2016年09月14日

絵描きの自力、絵描きの他力

 絵描きが頼むことができるのは自分だけだ。
 謙虚に幅広く学ぶことは必要だが、学んだこと全てが役に立つわけではないので、峻別が必要だ。
 ただ、学生時代など、まだ自分なりのテーマや表現に出会う以前なら、貪欲に様々なものをなんでもかんでも吸収した方がよい。
 そして思い定めたテーマに出会えたなら、あとはただ黙々と愚直に続けるべきだ。
 私がこれまでの経験で得た教訓として、次のようなものがある。

「修業は他人の土俵で、勝負は自分の土俵で」

 とくに、「ここぞ」という時の自分の表現については、あまり「あれもこれも」と物わかり良く他者の意見を受け入れるべきではない。
 批判も称賛も、それが的確なものであれば耳を傾ける価値があるが、的確なものがなされることはあまりに少ない。
 よほど信頼のおける目利きの言以外は目に触れさせないのが無難だし、時間と心に余裕がないなら、一括して全て黙殺するのが正しい。

 自分が今描いている絵が生きているか死んでいるか、自分自身で見分ける眼が何よりも大切だ。
 そこの部分を他人任せにしてはいけない。
 少しでも頼む心があってはいけない。
 私はタイプ的に作画に資料を必要とするが、資料に学びながら、最後は資料を捨てなければならない。
 資料を集め、スケッチを重ね、手に色や形状を記憶させた上で、作品制作の際には資料無しで描くのが望ましい。
 何も見ずに描くのが困難な場合も、できれば元資料そのものではなく、自分で描いたスケッチを参照すべきだ。
 資料に対する正確性に寄りかかることは、「他を頼む」ことになる。
 それは目の前の絵が生きているか死んでいるか見分ける眼を曇らせる。

 私も絵描きのハシクレなので、それなりの技術は持っている。
 手持ちの技術の範囲内で、無理なくコンスタントに、それなりに見られる絵を描き続けることは可能だ。
 自己模倣は容易く、平均点は取れる。
 それはそれで、絵描きの一つの在り様だ。
 しかし、それでは私の求める完全燃焼の感覚には届かない。

 自力を全て出し切った果てに、何者かにポンと背中を押される感覚がある。
 その最後の一押しが完全燃焼を生む。
 とくに大きなサイズの絵や、長い物語の完成には、その「最後の一押し」がどうしても必要だ。
 それは、私が最も敬愛する作家が「言霊」と呼んだ感覚と、もしかしたら似ているかもしれない。
 私の場合はそれを「他力」と呼ぶ。
posted by 九郎 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする