blogtitle001.jpg

2016年07月02日

鼠径ヘルニア(脱腸)まとめ

 先月、鼠径ヘルニアをこじらせてしまい、緊急入院、緊急手術を体験しました。
 ヘルニアにも色々ありますが、私がこじらせてしまったのはいわゆる「脱腸」と言うタイプのものです。
 患部が下腹部あたりになるので話題にしにくい所があり、身のまわりであまり聞かないかもしれませんが、わりと多い病気だそうです。
 軽症なら簡単な手術で対処できるのですが、場所が場所だけに、日常生活にさほど支障が出ない程度だと中々受診する気になれず、悪化させてから慌てる人がけっこういるようで、私がまさにそれでした。
 私の失敗が少しでも人様の参考になればと思い、顛末を記事にしましたのでまとめておきます。

●緊急入院、緊急手術当日
緊急入院顛末記1
緊急入院顛末記2
緊急入院顛末記3

●その後の入院生活
緊急入院顛末記4
緊急入院顛末記5
緊急入院顛末記6
緊急入院顛末記7
緊急入院顛末記8

●退院後
緊急入院顛末記9
鼠径ヘルニアその後

●入院中に見た奇妙な夢
誰かこの子に
村芝居
posted by 九郎 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ・マップ | 更新情報をチェックする

2016年07月08日

争点は自分で決める

 選挙が近い。
 が。
 相変わらずというか、「関心が低い」だの「争点になっていない」だの、報道機関は存在意義を自己否定するような、くだらない言辞を垂れ流している。
 それでも参院選について報じていればまだマシな方で、都知事選の候補者選びなどという、緊急性のない、また東京以外の府県には直接関係の無い、言ってみればどうでもいいニュースばかり取り上げて、目前に迫った参院選に尺を割かない姿勢が目立つ。

 どうでもいい都知事選の報道に乱入し、参院選の重要争点のアピールをやってのけた石田純一さんは、本当に偉いと思う。
 その「全部承知」のアピールを、ピエロ扱いにしかできない報道。
 おまえらの方がよほどヘタレでアホだっつーの!

 新聞やテレビの報道は、少なくとも私にとってはもう大分前に終わっている。
 本当に知りたいことが報じられることなど、ほとんど無いのだ。
 
 しかしよく考えてみると、参院選の関心が低く、争点が明確でないことは、何も報道だけの責任ではない。
 報道に争点を決めてもらったり、関心を持たせてもらったりという姿勢そのものが、根本的な間違いなのだ。
 争点などは自分で決めればいい。
 私は絵描きなので、これまでの生育歴で「多数派」に属した経験をほとんど持たない。
 物の見方も趣味嗜好も世間さまとはズレたところにあり、今さら合わせる気もない。
 基本的にはアナーキーな絵描きである私が、政治に対して何らかの期待を持つとするなら、以下のような論点になる。
 
●日本の国土・領海の自然を守る。
 国破れて山河有り。
 国家などは歴史の中でいくらでも興亡するが、国土さえ保全されれば民は生きていける。
 この日本の麗しの山河を守るにあたり、最優先の緊急課題は全原発の即時廃炉だ。
 地震の活動期に入ったと言われるこの火山列島、よりによってその中でも最大級の活断層である中央構造線付近で、次々と原発再稼働が進められている。

 狂気の沙汰、地獄の沙汰である
eq005.jpg

 川内か伊方で過酷事故が起これば、気流、海流により、日本の国土は壊滅してしまう。
 福島の惨状を放置し、隠蔽し、原発再稼働に前のめりな現政権に待ったをかけなければならない。
 今回の参院選と同日、川内原発をかかえる鹿児島県知事選も行われるが、脱原発派の新人候補が現職と接戦を演じているという。
 どうでもいい都知事選を報じるくらいなら、こちらの方がよほど報道価値があると思う。

●日本の文化、国柄を守る。
 日本古来の信仰とは何か?
 この答えは一つではない。
 歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
 一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
 純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
 事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「その時点での創作神話大系」だ。
 宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
 しかしそれは、一種のフィクションでしかない。
 実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
 国家神道などは「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかなく、史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼした官製カルト宗教だと言う見方だってできる。
 ところがこの日本史上最悪のカルト宗教を、復活させようと目論む勢力がある。



 しかも、現政権構成員の大半がこの勢力の影響下におかれている事実がある。
 私は改憲というテーマについては「中身次第」だと思っているけれども、こいつら主導の改憲はイコール明治憲法への復古に他ならない。
 日本のおおらかな文化、国柄を守るためにも、絶対に議席数でフリーハンドを与えるべきではないと考えている。


 他にも自分なりの論点はあるが、優先順位では以上二点がだんとつで高い。
 関連して言えば、TPP参加なども国土や国柄を破壊する愚行だと考えている。
 名うての原発推進派であり、TPPの交渉に当たっていた某睡眠障害国賊議員は、さっさとつるし上げて質問攻めにすべきだろう。

 あとは選挙情勢と考え合わせて、最適と思える投票行動をとれば良い。
 個人でできるのは、そこまでだ。
posted by 九郎 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年07月11日

絶望が足りない

 予想通り、参院選は与党の勝利に終わった。
 与党に加え、改憲を掲げる議席数を合わせると「改憲発議」が可能となる3分の2を越えたということで、報道はおおはしゃぎである。
 改憲を争点として報道しなかったくせに、結果が出るとこのはしゃぎよう。
 しかも前日の選挙当日には、安倍の顔写真がデカデカと載った自民党の広告を掲載していた全国紙が多数あるという。
 新聞の講読者は完全に舐められている。
 舐められているにも関わらず、単なる習慣として購読を続ける層が一定数ある。
 現在の新聞報道の惨状は、こうした層にも責任の一端がある。

 改憲議論から徹底的に逃げまくった安倍晋三も、結果が出たら半笑いで改憲を口にする。
 こいつのやり口の薄汚さは今に始まったことではない。
 おそらく地元長州の吉田松陰あたりから学んで、「目的のためなら手段を選ばず」を信条としているのだろう。
 何故か吉田松陰は持ち上げられることが多いが、私には昔から「テロを煽るカルト教祖」に見えて仕方がない。

 民進党の岡田代表は、結果が出ても他人事のようだった。
 本人のキャラクターなのだろうが、育ちがいいというか、煮えきらないというか、やりようによっては勝てた選挙をグダグダにした責任が自分にあるということが、いまだに分かっていないようだ。
 喧嘩相手の安倍は「自分がやってほしくないこと」を全く隠せないタイプで、実は恐れていることほどヒステリックにこき下ろす傾向が見てとれる。
 だから安倍がキャンキャン罵っている方向こそ必勝の戦術だったのに、岡田は批判されるとすぐトーンダウンしてしまう人の良さがある。
 こういう甘さはリーダーとしては全く不適格としか言いようがない。
 喧嘩は何よりもまず勝たなければならず、勝つためには身内の雑音も腕力でねじ伏せなければならない。
 庶民というものは「喧嘩ができる人間かどうか」ということは、敏感に感じとる。
 その感覚は多くの場合、真っ当な政策論争よりも優先されてしまうものだ。

 民進党はこれから議論されるであろう改憲テーマで、早晩分裂するだろう。
 半端な議席数で路線対立し、膠着されるよりは、むしろその方が良いかもしれない。

 それでもいくつか見るべき点はあった。

 沖縄では与党の議席が消滅し、現職の大臣が落選した。
 言うまでもなく、基地の問題だ。
 沖縄と言えば、自民党比例区で今井絵理子が当選したが、以前の杉村太蔵センセーみたいになおバカ議員のポジションにされてしまいそうで、ちょっと気の毒なのである。
 まあ、自業自得。

 秋田を除く東北五県と新潟の一人区では野党が勝った。
 福島の原発事故が要因のひとつであることは間違いないだろう。

 大分でも野党が勝ち、愛媛では野党が猛追した。
 鹿児島で行われた注目の同日知事選では、脱原発派の新人が大勝した。
 鹿児島知事選ははっきりと川内原発再稼働の問題があるだろうし、保守の強い四国九州の中で大分と愛媛で野党が強さを見せたことには、伊方原発再稼働の問題も一つの要因になっているのではないだろうか。
 どちらも作ったこと自体が異常な狂気の原発である。

 いずれも目の前に差し迫った危機のある地域で、野党側が結果を出したのだ。
 なんだかんだ言いながら、与党が勝った地域というのは、まだ絶望や危機感が足りなかったということだと思う。
 
 改憲については、実を言えば私はそれほど心配していない。
 もともと「内容次第」というスタンスであるし、自民党の掲げる、近代憲法の体をなしていない「草案」が、そのまま発議されることはあり得ないと思っている。
 さすがに公明党はあの草案には乗れないだろうし、まともに国民的な議論に耐えうるだけの内容になっていない。
 できるとしたら公明党の掲げる「加憲」に上乗せして「緊急事態条項」を押し込むことで、これは厳重に注意しなければならない。

 心配なのは、どう考えても失敗が明らかなアベノミクスが今後も続くことだ。
 というか、手詰まりじゃないと思ってるのって、安倍本人だけじゃねーの?
 破綻が明らかになってくる前にまた逆ギレ解散しそうで、ちょっとキモいのである。
posted by 九郎 at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年07月13日

言論の不自由と透徹した知性

 本日、唐突に皇室に関するニュースが流れた。
 その一報を目にして、ちょっとなんとも言い様のない感慨を持った。

 今の天皇皇后ご両人については、常々そのお人柄と透徹した知性に、最上級の敬意を持ってきた。
 私は絵描きなので「天皇という制度や権威」には、正直なんの敬意も持てない。
 先代の昭和天皇の時代、私はまだ子供だったので、とくになんの思い入れもないし、判断基準を持たない。
 次代の皇太子については、即位してから色々思うことはあるだろう。
 私が抱くのは、あくまで今の天皇皇后ご両人という、個人に対する敬意だ。
 日本で一番言論の自由のない立場にありながら、がんじがらめの制約の中で、ただ移動し、言葉を発するタイミングのみを武器に「さあ考えてくれ、判じてくれ」とメッセージを発し続けていると、そのように私にの目には映るのだ。

 今日もまた、そんな黙示があった気がする。

 我が国の総理大臣なる人物の、幼稚にして醜悪な、腐臭漂う姿にうんざりしきっていた今日この頃。
 一陣の風が吹き抜けたような爽やかさを感じたのである。



 関連して、昨年末に投稿した記事を以下に再録しておこう。
-------------------
 書店でタイトルを見た瞬間に衝撃を受けた本がある。
 著者名を見て即買いし、読み耽った。
 読後「これは今年の一冊になるな」と思い、ブログでも早々に紹介したいと思っていたのだが、なかなか語る言葉が見つからずにいた。
 実は今も、適切な紹介の言葉が出てこないので、ごく簡単な覚書として書き留めておきたいと思う。 


●「ふたり 皇后美智子と石牟礼道子」高山文彦(講談社)

 メインタイトル「ふたり」に表されている通り、様々な「ふたり」の関係がルポされている。
 中でも主軸になるのが、二人のミチコ、サブタイトルの「皇后美智子と石牟礼道子」である。
 皇后と、水俣の語り部にして「苦海浄土」の著者・石牟礼道子。
 立場も含め、全てが遠く隔たった二人に、いかなる関係が存在するのか?
 私は水俣と天皇家について多少の知識があったので、息を殺しながら、時間をかけて丁寧に読み進めた。
 結果、確かに二人のミチコの間には強い絆が存在すると納得した。
 それも、簡単にお互いへの敬意とか友情とか表現できるような絆ではない。
 そうした感情はもちろん含まれているだろうけれども、それはもっと激しく鋭利なものなのではないかと感じた。
 孤独な二人の幼女が、泣き叫びながら白刃を突き付け合って、それでもお互いから目を離せないでいる。
 あくまで私の勝手な想像だが、そんなイメージが浮かんでくる。
 
 今はこんな感想の断片しか書けないのだが、これからも折に触れ、読み返したい一冊になった。


 そしてこれまでに読んだ本の中から、今回の一冊と(ごく私的な捉え方として)深く関連すると考えるものを挙げておきたい。


●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)


●「なみだふるはな」石牟礼道子 藤原新也(河出書房新社)
posted by 九郎 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年07月17日

ごっこ遊びの究極

 書こう書こうと思いながら時期を逸してしまった記事。

 6月中の話になる。
 日々のネット巡回先の一つに西田シャトナーさんのtwitterがある。
 西田シャトナーさんは劇作家、演出家で、おりがみ作家としても知られている。
 かつて90年代には、関西小劇場界隈では知らぬ者のなかった人気劇団「惑星ピスタチオ」を率いていて、私は主にその頃のファンだった。
 当時の惑星ピスタチオの看板俳優、腹筋善之介さんのことは、以前に一度記事にしたことがある。
 私は90年代、学生時代とその後しばらく、演劇をかじっていた。
 西田シャトナーさんは当時先輩筋にあたったので、何度かお話しを聞かせていただいたこともあった。
 その後活動の中心が関西ではなくなったこともあり、私はもう長く演出作品を観に行けていないのだが、おりがみ作品とともにずっと気になる人で、ネットでの呟きはずっと追いかけていた。

 最近の呟きの中で、『熱闘!! 飛龍小学校』が再演されたことを知った。
 この演目は、『破壊ランナー』とともに、かつての「惑星ピスタチオ」を代表するもので、もちろん私も大好きだった。
 西田シャトナーさんの演出について、当時から私は「ごっこ遊びの究極」だなと思っていた。
 子供は誰でもごっこ遊びをやる時、ナチュラルな役者になり、ナチュラルな演劇を作り上げる。
 誰に教えられるでもなく役柄に没入し、目の前のジャングルジムは高層ビルに、あるいは密林に、あるいは地下ダンジョンに変貌する。
 手にした棒はどんなものでも切れる伝説の剣と化し、気合いとともに目からはビームが放たれ、敵の攻撃は
体の周囲に張り巡らされた透明なバリアーで跳ね返される。
 そんなごっこ遊びの感覚を、大人が、それも鍛え上げられた肉体を持つ役者と、練りに練った作・演出が本気で再現したらどうなるか?
 「惑星ピスタチオ」は、それを実際にやって見せてくれる、驚天動地の劇団だったのだ。
 中でも小学生達を主人公にした『熱闘!! 飛龍小学校』は、テーマと演出の強みが見事に合致した、奇跡的な演目だったと思う。
 あれから二十年、西田シャトナーさんの演出はどれほどの進化を遂げていることだろうか?
 行きたい行きたいと思いながら、今回もまた観に行けなかった。

 今度関西で公演があればきっと観に行こう……
 もう何度目になるかわからないが、またそう誓う。

 90年代当時、まだ若かった私は『熱闘!! 飛龍小学校』を観劇しながら、私自身の小学生時代にも確かにあった冒険とごっこ遊びの日々を、大切に思い出していた。
 いつか自分も、記憶の中の友人達との冒険を作品化してみたい。
 ずっとそう考えていた。
 その願望は、ようやく数年前、拙いながら形にすることができた。

htjc00-02.png

 『図工室の鉄砲合戦』
 
 まだまだ、これからだ。
posted by 九郎 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする