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2016年09月02日

遊ぶ子供の声きけば

 9月になった。
 月があらたまったからと言って、気候がガラッと変わるわけではない。
 暑さ涼しさが少々行ったり来たりしながら、季節は徐々に移ろう。
 それでもやっぱり、気分的には何かが変わる。
 とくに8月が終わると、「夏休みが終わってしまった」という子供の頃からの刷り込みがあって、もうとっくに大人になっても抜けきらない。
 それなりに夏を楽しんだはずなのに、何かやり残したような、やりたかったことの半分もできなかったような切なさが残る。
 口の中でキャンディーをころがすように、そんな切なさを味わいながら、ぼちぼち秋に向けて着地していく。

 ふと思い出したことがある。
 以前、子供向けに夏休みの絵画、工作の指導をしていたときのこと。
 その教室では、休憩時間に軽くおやつをたべたり、本を読んだり、おりがみや昔遊びのおもちゃを楽しむことになっていた。
 教室に来ていた幼児の中に一人、砂時計が大好きな男の子がいた。
 その日もその子は、ガラスの中を砂がさらさらと落ちるさまを、熱心に眺めていた。
 ときどき「ニヤッ」と笑いながら何かブツブツ言っているのに気づいて、ちょっと聞き耳を立ててみた。
 すると、今にも砂が落ち切りそうなタイミングで「ウケケケケ……」と笑いながら、
「人生おわるで〜」
 とつぶやいていたのだ。

 思わずブッと吹き出してしまった。
 さらに観察してみると、落ち切った砂時計をもう一回ひっくり返して、何度も人生(?)を楽しんでいるようなのだ。
 たまに、砂時計の下の方にあまり砂が落ちていない段階でひっくり返して、
「あ”あ"〜〜〜〜〜!」
 と悲鳴を上げたりしている。
 理不尽な「人生のおわり」に対する心の叫びだろうか?
 しかも自作自演!
 
 幼児はたまにこういう怪しい妄想一人遊びをすることがある。
 自分を振り返ってみても、色々おかしな妄想を抱いていた覚えがある。

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 独特の宇宙観になっていたりする場合もあるので、機会があれば観察したり、子供の話を聞いてみたりするようにしている。

 子供の宇宙

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 幼い子供が無心に遊ぶのを眺めるのは楽しいものだ。
 私が好きな「梁塵秘抄」の一節に、こんな唄がある。

  遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば
  我が身さえこそ動がるれ
          (梁塵秘抄より)

 当ブログ「縁日草子」の、実質第一回目の記事にも引用した、思い入れのある唄だ。

 遊ぶ子供の声にそっと耳を傾け、身も心も揺さぶられているのは誰なのか?
 主語は省略されているので、また色々と妄想が広がる。
 その主語の部分を、宇宙大の母の視線で読み替えたようにも見える、不思議な創世神話を紹介したこともある。

 カテゴリ「泥海」

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 夏休みが終わったタイミングで、幼児の「人生砂時計遊び」を思い出したのは、偶然ではないだろう。
 あたふたしているうちに夏休みは終わってしまうし、下手すると人生だってあっと言う間に終わる。
 たぶん夏休みと同じように、やりたいことの半分もできなかった切なさと、まんざら捨てたものでもなかった記憶を愛でながら、終わる。
 人生が夏休みのようなものならば、私の場合、なるべく悔いを少なくする術は、一応知っていることになる。

 ありがたいことだ。

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posted by 九郎 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2016年09月04日

フェイクがどうした!

 よく読ませていただいているブログで、少しだけ「ガルーダ」が話題に上った。
 遠い記憶がよみがえってくる。

 ああ、ガルーダか……
 あれはショックだったなあ……

 ここでいうガルーダは、インドネシアなどの鳥の神様のことではない。
 70年代テレビアニメ「超電磁ロボ・コンバトラーV」に登場する敵役のことだ。
 今ではこの種のエンタメ作品の定型になった「主人公のカッコいいライバル」の、元祖みたいな登場人物だった。
 最終回近くに、実は自分が、母だと思っていた主人に作られた精巧なアンドロイドで、自分以外にも数々の試作品が存在したことを知る。
 自分が単なる道具に過ぎなかった事実に、強い衝撃を受ける。
 
 ……というような設定内容を、今回記事を書くにあたってネットで確認しつつまとめてみた。
 私がこのアニメを見たのはたぶん再放送で、まだ幼児に近い年齢だったのではないかと思う。
 四十年前の作品だが、だいたい記憶している内容と一致していた。
 己がフェイクであったと知った時のガルーダの絶望。
 幼い視聴者にとっても、それはかなりショッキングなシーンだった。
 ガルーダがその絶望を越えて、戦いの中に存在意義を見出していく心の動きは、「自分」とか「存在」とかに関わる、けっこう哲学的で高度な感情表現ではないだろうか。
 それを幼児に近い年齢の子供に、わりと正確に伝達してしまうのだから、日本のテレビアニメというのはやっぱり大したものだったんだなと思ってしまう。

 この「自分の存在や感情がフェイクだと知った喪失感」というモチーフは、他の作品でも形を変えてよく扱われる。
 実は自分が誰かのクローンであったとか、偽の記憶を刷り込まれていたとか、いつの間にかマインドコントロールを受けていたとか、もっと規模が拡大すると自分の認識しているこの世界そのものがバーチャルなものではないかいうパターンは、とくに思春期あたりに鑑賞すると、一部の少年少女にとっては過剰に「心に突き刺さる」場合がある。
 最近の表現だと「中二病」と言ったりするようだが、絵や文章や音楽など、何かものを作ろうとする中高生には必ず存在する傾向だ。
 うまく表現や仕事、生き方に結び付けて飼いならせれば良いけれども、こじらせると少々厄介な傾向でもある。

 自分の生きるこの世界、そして自分自身が幻ならば、そんなフェイクはもうたくさんだ。
 さっさと滅びてしまえばいい。
 中二病をこじらせるとそんな風に短絡しがちだ。
 終末論などのリセット願望は、そうした短絡と結びつきやすい。

 自分という存在や感情が、実は幻のようなものではないかという感覚は、新しいものではない。
 例えば仏教では昔から繰り返し説かれてきたことだし、かなり物語的な設定もある。
 私たちが住む須弥山世界の上空には魔王がいるという。
 魔王は欲界の衆生が生み出す様々な欲望や快楽を、自分のものとして自在に楽しむことが出来るとされる。(私はドラえもん世代なので、こういう話を聞くと「おすそわけガム標準装備?」とか、ついついアホなことを考えてしまう)
 衆生が快楽に囚われていれば、魔王はそれだけ自分が楽しむことが出来る。
 この世は魔王の娯楽であり、餌場なのだ。
 だから欲界からの脱却を説く仏道修行を敵視して、様々な妨害を行うという。
 お釈迦様の悟りを開く直前、誘惑を仕掛けて退けられたとも伝えられる。
 輪廻転生の中で魂を進化させ、須弥山を垂直方向に上り詰めても、そこに待っているのは快楽の魔王の世界なのだ。
 そんな世界からはもう抜け出せと、仏は説く。
 まだその世界にとどまるならば、衆生済度の菩薩になれと説く。

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 何代か前のスーパー戦隊シリーズに「侍戦隊シンケンジャー」という作品があった。
 ずっと観ていたわけではないが、たまたま最終回近くの二、三話を観ていたら、ちょっと面白い展開があった。
 この作品は戦隊リーダーにあたるレッドが「殿」で、他のメンバーが「家臣」であるという点に特徴があったのだが、ラスト近くになって突然、今まで主人公であった「殿」が、実は影武者であったということが判明する。
 本物の「殿」が最終回も近くなってからいきなり現れ、交代を迫るという、無茶なちゃぶ台返しである。
 同時に、例の「自分という存在がフェイクだったら」という、あのパターンも同時進行ですすむことになるので、どうなることかとハラハラしながら、久々に子供番組に見入ってしまった。
 結局、影武者レッドは「本物」と養子縁組し、晴れて「殿」になるというウルトラCで問題は解決される。
 あまりの展開に、思わず声をあげて笑ってしまった。

 笑いながらも、実はちょっと感動もしていた。
 自分という存在は、その来歴がフェイクであるかどうかに関係なく、役柄を全うできるかどうかにその本質があるのではないか?
 少々難解なテーマを、物凄く端的に、それこそ子供でも理解できる形で示された気がして、「この脚本、只者じゃないな」と思った。
 ガルーダからカウントして30数年、子供向けのエンタメ作品の中で繰り返し語られてきた、やや深刻なモチーフが、ついにこれほど軽やかにクリアーされる時代になったかと、感慨深かったのだ。
 
 こじらせた中二病の治療のカギは、ここらあたりにあるんじゃないか?
 そんなことを考えながら、久々に戦隊モノを最終話まで追ったのだった。
posted by 九郎 at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

カテゴリ「妄想絵画論」

 年末年始あたりから、時間を見つけては延々と描き続けている絵がある。

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 100号キャンバスにアクリル絵の具で、久々に完成させられるかもしれない大型のアナログ作品だ。
 もし完成まで持っていければ、私が求めてやまない完全燃焼が見込める作品でもある。
 果たして本当に完成できるかどうかわからないけれども、現時点までは調子よく筆が動いてくれている。
 できることならこの機を逃さず描き上げたい。
 そのために、できることはやっておきたい。

 私は絵描きのハシクレではあるけれども、絵だけ描いて生きていける身分ではない。
 生きるためには、色んなことをしなければならない。
 しかし、それはみんなそうだ。
 私のようなハシクレでなくとも、絵描きの多くは生きるために絵を描く以外のことも、懸命にこなしている。
 それなりに高名な画家の先生だって、この日本という文化芸術に冷淡な国にあっては、作品だけで食っている人はほとんどいない。
 絵描きというものは、本質的に社会的な諸々のお仕事は苦手だけれども、自分なりの方法でどうにかこうにかこなしながら、執念深く絵だけは描き続けている。
 私は私のやり方で、絵を描く時間と体勢をひねり出さなければならない。

 大きなサイズの作品を、完全燃焼できるテンションで描き上げるには、ある種の「変身」が必要だ。
 普段の私は、最低限人の話は聞くし、謙虚に勉強もする。
 様々なタイプの他人の考え方、感じ方をできる限り尊重するし、あまりわがままを言わないよう、自我を抑える。
 世間様と折り合うためには、それはごく当たり前の作法だ。

 しかし、そうした普段の意識では、大きな絵は描き上げられない。
 完全燃焼の作品を完成させるには、わがままでなければならない。
 唯我独尊でなければならない。
 他人の意見や感覚など糞喰らえ。
 世界中を敵に回しても、平然と、自信満々で描かなければならない。
 信じられるのは自分の眼と手だけでなければならない。
 狂っていなければならない。
 イカれていなければならない。

 真正の天才の多くは、そんな絵描きとしての狂気と心中し、作品だけを残す。
 しかし幸か不幸か、私には「絵で死ぬ」ほどの才はない。
 他のこともこなしながら、描き続けて生きたい。
 だから物わかりの良い普段の意識は大切にしながらも、作品に向かう場面だけは、唯我独尊の絵描きの意識に「変身」しなければならないのだ。

 ところが、私はあまり意識の切り替えがうまい方ではない。
 日常生活からキャンバスに向かうまでに時間がかかるし、絵の具を用意して最初の一筆を加えるまでに、かなり意識調整が必要だ。
 他の誰向けでもない、私だけの絵の描き方。
 決して一般化できない、妄想絵画論。
 意識調整を兼ねて、思いつくままにこのカテゴリで書き留めておきたい。
posted by 九郎 at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2016年09月11日

絵を描くだけが絵ではない

 絵を描くというと、どうしても絵筆をとる手の動きに意識が向きがちだ。
――絵筆を持つ手の性能がそのまま、絵の上手い下手に反映される。
 一般にはそんな風に思われることが多いだろう。
 しかし「絵を描く利き手」というものは、PC関連機器にたとえるならば、画像を出力するプリンターに過ぎない。
 プリンターの性能は高いに越したことはないけれども、より根本的には、印刷以前のデータの精度が高くなければならない。
 データの精度を高めるためには、同じくPC関連でたとえれば、入力機器たるスキャナーやデジカメ、画像データを適正に補正するPC本体やグラフィックソフトの役割が重要になってくる。
 つまり、入力機器たる「ものを観る眼」と、視覚情報を補正する「頭」が大切なのだ。
 絵描きの大多数が学生時代に写実デッサンを学ぶのは、まずはものごとをありのままにとらえる「眼」を持つためだ。
 人間の眼は様々な錯覚や先入観で狂いやすいので、それを補正する「頭」も同時に鍛え上げる。
 視覚と頭脳を含めて、大枠でいえば「絵描きの眼」なのだ。

 私は自分のことを「絵描きである」と思っている。
 絵描きは、絵を描いていないときでも「絵描きの眼」でものごとを観ている。
 色や形について分析的に「観る」のが習い性になっていて、他の観方のほうがむしろ難しい。
 絵描きは実際に絵を描く以前に、ものを「観る」段階、考える段階から絵描きなのだ。
 絵描きは絵描きとして情報を入力し、それを理解する。
 単に視覚情報だけでなく、五感のすべてを絵描きとして感得する。
 入力された情報を元にものを考えるのも絵描きとしてだし、そこから発せられる出力情報も全て、絵描きとしてのものになる。
 普段の言動から絵描きは絵描きであるのだが、その度合いは何らかの「表現」として発せられるときにより濃くなり、「絵を描く」時にマックスになる。
 たとえば当ブログ「縁日草子」では、絵以外に文章も工作も音遊びもアップしているが、私の意識の上ではあまり区別はない。
 絵描きの私が言葉で絵を描けば文章になり、素材で絵を描けば工作になり、音で絵を描けば音遊びになる。
 ワープロソフトやDTMソフトの操作はかなり視覚的なので、絵を描くように言葉を綴り、音を編集することが可能な時代になってきているのだ。

 もっと範囲を拡大してみれば、私にとっては旅や遍路も、絵を描くことと似た行為ということになる。
 自分の身体を使って大地の上に軌跡を描き、絵描きの眼でそれぞれの地の印象を感得するのだ。
 そこから実際に絵が生まれることも多い。

 ただ、色々遊べる時代になったとは言え、自分なりの「完全燃焼」の感覚を生み出し得るジャンルは限られている。
 相応の技術的な蓄積がなければ、表現は完全燃焼レベルに達しない。
 私の場合、それはやはり「絵と文章」ということになる。
posted by 九郎 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2016年09月13日

実を申さば「絵解き」である

 絵描きにも色々いる。
 自画像ばかり描き続けた画家もいれば、風景画一筋の画家もいる。
 色々ありすぎて紹介しつくすことはムリだけれども、たいていの絵描きはそれぞれに追及するテーマを持っている。
 そのテーマに即した表現を求めて、画風などの形式は変遷する場合もある。

 私の場合は、やっぱり「神仏与太話」がメインテーマだ。
 心惹かれる神仏の物語を絵と文章で紹介するのが好きで、これはたぶん一生飽きない。
 誰かに聞かれたときにわかりやすく自己紹介するため「絵描き」と称しているけれども、もう少し正確に表現するなら「絵解き」ではないかと思っている。
 日本の中世から近世にかけて、各種マンダラの入った厨子を背負い、辻や市でそれを広げて功徳を語り、札などを売ったりする「絵解き」と呼ばれる人々がいた。
 彼らは旅芸人でもあり、遊行乞食でもあった。
 中世の「絵解き」は自分で絵は描かず、専門の絵師に描いてもらった絵図を前に語り芸を披露していただろう。
 なぜ絵描きを自称する私が、絵師の方ではなく「語り」担当の絵解きの方に惹かれるかと言うと、描きたいものの重点が画像そのものより「物語」の方にあるからだ。
 専門外の音遊びを試作し続けているのも、語り芸への理解を深めるためだ。
 私の絵には物語が必要で、一枚絵というよりは連作、または大きな画面の中に時間経過や展開のあるものが良い。
 だからマンダラには関心があるし、もっと言えば、詞書のある絵草子や絵巻のような形が一番しっくりくる。

 現代美術の中の絵画は、そうした言葉や物語の世界から離れ、もっと純度を高めて色や形の要素を極める方向性が多い。
 絵に物語の要素が必要な私は、絵描きとしてはちょっと古いタイプということになるかもしれない。
 絵も語りも自分でやりたいというのは、見方によっては古代の呪術師あたりまでさかのぼる古臭さとも言える。
 絵描きというものは、借り物ではない自分自身の表現を志すならば、結局自分が一番やりたいことをやるしかない。
 それが世に受け入れられるかどうかということは、それはそれで大事なことだけれども、やっぱり二の次なのだ。
posted by 九郎 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

絵描きの自力、絵描きの他力

 絵描きが頼むことができるのは自分だけだ。
 謙虚に幅広く学ぶことは必要だが、学んだこと全てが役に立つわけではないので、峻別が必要だ。
 ただ、学生時代など、まだ自分なりのテーマや表現に出会う以前なら、貪欲に様々なものをなんでもかんでも吸収した方がよい。
 そして思い定めたテーマに出会えたなら、あとはただ黙々と愚直に続けるべきだ。
 私がこれまでの経験で得た教訓として、次のようなものがある。

「修業は他人の土俵で、勝負は自分の土俵で」

 とくに、「ここぞ」という時の自分の表現については、あまり「あれもこれも」と物わかり良く他者の意見を受け入れるべきではない。
 批判も称賛も、それが的確なものであれば耳を傾ける価値があるが、的確なものがなされることはあまりに少ない。
 よほど信頼のおける目利きの言以外は目に触れさせないのが無難だし、時間と心に余裕がないなら、一括して全て黙殺するのが正しい。

 自分が今描いている絵が生きているか死んでいるか、自分自身で見分ける眼が何よりも大切だ。
 そこの部分を他人任せにしてはいけない。
 少しでも頼む心があってはいけない。
 私はタイプ的に作画に資料を必要とするが、資料に学びながら、最後は資料を捨てなければならない。
 資料を集め、スケッチを重ね、手に色や形状を記憶させた上で、作品制作の際には資料無しで描くのが望ましい。
 何も見ずに描くのが困難な場合も、できれば元資料そのものではなく、自分で描いたスケッチを参照すべきだ。
 資料に対する正確性に寄りかかることは、「他を頼む」ことになる。
 それは目の前の絵が生きているか死んでいるか見分ける眼を曇らせる。

 私も絵描きのハシクレなので、それなりの技術は持っている。
 手持ちの技術の範囲内で、無理なくコンスタントに、それなりに見られる絵を描き続けることは可能だ。
 自己模倣は容易く、平均点は取れる。
 それはそれで、絵描きの一つの在り様だ。
 しかし、それでは私の求める完全燃焼の感覚には届かない。

 自力を全て出し切った果てに、何者かにポンと背中を押される感覚がある。
 その最後の一押しが完全燃焼を生む。
 とくに大きなサイズの絵や、長い物語の完成には、その「最後の一押し」がどうしても必要だ。
 それは、私が最も敬愛する作家が「言霊」と呼んだ感覚と、もしかしたら似ているかもしれない。
 私の場合はそれを「他力」と呼ぶ。
posted by 九郎 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

心の中の友だち、心の中の恋人

 画家やマンガ家や作家でも、またはミュージシャンでも良いのだが、とくに男性表現者の作品を鑑賞するとき、私がよくやるものの観方がある。
 最初にことわっておくと、あまり論理的な分類ではなく、私の個人的で、ごく感覚的な観方である。
 作品内で「心の中の友だち」と「心の中の恋人」の要素に注目すると、タイプが理解しやすいのではないかと思うのだ。
 男性表現者の作品に登場する、魅力的な「友だち」のイメージと「恋人」のイメージを比べてみる。
 多かれ少なかれ、どちらの要素もあるのが普通だが、どちらが優勢かでタイプ分けすると、なんとなくつかめてくるものがある。
 
 例として、著名な表現者を私なりに分類してみよう。
 感覚的なものなので、他の観方もあると思うが、まずはご一読。

 手塚治虫の場合、ロックに代表されるちょっと悪くて魅力的な「友だち」の要素もあるけれども、基本的には「恋人」に重点があるのではないかと思う。
 永井豪の場合、やはりどちらの要素もあるけれども、最終的には「友だち」が優勢になるのではないか。
 大友克洋や荒木飛呂彦の場合は、「恋人」がほとんど存在しなくて、ひたすら「友だち」のイメージが追及されている印象がある。
 少年漫画の世界に「友だち派」が多く集まるのは、まあ自然なことだろう。

 我が敬愛するSF作家・平井和正の場合、元来は「恋人」が根幹にあるけれども、後天的に「友だち」も強くなっていった気がする。
 マンガ「GANTZ」の奥浩哉はその逆で、元々は「友だち」の作家だったのが、研鑽で「恋人」も描けるようになったのではないかと観ている。

 画家のピカソの場合は、絵のモチーフは「恋人」が優勢だが、あまり恋人や女性に向けて描いているようには感じられない。
 なんとなく「どこか遠くにいるはずの、自分を理解してくれる友だち」に向けて、絵を描いているような気がする。
 岡本太郎にも似た感じを受ける。
 二人とも子供時代から傑出し過ぎていて、対等に遊べる友だちがいなかったせいではないかと妄想してしまう。

 各表現者の創作衝動の根っこの部分が、思春期以前にあるか、以後にあるかでも分かれそうだ。
 思春期以前の場合は「友だち」が優勢になり、思春期以後の場合は「恋人」が優勢になるのではないだろうか。

 私の場合は完全に「友だち派」なので、やはりそちらの要素の強い作品、作者に惹かれることが多い。
 そう言えば、そのものずばり「心の中の友だち」という歌を作ったどんとも、どこか遠くにいるはずの友だちに向けて、ずっと歌い続けていた。
posted by 九郎 at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2016年09月16日

カテゴリ「サブカルチャー」

 先月、映画「シン・ゴジラ」を観てあまりの面白さに感心し、記事にも書いた。
 一部引用してみよう。
-----(8月14日記事「虚構の中にはせめて希望を」より)--------------- 
 ゴジラは、60年前の初代から「核」であり、「放射能」であり、「アメリカの生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くす怪物だった。
 作中のゴジラと悪戦苦闘する日本の官僚や政治家は、一人一人の無力さが非常にリアルなのだが、タカ派もハト派も、保身に長けた調整派も、組織に馴染めない変わり者も、「最後は日本のため、国民のために尽くす」という一線は崩さない。
 その一点において、非常にファンタジックな作品であるとも言える。
 残念ながら、現実の政治家や官僚が、実際の緊急事態にその一線を守ってくれそうもないことは、3.11後の日本の大前提になってしまっているのが、なんとも悲しい。
 そうした悲惨な現状を踏まえてなお、せめて虚構の中だけでも「リアルに映る希望」を語れるところが、90年代に一度「エヴァ」で破滅を吐き出し尽くした庵野監督の成熟度なのではないかと思う。
-----(以下略)----------------
 あとで調べてみると、同様の観方をするレビューはけっこう多かった。

 その一方で、正反対の観方をしているレビューもあった。
 作中で政治家や官僚、自衛隊等が無批判に称揚されていて、新手の国策映画ではないか?
 これはサブカルチャーの政治利用ではないか?
 と言うようなレビューだ。
 なるほど、そんな観方もあるのかと思った。
 確かにこの夏街中で、自衛隊のポスターに今回のゴジラが使用されているのを見かけたときは、少し違和感を持った覚えがある。
 
 少し考えて、しかしそれは映画の客の理解力をバカにし過ぎていないかと思った。
 気になったのでネットでシン・ゴジラにまつわるやり取りを流し読みしていると、どうやらそうでもないらしいと分かってきた。
 私のように今回のゴジラから「一回捻った官僚批判」を読み取るためには、3.11への国の対応に、かなり批判的な感覚を持っている必要がある。
 私にとってそれは議論するまでもない自明のことなのだが、世の中には一定数のそうではない人もいる。
 福島原発の現状を「アンダーコントロールだ」と言われれば、素直に信じられる人々がそれにあたる。
 そうした人々にとって、同じ映画「シン・ゴジラ」は全く正反対の内容に観える可能性は、確かにある。
 サブカルの政治利用につながる可能性も、ないとは言えない。

 果たして制作意図はどちらにあったのか?
 多様に読み取れる作りで議論を百出させるのは、ある意味、庵野監督持ち前の「上手さ」ではないかとも思う。
 映画「シン・ゴジラ」、まだまだ語られそうだ。
 
 というわけで、カテゴリ「サブカルチャー」開幕である。
 サブカルをネタにあれこれ与太話を繰り広げ、たまにはプラモやフィギュアの絵描きなりの作例もアップ。
 さてどこまで風呂敷を広げられるか?
 ぼちぼち行きますが、乞うご期待!
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2016年09月17日

プラモ再起動

 私は80年代初頭の「ガンプラ・ブーム」直撃世代なので、小学生の頃からプラモはたくさん作ってきた。
 当時のプラモ、とくに小学生が手を出しやすい低価格帯のものは、色は成型色一色のみ。
 組み立てには接着剤が必要で、カッコよく仕上げるためにはパーツの合わせ目を丁寧にペーパーで消し、塗料で彩色する必要があった。
 今思い返してみると、小学生にとってはかなり難易度の高い作業である。
 当然、そんなに上手くはいかない。
 色むらだらけ、はみ出しだらけになる。
 それでも「付属の接着剤でとりあえず組み上げただけ」の状態よりは、下手くそでもいいから色を塗ってあった方がはるかに見映えはした。
 市販されているプラモのレベルがまだまだ発展途上だったからこそ、子供でも蛮勇をふるって色を塗ったり、簡単な改造を施したりできたのだ。
 模型誌の作例も、とくに実在しないアニメメカなどを「リアル」に仕上げる技術は、まだまだ発展途上にあった。
 雑誌に載っているカッコいい作例が、(実際には難しいのだが)小学生にも「がんばったら手が届きそう」に見えた。
 模型誌の作例が、素人にはおよそ手が届きそうにないプロの技術の領域に入っていったのは、確か80年代半ばくらいからではなかったかと記憶している。
 そのあたりから、読者とプロモデラーの間に距離ができ始めた。
 雑誌に載っている作例が、自分が造るときの「見本」の範囲を超えた。
 工芸品のような緻密な仕上げの作例を、ただ仰ぎ見るほかなくなっていった。
 
 私は中高生くらいまでよくプラモを作っていたが、大学に進学して美術系の実習が多くなると、造形意欲はそちらで満たされるようになった。
 並行して学生演劇の舞台美術もやっていて、それには子供時代からのプラモ経験が大変役立ったのだが、プラモ制作自体からは遠ざかるようになった。
 あともう一つ、大学時代の同級生に本物のモデラーがいたことも大きい。
 彼の技術を目の当たりにして、模型製作とはこんなに緻密なものなのかと驚愕し、ラフで大雑把な性格を持つ絵描きにはとうていムリだと見切りがついたのだ。
 それでも、ラフな造り、塗りでも許容される怪獣モノなどにはたまに手を出したが、メカモノをきっちり仕上げる意欲は湧かなくなった。
 おそらく当時造ったであろう怪獣ガラモンが、これ。

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 90年代半ば以降はメカモノのプラモ自体のレベルが上がり過ぎて、買っても「ランナーから外して組み立てるだけ」以上のことがやりにくくなった。
 それで充分カッコいいし、よく動く。
 下手に色を塗ると「素組み」より汚くなったり、可動部で剥げたりしてかえってカッコ悪くなる。
 いつの間にかキャラクターモデルは「造って塗るもの」から「組み立て式可動フィギュア」になっていき、誰が組んでも一定水準のものが手に入る時代になったのだ。
 それでもたまに新しいガンプラに手を出してしまうこともあり、そんな時には最新技術に感心し、それなりに素組みを楽しむのだが、完成してしまうとなんとも言えない虚しさに襲われる。

 確かにカッコいい。
 よく動く。
 でも、誰が造ってもこうなんだよな……
 わざわざ金を払って、わざわざ時間を割いて俺が造らんでもいいよな……

 言葉にするとそんな気分に襲われ、ちょっとふさぎ込んでしまうのだ。
 そんな感じで、昨今のキャラクターモデルの進化を横目で眺めつつ、あまり近寄らないように過ごす期間が長く続いた。

 ところが一年ほど前、ふとしたはずみで古いプラモに手を出した。
 ガンプラ初期のプラモは「旧キット」と呼ばれながら、今でも生産、販売されているのだ。
 値段は昔のままで、びっくりするほど安い。
 量販店でたまたま見かけて衝動買いし、一気に組み立てた。
 これがまた、楽しいのだ。
 とくに塗るのが楽しい。
 子供の頃にはなかった絵描きとしての技量が今の私にはあるので、筆塗りでもかなりのことができるようになっている。
 旧キットを素組みで筆塗り。
 それだけでこんなにかっこよく仕上げられるのかと、我ながら惚れ惚れしてしまった。

 流行りの緻密な仕上げとは違うけど、これはこれでごっつええやん!
 この塗りは最近他ではなかなか見かけへんで!

 絵描きとしてのプラモ作りにハマってしまったのだ。
 
 以来、たまに古いプラモを買ってきては、時間のある時にごそごそ造り続けている。
 そんな折に出会ったのが、映画「シン・ゴジラ」だったのだ。
 
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2016年09月18日

「シン・ゴジラ」リペイント1

 絵描きなりの模型製作手順として、まずは感情移入。

 今回のゴジラは、段階的に形態変化をする。
 初登場のシーンでは海上、海中で動き回る巨大な「尻尾」だけだった。
 作品内の設定では、この段階はまだ全く正体不明である。
 尻尾であることはもちろん、巨大生物であるかどうかすら確定していない。
 イメージ的には、クラーケンやリバイアサンなど伝説上の怪物や、ネッシーなどのUMA目撃情報程度の描き方で、もちろん演出上、そのように作ってあるのだろう。
 ここまでが「第一形態」にあたる。

 次に、初上陸したときの「第二形態」が登場する。
 画面の中ではじめて巨大生物の全体像が現れるのだが、ここで一旦「肩透かし」がある。
 この形態では直立することができず、芋虫のようにもがきながら蠕動する姿なのだ。
 これはおそらく、打ち上げられたラブカやリュウグウノツカイなどの深海生物の姿がイメージソースになっているのではないだろうか。
 私たちの中の「ゴジラ」のイメージとは程遠い、巨大ではあるけれども、哀れで、滑稽ですらある姿である。
 第一形態の時にあった「正体不明の不気味さ」は消し飛び、「デカいことはデカいけど、これだったら何とかなるんじゃないか?」という、ある種の侮りが、作中の登場人物や、映画の観客の中に芽生える。
 この形態は、ソフトビニールフィギュアで発売されている。




 続いて第三形態である。
 第二形態の「打ち上げられてもがき苦しむ巨大深海生物」が、突如後ろ足で直立する。
「ウゲ! 進化するんかい!」
 という驚きが、作中登場人物と観客の中に不安の種を植え付ける。
 この形態のまま、巨大生物は多大な被害を残しながらも海へ帰り、一旦は事態が収束する。
 巨大生物は姿を消したものの、「どうやら進化するらしい」という不安の種は、作中登場人物と観客の中で育ち続ける。
 この形態もソフビフィギュアで発売されている。



 
 そしてしばらくの「溜め」の後、ついに登場したのが今回の「シン・ゴジラ」の形態だ。
 のどかな海辺の風景の中を、静かな悪夢のように、それはそそり立っている。
 私たちの持つ「ゴジラ」のイメージを、さらに恐ろしく凶悪にパワーアップした姿である。
 この形態で都市部を動き回られるだけでも十分に絶望的なのだが、作中ではさらにもう一段奥の「真の絶望」が用意されているところが凄まじい。
 私が一番感情移入できるのは、最後の「力の解放の姿」ではなく、それ以前の「マグマのような破壊の力を溜め込んだ姿」だ。
 フィギュアの塗り直しも、その段階のイメージを元に進める。
 
 候補として挙げられるソフビフィギュアは以下の二つ。


●ムービーモンスターシリーズ ゴジラ2016(バンダイ)
 手ごろなサイズ、値段で、映画の3Dデータも使用しているであろう形状は完璧。
 ただ、手彩色の箇所が少ないので「完成品」としての満足感は少し足りないかもしれない。
 amazonでは何故か高めの値段が付いているが、今なら量販店等で2000円程度の定価で購入可能だろう。
 自分で彩色するための素材としては、コスパが高い。
 彩色には多少個体差があるので、完成品としてならネット購入より店頭で納得するものを選んだ方がいい。


●ゴジラ 怪獣王シリーズ ゴジラ2016(バンダイ)
 やや尻尾が短く感じられるが、かなり大きく迫力があるので、さほど気にならない。
 自分で彩色せず「完成品」として買うなら、このモデルが満足感があると思う。
 こちらもamazonでは高めの値段になっているが、4000円程度が定価のようだ。


 あくまで「自分で塗る」ことが目的の私は、もちろん2000円の方を購入。
 80〜90年代であれば1000円程度のプラモで出ていたと思うのだが、残念ながら今は2010年代。
 自分で造って塗る模型の時代はとうに過ぎ、やや高めの彩色済み完成品フィギュアをコレクションする時代だ。
(つづく)
posted by 九郎 at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする