2016年09月02日

遊ぶ子供の声きけば

 9月になった。
 月があらたまったからと言って、気候がガラッと変わるわけではない。
 暑さ涼しさが少々行ったり来たりしながら、季節は徐々に移ろう。
 それでもやっぱり、気分的には何かが変わる。
 とくに8月が終わると、「夏休みが終わってしまった」という子供の頃からの刷り込みがあって、もうとっくに大人になっても抜けきらない。
 それなりに夏を楽しんだはずなのに、何かやり残したような、やりたかったことの半分もできなかったような切なさが残る。
 口の中でキャンディーをころがすように、そんな切なさを味わいながら、ぼちぼち秋に向けて着地していく。

 ふと思い出したことがある。
 以前、子供向けに夏休みの絵画、工作の指導をしていたときのこと。
 その教室では、休憩時間に軽くおやつをたべたり、本を読んだり、おりがみや昔遊びのおもちゃを楽しむことになっていた。
 教室に来ていた幼児の中に一人、砂時計が大好きな男の子がいた。
 その日もその子は、ガラスの中を砂がさらさらと落ちるさまを、熱心に眺めていた。
 ときどき「ニヤッ」と笑いながら何かブツブツ言っているのに気づいて、ちょっと聞き耳を立ててみた。
 すると、今にも砂が落ち切りそうなタイミングで「ウケケケケ……」と笑いながら、
「人生おわるで〜」
 とつぶやいていたのだ。

 思わずブッと吹き出してしまった。
 さらに観察してみると、落ち切った砂時計をもう一回ひっくり返して、何度も人生(?)を楽しんでいるようなのだ。
 たまに、砂時計の下の方にあまり砂が落ちていない段階でひっくり返して、
「あ”あ"〜〜〜〜〜!」
 と悲鳴を上げたりしている。
 理不尽な「人生のおわり」に対する心の叫びだろうか?
 しかも自作自演!
 
 幼児はたまにこういう怪しい妄想一人遊びをすることがある。
 自分を振り返ってみても、色々おかしな妄想を抱いていた覚えがある。

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 独特の宇宙観になっていたりする場合もあるので、機会があれば観察したり、子供の話を聞いてみたりするようにしている。

 子供の宇宙

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 幼い子供が無心に遊ぶのを眺めるのは楽しいものだ。
 私が好きな「梁塵秘抄」の一節に、こんな唄がある。

  遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば
  我が身さえこそ動がるれ
          (梁塵秘抄より)

 当ブログ「縁日草子」の、実質第一回目の記事にも引用した、思い入れのある唄だ。

 遊ぶ子供の声にそっと耳を傾け、身も心も揺さぶられているのは誰なのか?
 主語は省略されているので、また色々と妄想が広がる。
 その主語の部分を、宇宙大の母の視線で読み替えたようにも見える、不思議な創世神話を紹介したこともある。

 カテゴリ「泥海」

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 夏休みが終わったタイミングで、幼児の「人生砂時計遊び」を思い出したのは、偶然ではないだろう。
 あたふたしているうちに夏休みは終わってしまうし、下手すると人生だってあっと言う間に終わる。
 たぶん夏休みと同じように、やりたいことの半分もできなかった切なさと、まんざら捨てたものでもなかった記憶を愛でながら、終わる。
 人生が夏休みのようなものならば、私の場合、なるべく悔いを少なくする術は、一応知っていることになる。

 ありがたいことだ。

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posted by 九郎 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする