10月に入った。
鼠径ヘルニアでの入院騒ぎから約4か月。
まず問題なく日常生活は送れていて、普段は手術跡を意識することもなくなった。
ただ、疲労がたまっていたり、立っている時間が長く続くと、手術跡周辺に「どんより」したものを感じることはある。
痛みというほどのものではないが、ふさいだヘルニアの出入り口が、少し中から圧されている感じはする。
そういう時は無理せず休む。
少し腰を下ろしていれば気にならなくなる。
神経質に「後遺症」ととらえるよりは、体が疲れている時のアラームを手に入れたと思えばいいのだ。
一病息災とはこういうことだ。
入院騒ぎで落ちた体重、体力を戻すため、しばらく糖質制限を緩めてきた。
もともとさほど厳格な制限はしていなかったのだが、炭水化物の量を少し増やすと、てきめんに体重が微増傾向になる。
そろそろ通常仕様の糖質制限に戻そうと思っている。
そういえば、全勝優勝した大相撲の豪栄道が、「タンパク質、脂質中心、炭水化物は控える」という食事内容に変えたことで体調を好転させたらしい。
これはまさに糖質制限そのもので、血流の状態を全般に改善することで、ケガの治りを早くしたり、精神面の安定を促す効果が見込める。
このところ、一流アスリートの糖質制限の話題をよく目にするのだが、豪栄道もそんな一例になりそうだ。
とあるフリーアナウンサーが、自分のブログで人工透析患者を口汚く罵る記事をアップしたのがきっかけで、担当する番組の降板が相次いでいるそうだ。
当該記事は私も読んだ。
記事の主旨が「このままでは日本の医療が破綻する」であるという部分にはぎりぎり「理」はあるが、それぞれに事情がある透析患者を十把一絡げにあげつらって罵るなどというのは論外だ。
そもそも透析患者がみんな「医者の助言を無視して暴飲暴食を続けてきた自業自得の患者」であるとする認識がおかしい。
近年まで医者が勧める食事制限というのは「炭水化物中心の低カロリー、低脂質なメニュー」がほとんどだった。
しかしそうした食事制限をかなり厳格に守ったとしても、食事内容が「炭水化物中心」である限りは血糖値は食後必ず上昇するので、糖尿病などの循環器系の疾患には効果が薄い。
アメリカではすでに糖質制限がスタンダードな食事制限法の一つとして認められており、日本でもここ数年で急速に広まった。
私が6月に入院していた地元の市民病院でも、壁面に大きく糖質制限のやり方が掲示され、紹介されていた。
今までの食事制限の在り方が、多くの患者に対して適切でなかった可能性が高いのだ。
フリーアナウンサーとして多くの情報に触れられる立場にありながら、そうした新しい食事制限の在り方の動向を一切無視し、透析患者だけを一方的に「自業自得」と切り捨てる。
単に勉強不足では済まされる問題ではなく、アナウンサーとしての仕事を失うのは、それこそ「自業自得」ではないか。
糖質制限は、無理なく薬に頼らない血糖値コントロールを可能にする。
薬を減らすことは医療費の抑制にもつながり、全国の糖尿病患者や予備軍に広まれば、大幅な削減も見込める。
件のフリーアナの記事が、医療破綻への警鐘が主旨であったならば、そこまで調べるべきではなかったかと思った。
2016年10月01日
2016年10月02日
「才」は「差異」
他の誰向けでもない、私だけの絵の描き方、考え方。
決して一般化できない、妄想絵画論。
続けてみよう。
絵描きの中には、白いキャンバスを目の前にすると自然にビジョンが見えてきて、自分はそれを写すだけというタイプもいるという。
たとえばマンガ家の永井豪はこのタイプで、幻視した映像を元に描いている作品が多数あるそうだ。
幻視の頻度にもよるだろうけれども、このレベルの「才」になると、日常生活に差し障りが出ることもあるだろう。
幻視に呑みこまれ、生きることが難しくなった絵描きのエピソードは数多い。
「才」の大きさは、「差異」の大きさと同じことなのだ。
絵描きは多かれ少なかれ幻視の才を持つが、私のレベルでは日常生活の中で「何かが視える」ということはほとんどない。
生活にとくに変わったことはないけれども、ごく稀にチラッと「何か」が垣間見えるということはある。
日常生活は地味なものなのだが、夢の中ではかなり「視る」方ではないかと思う。
普段は抑えられている幻視が、夢の方で解放されているのかもしれない。
怪しいイメージの訪れが夢に限定されているおかげで、日常生活はまずまず問題なく送れている。
集中して作品制作している時期には、夢の中で続きを描いてヒントを得るということもあり、そんな時期には、ぼんやりと反応が鈍いことが多い自覚というはある。
それでも仕事で支障が出るほどのことはない。
結局、自分の人生においては、この程度の「差異」がほど良かったのだなと、今は納得している。
普通の生活をそれなりに味わえているし、時間は限られるけれども、絵描きも続けていられるのはありがたいことだ。
大きすぎない、このくらいの才だからこそ、できる表現も確かにあるのだ。
決して一般化できない、妄想絵画論。
続けてみよう。
絵描きの中には、白いキャンバスを目の前にすると自然にビジョンが見えてきて、自分はそれを写すだけというタイプもいるという。
たとえばマンガ家の永井豪はこのタイプで、幻視した映像を元に描いている作品が多数あるそうだ。
幻視の頻度にもよるだろうけれども、このレベルの「才」になると、日常生活に差し障りが出ることもあるだろう。
幻視に呑みこまれ、生きることが難しくなった絵描きのエピソードは数多い。
「才」の大きさは、「差異」の大きさと同じことなのだ。
絵描きは多かれ少なかれ幻視の才を持つが、私のレベルでは日常生活の中で「何かが視える」ということはほとんどない。
生活にとくに変わったことはないけれども、ごく稀にチラッと「何か」が垣間見えるということはある。
日常生活は地味なものなのだが、夢の中ではかなり「視る」方ではないかと思う。
普段は抑えられている幻視が、夢の方で解放されているのかもしれない。
怪しいイメージの訪れが夢に限定されているおかげで、日常生活はまずまず問題なく送れている。
集中して作品制作している時期には、夢の中で続きを描いてヒントを得るということもあり、そんな時期には、ぼんやりと反応が鈍いことが多い自覚というはある。
それでも仕事で支障が出るほどのことはない。
結局、自分の人生においては、この程度の「差異」がほど良かったのだなと、今は納得している。
普通の生活をそれなりに味わえているし、時間は限られるけれども、絵描きも続けていられるのはありがたいことだ。
大きすぎない、このくらいの才だからこそ、できる表現も確かにあるのだ。
2016年10月05日
「先生役」なら演じられる
作品制作だけで食っていける身分ではないので、絵画や工作の指導の仕事を受ける。
絵描きは概して人と接するのが苦手で、習うというよりは自分で感覚的に習得した技術がベースになっているものなので、人に教えるのは得手ではない場合が多い。
それでも多くの画家や彫刻家は、食いつなぎ、制作し続けるために教える方の仕事もこなしている。
図工や美術の先生に、けっこう「ほったらかし」の授業をする人がいるのは、そういう理由による。
私はと言えば、意外と教えるのは嫌いではない。
人と接するのはもちろん得意ではないが、誰でもそこそこ楽しめる教材を考案し、筋道立てた構成の授業を成立させるのにはやりがいを感じる。
あくまで「絵描きの中では」という限定はつくが、わりと論理性はある方だと思っている。
ただ、教える方をやり始めた当初は、苦しんだこともあった。
もともと内向的な人間が、仕事で受けたからには「いい先生」になってやろうと気負って、うまくいかなかったことも多々あった。
ある時期から、ふと気づいた。
「あ、そうか。ほんまに『いい先生』にならんでも、『いい先生役』でええんや!」
本当にいい先生になろうとすると、度量とか器とか、けっこう人格が関わってくる。
絵描きは自己本位なものだし、本音を言えば作品以外に何の関心もない。
表現というものは自分の病んだ部分を安易に癒さず、後生大事に抱え込んで突き回して形にしていくようなところがある。
人格的な完成とは程遠いし、あまり悟ってしまうと絵は描けない。
絵描きは病んでいて、偏っていて、人の話など聞かない。
対して「先生」は、精神的に安定しているのが望ましいし、許容範囲は広い方がいいし、様々な意見に耳を傾ける必要がある。
絵描きと先生は、けっこう両立しがたいものなのだ。
しかし美術教室という空間限定なら、なんとかなる。
自分はそれなりの技術を持っていて、人に説明できる論理性も持っている。
良き講師という役割をこなすことは十分できると気づいたのだ。
これは学生時代に演劇をやっていたからこその感じ方かもしれない。
劇団で見てきた役者さんたちの中には、普段は物静かであまり人とは交流しないという人がけっこういた。
役者は意外と内向的なタイプが多いのだ。
人前に立つのが大好きという人ももちろんいるが、出番を待つ舞台ソデで震えているような人もたくさんいた。
そういう役者さんが一旦舞台に立つと、全く別人格を見事に演じてのける。
それが役作りだ。
自分も教室限定で「いい先生」という役作りをすればいい。
そう気づいてから、肩の力が抜けて、色々うまく回るようになった。
「先生という役作り」が、結果として私の中の絵描きの部分を守ることにもなったのだ。
絵描きは概して人と接するのが苦手で、習うというよりは自分で感覚的に習得した技術がベースになっているものなので、人に教えるのは得手ではない場合が多い。
それでも多くの画家や彫刻家は、食いつなぎ、制作し続けるために教える方の仕事もこなしている。
図工や美術の先生に、けっこう「ほったらかし」の授業をする人がいるのは、そういう理由による。
私はと言えば、意外と教えるのは嫌いではない。
人と接するのはもちろん得意ではないが、誰でもそこそこ楽しめる教材を考案し、筋道立てた構成の授業を成立させるのにはやりがいを感じる。
あくまで「絵描きの中では」という限定はつくが、わりと論理性はある方だと思っている。
ただ、教える方をやり始めた当初は、苦しんだこともあった。
もともと内向的な人間が、仕事で受けたからには「いい先生」になってやろうと気負って、うまくいかなかったことも多々あった。
ある時期から、ふと気づいた。
「あ、そうか。ほんまに『いい先生』にならんでも、『いい先生役』でええんや!」
本当にいい先生になろうとすると、度量とか器とか、けっこう人格が関わってくる。
絵描きは自己本位なものだし、本音を言えば作品以外に何の関心もない。
表現というものは自分の病んだ部分を安易に癒さず、後生大事に抱え込んで突き回して形にしていくようなところがある。
人格的な完成とは程遠いし、あまり悟ってしまうと絵は描けない。
絵描きは病んでいて、偏っていて、人の話など聞かない。
対して「先生」は、精神的に安定しているのが望ましいし、許容範囲は広い方がいいし、様々な意見に耳を傾ける必要がある。
絵描きと先生は、けっこう両立しがたいものなのだ。
しかし美術教室という空間限定なら、なんとかなる。
自分はそれなりの技術を持っていて、人に説明できる論理性も持っている。
良き講師という役割をこなすことは十分できると気づいたのだ。
これは学生時代に演劇をやっていたからこその感じ方かもしれない。
劇団で見てきた役者さんたちの中には、普段は物静かであまり人とは交流しないという人がけっこういた。
役者は意外と内向的なタイプが多いのだ。
人前に立つのが大好きという人ももちろんいるが、出番を待つ舞台ソデで震えているような人もたくさんいた。
そういう役者さんが一旦舞台に立つと、全く別人格を見事に演じてのける。
それが役作りだ。
自分も教室限定で「いい先生」という役作りをすればいい。
そう気づいてから、肩の力が抜けて、色々うまく回るようになった。
「先生という役作り」が、結果として私の中の絵描きの部分を守ることにもなったのだ。
2016年10月07日
教わる前から描いているか?
絵を描いたり物を作ったりすることは、それ自体とても楽しいことだ。
指導に当たっては、なるべくストレス少なくその楽しさを味わってもらうために、技術面や設備面でのサポートをすることになる。
一般向けの講座では、普段あまり絵を描いたりしない人や、物作りがちょっと苦手という人も対象になるので、かなり手取り足取り、至れり尽くせりの指導になることもある。
何よりも、失敗のリスクを避けて作品を完成までこぎつけ、成功体験を持ってもらうことが大前提になるのだ。
eテレの各種講座をイメージすると、「一般向けの指導」の在り方がわかりやすいだろう。
ただし、美術系志望者に指導する場合は、少々事情が違ってくる。
楽しみとして絵を描いたり物を作ったりすることは誰にでもできるけれども、それを稼業にしようと志すなら、ある種の選別は必要になってくる。
美術系志望の進路相談を受ける時、私は目の前で何か描かせてみることが多い。
画材やモデルはなんでもいい。
鉛筆一本、紙一枚あれば良く、それで好きなものを好きなように描いてもらう。
見せてもらう時間は数分あれば十分で、必ずしも絵を完成させてもらう必要はない。
本当を言えば、紙の上に線を数本描いてもらった時点で、もうだいたいのことは分かっているが、念のためにしばらくは時間をかける。
目の前で描かせて生徒の何を見ているかというと、「普段から描いているかどうか」だ。
将来的に美術系の職を得ようとするような人間は、習う前から描いていなければいけないというのが、私の持論だ。
描くのはなんでも構わず、写実デッサンでなくても良い。
マンガやイラストが好きなら、そのような絵を自分で毎日描いているか?
ファッションやインテリアなどのデザインが好きなら、日常的に情報に触れ、自分でも描いているか?
物作りが好きなら、自分でイメージスケッチなどをするのは不可欠になるだろう。
ことさらに習う前から自分で情報収集し、自分でも描いてみる。
そういうことが、毎日、一日中でも続けていられるかどうか?
つまるところ美術系の「適性」とは、そういうことだと考えている。
目の前で何か描いてもらうと、その生徒が何らかのジャンルについて関心を持ち、情報に触れ、自分でも描いているかどうかということは、ほとんど瞬間的に判別できる。
中には「君、そもそも絵をほとんど描いたことがないでしょう?」という生徒が、美術系の進路相談に迷い込むこともある。
話を聞いてみると、「勉強もあまりできないし、何となく絵は好きだから」という答えが返ってきたりする。
「なぜ今まで自分で描かなかったのか」と聞くと、不思議そうに「これから習うために相談に来た」と答える。
そういう受け身な姿勢では、美術を稼業として生きていくのは無理だ。
仮に教わって描けるようになったとしても、それですぐ食っていけるわけではないのだ。
それはスタートラインに過ぎず、身に付けた技術や表現を換金するルートを、それぞれが自分一人で切り開き、試行錯誤しなければならない。
自分が表現できる環境を守るために、制作時間だけは確保できる別の職を持つ表現者だってたくさんいるのだ。
描くことや物を作ること自体が好きで、それなしでは生きていけないのでなければ耐えられない。
甘いことを言っても本人のためにならないので、受け身な姿勢が見えた場合は「美術系志望はあきらめて、普通に勉強しなさい」とアドバイスすることにしている。
そう言われてあきらめるなら、そこまでにしておいた方が無難。
カチンときてがむしゃらに描き始めるなら、それはそれで道は開けるだろう。
身近に美術志望の子弟がいるなら、「習う前から自分で描いているかどうか」という点に注意して話をするのが良いだろう。
なんとなく普通に勉強することから逃避したくて、消極的に美術系志望を口にしているようなら、早めにあきらめさせた方がいい。
自分の関心のあるジャンルについて、習う以前に自分で情報収集し、独自に制作した作品やラクガキノートがたくさん積み上げられている状態なら、そのまま見守ってあげても良いと思う。
そういう子がもし受験のために画塾に通いたいと言うなら、経済的に許されるなら背中を押してあげても良いだろう。
真面目に勉強し、堅実な職についても、いつそれが失われるかわからないのが現代ニッポンである。
覚悟のある子には、思うようにさせた方がいい。
そもそも、そういう子は止めても無駄だ(笑)
指導に当たっては、なるべくストレス少なくその楽しさを味わってもらうために、技術面や設備面でのサポートをすることになる。
一般向けの講座では、普段あまり絵を描いたりしない人や、物作りがちょっと苦手という人も対象になるので、かなり手取り足取り、至れり尽くせりの指導になることもある。
何よりも、失敗のリスクを避けて作品を完成までこぎつけ、成功体験を持ってもらうことが大前提になるのだ。
eテレの各種講座をイメージすると、「一般向けの指導」の在り方がわかりやすいだろう。
ただし、美術系志望者に指導する場合は、少々事情が違ってくる。
楽しみとして絵を描いたり物を作ったりすることは誰にでもできるけれども、それを稼業にしようと志すなら、ある種の選別は必要になってくる。
美術系志望の進路相談を受ける時、私は目の前で何か描かせてみることが多い。
画材やモデルはなんでもいい。
鉛筆一本、紙一枚あれば良く、それで好きなものを好きなように描いてもらう。
見せてもらう時間は数分あれば十分で、必ずしも絵を完成させてもらう必要はない。
本当を言えば、紙の上に線を数本描いてもらった時点で、もうだいたいのことは分かっているが、念のためにしばらくは時間をかける。
目の前で描かせて生徒の何を見ているかというと、「普段から描いているかどうか」だ。
将来的に美術系の職を得ようとするような人間は、習う前から描いていなければいけないというのが、私の持論だ。
描くのはなんでも構わず、写実デッサンでなくても良い。
マンガやイラストが好きなら、そのような絵を自分で毎日描いているか?
ファッションやインテリアなどのデザインが好きなら、日常的に情報に触れ、自分でも描いているか?
物作りが好きなら、自分でイメージスケッチなどをするのは不可欠になるだろう。
ことさらに習う前から自分で情報収集し、自分でも描いてみる。
そういうことが、毎日、一日中でも続けていられるかどうか?
つまるところ美術系の「適性」とは、そういうことだと考えている。
目の前で何か描いてもらうと、その生徒が何らかのジャンルについて関心を持ち、情報に触れ、自分でも描いているかどうかということは、ほとんど瞬間的に判別できる。
中には「君、そもそも絵をほとんど描いたことがないでしょう?」という生徒が、美術系の進路相談に迷い込むこともある。
話を聞いてみると、「勉強もあまりできないし、何となく絵は好きだから」という答えが返ってきたりする。
「なぜ今まで自分で描かなかったのか」と聞くと、不思議そうに「これから習うために相談に来た」と答える。
そういう受け身な姿勢では、美術を稼業として生きていくのは無理だ。
仮に教わって描けるようになったとしても、それですぐ食っていけるわけではないのだ。
それはスタートラインに過ぎず、身に付けた技術や表現を換金するルートを、それぞれが自分一人で切り開き、試行錯誤しなければならない。
自分が表現できる環境を守るために、制作時間だけは確保できる別の職を持つ表現者だってたくさんいるのだ。
描くことや物を作ること自体が好きで、それなしでは生きていけないのでなければ耐えられない。
甘いことを言っても本人のためにならないので、受け身な姿勢が見えた場合は「美術系志望はあきらめて、普通に勉強しなさい」とアドバイスすることにしている。
そう言われてあきらめるなら、そこまでにしておいた方が無難。
カチンときてがむしゃらに描き始めるなら、それはそれで道は開けるだろう。
身近に美術志望の子弟がいるなら、「習う前から自分で描いているかどうか」という点に注意して話をするのが良いだろう。
なんとなく普通に勉強することから逃避したくて、消極的に美術系志望を口にしているようなら、早めにあきらめさせた方がいい。
自分の関心のあるジャンルについて、習う以前に自分で情報収集し、独自に制作した作品やラクガキノートがたくさん積み上げられている状態なら、そのまま見守ってあげても良いと思う。
そういう子がもし受験のために画塾に通いたいと言うなら、経済的に許されるなら背中を押してあげても良いだろう。
真面目に勉強し、堅実な職についても、いつそれが失われるかわからないのが現代ニッポンである。
覚悟のある子には、思うようにさせた方がいい。
そもそも、そういう子は止めても無駄だ(笑)
2016年10月08日
2016年10月09日
「線」と「面」
絵は線から生まれる。
歴史的に見ても最も古い絵は簡単な線で描かれているし、原始的な絵と分かちがたい象形文字も線によって刻まれている。
個人レベルの発達で考えても、乳幼児の絵は線でのなぐりがきに始まり、線で一定領域を囲むことで絵が生まれる。
以後は輪郭線で様々なものを描き分け、着色する場合は線で囲んだ領域内をそれぞれの色に塗り分ける手法がとられるようになる。
線で囲み、塗り分けるという行為は、人間にとってごく自然な表現だ。
人間が自他を区別したり、個別の物をそれぞれに認識する知覚の在り方とも、密接に関連している。
しかし、「写実表現」に踏み込むなら、話は違ってくる。
専門的に写実を習得する場合、まず最初に学ぶのは「ものに輪郭線はない」ということだ。
輪郭線があるかのように認識される箇所には、実際には絵にかくような「実線」は引かれていない。
あるのは隣接する色や面の「境い目」だけだ。
だから写実絵画の基本である鉛筆や木炭によるデッサンでは、輪郭線で囲むのではなく、立体的な面の明暗の差を、様々な階調のグレーで塗り分けることを叩き込まれる。
一見輪郭線っぽく見える境界線は、立体感を追及する中で明暗の差として徐々に探り当てられていく。
領域を「線」で区切るという感覚は一旦解体され、立体的な「面」の集まりで世界を認識し直すことで「絵描きの眼」を練り上げる訓練を積む。
二次元の画面の中に、あたかも三次元空間があるかのような錯覚を起こさせるのが「写実」だ。
この「線」と「面」という感覚の違いは、単に手法やセンスの違いであって、両者に優劣はない。
ごく大雑把に言うと、漫画やイラスト、デザインの分野では「線」で区切るセンス、絵画や彫刻の分野では「面」で構成するセンスが重みを持つと感じる。
絵の中でも、伝統的な日本画の世界は「線」が強く、洋画の写実表現では「面」が強いと思う。
写実的、立体的な「面」のセンスは、どんなジャンルの絵描きでも、基礎体力として持っているに越したことはない。
しかし、この「線」と「面」というセンスの違いは、絵を描く時の手順を全く変えてしまう。
感覚的には、真逆といっても良いほどの違いがあるのだ。
将来的に「線」のセンスが必要とされるジャンルを志すなら、「面」のセンスが強い写実デッサンを学ぶ際には注意が必要だ。
歴史的に見ても最も古い絵は簡単な線で描かれているし、原始的な絵と分かちがたい象形文字も線によって刻まれている。
個人レベルの発達で考えても、乳幼児の絵は線でのなぐりがきに始まり、線で一定領域を囲むことで絵が生まれる。
以後は輪郭線で様々なものを描き分け、着色する場合は線で囲んだ領域内をそれぞれの色に塗り分ける手法がとられるようになる。
線で囲み、塗り分けるという行為は、人間にとってごく自然な表現だ。
人間が自他を区別したり、個別の物をそれぞれに認識する知覚の在り方とも、密接に関連している。
しかし、「写実表現」に踏み込むなら、話は違ってくる。
専門的に写実を習得する場合、まず最初に学ぶのは「ものに輪郭線はない」ということだ。
輪郭線があるかのように認識される箇所には、実際には絵にかくような「実線」は引かれていない。
あるのは隣接する色や面の「境い目」だけだ。
だから写実絵画の基本である鉛筆や木炭によるデッサンでは、輪郭線で囲むのではなく、立体的な面の明暗の差を、様々な階調のグレーで塗り分けることを叩き込まれる。
一見輪郭線っぽく見える境界線は、立体感を追及する中で明暗の差として徐々に探り当てられていく。
領域を「線」で区切るという感覚は一旦解体され、立体的な「面」の集まりで世界を認識し直すことで「絵描きの眼」を練り上げる訓練を積む。
二次元の画面の中に、あたかも三次元空間があるかのような錯覚を起こさせるのが「写実」だ。
この「線」と「面」という感覚の違いは、単に手法やセンスの違いであって、両者に優劣はない。
ごく大雑把に言うと、漫画やイラスト、デザインの分野では「線」で区切るセンス、絵画や彫刻の分野では「面」で構成するセンスが重みを持つと感じる。
絵の中でも、伝統的な日本画の世界は「線」が強く、洋画の写実表現では「面」が強いと思う。
写実的、立体的な「面」のセンスは、どんなジャンルの絵描きでも、基礎体力として持っているに越したことはない。
しかし、この「線」と「面」というセンスの違いは、絵を描く時の手順を全く変えてしまう。
感覚的には、真逆といっても良いほどの違いがあるのだ。
将来的に「線」のセンスが必要とされるジャンルを志すなら、「面」のセンスが強い写実デッサンを学ぶ際には注意が必要だ。
2016年10月15日
写実デッサンは必要か?
日本では美術系志望者の多くがデッサンを学ぶ。
志望が平面であれ立体であれ、一度は鉛筆や木炭による写実表現を習得することが勧められる。
水彩絵具などで軽く着色する場合もあるが基本はモノクロで、色彩構成はまた別に習得することが多い。
写実デッサンで身に付くスキルは、大雑把に言うと二つあるのではないかと思う。
空間認識能力と、絵を「面」で構成する描写力だ。
写実デッサンを学ぶにあたっては、誰もが幼いころから自然にやっている「線で囲んで絵を描く」という意識を、一旦徹底的に解体する。
輪郭線を排除して「面」で物を認識し、画面上で表現することを叩き込まれる。
人間の手と目と頭は密接に関連している。
目と頭をフル回転させて「面」でとらえ、実際に手を動かして「面」で描くことで、空間認識能力が伸びやすいのは確かだ。
空間認識能力は様々な表現の基礎体力になり得るので、そういう意味では誰もが一度は写実デッサンを学ぶ価値はあると言える。
しかしデッサンで得られるもう一つのスキルの「面で構成する描写力」は、全ての美術系志望者にとって、必ずしもプラスに働くとは限らないのではないかと思う。
絵を描く時に「線で描く」のと「面で描く」のとでは、手順や意識、必要とされる手の熟練が全く違うのだ。
正反対と言ってもいい。
例えばわかりやすい例が、マンガの絵だ。
日本のマンガはモノクロのペン画で、基本的に「線」の表現だ。
面構成がしっかりしているか、デッサンが正確であるかどうかということは、マンガの絵の良し悪しとは本質的には関係がない。
一見写実的に見える画風であっても、それはあくまで「マンガの中ではリアルに見える」ということであって、本当の意味での写実ではない。
デッサンが正確であるに越したことはないが、狂いはむしろ絵の個性になり得る。
魅力ある輪郭を、生きた描線で思い切りよくズバッと引くことがマンガの絵の生命力になる。
見た目上の立体感をつけるための影やトーンワークは枝葉の部分に過ぎない。
輪郭線で描き、量産するタイプの表現では、下描きは少ないほど良い。
鉛筆による下描きは、あくまでペンの主線のあたりをとっているのであって、同じ鉛筆を使っていても面構成でデッサンするのとはまた違うのだ。
下描きで一々デッサンなどやっていたら、マンガで要求される絵の枚数をこなすことは物理的に不可能だ。
劇画の巨匠と呼ばれるペン画の達人でも、しばらくペンを持たないと覿面に絵が荒れると言われる。
とにかく日常的にペンを握り続け、下描き無しでも描けるくらいの修練や即興性がないと「線」は生きてこないのだ。
「面」の修練である写実デッサンは、言い換えると「線」を殺す修練にもなる。
思い切りよく輪郭線で画面を切り裂く感性は、面構成の写実デッサンだけやっていると確実に鈍る。
短時間に輪郭線で枚数を描くクロッキーの方が、まだマンガの絵の修練に近い。
マンガの絵は、マンガの絵を描くことで練り上げるのが本筋で、写実デッサンを学ぶにしても「これはまた別物」として区別しておいた方が良い。
マンガ表現でも、空間認識能力はあった方が画面に奥行きが出せ、よりリアルな画面を作ることができる。
空間認識能力を伸ばすにあたって、写実デッサンはかなり有効な修練ではあるけれども、「線」の表現を志すなら、前述したような弊害も覚悟しなければならない。
そして、デッサン以外の空間認識能力の伸ばし方も、実はある。
志望が平面であれ立体であれ、一度は鉛筆や木炭による写実表現を習得することが勧められる。
水彩絵具などで軽く着色する場合もあるが基本はモノクロで、色彩構成はまた別に習得することが多い。
写実デッサンで身に付くスキルは、大雑把に言うと二つあるのではないかと思う。
空間認識能力と、絵を「面」で構成する描写力だ。
写実デッサンを学ぶにあたっては、誰もが幼いころから自然にやっている「線で囲んで絵を描く」という意識を、一旦徹底的に解体する。
輪郭線を排除して「面」で物を認識し、画面上で表現することを叩き込まれる。
人間の手と目と頭は密接に関連している。
目と頭をフル回転させて「面」でとらえ、実際に手を動かして「面」で描くことで、空間認識能力が伸びやすいのは確かだ。
空間認識能力は様々な表現の基礎体力になり得るので、そういう意味では誰もが一度は写実デッサンを学ぶ価値はあると言える。
しかしデッサンで得られるもう一つのスキルの「面で構成する描写力」は、全ての美術系志望者にとって、必ずしもプラスに働くとは限らないのではないかと思う。
絵を描く時に「線で描く」のと「面で描く」のとでは、手順や意識、必要とされる手の熟練が全く違うのだ。
正反対と言ってもいい。
例えばわかりやすい例が、マンガの絵だ。
日本のマンガはモノクロのペン画で、基本的に「線」の表現だ。
面構成がしっかりしているか、デッサンが正確であるかどうかということは、マンガの絵の良し悪しとは本質的には関係がない。
一見写実的に見える画風であっても、それはあくまで「マンガの中ではリアルに見える」ということであって、本当の意味での写実ではない。
デッサンが正確であるに越したことはないが、狂いはむしろ絵の個性になり得る。
魅力ある輪郭を、生きた描線で思い切りよくズバッと引くことがマンガの絵の生命力になる。
見た目上の立体感をつけるための影やトーンワークは枝葉の部分に過ぎない。
輪郭線で描き、量産するタイプの表現では、下描きは少ないほど良い。
鉛筆による下描きは、あくまでペンの主線のあたりをとっているのであって、同じ鉛筆を使っていても面構成でデッサンするのとはまた違うのだ。
下描きで一々デッサンなどやっていたら、マンガで要求される絵の枚数をこなすことは物理的に不可能だ。
劇画の巨匠と呼ばれるペン画の達人でも、しばらくペンを持たないと覿面に絵が荒れると言われる。
とにかく日常的にペンを握り続け、下描き無しでも描けるくらいの修練や即興性がないと「線」は生きてこないのだ。
「面」の修練である写実デッサンは、言い換えると「線」を殺す修練にもなる。
思い切りよく輪郭線で画面を切り裂く感性は、面構成の写実デッサンだけやっていると確実に鈍る。
短時間に輪郭線で枚数を描くクロッキーの方が、まだマンガの絵の修練に近い。
マンガの絵は、マンガの絵を描くことで練り上げるのが本筋で、写実デッサンを学ぶにしても「これはまた別物」として区別しておいた方が良い。
マンガ表現でも、空間認識能力はあった方が画面に奥行きが出せ、よりリアルな画面を作ることができる。
空間認識能力を伸ばすにあたって、写実デッサンはかなり有効な修練ではあるけれども、「線」の表現を志すなら、前述したような弊害も覚悟しなければならない。
そして、デッサン以外の空間認識能力の伸ばし方も、実はある。
2016年10月16日
おりがみと積木
人が何かを習得するとき、最速で能力が伸びるのは「遊び」によってだ。
義務的に学習するのは効率が悪く、強制されるのは最悪で、苦しみばかり多く結局何も身につかない。
楽しんでこそ頭も体も集中し、フル回転できる。
こうした傾向は年少者ほど強い。
大人になると、やる気の出ないことでも、必要に迫られて最低限習得する術を持つようになるが、子供には無理だ。
様々な美術表現の基礎体力になる空間認識能力を鍛えるには、それなりに年を取ってからであれば、やはり写実デッサンが有効だ。
数学の平面や立体図形の学習も、もちろん役に立つ。
小学生の頃あまり絵が描けなくても、中学高校と学習を進めるうちに、多少描けるようになってくるのはそのためだ。
しかしそれ以前に、子供時代の遊びの中にも空間認識能力を高めるものはたくさんある。
そうした遊びの代表が、おりがみや積木ではないかと思う。
私は幼児から中学生くらいまでの学習指導の経験も長いのだが、算数や数学の図形問題に関していうと、最初からできる子と苦戦する子に分かれる傾向がある。
同じ算数や数学でも、計算問題はよくできる子が、図形だけは苦手だったりする。
逆に、他の学習内容は苦手でも、図形だけはできるという子もいる。
これは、生まれつきの適性というよりは、幼少の頃からどんな遊びをしていたかによるところが大きい。
図形で苦労しないタイプの子は、私の見てきた範囲ではまず間違いなく、おりがみなどの図形遊びや、レゴやプラレールなど広い意味での積木遊びにハマった経験を持っている。
●日本のおりがみ事典―心に残る伝承おりがみ180作品を次代の子どもたちに
●レゴ(LEGO)クラシック アイデアパーツ<スペシャルセット>10695
●プラレール N700A新幹線ベーシックセット
これは考えてみれば当たり前のことだ。
たとえばおりがみで言うと、正方形からはじまり、半分に折ると長方形、一直線を二つに折ると直角、平行、垂直、二等辺など、図形の学習内容は全て、習う前から実際に手を動かして楽しみつつ体験済みということになる。
レゴやプラレールいたっては、伝統的な積木遊びを進化させた、まさに「空間遊び」そのものだ。
こうした遊びを存分に体験してきた子にとってみれば、図形の学習はその体験に該当する名称や説明を当てはめるだけになるで、遊びが学習とストレートにつながる。
未経験の子が「お勉強」として一から学ぶのとは、スタート地点でかなり差がついているのである。
自分の成育歴を振り返ってみると、私が幼児の頃最初にハマったのはダイヤブロックだった。
ダイヤブロックはレゴより一つ一つのパーツが大きく、種類が少ないシリーズなのだが、その分「見立て遊び」など抽象度が高いと見ることもできるので、それなりの良さはあったと思う。
●diablock BASIC 250
おりがみも幼児の頃から好きでよく折っていた。
そして小学生から中学生にかけては、ガンプラブーム直撃の年代だったので、プラモデルにハマっていた。
つまり、好きでやっていた遊びの大半が「空間遊び」だったことになり、そのおかげで、小中高通して図形問題で困ったことは一度もなかった。
受験期になって写実デッサンを始めた時も、スタートは遅めだったが、上達はかなり速い部類だったのではないかと思う。
これは今思えば、デッサンで鍛えられる空間認識能力の部分は既に持っていて、鉛筆や木炭を使って「面」で描く訓練のみに集中できたせいだろう。
ただ、写実デッサン開始以前に、私は自分で描く絵として「線」の訓練を積んでいたのだが、デッサン開始とともにそちらは完全に休止してしまった。
当時は受験対策で余裕が無く、「線」と「面」の違いを認識していなかったので、せっかく自分なりに練り上げていた「線」の表現が一旦バラバラになってしまい、以後の私の絵は「面」が基本になり、今に続いている。
写実デッサン以前の絵を久々に見返すと、これはこれで伸ばしていけばいい線画になっただろうなと感じ、少しもったいない気もする。
空間認識能力は既に持っていたので、「線」に限って言えば、デッサンは必要なかったかもしれないとも思う。
デッサンを始めた頃に「線」と「面」の違いが認識できていれば、また違う習得の仕方もあったかもしれない。
その代わり結果として私は、それなりのレベルの写実の技を身につけた。
金と結びつきにくい美術分野の中では、最も換金されやすいスキルである。
ともかくこの技で生き延びてこれたのだから、良しとしなければならない。
義務的に学習するのは効率が悪く、強制されるのは最悪で、苦しみばかり多く結局何も身につかない。
楽しんでこそ頭も体も集中し、フル回転できる。
こうした傾向は年少者ほど強い。
大人になると、やる気の出ないことでも、必要に迫られて最低限習得する術を持つようになるが、子供には無理だ。
様々な美術表現の基礎体力になる空間認識能力を鍛えるには、それなりに年を取ってからであれば、やはり写実デッサンが有効だ。
数学の平面や立体図形の学習も、もちろん役に立つ。
小学生の頃あまり絵が描けなくても、中学高校と学習を進めるうちに、多少描けるようになってくるのはそのためだ。
しかしそれ以前に、子供時代の遊びの中にも空間認識能力を高めるものはたくさんある。
そうした遊びの代表が、おりがみや積木ではないかと思う。
私は幼児から中学生くらいまでの学習指導の経験も長いのだが、算数や数学の図形問題に関していうと、最初からできる子と苦戦する子に分かれる傾向がある。
同じ算数や数学でも、計算問題はよくできる子が、図形だけは苦手だったりする。
逆に、他の学習内容は苦手でも、図形だけはできるという子もいる。
これは、生まれつきの適性というよりは、幼少の頃からどんな遊びをしていたかによるところが大きい。
図形で苦労しないタイプの子は、私の見てきた範囲ではまず間違いなく、おりがみなどの図形遊びや、レゴやプラレールなど広い意味での積木遊びにハマった経験を持っている。
●日本のおりがみ事典―心に残る伝承おりがみ180作品を次代の子どもたちに
●レゴ(LEGO)クラシック アイデアパーツ<スペシャルセット>10695
●プラレール N700A新幹線ベーシックセット
これは考えてみれば当たり前のことだ。
たとえばおりがみで言うと、正方形からはじまり、半分に折ると長方形、一直線を二つに折ると直角、平行、垂直、二等辺など、図形の学習内容は全て、習う前から実際に手を動かして楽しみつつ体験済みということになる。
レゴやプラレールいたっては、伝統的な積木遊びを進化させた、まさに「空間遊び」そのものだ。
こうした遊びを存分に体験してきた子にとってみれば、図形の学習はその体験に該当する名称や説明を当てはめるだけになるで、遊びが学習とストレートにつながる。
未経験の子が「お勉強」として一から学ぶのとは、スタート地点でかなり差がついているのである。
自分の成育歴を振り返ってみると、私が幼児の頃最初にハマったのはダイヤブロックだった。
ダイヤブロックはレゴより一つ一つのパーツが大きく、種類が少ないシリーズなのだが、その分「見立て遊び」など抽象度が高いと見ることもできるので、それなりの良さはあったと思う。
●diablock BASIC 250
おりがみも幼児の頃から好きでよく折っていた。
そして小学生から中学生にかけては、ガンプラブーム直撃の年代だったので、プラモデルにハマっていた。
つまり、好きでやっていた遊びの大半が「空間遊び」だったことになり、そのおかげで、小中高通して図形問題で困ったことは一度もなかった。
受験期になって写実デッサンを始めた時も、スタートは遅めだったが、上達はかなり速い部類だったのではないかと思う。
これは今思えば、デッサンで鍛えられる空間認識能力の部分は既に持っていて、鉛筆や木炭を使って「面」で描く訓練のみに集中できたせいだろう。
ただ、写実デッサン開始以前に、私は自分で描く絵として「線」の訓練を積んでいたのだが、デッサン開始とともにそちらは完全に休止してしまった。
当時は受験対策で余裕が無く、「線」と「面」の違いを認識していなかったので、せっかく自分なりに練り上げていた「線」の表現が一旦バラバラになってしまい、以後の私の絵は「面」が基本になり、今に続いている。
写実デッサン以前の絵を久々に見返すと、これはこれで伸ばしていけばいい線画になっただろうなと感じ、少しもったいない気もする。
空間認識能力は既に持っていたので、「線」に限って言えば、デッサンは必要なかったかもしれないとも思う。
デッサンを始めた頃に「線」と「面」の違いが認識できていれば、また違う習得の仕方もあったかもしれない。
その代わり結果として私は、それなりのレベルの写実の技を身につけた。
金と結びつきにくい美術分野の中では、最も換金されやすいスキルである。
ともかくこの技で生き延びてこれたのだから、良しとしなければならない。
2016年10月17日
「色」か「形」か
このカテゴリ妄想絵画論では、私がこれまでに絵を描き、物を作る中で考えてきたことを覚書にしている。
私が私自身の絵を描くための覚書なので、広く一般に適用できる類のものではない。
数あるものの見方の一つとして読んでもらえれば、あるいは参考にできる人もいるかもしれない。
今回は、「色」と「形」についてである。
絵は基本的に色と形から構成されるが、私の見立てでは、絵描きのタイプによってどちらかに重点がある場合が多い。
個性とは一種の「偏り」なので、「色も形もバランスよく気を配って」ということにはなかなかならないのだ。
この「色と形」という分け方の軸に、前回までに述べてきた「線と面」という軸を加えると、わりと立体的に様々なジャンルの絵を俯瞰するヒントになると考えている。
あくまで「私の分類では」ということになるが、具体的に見ていってみよう。
初期印象派は、「色と面」が強い。
ゴッホなどの後期印象派になると、「形と線」の要素が出てくる。
ゴッホは一般的には「輝く色彩」のイメージが強いと思うが、私の捉え方では「形と面」を強調するために強い色彩や「線」の要素を取り入れていると見る。
キュビズムは「形と面」が強い。
ピカソは初期の「青の時代」「バラ色の時代」は「色と面」が強かったが、徐々に「形と線」が前に出てきた。
後期のピカソや岡本太郎は、「形と面」が表現の基本で、それを強調するツールとして「色と線」を駆使していると見ていて、ゴッホと同じカテゴリに入れている。
彫刻など立体は「形と面」が強いものが多く、マンガは「形と線」。
このように並べてみると、私の感覚的な分類がいくらか了解してもらえるかもしれない。
この「色と形、線と面」という分類に、私自身を当てはめてみる。
今の私が最も感情移入できる絵の表現の基本は「形と面」だ。
正直言うと、色のことはよく分からない。
ハシクレとは言え絵描きであるし、一応色彩に関する知識は持っているので、基礎的な指導くらいはできる。
しかし、色の感覚は取り立てて言うほどのものは持っていないと自覚している。
色に関してはどのように扱っていいか迷う期間が長かったのだが、ある時「そうか、色を形として使えばいいのだ」と気づいてから、少しずつ納得して使えるようになってきた。
敬愛するピカソや岡本太郎、ゴッホが、「形と面」を表現の基礎に置きながら、「色と線」でそれを強調しているのではないかと見立てられたことが大きい。
レベルは天と地ほどに違っていても、一応目指す高みが見えていることはありがたいのである。
空間認識能力と同じく色のセンスも、生まれつきと言うよりは、成育歴の中で培われるものだ。
私の成育歴の中には「混色理論」はあっても、「色彩を楽しむ感覚」はごっそりと抜け落ちている。
赤、青、黄、黒、白などの原色を、子供のラクガキのように塗りたくるしか能がないのだ。
私が私自身の絵を描くための覚書なので、広く一般に適用できる類のものではない。
数あるものの見方の一つとして読んでもらえれば、あるいは参考にできる人もいるかもしれない。
今回は、「色」と「形」についてである。
絵は基本的に色と形から構成されるが、私の見立てでは、絵描きのタイプによってどちらかに重点がある場合が多い。
個性とは一種の「偏り」なので、「色も形もバランスよく気を配って」ということにはなかなかならないのだ。
この「色と形」という分け方の軸に、前回までに述べてきた「線と面」という軸を加えると、わりと立体的に様々なジャンルの絵を俯瞰するヒントになると考えている。
あくまで「私の分類では」ということになるが、具体的に見ていってみよう。
初期印象派は、「色と面」が強い。
ゴッホなどの後期印象派になると、「形と線」の要素が出てくる。
ゴッホは一般的には「輝く色彩」のイメージが強いと思うが、私の捉え方では「形と面」を強調するために強い色彩や「線」の要素を取り入れていると見る。
キュビズムは「形と面」が強い。
ピカソは初期の「青の時代」「バラ色の時代」は「色と面」が強かったが、徐々に「形と線」が前に出てきた。
後期のピカソや岡本太郎は、「形と面」が表現の基本で、それを強調するツールとして「色と線」を駆使していると見ていて、ゴッホと同じカテゴリに入れている。
彫刻など立体は「形と面」が強いものが多く、マンガは「形と線」。
このように並べてみると、私の感覚的な分類がいくらか了解してもらえるかもしれない。
この「色と形、線と面」という分類に、私自身を当てはめてみる。
今の私が最も感情移入できる絵の表現の基本は「形と面」だ。
正直言うと、色のことはよく分からない。
ハシクレとは言え絵描きであるし、一応色彩に関する知識は持っているので、基礎的な指導くらいはできる。
しかし、色の感覚は取り立てて言うほどのものは持っていないと自覚している。
色に関してはどのように扱っていいか迷う期間が長かったのだが、ある時「そうか、色を形として使えばいいのだ」と気づいてから、少しずつ納得して使えるようになってきた。
敬愛するピカソや岡本太郎、ゴッホが、「形と面」を表現の基礎に置きながら、「色と線」でそれを強調しているのではないかと見立てられたことが大きい。
レベルは天と地ほどに違っていても、一応目指す高みが見えていることはありがたいのである。
空間認識能力と同じく色のセンスも、生まれつきと言うよりは、成育歴の中で培われるものだ。
私の成育歴の中には「混色理論」はあっても、「色彩を楽しむ感覚」はごっそりと抜け落ちている。
赤、青、黄、黒、白などの原色を、子供のラクガキのように塗りたくるしか能がないのだ。
2016年10月19日
才能か努力か
人の能力が生まれつきによるか、修練によるかということには、様々な議論がある。
少年マンガなんかではよく「天才型」と「努力型」のキャラクターがライバル関係になったりするが、実際はそう単純に対比できるものではない。
基本的には「遺伝形質」と「獲得形質」の違いを頭に置けば良いだろう。
人の能力をハードとソフトに分けて考えれば、遺伝形質はハードであり、獲得形質はソフトに比定できるだろう。
ハードにあたる身体に関する部分は生まれつきの要素が大きく、ソフトにあたる各種認識能力の部分は、個人の成育歴や修練によるところが大きい。
絵を描いたり物を作ったりする能力はソフトによるところが大きいので、遺伝的な意味での「生まれつき」はあまり関係ない。
世の中には手先の器用な家系があるようにも見えるが、それは「遺伝」というより「環境」による。
絵や物作りが好きな親の家に生まれれば、子供は自然とそうした情報に接するし、親の姿を見て自分でも興味を持ってやり始める。
それは「物作りの文化」とでも呼ぶべきもので、そういう「気風」のある家に生まれたというだけのことだ。
一見「生まれつきの才能」と見えても、実は成育歴の中で自然に培われた能力である場合が多い。
前に述べた空間認識能力もその一例であるし、同様のことは美術だけでなく学習全般に言える。
義務教育で習う程度の内容なら、遺伝的な要素は一切関係ない。
物作りと同じく、各家庭に伝わる「お勉強の文化」というべきものもあるのだ。
これは、よく言われる経済的な意味での教育格差とは無関係で、とくに裕福でなくても基礎的な学習習慣を伝える家は一定数存在する。
子供は親を選べないので、家庭環境も「生まれつき」の内ではないかという考え方もあろうが、少なくとも遺伝ではないということは間違いない。
文化は「家」の枠を超えて伝達可能なので、環境に恵まれなくても、個人のやる気次第で十分カバーできる。
以上は、それなりの年月を美術や学習の指導をやってきての実感である。
ただ、「人並みにできるようになる」というレベルにとどまらず、「表現しよう」とか、「稼業にしよう」とことになると、思春期以降の個人の努力の範囲を超える局面も出てくる。
絵を描くとか物を作るということで言えば、それが心から好きで、呼吸するように自然に続けていられるということしか、表現の核にはなり得ない。
私自身で言えば、「色彩」に関しては作品の主要なテーマにはならないし、できない。
色の感性は、ファッションやインテリアなど、日常生活を心地よく楽しむ文化に対する関心と隣接していると考えている。
私の成育歴からはごっそり抜けている部分だ。
子供の頃からプラモ少年で、物の「形」については並々ならぬ関心を持ってきたが、「色」については、形を活かすための補助としての関心しかなかった。
中高生の頃は六年一貫の中堅受験校で、当時ですら時代に取り残されたバンカラな校風に浸りきっており、およそファッションなどとは縁遠い日々を過ごした。
進学してからも美術系であり、演劇にかぶれた学生生活。
当時は既にバブルがはじけていたが、まだ世の中に金は残っていた。
少しバイトすれば遊ぶのに不自由はなく、一般学生はそれなりに青春を謳歌していた。
しかし私はと言えば、散らかった作業場と汚れた作業着が日常で、世の風潮に関わらず、いくらでも浮世離れしていられた。
衣食住など最低限で良く、むしろその方が居心地よく、楽しかった。
今でも身なりなどには極めて無頓着で、一年の内半年以上をTシャツとジーンズで過ごし、寒くなってくるとホームセンターに駆け込んで防寒作業着を物色する体たらく。
こんな調子では、日常生活を楽しみ、微妙な色彩を楽しむ感性が培われるはずがないのである。
たぶん世の中には、そうした日常生活を楽しむ文化もあるのだろうけれども、私はそこには恵まれなかった(笑)
その代わり、「物作り」と「お勉強」の文化は伝授されて、ここまで生きてこれたのだから、幸せに思わなければならない。
元プロ野球選手の松井秀喜は「努力できることが才能である」という信条を持っていたという。
生真面目な松井らしい、真っ当で素晴らしい言葉だが、少し意地悪に見ると、生まれつきフィジカルに恵まれていた松井だからこそ「努力」に集中できたのだろうとも思う。
そして松井家に伝わっていたであろう、努力を重んじる実直な文化も見逃せない。
私なりに理解するなら、ごく自然に努力を楽しめる気風のある家に生まれ、フィジカルの適性とよく合致した野球というモチーフに出会えた松井は、ものすごく幸運だったということだと思う。
美術という分野は、スポーツほどには遺伝的要素に左右されないが、成育歴の中で培われた「どんな努力なら楽しめるか」という感性は、表現の根幹に関わるのだ。
このことは、以前にアップした教わる前から描いているか?という記事ともつながってくる。
少年マンガなんかではよく「天才型」と「努力型」のキャラクターがライバル関係になったりするが、実際はそう単純に対比できるものではない。
基本的には「遺伝形質」と「獲得形質」の違いを頭に置けば良いだろう。
人の能力をハードとソフトに分けて考えれば、遺伝形質はハードであり、獲得形質はソフトに比定できるだろう。
ハードにあたる身体に関する部分は生まれつきの要素が大きく、ソフトにあたる各種認識能力の部分は、個人の成育歴や修練によるところが大きい。
絵を描いたり物を作ったりする能力はソフトによるところが大きいので、遺伝的な意味での「生まれつき」はあまり関係ない。
世の中には手先の器用な家系があるようにも見えるが、それは「遺伝」というより「環境」による。
絵や物作りが好きな親の家に生まれれば、子供は自然とそうした情報に接するし、親の姿を見て自分でも興味を持ってやり始める。
それは「物作りの文化」とでも呼ぶべきもので、そういう「気風」のある家に生まれたというだけのことだ。
一見「生まれつきの才能」と見えても、実は成育歴の中で自然に培われた能力である場合が多い。
前に述べた空間認識能力もその一例であるし、同様のことは美術だけでなく学習全般に言える。
義務教育で習う程度の内容なら、遺伝的な要素は一切関係ない。
物作りと同じく、各家庭に伝わる「お勉強の文化」というべきものもあるのだ。
これは、よく言われる経済的な意味での教育格差とは無関係で、とくに裕福でなくても基礎的な学習習慣を伝える家は一定数存在する。
子供は親を選べないので、家庭環境も「生まれつき」の内ではないかという考え方もあろうが、少なくとも遺伝ではないということは間違いない。
文化は「家」の枠を超えて伝達可能なので、環境に恵まれなくても、個人のやる気次第で十分カバーできる。
以上は、それなりの年月を美術や学習の指導をやってきての実感である。
ただ、「人並みにできるようになる」というレベルにとどまらず、「表現しよう」とか、「稼業にしよう」とことになると、思春期以降の個人の努力の範囲を超える局面も出てくる。
絵を描くとか物を作るということで言えば、それが心から好きで、呼吸するように自然に続けていられるということしか、表現の核にはなり得ない。
私自身で言えば、「色彩」に関しては作品の主要なテーマにはならないし、できない。
色の感性は、ファッションやインテリアなど、日常生活を心地よく楽しむ文化に対する関心と隣接していると考えている。
私の成育歴からはごっそり抜けている部分だ。
子供の頃からプラモ少年で、物の「形」については並々ならぬ関心を持ってきたが、「色」については、形を活かすための補助としての関心しかなかった。
中高生の頃は六年一貫の中堅受験校で、当時ですら時代に取り残されたバンカラな校風に浸りきっており、およそファッションなどとは縁遠い日々を過ごした。
進学してからも美術系であり、演劇にかぶれた学生生活。
当時は既にバブルがはじけていたが、まだ世の中に金は残っていた。
少しバイトすれば遊ぶのに不自由はなく、一般学生はそれなりに青春を謳歌していた。
しかし私はと言えば、散らかった作業場と汚れた作業着が日常で、世の風潮に関わらず、いくらでも浮世離れしていられた。
衣食住など最低限で良く、むしろその方が居心地よく、楽しかった。
今でも身なりなどには極めて無頓着で、一年の内半年以上をTシャツとジーンズで過ごし、寒くなってくるとホームセンターに駆け込んで防寒作業着を物色する体たらく。
こんな調子では、日常生活を楽しみ、微妙な色彩を楽しむ感性が培われるはずがないのである。
たぶん世の中には、そうした日常生活を楽しむ文化もあるのだろうけれども、私はそこには恵まれなかった(笑)
その代わり、「物作り」と「お勉強」の文化は伝授されて、ここまで生きてこれたのだから、幸せに思わなければならない。
元プロ野球選手の松井秀喜は「努力できることが才能である」という信条を持っていたという。
生真面目な松井らしい、真っ当で素晴らしい言葉だが、少し意地悪に見ると、生まれつきフィジカルに恵まれていた松井だからこそ「努力」に集中できたのだろうとも思う。
そして松井家に伝わっていたであろう、努力を重んじる実直な文化も見逃せない。
私なりに理解するなら、ごく自然に努力を楽しめる気風のある家に生まれ、フィジカルの適性とよく合致した野球というモチーフに出会えた松井は、ものすごく幸運だったということだと思う。
美術という分野は、スポーツほどには遺伝的要素に左右されないが、成育歴の中で培われた「どんな努力なら楽しめるか」という感性は、表現の根幹に関わるのだ。
このことは、以前にアップした教わる前から描いているか?という記事ともつながってくる。