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2016年06月07日

復帰!

 コメント欄でも少し告知していましたが、実は昨日まで入院していました。
 五月末から体調が悪くて、また例の胃腸炎が発端だったのですが、苦しんでいる内に他の病気も併発してしまい、先週水曜日に緊急手術。
 ようやく昨日退院でした。
 今日から最徐行運転で社会復帰。
 この入院については色々思うところもあったので、ぼちぼち記事にしていきます。

 身動きできない時間だけはたっぷりあったので、kindleで本はたっぷり読めました。
 遠野物語を久しぶりに通読したり。
 病棟のデイルームにあった、山口組三代目の実録マンガも面白くて読みふけったり。
 いくつか面白い夢も見ました。

 4月から一ヶ月半にわたって、楽しみ、学び、考え続けた生頼範義展が終わってしまって、生頼ロスになるんじゃないかと我ながら心配していた六月ですが、怒濤のような入院騒ぎでとてもそんな余裕はありませんでした(笑)
 生頼範義関連記事は、あともう一つ書き残しておきたいです。

 体調と相談しながら、こちらのブログにもぼちぼち復帰したいと思います。

 
posted by 九郎 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年06月08日

誰かこの子に

 三時間半の手術を終え、病室に運ばれて夜うとうとしている時、夢を見た。


 ふと目が覚めると、列車の中だった。
 地方の単線のような雰囲気の車両のボックス席に座っている。
 ひざの上には、全裸の赤ちゃんがいる。

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 赤ちゃんは「にやっ」と笑いながら、湿った手で私の顔をペタペタとさわってくる。
 ものすごくかわいいが、全裸のままでは大変だ。

「誰かこの子に服やオムツを分けてもらえませんか?
 タオルでもいいです!」

 まわりに声をかけると、よってたかって色々なものを投げてくれた。

 これならもう、安心だ。
posted by 九郎 at 06:16| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年06月10日

生活者としての絵描き

 5月末、会期末の土日は避け、最後にもう一度「生ョ範義展 The Illustraor in 明石」を観に行った。
 これで計四回。
 一回ごとに反芻し、考え尽くしたタイミングでもう一度観に行き、新たなテーマを持ち帰るという感じで、充実した会期を過ごせたと思う。
 しかしもう終了してしまったので、また何か新しく気付いても確かめにいけない。
 寂しさも感じるけれども、巡回展のパッケージは整っているようなので、いつかまた機会はあろう。

 一階展示室のSFアドベンチャー誌表紙絵シリーズ、「フランチェスカ・ダ・リミニ」という作品の背景装飾にエイリアンクイーンを見つけてニヤリとする。
 前回も「ブラディ・メアリー」という作品を見ていて、中央の女性の背後にνガンダムの頭のシルエットが重なっているのに気付いた。
 このシリーズ、他にもこうした遊びは色々ありそうだ。

 あくまで私の主観による区分になるが、多くの作品を制作年を意識して観賞していくと、とくにリキテックスによるカラーイラストの画風は、だいたい三期くらいに分かれるのではないかと感じる。

1、60年代デビューから70年代末あたり
 先行する探偵/冒険小説などの挿絵、デザイン系の手法を用い、自身の油彩や写実の技術をイラストに応用した技術の形成期。
2、80年代
 印刷を前提とした商業イラスト技術研鑽が、ピークに向かう時期。
3、90年代以降
 イラスト的なくっきりした色の使い分けを徐々に抑え、絵画的な表現にじわじわ回帰していく時期。

 生ョ範義関連の前回記事で、以下のような言葉を引用した。

「生活者としての絵描きは 肉体労働者にほかならぬ。」

 これは1980年(当時45才)刊行の最初の画集「生ョ範義イラストレーション」に収録された、生ョ範義自身の文章のタイトルである。
 タイトルがすでに刺激的だが、中身もかなり率直かつ強烈な文章が並んでいる。
 少し引用すると、以下の通り。

「私はおよそ二十五年の間、真正なる画家になろうと努めながら、いまだに半可通な絵描きにとどまる者であり、生活者としてはイラストレーターなる適切な訳語もない言葉で呼ばれて、うしろめたさと恥ずかしさを覚える者である。」
「私は肉体労働者であり、作業の全工程を手仕事で進めたい。定規、コンパス、筆、ペン、鉛筆とできるだけ単純、ありきたりな道具を使い、制作中に機械による丸写しや、無機質な絵肌を作ることを好まない。一貫して、眼と手によって画面を支配したい。」
「生活者たる私は、依頼された作品を制作するに当り、主題の事物の裏に展開し得るだろう別な世界に思いを巡らすことなど決してしたくない。」

 学生時代に図書館で画集を開き、この文章を読んだ私は、敬愛する絵描きの孤高の魂に触れた気がして、強く印象に残った。
 プロフィールによると生ョ範義は子供の頃から小説なども書いていたそうなので、絵だけでなくもっと文章も読んでみたいのだが、この一文以外に発表されたものはなさそうだ。
 その代わり何度も再録されているので、生ョ範義の画集を求めると、掲載されていることが多い。
 今回の展覧会の図録にも再録されているので、手元にある人は是非開いてみてほしい。

 この一文が発表されてからほどなく、生ョ範義は「畢生の大作」を描き上げている。
 油彩による600号の超大作「破壊される人間」である。
 超多忙なイラスト仕事の合間を縫いながら、十年かけて描かれたというこの作品、残念ながら私はまだ実見していない。
 あまりにも巨大であるため現在所蔵されている施設から動かせず、ここ数年の生ョ範義展でも展示は検討されながら、果たせていないそうだ。
 だからサムネイル程度の画像と、今回の展示会場で流されていた紹介映像でしか見ていないのだが、それでも伝わってくる圧倒的なパワーがある。
 是非とも一度、前に立ってみたい作品だ。
 現在の所蔵は九州の川内歴史資料館。
 作品の主題とあわせて考えると、思うところはある。

 この作品が制作されたのは70年代。
 先に紹介した「生活者としての絵描き」の一文のような、苛烈なイラストレーターとしての研鑽を積んでいる時期だ。
 おそらく、「破壊される人間」と他のイラスト仕事は、車の両輪のような関係だったのではないかと思う。
 両方あったからこそ、両方描けたのだ。
 そして、イラストの技術の真髄を極めた80年代後半以降、生ョ範義は徐々にイラストと絵画の融合を試行しているようにも見える。
 超大作「破壊される人間」と主題に共通性を持ちながら、イラストとしても成立している大作「サンサーラ」や「我々の所産」を見ると、とくに強くそう感じる。

 生ョ範義のアトリエには、まだまだ未完成、未発表の、イラスト以外の作品が数多くあるという。
 イラストレーターとしての偉業の背後に、広大な画家としての領域が広がっているのだ。
 公開される日を待ちたい。

(生ョ範義展関連記事、ひとまずおしまい)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 生頼範義 | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

カテゴリ「生頼範義」

 生ョ範義展関連記事が一段落したので、カテゴリ生頼範義にまとめ。
 検索に反映、表示されやすくするために、正字ではなくあえて生「頼」範義としてあります。
posted by 九郎 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年06月12日

村芝居

 術後二回目の夜、ろくに身動きできないベッドの中。
 夢を見た。

 難病になってしまった。
 まだ二十歳そこそこだというのに、これではお先真っ暗だ。
 病んだ私は、とある山里へ向かう。
 遠い親戚の住む山里で、子供の頃、何度か泊まりに行ったことがある。

 里にはけっこう大きな神仏習合風の神殿がある。
 その参道周辺は、昔の街道筋が当時のまま残ったようににぎわっている。
 確か子供の頃、ここにも連れてきてもらったことがあり、とても楽しかったのを覚えている。

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 病み疲れながらふらふらと神殿に参拝する。
 こちらからとくに説明もしていないのに、神官の人が招じ入れてくれる。
 奥の間には大きな囲炉裏のような古びた木枠がある。
 木枠の両側には「取り次ぎ」の神職二人が向かい合わせに座っている。
 木枠の中は浴槽のようになっていて、きれいな灰と清水を溶かした泥が満たされている。
 私は着衣のまま泥の中に横たわる。

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 神職二人がしばらく祭文のようなものを唱え、取り次ぎをしてくれる。
 それが終わると、華やかな手拭いをかぶった若い女性二人に助け起こされ、別室で清めと着替えをする。
 気分はいい。
 病は癒えたのだろうか。
 華やかな柄の手拭いを何種か示され、好きなものを選ぶように言われる。
 私は黄色のちょっと沖縄風の柄のものをもらう。
 
 女性二人に街道筋のような参道に連れ出される。
 道幅の広い通りでは、たくさんの人が踊っている。
 五色の手拭いをくるくる巻いたり、回したり、肩にかけたり、頭にかぶったりして、盆踊りのような感じだ。
 見よう見まねで躍りの列に入る。

 ひとしきり踊ると、昔風の大きな商店に通される。
 棟梁と呼ばれる壮年男性が、笑顔で私を招き入れる。
 黒い法被姿で恰幅がよく、眉が黒々と太い。
 往年の昭和スターといった雰囲気だ。

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「安心せい。頼れ、もたれろ!」
 呵呵大笑しながら、棟梁は言った。
「すじが良さそうだ。ここの村芝居の役者をやらんか?」
 山里の賑わいを眺めていると、それもいいなとふと思う。
posted by 九郎 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

緊急入院顛末記1

 発端は胃腸炎だった。
 吐き気と腹痛が始まったとき、「ああ、また例のやつか」と思った。
 昔からよく胃腸炎にはかかってきた。
 腰痛と並ぶ持病として、このブログでも度々記事にして来た。
 胃腸炎はありふれた病気で、いわゆる「お腹の風邪」だが、症状が重くなる場合もけっこうある。
 最近の例では、タレント医師の西川史子さんが急性胃腸炎で入院し、番組を休んだニュースなどもあった。
 私の場合は1〜2年に一回、季節の変わり目、仕事などが一段落した心の隙間をねらうように、胃腸炎がやってくる。
 入院するほどではないが、数日間激しく苦しむのはわかっている。
 同時に、数日間しのげばなんとかなることもわかっている。
 今回もそんな感じで進むのだろうと、これからしばらく続くであろう苦痛にうんざりしながらも、ちょっとたかをくくっていた。
 かかりつけのお医者さんにも「ああ、アレか」という感じで、点滴の応急処置と薬の処方をしてもらった。
 幾分症状は落ち着いたものの、それでもなかなか吐き気と腹痛は収まらなかった。

 発症してから四日目、まだ吐き気と腹痛は続いた。
 さすがにおかしいと気付き、思い当たるところもあったので、救急で外科を受診した。
 そこで診断された病名は「鼠径部ヘルニア」だった。
 一口にヘルニアと言っても色々な種類があるが、私が発症したのは俗に言う「脱腸」というやつだ。
 腹膜に包まれた状態の腸が、内側からの腹圧によって筋肉の外側にはみ出してしまう病気だ。
 私の場合は、長時間にわたる胃腸炎の苦痛でおかしな具合に腹圧がかかり、腸が押し出されてしまったということらしい。
 ヘルニアで起こる症状がまさに「吐き気と腹痛」ということで、胃腸炎との境目がよくわからなかった。
 結果的には「けっこう重症のヘルニアを数日間放置した」という状態になってしまい、緊急入院、緊急手術が即決した。
 さらに悪化すると、はみ出した部分の腸の血流が滞り、腐ってしまったりするそうだ。
 私の場合そこまでには至らなかったのが不幸中の幸いで、タイミング的には「ぎりぎり間に合った」ということだ。

 今回お医者さんに聞いたところでは、鼠径部ヘルニア(いわゆる脱腸)は、わりと多い病気らしい。
 病気としてはよくある部類に入るのだが、「ちょっと聞いとくんなはれ、わたし脱腸ですねん」などと言ってまわる類いの病気ではないので、あまり身の回りで聞かないかもしれない。
 ぶっちゃけて言えば、患部がオチンチンあたりなので、なかなか話題にしにくいのだ。
 軽症で済んでいるうちなら日帰り手術も可能なのだが、日常生活に支障がない程度だとなかなか受診する気にならない。
 結果、症状が悪化してから慌てるというパターンがあるそうで、私がまさにそうだった。

 私が「これ、ちょっとヘルニアっぽいかな?」と自覚し始めたのはいつ頃のことだったか。
 数年前にはなんとなくそう感じていたと思う。
 少し「ポコッ」という感じで出ているのを自分で押して戻したりしたことはあった。
 苦痛や日常生活の支障を感じることはほとんどなくて、少し出ていても一晩寝たら戻ったり、入浴したら戻ったり、押したら戻ったりという感じで、何日も出っぱなしということはなかった。
 全然出ない期間が数ヵ月とか一年続くこともあったので、あまり深刻に考えられなかった。
 感覚的に、慣れてしまっていた面もある。
 しかし今思えば、この段階で受診していれば日帰りで済んでいたのだ。
 自分で戻すのも、勝手に戻るのも、サポーター等で押さえるのも、全ては「応急処置」とか「その場しのぎ」に過ぎない。
 さっさと治療しておけば仕事のスケジュールと合わせながらコントロールできたものを、胃腸炎と併発することで思いもかけず重症化し、仕事に穴を開けてしまった。
 アホである。

 私は今、恥を忍んでこの記事を書いているけれども、脱腸ということはなんら恥ずべきものではない。
 病気自体は、けっこうありふれた体の状態に過ぎない。
 本当に恥ずべきは、うすうす自覚しながら治療を先送りし、症状を悪化させた己の愚かさの方だ。
 
 私と同じように「なんとなく鼠径部ヘルニアっぽいかな?」と思いながら、日常生活にさほど支障がないとか、ちょっと恥ずかしいなどの理由で受診していない人は、たぶん世の中にいっぱいいると思う。
 悪いことは言わない。
 悪化しないうちに診てもらった方がいいです!
 仕事が休めないのは皆同じ。
 日程をコントロールして一日二日休むか、想定外のタイミングで一週間以上休んで仕事に穴を開けるか、大人としてどちらを選ぶべきかは自明です。
 この記事を読んだ皆さんが、私の失敗を他山の石とされますことを、切に願います!

(つづく)
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2016年06月14日

緊急入院顛末記2

 午後二時過ぎに救急で受診し、鼠径部ヘルニアの診断を受けた。
 緊急入院が即決し、手術に向けてあれこれ検査を受けた。
 合間合間に外科の先生が来て、飛び出してる腸が戻らないか、色々試された。
 できれば「戻っている状態」の方が手術がやりやすく、戻っていないと難航するそうだ。 
 戻し方はごくシンプルで、「手で物理的に押し戻す」という方法をとる。
 ごく軽症の時は自分でもやったことがあるが、重症化したものを戻すにはそれなりの技術があるのだろう。
 外科の先生の中でも慣れている(らしい)先生に、検査の合間に四人ほど試していただいた。

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 飛び出している腸をグニグニ押されるので、当然ながらけっこう苦しい。
「うぐっ!」
「はうっ!」
「痛!」
 などと、思わず声が漏れる。
 押されるのは苦しいのだが、それ以前にベースとして吐き気と腹痛は続いており、この長く続いた苦痛が手術前の麻酔で一段落するとわかっているので、あとはお医者さんに丸投げできる安心感はある。
 お医者さんに対しては、仕事とはいえこんなアホなおっさんのオチンチン付近をグニグニ押させていることに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 結局、ゴッドハンド(?)の先生方四人の努力にも関わらず、私のヘルは戻ってくれなかった。
 ちょっと面倒な手術になる予感である。

 午後五時から手術が始まった。
 付き添いには「余裕や!」と親指を立ててから手術室に入り、担当の先生には「存分にお願いします!」とご挨拶した。
 虚勢もあったが、もうずっと続いている吐き気と腹痛から解放される嬉しさが強く、生まれてはじめての外科手術に対する不安など全く感じなかった。
 全身麻酔の効き具合を体感してやろうと思っていたのだが、数日間ろくに眠っていなかったせいか、ほぼ一瞬で意識は落ちた。
 次に目覚めたときに、もう病室に運ばれていた。 

(つづく)
posted by 九郎 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

緊急入院顛末記3

 全身麻酔で一瞬に意識が落ち、次に目を開いたときにはもう病室に運ばれていた。
 私にとっては目を閉じて開いただけだったが、外の世界ではけっこう時間が流れていた。
 ヘルニアが戻らないままの手術はやはり難航したらしく、三時間半くらいかかったそうだ。
 あとから聞いたところでは、新人のお医者さんなんかも後学のために見に来ていたらしい。

 午後五時過ぎから手術室に入り、病室で意識を取り戻したら午後九時近くだった。
 8cmくらいレーザーメスで切り、腸をいじり回したにしては、あまり痛みは感じなかった。
 手術後はもっと苦痛に耐えなければならないのかと思っていたが、じっとしている限りは拍子抜けするくらい苦しくなかった。
 さすがに動くと痛みが出たが、酸素吸入とおしっこの管と点滴、合計三本のチューブが繋がっているので、そもそもろくに身動きはとれない。
 照明を落とし、静まり返った個室にいると、電子機器のかすかな音や自分の鼓動が入り交じって、ヒップホップのBGMみたいに聞こえてきた。
 麻酔からさめたぼんやりした意識の中、昼間診断を受けたお医者さんたちが、私のベッドのまわりでBGMにあわせてヒップホップダンスしているような、奇妙な妄想が浮かんでくる。
 手術前にヘルニアを戻そうとしたときの手付きからの連想だろうか。

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(ヘルニアブラザーズ?)
 などと、やや失礼な妄想を楽しむうちに、二時間ほど過ぎた。

 午後十一時頃、ベッドごと病室を移動して四人部屋に入った。
 わりと入れ代わり立ち代わり看護師さんが出入りしている。
 眠れぬままにじっとしていると、例によってかすかに聞こえてくる電子機器の音や自分の鼓動が混じり合い、ヒップホップのBGMみたいな気がしてくる。
 うつらうつらしていると、何人か見かけた看護師さんたちが、私のベッドのまわりでBGMにあわせてヒップホップダンスをしているような……(以下略)

 寝たり覚めたり、やや失礼な妄想が浮かんだり、を見たりしているうちに、術後の夜は明けていった。
(つづく)
posted by 九郎 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

緊急入院顛末記4

 手術から一夜開けた。
 寝たり覚めたりだったが、そこそこは睡眠時間がとれた。
 数日間、腹痛と吐き気でろくに眠れていなかった状態からは、ようやく解放されたことになる。
 朝、手術跡の状態を確認したり、各種検査の結果、酸素吸入は終了。
 繋がった三本のチューブのうち、一本は減った。
 残りは点滴とおしっこの二本。

 徐々に身動きの練習。
 パラマウントベッドの上げ下げの機能に助けられながら、少しずつ身を起こす。
 じっとしているとほとんど苦痛はないのだが、少しでも身動きするとさすがに手術跡に響く。
 とくに身を起こそうとすると、体内からググーッと縫合箇所を圧される感覚があって、「痛い」というより「怖い」感じがする。
 手術内容としては、右下腹部を開腹し、飛び出した腸を戻し、ヘルニアの出入り口を塞ぎ、開腹部を閉じているはずだ。
 またヘルニアが再発したり、手術跡が破れたりしないだろうか?
 どこまで我慢しても大丈夫なのだろうか?
 お医者さんや看護師さんからは「無理のない程度に少しずつ動いて」と言われるが、それがまた難しい。
 性格的に「今日中に立って歩け!」と指示されれば、気合いで達成するタイプなのだが、「無理のないように」とただし書きをつけられると、とたんにどうしていいか分からなくなる。
 看護師さんに「トイレまで行けたらおしっこのチューブは抜けます」と言われたので、とにかくそこまでは行ってみようと、休憩をはさみながら動く。
 色々試しているうちに、ベッドの操作にも慣れてくる。
 動くのはまだ怖かったが、それでも少しずつ動くと、体は楽になってくる。
 一晩身動きひとつできなかったので背中が凝ってしまっていて、じっとしているのはそれはそれで苦痛だったのだ。
 午前中には立ち上がり、午後には病室内のトイレまで、なんとか行けるようになった。

 朝からずっと、お腹の中がギュルギュル騒がしかった。
 ガスはわりとすぐ出てくれて、無事開通。この辺は盲腸などの開腹手術と同じだ。
 夜になると下痢が始まった。
 これは胃腸炎の方だろうとわかっている。
 これまでも、胃腸炎の治りかけのときにひとしきり下痢が出て、快方に向かうパターンがよくあった。
 まだ俊敏に動けないので、紙オムツをつけることにした。
 間に合わないと大変なことになるので、とくに抵抗はない。
 排便のときあまり力まないように言われたので、リハビリも兼ねて回数を分けて「小出し」にした。

 背中が凝って辛かったが、ベッドの操作を習得して多少楽にはなってきた。
 相変わらずものが食べられない(そもそも食欲がわかない)状態が続いていたが、数時間刻みの単位でやっとまとまった睡眠がとれるようになった。
 トイレに行ったり、を見たりしているうちに、二回目の夜は明けていった。
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

緊急入院顛末記5

 術後二日目。
 夜間五回ほどゆるめの便を怖々小出しにし、その度にゆっくりゆっくりトイレを往復。
 そのため細切れにはなったが、トータルではそれなりに睡眠時間がとれた。
 胃腸炎発症からは六日目にあたる。
 最初の四日間はろくに眠れず、絶食状態で、水分もまともにとれなかったので、吐き気と腹痛から解放され、眠れるようになっただけでも大幅に楽になった。
 病室内のトイレには問題なく行けているということで、午前中にはおしっこのチューブを抜いてもらえた。
 これで残るチューブは点滴だけになり、ベッドの上でもかなり身動きがしやすくなった。
 点滴を卒業するためには、水分補給や食事ができることを示さなければならない。
 胃腸炎あがりなのでお腹の調子はまだ万全ではない。
 絶食六日目だがまったく食欲はわかない。
 点滴を受けているので喉の乾きもないのだが、お茶を一口ずつ噛むように飲むことから始めてみる。
 水分補給が口からできるだけでも、涙が出るほど嬉しい。
 胃腸炎が始まってからは水を飲んでもすぐに吐いてしまい、スポーツドリンクを口を湿らせる程度のごく少量ずつ含むことしかできず、その糖分だけでなんとかもたせていたのだ。
 ゆるいながらも排便があり、水分も経口で摂れているということで、夕食から五分粥を試してみることになった。

 夕食までいくらでも時間があったので、休み休み歩行訓練。
 病室のある十階は自由に動いて良いということなので、じわじわ行動範囲を広げてみる。
 まだ姿勢を変えたときに感じる、手術跡への体内からのどんよりした圧迫感はあったけれども、一旦立ち上がってしまえばしばらくは大丈夫だということがわかった。
 身を起こし、立ち上がるまでが一番辛いが、歩く距離は少々長くても問題ない。
 ほどなく十階の廊下を周回できるようになり、身を起こすのにパラマウントベッドの助けを借りなくてもできるようになった。
 嬉しがって夕方の検診で先生にその事を伝えると、調子に乗ってる雰囲気を嗅ぎ付けたのか、「あんまり無理しないように」と釘を刺されてしまった。

 見舞いにkindleとすりこぎ棒を持ってきてもらった。
 少し歩行訓練してはゆっくり読書し、また少し動いてみては、寝転んだ状態ですりこぎ棒を背中に挟み込み、凝った背中をマッサージした。
 そうこうしているうちに夕食の時間になり、六日ぶりの食事にありついた。
 出してもらったのは主食に五分粥、白身魚と野菜のホイル蒸し、そうめん、野菜の煮物、牛乳など。
 胃腸炎あがりの私にとってはかなり分量が多く、正直まだ食欲もなかったのでちょっと困った。
 下痢なので牛乳はパス。
 おかずを中心に40分くらいかけてゆっくりいただく。
 せっかくなのでお粥も半分ぐらいは食べてみたが、これがいけなかった。
 食後一時間くらいしてから胃が重くなり、少々吐き気。
 いつもなら胃腸炎のあとは、もっと抑えた分量にし、食欲がわかなければ無理には食べないのだが、「病院で出されているのだから出来るだけ食べよう」と、変にがんばってしまった。
 看護師さんに伝えて、整腸剤を出してもらうことになった。

 寝る前に一度、少量の便が出た後は朝まで保ち、入院三回目の夜はさらによく眠れるようになった。
posted by 九郎 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする