2月9日は手塚治虫の命日だった。
マンガの神様が亡くなったあの年、私はまだ少年で、翌日はかなり遅刻して学校にいったっけ。
幼少の頃から親の揃えた「火の鳥」や「ブッダ」を読み、「ブラックジャック」にハマってきた。
年代的に手塚が「大人向き」を描きはじめて以降の読者なので、年相応の「アトム」や「ジャングル大帝」はむしろ遡って読んだ。
中高生になってからは、「作家」としての手塚を学ぶように読んでいた。
そんな中での訃報に、子供ながらいっぱしの喪失感を抱いたのだ。
翌日、いっそ学校をサボってやろうかと思っていたのだが、英語のY先生の授業が、その日で最後だと気付いた。
勉強そっちのけで絵やイラストばかり描いている私を、付かず離れずで気にかけてくれた先生だった。
英語という教科に対して全く意欲が湧かなかったのは、ある面ではY先生のかなり厳しめの指導が原因だったのだが、授業中の容赦のなさとは無関係に、絵を描く面では私を認めてくださった。
クラス担任等で本格的に受け持ってもらったことはないが、校内で折りにふれ声をかけてもらったことには義理を感じていた。
仕方がないから顔だけは出しておこうかと学校に向かい、恐る恐る教室のドアを開けた。
今のように体罰御法度の時代ではないので、一発二発張り飛ばされることは覚悟の上だったが、その日のY先生は常になく寛大だった。
「……おお、来たか」
「遅れてすみません」
「手塚治虫、死んだな」
「はい」
Y先生は頷くと、「まあ、座れ」とお咎めなしで授業を再開した。
何事もなく授業時間は過ぎ、先生はさらりとおしまいの挨拶をして最後の授業を終えた。
肝心の授業中は全く意欲のない私だったが、Y先生のとってくれた距離感はその後もずっと記憶に残り、描き続けることの支えの一つになった。
熱心に暑苦しく関わるのだけが良い先生ではないのだ。
絵を描く子供と関わるときは、距離感が大切だ。
もし今の私が少年時代の自分に声をかけるなら、何と言うか?
難しいところだが、夢枕獏の小説に出てくる怪しい凄腕老人のように、けくけく笑いながらこう言おうか。
「おめえよ、描けるようになるぜ」
「?」
「おめえがいつか描きたいと思ってる絵が描けるだけの技量は、いずれ持てるってことよ」
「??」
「続けてればな。それが一番むずかしいんだが……」
「???」
こんな感じか。