どんなに印象の強い夢でもそのまま時間がたつと、夢を見たこと自体が記憶から消えてしまいがちなのは、考えてみれば不思議なことだ。
 ただ、夢の記憶は完全に消えてしまうわけでもなく、ふとした瞬間に突然思い出したり、夢の中で過去の夢が続いている場合もある。
 夢の意識と現実の意識にはチャンネルの違いのようなものがあって、異なった領域が使用されているような気もする。
 夢から覚めたら間髪おかずにメモをとることで、夢の現実の意識の領域を繋ぐ回路にすることができるようだ。
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2016年02月25日

夢日記2

 枕元にメモ用紙やノートと筆記用具を常備し、夜半や朝方、夢で目覚めた時に憶えていることを絵や文で書き留めておく。
 半分寝惚けた状態の走り書きなので、意味をなしていない事も多々あるのだが、たまに面白いイメージが記録として残る。
 長いものだとB5ノートに数ページ、筆記に小一時間ほどかかることもある。
 当然、睡眠時間は削られ、翌日睡眠不足気味になったりする。
 それだけの犠牲を払ってでも、ぜひとも書きとめておきたい夢が、たまにある。

 注意すべきは、普段から夢に関心を持っていると、奇怪な夢を呼び込むようになってしまう傾向もあることだ。
 私が怪しい夢を面白がり、求めがちであるということもあるかもしれないが、度々悪夢を見ると、精神的負担がけっこう重く、日常生活に支障が出る。
 夢日記にも、あまりこだわりすぎない方が良いようだ。

 心身ともに余裕のある時期に、何度か集中してかきとめてきた。
 時間をおいて読み返してみて「作品になる」と判断したものは、絵や文章を、あまりいじりすぎないように注意しながら、他人の鑑賞にたえるように多少整えた。
 このカテゴリで紹介してきた夢の数々は、そのような記録の中の一部である。
 一応、作品としてネット公開して差し支えないと判断したもののみ、アップしている。
 
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2016年02月26日

そろそろ花粉センサーが

 最近、眼がゴロゴロして充血しやすいなと思っていた。
 そういえば、そろそろ花粉の季節だ。
 
 私は二十代初期からの花粉症で、三月に入った頃からドカンと発症し、それがゴールデンウイーク頃まで続くのが常だった。
 毎年かなり辛い思いをしていたのだが、三十才前後にVCを大量摂取すると症状が抑えられることを知ってからは、その方法でしのいできた。

 しかし、糖質制限で減量に成功してから、症状そのものが出なくなってきた。
 記事冒頭で書いたように、眼の軽い違和感など、全く症状が出ないわけではない。
 花粉が飛んでいるらしいことは察知できるのだが、対処が必要なほど重症にはならないということだ。
 VCの摂取も必要なくなってしまった。
 今年で三年目なので、私自身の体感によれば「糖質制限により、花粉症克服」と言い切ってしまって良いと思っている。
 糖質制限で花粉症が緩和されることの因果関係は、まだよくわかっていないようだが、報告例はかなり増えてきているそうだ。
 私もその一例にはなると思う。

 私が普段やっているのは緩めの制限だが、この時期だけは、多少糖質制限を強化することにしている。
 花粉症に悩む人は、通院や薬剤の必要のない対処法として、糖質制限を選択肢にいれてみてもいいと思う。
 意外なほど速やかに効果があらわれる人が多いだろう。

 注意点もあるので、まずは、ドクター江部のブログ閲覧がお勧め。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする