夢枕獏のことである。
この作家については、何度も記事にしてきた。
好きな作家であることはもちろんなのだが、それに加えて、絵描きのハシクレとしての私が、なんとか今生のうちに描ききってみたいと想い続けてきた、ある絵とも関わっている。
その絵「外法曼陀羅」製作にむけて、これまでの記事を加筆再掲載しながら、じわじわ進めてみたいと思う。
高校生の頃「キマイラ・シリーズ」を手にとって以来、何年かごとに夢枕獏の作品にハマって読み続けてきた。「新作が出れば必ず買う」というほどの熱烈なファンではないけれども、マイブームがぶりかえす度に長編を読み切ってきたので、結果的には七割以上の作品を読んでいることになり、あらためて確認してみるとけっこう熱心な読者の部類に入りそうだ。
何年も、時には十数年も、何十年もかかる長編を複数抱えた人気作家なので、リアルタイムで作品を追っていると細切れになってしまう。
作品が完結したり、分量が溜まったら一気読みする私ぐらいの付き合いは、ちょうど良い間合いなのかもしれない。
夢枕獏と言えば、一般には「伝奇SF作家」のイメージが強いと思うが、実際には幅広い作風があり、伝奇SFの代名詞である「エロスとバイオレンス」だけで括れる作家ではない。
今昔物語の空気感を現代小説として復活させたような「陰陽師」や「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」、昨今の総合格闘技ムーブメントを生み出す原動力の一つになった「飢狼伝」をはじめとする格闘小説などは、特定のジャンルだけの読者の範囲を超えて、広く読み継がれる作品になっている。
夢枕獏の作品の重要なモチーフの一つに「仏教」がある。今昔物語などの中世説話集がそうであったように、この作家の背後には仏教の須弥山宇宙観が高くそびえている。私にとっての夢枕獏は、SF作家というよりは「仏教作家」だ。
格闘小説に代表されるリアルな現実世界の約束事を守った作品群はもちろんのこと、ファンタジーの要素が強い作品であっても、宇宙観の範囲を逸脱しないように細心の注意を払ってバランスを保ちつつ、物語が紡がれている。
安易に「何でもあり」に流されない作品世界を構築する作家であり、それぞれの物語の中の「理」を決して破綻させない作家であり、自分の中の「作家的良心」を裏切らない、信頼できる物語作者なので、どの本も安心して手に取ることができる。
●「キマイラ・シリーズ」夢枕獏 (ソノラマノベルス)
作家活動の初期から三十年以上書き続けられ、いまだ未完の、ライフワークにして代表作。
現在のライトノベル市場の源流の一つと思われる、往年のソノラマ文庫で刊行が開始され、私も高校生の頃から読み始めて既に○○年。
時代の変化とともにソノラマ文庫が縮小され、現行「キマイラ・シリーズ」は新書版ノベルスとして、既刊2巻分を一冊にして刊行され始めた。
8巻までで既刊分を収録し、9巻からは新刊分に入った。
角川文庫でも平行して刊行が進んでいる。
過去の大陸での長い回想シーンが終り、物語は現代に帰ってきた。
現在11巻「明王変」まで刊行。
物語の描く巨大な円が、どれほどの直径を持っているかという目算は立ってきたようだ。
この作品もまた、他の夢枕作品同様、完全に「何でもあり」のファンタジーにはなってしまわず、作品内の約束事を丁寧に守りつつ、ぎりぎりのリアリティーを保ちながら、人が幻獣と化す「キマイラ化現象」を軸に、仏教や仙道、中国拳法、西洋神秘思想などがちりばめられて、壮大な物語を織り成していく。
物語の始まりは発表媒体に相応しく「学園伝奇ロマン」の体裁を持っていたが、主人公の二人の少年の身体に生じた「キマイラ化現象」の謎はすぐにそんな小さな枠を食い破り、物語は遥か中国、チベットへと拡大していく。現代においてなお「西域幻想」を保っている遥かな中央アジアの地で、戦前の「大谷探検隊」の馳せた夢が、異形の美しい悪夢として読み替えられる。
第6巻には物語の核心に触れると思われる「外法曼陀羅図」が登場する。チベット密教の凄まじい忿怒の仏画を更に凌駕する図像の描写は、おそらくこの作品の中盤のクライマックスと言える部分になるだろう。
読み返していると、最初に読んだ高校生の頃の心情が甦ってくる。あの頃、「外法曼陀羅図」の描写に強烈に惹かれたことが、私の中の「仏の絵を描く動機」の一部に、確かにつながっていると感じるのだ。
この作品、ようやく完結にむけて材料が出揃ってきた感もあるのだが、おそらくまだ、最短でも10年ほどはかかるのではないかと感じる。
作者自身が「生涯小説」と表現するだけに、今後も読み手と書き手の要求するクオリティは巻を追うごとに増大していくことだろう。
私の個人的な感触で言えば「七合目」までは行っているのではないかと思うのだが、こればかりはおそらく作者自身にも「書いてみなければわからない」ということになるだろう。
「○×年に〜〜が起る!」といった類の予言がたいてい外れるように、たとえ作者本人が「あと○○巻で終る!」と表明しても、そんな告知はたいがい外れてしまう。
生きた物語とはそうしたものだ。
物語の完結とは別の関心として、「外法曼陀羅」のことがある。
私がその絵を描くために必要な描写は、既刊分で一応出揃ってきているようでもあるのだ。
そろそろなのか……