私が夢枕獏の作品を読み続けていることには、動機がある。
今までにも何度か記事に書いてきたが、「キマイラ」作中に登場する架空のマンダラ「外法曼陀羅」を、いつか自分なりに描ききってみたいという願望を抱いているのだ。
このカテゴリ夢枕獏を設けたのも、実を申さば「それ」を描くための情報整理を目的としている。
件のマンダラの、詳しい描写の初出は以下の巻になる。
物語の作中時間にして、約二十年前、チベット密教寺院の隠し部屋においての目撃談として語られている。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
語っているのは「吐月」という登場人物。
自ら「沙門」と名乗り、正式な仏教僧にはならずに、釈迦と同じように独力で仏陀となることを、本気で志した人物として描かれている。
はっきりとした年齢は記述されていないが、おそらく作中で五十歳前後。今でも悟りを求めて山岳修行を続けている。
物語は「人が獣に変ずる」という主題にそって展開されていくのだが、その核心部分に接近した経験を持つことから、主人公周辺の人物がその体験談を聴きに、大峰山系で修行を続ける吐月に会いに行く。
山中、夜の焚火を囲んで、人が悟るということや、獣に変ずるということについて、静かに語り合われるシーンは印象的だ。
私も以前は、毎年夏から秋にかけて、一週間ほど時間を作って熊野の山々をほっつき歩いていた。
山中や川原で夜を過ごすとき、やはり火を焚いた。
夕刻、人気のない山奥で徐々に暗くなってくるのは、けっこう怖い。
完全に暗くなってしまえばかえって平気になるのだが、夕刻の心細さはまた格別だ。
まだ明るいうちに焚き木と枯れ草を集めておいて、日が落ちてしまう前に焚火をはじめる。
お粥を炊いたり、食べ物を温めたりして食事をとり、あとは眠くなるまでただ火を見つめる。
とりとめもなく、色々ものを考える……
キマイラ作者の夢枕獏は、自身も手練れの登山家で、専門家と言ってもよい。
作中にはよく登山シーンが描かれるし、登山そのものを主題にした作品もある。
だからこの「キマイラ」の、山中の焚火シーンも物凄く雰囲気が出ていて、私も自分の山での経験が蘇ってくる。
ここ数年、まとまった日程で山に行けていないので、読んでいるとなんだかムズムズしてきてしまう。
焚火を囲んだ会話の中で、吐月がふと本音を漏らす。
「何年もなにも、おれは仏になれぬよ。覚ったとすれば、そのくらいのところのようだな」
それに対する昔馴染みの言葉。
「おいおい、何を言うか。我らの中では、ぬしだけが、まだ、現役なのだ。夢を壊さんでくれ」
読んでいて思わず「現役って何!」と呟く(笑)
前後の文脈からすれば、かつて「彼ら」は本気で「悟り」に近づこうとした経験があったということだろうか。または、仏教の言う「悟り」に限らず、それぞれの志す道において、描いた理想に到達することを目指したということか。
同年代の他の仲間はそこからはリタイアし、吐月だけがまだ「おりて」いなかったと言うほどのニュアンスと受け取れる。
野球のようなスポーツならば、「現役引退」というのは具体的に理解できるが、何事かの「道」を求めることにおいて、現役であるかどうかというのは、どういう感覚なのだろうか?
わかるような気もするが、考え始めるとわからなくなってくる。
例えば、自分は?
またいつか、山に入る日が来たら、焚き火を眺めながら考えてみたい。