とてつもなく暑いのである。
そして、とてつもなく寒いのである。
連日酷暑が続いている。
夏真っ盛りなのだから、それは仕方がない。
夏は暑いものだし、無理のないよう暑さを楽しみ、凌ぐのが正しい。
しかし、寒いのである。
エアコンを効かせ過ぎの屋内のことだ。
公共施設はさすがにエアコン控えめが多いが、交通機関や商業施設はとんでもなく冷やしている所が結構ある。
止まらずに通過するだけなら問題ないのだが、喫茶店や映画館、バスや電車などである程度の時間動かずに過ごすと、体が芯から冷えきってしまうことがある。
外気との落差がまた酷く、体にこたえる。
だから最近、外出時には登山用のストールが手放せなくなっている。
●モンベル シャミース ストール
この製品は、今年のGWに衝動買いした。
下界はかなり暑かったので薄着で軽く登山したとき、思いがけず山の上は寒くて困った。
山頂近くの売店でこのストールが売られており、登山用品としては手軽な値段だったので購入した。
72×162cmなので羽織るとかなりの範囲をカバーでき、サイズのわりに畳むと軽量コンパクトで、普段使いの小型リュックに入れてもさほど邪魔にならない。
現物はストールというよりも小型のブランケットという感じだ。
アウトドアでは常備品になるだろうし、防災にも十分使える。
夏になってからは、きつすぎる冷房対策に引っ張り出してきて、重宝している。
暑い夏こそ冷房で体を冷やさないように一工夫!
2016年08月07日
2016年08月14日
虚構の中にはせめて希望を
あまり映画を映画館で観る方ではないのだが、個人的に信頼する目利きの皆さんが皆評価しているので、久々に映画館に足を運んだ。
上映中の「シン・ゴジラ」である。
噂にたがわず、物凄く面白かった。
まだ公開から日は浅いが、ネタバレがどうのというような内容ではないと思うので、気にせず感想を書く。
誰もが一見して、約60年前に公開された初代ゴジラを、現代のリアリティで再現したとわかる作品だ。
日本映画にありがちな「売るための保険」を極力排除し、カメラはただただゴジラという自然災害に近似した災厄に右往左往する日本と世界の対応を追っている。
一定数の客を入れることを義務付けられた「ゴジラ」というコンテンツは、数を重ねるごとに「売るための要素」を混ぜ混むことを余儀無くされて、初代を除いて質的にはビミョーな作品を連発してきたのだけれども、現代ニッポンのいままさにこのタイミングで、これだけハイレベルの原点回帰が為されたことは本当に意味深いと思う。
やや危うく見えた石原さとみの演技も、本人の頑張りで「売るための保険」のレベルは遥かに越えていたのではないだろうか。
庵野監督にしか為し得なかった偉業である。
ゴジラというコンテンツは、作り手にとってはある意味で「ふりかかる災厄」そのものなので、今回のキャストもスタッフも、脚本に深く感情移入しながら映画を造り上げたのではないかと思う。
ゴジラは、60年前の初代から「核」であり、「放射能」であり、「アメリカの生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くす怪物だった。
作中のゴジラと悪戦苦闘する日本の官僚や政治家は、一人一人の無力さが非常にリアルなのだが、タカ派もハト派も、保身に長けた調整派も、組織に馴染めない変わり者も、「最後は日本のため、国民のために尽くす」という一線は崩さない。
その一点において、非常にファンタジックな作品であるとも言える。
残念ながら、現実の政治家や官僚が、実際の緊急事態にその一線を守ってくれそうもないことは、3.11後の日本の大前提になってしまっているのが、なんとも悲しい。
そうした悲惨な現状を踏まえてなお、せめて虚構の中だけでも「リアルに映る希望」を語れるところが、90年代に一度「エヴァ」で破滅を吐き出し尽くした庵野監督の成熟度なのではないかと思う。
(一応続編もありえる作りになっていて、翼の生えた奇形的なある怪獣に繋ぎ得る設定になっているのだが、まあ続編は実際には撮らないで、一部の客が妄想の中であれこれ楽しむのが一番望ましいのではないかと思った)
絵描きの習性として、これだけのものを見せられると、描かずにはおれなくなる。

観た勢いのまま資料なしでざっくり描いた。
私の頭の中のゴジラ像に、今回の映画で印象的だった「抑えきれないマグマ」のような質感をプラスした一枚になったと思う。
今回の映画のゴジラは、古くからのゴジラファンには賛否のあるデザインであろうことは想像に難くないが、私個人としては歴代の中で一番好きかもしれない。
設定全長の数値とは関係なく、歴代の中で最も「巨大感」のあるゴジラだったのではないか。
フルCGでありながらも着ぐるみを基本にした立ち姿が見事だ。
この巨大な破壊エネルギーを溜め込んだ「静」の立ち姿があるからこそ、エネルギーを解放したときのあの凄まじいカタルシスが生まれるのだ。
久々に模型で造ってみたくなるデザインだ。
手頃なサイズのフィギュアがあったら、心行くまでドライブラシで塗ってみたいなあ……
映画「シン・ゴジラ」
この夏、縁日草子イチオシである!
上映中の「シン・ゴジラ」である。
噂にたがわず、物凄く面白かった。
まだ公開から日は浅いが、ネタバレがどうのというような内容ではないと思うので、気にせず感想を書く。
誰もが一見して、約60年前に公開された初代ゴジラを、現代のリアリティで再現したとわかる作品だ。
日本映画にありがちな「売るための保険」を極力排除し、カメラはただただゴジラという自然災害に近似した災厄に右往左往する日本と世界の対応を追っている。
一定数の客を入れることを義務付けられた「ゴジラ」というコンテンツは、数を重ねるごとに「売るための要素」を混ぜ混むことを余儀無くされて、初代を除いて質的にはビミョーな作品を連発してきたのだけれども、現代ニッポンのいままさにこのタイミングで、これだけハイレベルの原点回帰が為されたことは本当に意味深いと思う。
やや危うく見えた石原さとみの演技も、本人の頑張りで「売るための保険」のレベルは遥かに越えていたのではないだろうか。
庵野監督にしか為し得なかった偉業である。
ゴジラというコンテンツは、作り手にとってはある意味で「ふりかかる災厄」そのものなので、今回のキャストもスタッフも、脚本に深く感情移入しながら映画を造り上げたのではないかと思う。
ゴジラは、60年前の初代から「核」であり、「放射能」であり、「アメリカの生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くす怪物だった。
作中のゴジラと悪戦苦闘する日本の官僚や政治家は、一人一人の無力さが非常にリアルなのだが、タカ派もハト派も、保身に長けた調整派も、組織に馴染めない変わり者も、「最後は日本のため、国民のために尽くす」という一線は崩さない。
その一点において、非常にファンタジックな作品であるとも言える。
残念ながら、現実の政治家や官僚が、実際の緊急事態にその一線を守ってくれそうもないことは、3.11後の日本の大前提になってしまっているのが、なんとも悲しい。
そうした悲惨な現状を踏まえてなお、せめて虚構の中だけでも「リアルに映る希望」を語れるところが、90年代に一度「エヴァ」で破滅を吐き出し尽くした庵野監督の成熟度なのではないかと思う。
(一応続編もありえる作りになっていて、翼の生えた奇形的なある怪獣に繋ぎ得る設定になっているのだが、まあ続編は実際には撮らないで、一部の客が妄想の中であれこれ楽しむのが一番望ましいのではないかと思った)
絵描きの習性として、これだけのものを見せられると、描かずにはおれなくなる。

観た勢いのまま資料なしでざっくり描いた。
私の頭の中のゴジラ像に、今回の映画で印象的だった「抑えきれないマグマ」のような質感をプラスした一枚になったと思う。
今回の映画のゴジラは、古くからのゴジラファンには賛否のあるデザインであろうことは想像に難くないが、私個人としては歴代の中で一番好きかもしれない。
設定全長の数値とは関係なく、歴代の中で最も「巨大感」のあるゴジラだったのではないか。
フルCGでありながらも着ぐるみを基本にした立ち姿が見事だ。
この巨大な破壊エネルギーを溜め込んだ「静」の立ち姿があるからこそ、エネルギーを解放したときのあの凄まじいカタルシスが生まれるのだ。
久々に模型で造ってみたくなるデザインだ。
手頃なサイズのフィギュアがあったら、心行くまでドライブラシで塗ってみたいなあ……
映画「シン・ゴジラ」
この夏、縁日草子イチオシである!
2016年08月20日
本当の「日本の伝統」は「戦前回帰」にあらず
これまでに何度か書いてきたけれども、「日本の伝統」としてなんとなくイメージ的に受け入れられているものの多くは、実際はさほど「古来」のものではないことが多い。
たとえば「日本武道」ということで考えると、その代表のように考えられる柔道や剣道が現在のルールで試合が行われるようになったのはせいぜい戦後のことで、目一杯遡っても明治以降にしかならない。
江戸時代とそれ以前でも、時代によって「武」の在り方はそれぞれ違う。
だから教育現場で「武道」が必須になったところで、それで「古来の日本の伝統」が身に付くわけではない。
現代の柔剣道は分類するなら「スポーツ」で、指導者の意識も西欧流のスポーツの在り方が基本になっている。
むしろ日本流に悪くアレンジされ、非科学的な精神論の横行する劣化スポーツに成り果てているケースも多いのだ。
日本古来の信仰とは何か?
この答えも一つではない。
歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「その時点での創作神話大系」だ。
宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
しかしそれは、一種のフィクションでしかない。
実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
国家神道などは「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかなく、史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼした官製カルト宗教だと言う見方だってできる。
ところがこの日本史上最悪のカルト宗教を、復活させようと目論む勢力がある。
しかも、現政権構成員の大半がこの勢力の影響下におかれている事実がある。
カルトが布教する際の常套手段として、「最初は口当たりのよいマイルドな入り口を用意する」という手口がある。
ヨガサークルであったり、「聖書の勉強をしてみませんか?」等の、一見問題なさそうな、いつの時代も一定の需要のあるテーマで勧誘し、徐々に内容をすり替えていくのだ。
国家神道や明治憲法等への戦前回帰を目論むグループの場合、表面上は「日本の伝統を大切にしましょう」とか「皇室を敬いましょう」等の、抵抗の少ないテーマを表看板として掲げる。
教育現場の「武道必須化」も、こうした流れの延長線上にあるとすれば、注視が必要である。
●「日本会議の研究」菅野完(扶桑社新書)
●「日本会議の正体」青木理(平凡社新書)
●「日本会議 戦前回帰への情念」山崎雅弘(集英社新書)
●「国家神道」村上重良(岩波新書)
●「愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか」中島岳志,島薗進(集英社新書)
たとえば「日本武道」ということで考えると、その代表のように考えられる柔道や剣道が現在のルールで試合が行われるようになったのはせいぜい戦後のことで、目一杯遡っても明治以降にしかならない。
江戸時代とそれ以前でも、時代によって「武」の在り方はそれぞれ違う。
だから教育現場で「武道」が必須になったところで、それで「古来の日本の伝統」が身に付くわけではない。
現代の柔剣道は分類するなら「スポーツ」で、指導者の意識も西欧流のスポーツの在り方が基本になっている。
むしろ日本流に悪くアレンジされ、非科学的な精神論の横行する劣化スポーツに成り果てているケースも多いのだ。
日本古来の信仰とは何か?
この答えも一つではない。
歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「その時点での創作神話大系」だ。
宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
しかしそれは、一種のフィクションでしかない。
実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
国家神道などは「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかなく、史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼした官製カルト宗教だと言う見方だってできる。
ところがこの日本史上最悪のカルト宗教を、復活させようと目論む勢力がある。
しかも、現政権構成員の大半がこの勢力の影響下におかれている事実がある。
カルトが布教する際の常套手段として、「最初は口当たりのよいマイルドな入り口を用意する」という手口がある。
ヨガサークルであったり、「聖書の勉強をしてみませんか?」等の、一見問題なさそうな、いつの時代も一定の需要のあるテーマで勧誘し、徐々に内容をすり替えていくのだ。
国家神道や明治憲法等への戦前回帰を目論むグループの場合、表面上は「日本の伝統を大切にしましょう」とか「皇室を敬いましょう」等の、抵抗の少ないテーマを表看板として掲げる。
教育現場の「武道必須化」も、こうした流れの延長線上にあるとすれば、注視が必要である。
●「日本会議の研究」菅野完(扶桑社新書)
●「日本会議の正体」青木理(平凡社新書)
●「日本会議 戦前回帰への情念」山崎雅弘(集英社新書)
●「国家神道」村上重良(岩波新書)
●「愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか」中島岳志,島薗進(集英社新書)
2016年08月23日
地蔵盆2016
日が暮れてからの帰り道、この時間帯にしては子供の姿が多いなと思っていたら、地蔵盆栽だった。
駄菓子がいっぱいにつまったビニール袋を手にした子供たちと、たくさんすれ違った。
ああ、いいなあ。
でも、夏休みがもうすぐ終わるんだよ……
駄菓子がいっぱいにつまったビニール袋を手にした子供たちと、たくさんすれ違った。
ああ、いいなあ。
でも、夏休みがもうすぐ終わるんだよ……

2016年08月28日
特設ブログ「放課後達人倶楽部」書式調整
児童文学作品「図工室の鉄砲合戦」を公開中の別ブログの書式を微調整しました。
以前より少し文字を大きくし、行間を開いて「縁日草子」とほぼ同等にしました。
これで多少読み易くなったと思います。
特設ブログ放課後達人倶楽部
以前より少し文字を大きくし、行間を開いて「縁日草子」とほぼ同等にしました。
これで多少読み易くなったと思います。
特設ブログ放課後達人倶楽部
2016年08月30日
鼠径ヘルニアその後
三か月前、鼠径ヘルニアをこじらせ、緊急入院、緊急手術をした。
これまでの経緯のまとめはこちら。
体調、体重ともに、ほぼ原状に回復した。
この夏の、かなり続いた酷暑も乗り切り、少々旅行なども楽しんだ。
手術跡はかなり落ち着いた。
退院直後はかなりデコボコして引きつれていた傷跡が、だいぶすっきりした。
たまに「じんわり」と跡の存在を感じることもあるが、日常生活はほぼ気にせず送れている。
ただ、調子にのって無理をしないよう、気を付けてはいる。
まあ、三時間半の開腹手術を受けたのだから、それなりのダメージは覚悟している。
全身麻酔を受けるとそれだけで寿命が縮むという話もあるし、腹を開いて一週間近く入院し、何もかも以前のままとはいかないだろう。
それでも、医療の整わない時代だったら死んでいたかもしれないレベルの重症である。
そこそこ元気になれただけでも、ありがたいと思わなければならない。
加入している生命保険の入院給付金で、医療費+αはまかなえた。
給付金の請求書類を読んでいると、「鼠径ヘルニア根治治療」という項目がちゃんとあった。
保険会社の担当の人に聞くと、やはり請求内容の中でもよくある病気らしい。
症例としてはかなり多いのだが、下腹部あたりが患部になるので話題に上りにくく、「知名度」が低いのが鼠径ヘルニアなのだ。
入院騒ぎをネタにした雑談をしていると、「実は私も」とか「知り合いがそんなことを言っていた」という感じで、ポコッと出た軽症のヘルニアを手で押し戻した体験談が返ってくることがけっこうあった。
「それ、たびたび飛び出すようなら、一回診てもらった方がいいですよ」
私はもちろん、そのように勧めた。
ヘルニアは、軽傷で済んでいるうちは日常生活にさして支障もないので放置しがちだ。
しかし、何かのはずみで重症化すると、本当に地獄を見る。
それは明日かもしれないのだ。
軽症のうちに対処していれば日帰りでもOKの場合があるのに、ずるずる先送りにして死にかけるバカもいる。
私のことだ。
バカを眺めて我がふりを直していただくために、この一連のヘルニア記事を書いている。
治療を受けて、手術前より体調が良くなった面もあるようだ。
以前はよく腹痛を起こしていたが、その頻度が減ったような気がする。
あと、ここ数年は夜間に一回はトイレに起きることが多かったのが、だいたい朝まで持つようになった。
どちらも「年寄りってほどでもないけど、おれももう若くないからな」と、年齢のせいにして簡単に片づけていたが、もしかしたらヘルニアと関係があったのかもしれない。
胃腸があるべき位置からずれて、あちこち圧迫していたんだろうなと、今は思う。
無病息災は理想だが、「一病息災」という言葉もある。
自分の身体からは逃げられない。
なるべく身体の出すサインを見逃さず、折り合いをつけながら付き合っていくしかない。
これまでの経緯のまとめはこちら。
体調、体重ともに、ほぼ原状に回復した。
この夏の、かなり続いた酷暑も乗り切り、少々旅行なども楽しんだ。
手術跡はかなり落ち着いた。
退院直後はかなりデコボコして引きつれていた傷跡が、だいぶすっきりした。
たまに「じんわり」と跡の存在を感じることもあるが、日常生活はほぼ気にせず送れている。
ただ、調子にのって無理をしないよう、気を付けてはいる。
まあ、三時間半の開腹手術を受けたのだから、それなりのダメージは覚悟している。
全身麻酔を受けるとそれだけで寿命が縮むという話もあるし、腹を開いて一週間近く入院し、何もかも以前のままとはいかないだろう。
それでも、医療の整わない時代だったら死んでいたかもしれないレベルの重症である。
そこそこ元気になれただけでも、ありがたいと思わなければならない。
加入している生命保険の入院給付金で、医療費+αはまかなえた。
給付金の請求書類を読んでいると、「鼠径ヘルニア根治治療」という項目がちゃんとあった。
保険会社の担当の人に聞くと、やはり請求内容の中でもよくある病気らしい。
症例としてはかなり多いのだが、下腹部あたりが患部になるので話題に上りにくく、「知名度」が低いのが鼠径ヘルニアなのだ。
入院騒ぎをネタにした雑談をしていると、「実は私も」とか「知り合いがそんなことを言っていた」という感じで、ポコッと出た軽症のヘルニアを手で押し戻した体験談が返ってくることがけっこうあった。
「それ、たびたび飛び出すようなら、一回診てもらった方がいいですよ」
私はもちろん、そのように勧めた。
ヘルニアは、軽傷で済んでいるうちは日常生活にさして支障もないので放置しがちだ。
しかし、何かのはずみで重症化すると、本当に地獄を見る。
それは明日かもしれないのだ。
軽症のうちに対処していれば日帰りでもOKの場合があるのに、ずるずる先送りにして死にかけるバカもいる。
私のことだ。
バカを眺めて我がふりを直していただくために、この一連のヘルニア記事を書いている。
治療を受けて、手術前より体調が良くなった面もあるようだ。
以前はよく腹痛を起こしていたが、その頻度が減ったような気がする。
あと、ここ数年は夜間に一回はトイレに起きることが多かったのが、だいたい朝まで持つようになった。
どちらも「年寄りってほどでもないけど、おれももう若くないからな」と、年齢のせいにして簡単に片づけていたが、もしかしたらヘルニアと関係があったのかもしれない。
胃腸があるべき位置からずれて、あちこち圧迫していたんだろうなと、今は思う。
無病息災は理想だが、「一病息災」という言葉もある。
自分の身体からは逃げられない。
なるべく身体の出すサインを見逃さず、折り合いをつけながら付き合っていくしかない。
2016年08月31日
風と共に夏は過行く
夏休み最後の日である。
もう大人なので、直接夏休みとは関係ないのだが、この年になっても8月末はやっぱり「夏休みの終り」という気分なのだ。
夏の終りは、朝夕のひんやりとした風と共にやってくる。
今年は台風の影響もあって、なんだかざわざわしている。
この時期になると、高校生の頃のことをよく思い出す。
竜巻追想
蝉時雨追想
何度か書いてきたが、高校生の頃の私は「一人美術部」だった。
夏休み明けすぐにある文化祭にむけて、一人で教室一部屋を作品で埋めるために、休みの間中せっせと描き続け、造り続けるのが常だった。
孤独に浸ると言えばカッコ良すぎるけれども、ともかく十代の少年らしいレジャーとは全く無縁の夏だった。
大学に進学してからの夏休みは多少楽しく遊ぶようになったが、強く記憶に残っているのは、求道者のごとく過ごした高校生の夏の方だ。
その記憶があるので、今でも夏の間はなるべく作品と向き合うように心がけている。
さすがに少年時代のように毎日朝から晩まで作品に浸ることは不可能だが、仕事の合間を縫って、とにかく絵筆をとる。
絵筆をとれた時間がそのまま、夏の充実感につながる。
遊ぶより、休むより、絵がいい。
自分はやっぱり絵描きなんだなと思う。
絵だけ描いて生きていける立場ではないが、絵を描かずにいると、たぶん精神が病む。
絵が描けていれば、たいていのことには耐えられる。
遅々とした歩みながら、今100号キャンバスと相対している。
年明けごろから断続的に描き続けてきた絵が、この夏でどうやら「完成に向けての尻尾を捕らえる」程度までは進捗した。
いつか描き上げたいと思っていたテーマの一つ。
行けるかもしれない。
このまま黙々と描き続けられれば、完成するかもしれない。
ここまで書いたんだから、部分的にチラ見せ。

キマイラ「外法曼陀羅」
もう大人なので、直接夏休みとは関係ないのだが、この年になっても8月末はやっぱり「夏休みの終り」という気分なのだ。
夏の終りは、朝夕のひんやりとした風と共にやってくる。
今年は台風の影響もあって、なんだかざわざわしている。
この時期になると、高校生の頃のことをよく思い出す。
竜巻追想
蝉時雨追想
何度か書いてきたが、高校生の頃の私は「一人美術部」だった。
夏休み明けすぐにある文化祭にむけて、一人で教室一部屋を作品で埋めるために、休みの間中せっせと描き続け、造り続けるのが常だった。
孤独に浸ると言えばカッコ良すぎるけれども、ともかく十代の少年らしいレジャーとは全く無縁の夏だった。
大学に進学してからの夏休みは多少楽しく遊ぶようになったが、強く記憶に残っているのは、求道者のごとく過ごした高校生の夏の方だ。
その記憶があるので、今でも夏の間はなるべく作品と向き合うように心がけている。
さすがに少年時代のように毎日朝から晩まで作品に浸ることは不可能だが、仕事の合間を縫って、とにかく絵筆をとる。
絵筆をとれた時間がそのまま、夏の充実感につながる。
遊ぶより、休むより、絵がいい。
自分はやっぱり絵描きなんだなと思う。
絵だけ描いて生きていける立場ではないが、絵を描かずにいると、たぶん精神が病む。
絵が描けていれば、たいていのことには耐えられる。
遅々とした歩みながら、今100号キャンバスと相対している。
年明けごろから断続的に描き続けてきた絵が、この夏でどうやら「完成に向けての尻尾を捕らえる」程度までは進捗した。
いつか描き上げたいと思っていたテーマの一つ。
行けるかもしれない。
このまま黙々と描き続けられれば、完成するかもしれない。
ここまで書いたんだから、部分的にチラ見せ。

キマイラ「外法曼陀羅」