2016年09月11日

絵を描くだけが絵ではない

 絵を描くというと、どうしても絵筆をとる手の動きに意識が向きがちだ。
――絵筆を持つ手の性能がそのまま、絵の上手い下手に反映される。
 一般にはそんな風に思われることが多いだろう。
 しかし「絵を描く利き手」というものは、PC関連機器にたとえるならば、画像を出力するプリンターに過ぎない。
 プリンターの性能は高いに越したことはないけれども、より根本的には、印刷以前のデータの精度が高くなければならない。
 データの精度を高めるためには、同じくPC関連でたとえれば、入力機器たるスキャナーやデジカメ、画像データを適正に補正するPC本体やグラフィックソフトの役割が重要になってくる。
 つまり、入力機器たる「ものを観る眼」と、視覚情報を補正する「頭」が大切なのだ。
 絵描きの大多数が学生時代に写実デッサンを学ぶのは、まずはものごとをありのままにとらえる「眼」を持つためだ。
 人間の眼は様々な錯覚や先入観で狂いやすいので、それを補正する「頭」も同時に鍛え上げる。
 視覚と頭脳を含めて、大枠でいえば「絵描きの眼」なのだ。

 私は自分のことを「絵描きである」と思っている。
 絵描きは、絵を描いていないときでも「絵描きの眼」でものごとを観ている。
 色や形について分析的に「観る」のが習い性になっていて、他の観方のほうがむしろ難しい。
 絵描きは実際に絵を描く以前に、ものを「観る」段階、考える段階から絵描きなのだ。
 絵描きは絵描きとして情報を入力し、それを理解する。
 単に視覚情報だけでなく、五感のすべてを絵描きとして感得する。
 入力された情報を元にものを考えるのも絵描きとしてだし、そこから発せられる出力情報も全て、絵描きとしてのものになる。
 普段の言動から絵描きは絵描きであるのだが、その度合いは何らかの「表現」として発せられるときにより濃くなり、「絵を描く」時にマックスになる。
 たとえば当ブログ「縁日草子」では、絵以外に文章も工作も音遊びもアップしているが、私の意識の上ではあまり区別はない。
 絵描きの私が言葉で絵を描けば文章になり、素材で絵を描けば工作になり、音で絵を描けば音遊びになる。
 ワープロソフトやDTMソフトの操作はかなり視覚的なので、絵を描くように言葉を綴り、音を編集することが可能な時代になってきているのだ。

 もっと範囲を拡大してみれば、私にとっては旅や遍路も、絵を描くことと似た行為ということになる。
 自分の身体を使って大地の上に軌跡を描き、絵描きの眼でそれぞれの地の印象を感得するのだ。
 そこから実際に絵が生まれることも多い。

 ただ、色々遊べる時代になったとは言え、自分なりの「完全燃焼」の感覚を生み出し得るジャンルは限られている。
 相応の技術的な蓄積がなければ、表現は完全燃焼レベルに達しない。
 私の場合、それはやはり「絵と文章」ということになる。
posted by 九郎 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする