2016年10月21日

地震列島

 本日午後二時過ぎ、鳥取で震度6弱。
 私の住む地域では震度3を観測したようだが、かなり長く揺れていて、鉄筋コンクリートの堅牢な建物がかなりきしんでいた。
 体感では震度4くらいは行っているのではないかと思った。
 震源は鳥取だが関西一円大きく揺れたようで、山陽新幹線はしばらくストップ。
 範囲の大きさが気になる地震だった。

 4月には熊本地震。
 8月、四国伊方原発再稼働。
 九州川内原発は定期検査で停止中。
 今月8日には阿蘇山の噴火もあった。

 原発立地に注視が必要だ。

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2016年10月22日

原色の力

 学生時代は教育系の美術科だったので、絵画もデザインも立体も工芸も、一通り実習することができた。
 浅く広くではあるけれども、様々な手法や表現に接することができたのはありがたかった。
 講師の先生方はいずれも個性的な実力派で、少人数の面授で制作過程を教わったのは、得難い見取り稽古の機会になったと思う。
 どのジャンルも楽しかったのだが、デザインの色彩構成だけは手こずった。
 微妙な色の組み合わせということになかなか感情移入できず、出来上がるのは赤黄青などを混色せずにそのまま塗りたくったような作品ばかり。
 先生からは色々指導していただいた。
 要するに「キミの色使いは子供のオモチャみたいだ」と注意されていたのだが、実際はもっと優しく言葉を選びながら指導していただきながらも、結局そうした傾向は改まらなかった。
 そもそも私は思春期くらいまでの成育歴の中で、まさに「子供のオモチャ」であるプラモやマンガ等の色使いにしか興味を持ってこなかったのだから、それ以上のものが出力できるわけがないのである。
 デザインでも「形」に関するものや、プレゼンテーションパネルの制作などは得意としていたのでなんとか面目を保てたけれども、「色彩」だけだったらちょっと困った成績になったかもしれない。
 
 つまるところ「入力」の問題なのだ。
 美術に関する能力には、遺伝的な「生まれつき」はほとんど関係がない。
 幼少時代にどんな遊びを楽しんできたかが感性の基本になり、思春期あたりにどれだけ意識的に情報に接し、自分でも手を動かしてきたかが表現の基礎になる。
 大人になってから学んだことも、努力によって「そこそこ」までは行く。
 頭で理解してそれなりに使えるところまでは届くが、そこまでだ。
 補助にはなっても、深く感情移入できる表現の中心軸にはならない。
 そして、作品制作は別にオールマイティーでなくても良い。
 色々出来るに越したことはないが、結局は幼少時代から培った心身の機能の中で勝負するしかないのだ。
 私はタイプ的に単機能を追及するのではなく、いくつかの使える機能を組み合わせて加算する方なのだが、その「使える機能」の中に色彩は入っていないので、勘違いしてはいけない。

 しょせん私は子供のオモチャの色使いしかできないし、やる気がない。
 色を塗れば、自然に戦隊ヒーロー番組の合体ロボみたいな、原色がゴツゴツぶつかり合ったような画面になってしまう。
 ここで必要なのは「微妙な色使いの学習」ではなく、「開き直り」だ。
 子供のオモチャの色使いは、見方を変えると「子供でも分かる普遍性」ということにもつながる。
 知識だの教養だの文化だのという難しい理屈をすっ飛ばして、初見で伝わるパワーが原色にはある。
 幸いにして私が描きたいモチーフは「神仏」だ。
 元々が毒々しいほど原色多用のジャンルである。
 密教美術のマンダラや仏像が極彩色で塗られていることも、おそらく「原色の持つ普遍的なパワー」に理由がある。
 密教は「最底辺の表現を使いながら、最高の真理を伝える」という傾向を持つ。
 精緻な理論を築きながらも、その表現は無知無学な衆生にも届く、それこそ子供や動物にまで届きうる手法をとっていると、私は解釈している。

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 大丈夫、俺はこのままでOKなはず(笑)
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2016年10月23日

極私的妄想色彩理論

 以下に記すのは、私が絵を描く時、特にマンダラ等の密教的な図像に着色する時の「心持ち」とでもいうべきものである。
 私が個人的にマンダラの「色」に感情移入するためのもので、密教図像作成のスタンダードとは全く違うし、一般向けの色彩論ではもちろんない。
 極私的な、色彩の生成に関する妄想の覚書である。

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 はじめに黒と赤がある。
 黒は闇であり、死であり、冷え固まった停止状態である。
 赤は火であり、命であり、どろりと柔軟な血でもある。
 火である赤は燃焼温度を上げて黄となり、さらに純度をあげて光の白となる。
 光と熱にさらされた黒は、やや融解して青となり、グレーとなる。
 青とグレーは鉱物であり、灰である。
 青は光の白と交わって水を生じ、黄と交わって緑を成す。
 このように生成された黒、白、グレー、赤、黄、青、緑は、またそれぞれに交わってあらゆる色や万物を創る。

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 このような色彩妄想を抱くと、マンダラや密教尊を描く時に感情移入しやすいのである。

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2016年10月25日

ちばてつや「おれは鉄兵」

 先日コンビニに立ち寄ったとき、マンガ「おれは鉄兵」の総集編第一集が刊行されているのを見かけた。
 作者であるマンガ家・ちばてつや先生の画業60年記念ということで、「あしたのジョー」と並ぶ代表作「おれは鉄兵」がピックアップされたようだ。
 私も子供の頃から大好きで、今でも何年かに一度は読み返す大切な作品だ。

 70年代に生まれた私ぐらいの世代になると、物心ついた頃からすでにマンガは生活の一部だった。
 だから「本を読んで楽しむ」ということにおいて、小説とかマンガとかの違いは意識しなくなっていると思う。
 もっと言うと、メディアミックスも幼児の頃から始まっていたので、アニメや映画も含め、ことさらに分けて考えることはない。
 表現手法に関わりなく、面白いものは面白く、つまらないものはつまらないという見方が徹底しているのだ。
 この作品「おれは鉄兵」も、ジャンルを超え世代を超えて、子供も大人も誰が読んでも文句なく面白く、「子供時代に必読の読み物」という意味においては、児童文学の傑作の一つに数えても良いのではないかと思う。
 このカテゴリ児童文学で紹介するのはそのような理由からである。

 この作品、これまでにもコンビニ版として刊行されたことがあるはずだが、「主人公の剣道部での活躍」の部分のみをピックアップした編集だったと記憶している。
 一般に「おれは鉄兵」は「剣道モノ」として分類されることが多いだろうし、人気が高いのもその部分だろう。
 総ページ数の大半が割かれているのが「剣道部編」なので、総集編が刊行されるときにそこが中心になるのも、正解の一つではあるだろう。
 しかし、本来この作品には序章と終章にあたる「埋蔵金発掘編」がある。
 そこの部分は総集編で省かれがちなのだが、私はむしろその部分にこそ作品全体のテーマが色濃くあらわれているのではないかと思っている。
 できれば初めて「おれは鉄兵」を読む人、とくに年少の読者には、序章と終章を合わせた本来の形で読んでほしいと思っていた。
 今刊行中のコンビニ版は、ちゃんと最初から収録されているようなので、期待大である。
 このまま「本当のラスト」までノーカットで収録されることを強く望む。

 私の分類では、本作「おれは鉄兵」は「剣道モノ」ではなく「冒険モノ」になる。
 試みに、その分類に従って作品紹介をしてみよう。
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 主人公・上杉鉄兵は野生児である。
 物心つく前から父親に連れられて、山奥での生活を続けてきた。
 父親は広大な家屋敷を構える旧家の跡取り息子だったが、埋蔵金探しの夢に取りつかれ、全てをなげうって、幼い鉄兵だけを連れて出奔したのだ。
 中学生の年代になるまでろくに学校にも通わなかった鉄兵だが、そのかわり驚異的な体力と、「学力」ではないタフな「知力」、どんなピンチでもしぶとく切り抜けるサバイバルの力を身につけ、成長している。
 自然の中で育ったとはいえ、主人公・鉄兵はピュアなタイプではなく、年経た野生動物の狡知を備えた手ごわい少年なのだ。
 埋蔵金発掘現場の落盤事故をきっかけに父子は実家に帰還し、鉄兵も学校に通うことになる。
 良家の子女の通うと思しき私立学園に迷い込んだ、まったく場違いな野生児・鉄兵。
 抱腹絶倒の学園サバイバル生活が始まる。
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 このように、主要なテーマは「剣道」ではなく、「冒険」にあるというのが私の読み方になる。
 ページ数としては最もボリュームのある、鉄兵が剣道部に入部して型破りな活躍を見せる部分は、「文明社会に迷い込んだ野生児の冒険物語」の表現手段として描かれているのではないかと思うのだ。
 野生児として育った鉄兵にしてみれば、「普通の学校生活」というもの全てが異文化との接触であり、冒険になる。
 そこで巻き起こる事件・事故、一つ一つに鉄兵の感じる疑問・違和感は、根本的には全ての子供が社会に対して感じる疑問と一致している。
 生まれたとき、子供はみんな野生児なのだ。
 だからこそ年若い読者は鉄兵に共感できるし、巻き起こした騒動を驚異的なサバイバル能力で切り抜ける姿は、たとえようもなく痛快に感じるのだ。
 
 もう少し、作品紹介を続けてみよう。
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 やがて物語の舞台は鉄兵が最初に通った王臨学園から、東台寺学園に移る。
 いくら剣道で活躍しようと、鉄兵は学業においては紛れもない「オチコボレ」であり、「いいとこの子が通う学校」に居場所はなかった。
 徹底的に不似合いなおぼっちゃん学園から、より懐の深いバンカラ学園に転校し、剣道部での活躍は続く。
 その過程で、王臨学園ではついに得られなかったオチコボレ仲間にも出会う。
 しかし、結局そこでも鉄兵は安住できない。
 仲間たちとともに学校から脱出し、再び埋蔵金探しの生活に戻った鉄兵は、やがて最も困難なサバイバルに直面することになる。
 そして最後には、広い世界をまたにかけた冒険の旅へと出発するのだ。
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 このように文章でまとめてみると、あらためてこの作品は「不適応の物語」なのだなと感慨を新たにする。
 野生児・鉄兵の抱腹絶倒の活躍は、ごく普通の子供にも楽しく読めるだろうけれども、なんとなく学校に居づらさを感じる子供には、より深く響くことだろう。

 うまく適応できるなら、それに越したことはない。
 しかし、たとえはみ出してしまっても、恐れることはない。
 一歩飛び出してみれば、学校なんてしょせんコップの中だ。
 本当の世界はもっと広くて、冒険に満ちているのだ。

 そんなしぶとい生命力を、「おれは鉄兵」は与えてくれるのだ。




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2016年10月28日

「ジョー」と「鉄兵」

 マンガ家が絶好調の時期、絵がかなり変化することがある。
 連載初期と後期でまるで絵が違ってしまい、単行本でまとめ読みするとちょっと面食らうことがあるが、そのような作品こそ、凄まじく面白い代表作になることが多々あるのだ。
 ちばてつやの場合でいうと、やはり「あしたのジョー」(1968-73)と「おれは鉄兵」(1973-80)が挙げられる。

 連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
 ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
 手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
 世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、永井豪「デビルマン」最終巻など、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
 ちば作品の中では珍しく、「あしたのジョー」には梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
 他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
 梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
 
 一世一代の傑作と言うべき「あしたのジョー」完結後、ほとんど間をおかず「おれは鉄兵」の連載が始まる。
 連載開始当初の「鉄兵」の、作品全体に漂うどこか寂しげな雰囲気は、ジョーと共に一度燃え尽きた作者の心象が反映されているのではないだろうか。
 鉄兵や父親、中城、母親、妹などの主要な登場人物には、前作「ジョー」の登場人物の面影がちらちらと垣間見える気がしてならない。
 マンガに限らず、作者が全力投球した作品の次作が、前作の雰囲気を引き継いで始まることはよくある。
 直接の続編でなくても物語の基底部分ではつながっていて、前作のキャラクターのまだ鎮まりきらない魂が、こっそり作者に囁きかけるのだ。

 登場人物の中でも、中城はなんとも不思議な存在だ。
 序章と終章の「埋蔵金発掘」、中間の「剣道部での活躍」をひっくるめ、物語全編を通じて登場しているのは、鉄兵父子を除けば中城のみである。
 初登場の中城はおそらく中三くらいの年齢で、鉄兵より一つ二つ年上だろう。
 生い立ちなどは詳しく描かれていないが、孤児かそれに近い境遇であるらしく、「樅の木学園」という施設で生活している。
 学校ではかなり荒れているようだが、孤独癖があり、不良グループ等には属していない。
 一人で山に入って猟をしたり、骨董に興味を持つなど、物静かで大人びた一面も持っている。
 施設で習った剣道はかなりの腕前で、名が知られているようだ。
 心の飢えを満たすために打ち込める、数少ない表現手段になっていたのかもしれない。
 当初は主人公・鉄兵のライバル役に設定されていたようだが、直接対決した回数は意外に少ない。
 山小屋でのケンカと樅の木学園での練習試合、あとは東台寺学園剣道部での練習試合くらいではないかと思う。
 施設で鉄兵に剣道を手ほどきしたあとは、父子が実家に帰還したこともあって、しばらく登場すらしなかった。
 剣道部エピソードに突入してからの鉄兵は、剣道ルールの中では中城以上の強敵とまみえる機会が増え、やや対戦時期を逸してしまった感があった。
 作中で最もページが割かれている「剣道」というテーマに鉄兵を誘い入れたのは中城だったが、最後は中城自身も剣道を中断し、鉄兵父子が率いる埋蔵金発掘チームに合流する。

 ストーリーの進行とともに、絵柄は変わってくる。
 週刊連載マンガの場合、絵柄が変わるのは作者が執筆にノッている証拠で、「ジョー」の時ほどではないが「鉄兵」での変化の度合いもかなりのものだ。
 その変化はとくに主人公・鉄兵に強くあらわれていて、中盤の東台寺学園へ転校したあたりには、連載開始当初と別人のような顔立ちになる。
 頭身は下がってややギャグマンガ調になり、太くつながった眉毛がトレードマークになっていく。
 初期は「ジョー」の切れ味鋭くリアルな絵柄そのままだったのが、だんだん「まろやかな」と言おうか、親しみやすい絵柄になってきたのだ。
 
 連載開始当初の鉄兵と中城は、孤児たちの物語である「ジョー」の構図をそのまま背負って登場したのではないだろうか。
 前作「ジョー」では、孤児たちは拳で殴り合うことで対話し、お互いの存在を確かめ合っているようなところがあった。
 そうした対話の燃焼温度を高めていくと、最後には「真っ白に燃え尽きる」ほか道はなかったのだろう。
 少年から青年にかけては、そうした純度の高い結晶のような世界に心惹かれるものだ。
 作者にとっても、このような作品が描けるのはせいぜい三十歳すぎくらいまでの青年期に限られる。
 しかし物語から離れた現実世界では、人は年を取り、娑婆で不純物にまみれながらも生きていかなければならない。
 もしかしたらちばてつやは「ジョー」執筆後の余韻の中で、孤児たちがぶつかり合いの果てに死に至らず、しぶとく生きていけるような作品世界を求めたのかもしれない。
 作家的良心として「純度の高い死の物語」を世に送り出したままで済ませない、バランス感覚が働いたのではないだろうか。
 連載開始当初の「鉄兵」で、どこか寂しげな眼差しをしていたキャラクターたちは、物語の進行とともにどんどん快活さを取り戻していった。
 なんだかんだ言いながらも鉄兵や中城は、親やそれに代わる保護者、先輩、友人たちに恵まれたのだ。
 
 物語終盤になって、鉄兵の父親と中城が静かに語り合うシーンがある。
 さりげないけれども、とても印象深いシーンである。
 このあたりで中城が最後まで背負っていた「孤児たちの物語」に、ひとまず決着がついたのではないかと思う。
 読み進めながら「ああ、もうすぐこの作品は終わるんだな」という、静かな幕引きを感じたことを覚えている。

 変遷の果てに「おれは鉄兵」で確立した柔和な絵柄は、包容力のある作風と共に、その後のちばてつや作品の基調になっていると感じる。
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2016年10月30日

人物描写の織り上げるリアリティ

 ちばてつや「おれは鉄兵」について記事を書いているうちに、様々な記憶がよみがえってきた。
 これまでも「大好きな作品」と認識はしていたのだが、同じ作者の「あしたのジョー」や、永井豪「デビルマン」のような、「人生最上級のマンガ体験」の中には数えていなかった。
 どちらも中学生の頃、読みふけった作品である。
 思春期に好んだ作品は、どうしても記憶に残りがちなのでそうなるのだが、もう少しさかのぼって子供の頃読んだ作品の影響というのも、普段あまり意識しなくても確実にあるのだ。
 今回記事を書いてきて、あらためて自分は「おれは鉄兵」に多大な影響を受けてきたのだなと再確認した。
 私が中高生の頃の生活風景が、「鉄兵」に描かれる学園生活、とくに後半の東台寺学園の風景と似ていたことに気づいて、懐かしみながらもちょっと苦笑してしまった。
 思いつくままに書き残しておこう。

 私は小4から剣道を習いはじめた。
 当時ちょうど「おれは鉄兵」を愛読していたと思うのだが、剣道を始めたのはマンガの影響と言うより、もっと小さい頃から「サムライ」や「日本刀」などに憧れていたせいだ。
 私はわりと幼少の頃の記憶がある方で、幼稚園に向かう路線バスの中から武道用品店の看板だか広告だかが見えていて、「よし、小学生になったら剣道をやろう!」と密かに考えていた憶えがある。
 サムライ趣味は、おばあちゃん子で再放送の時代劇をよく見ていたせいかもしれないし、「サスケ」や「カムイ外伝」などの忍者アニメを見ていたせいかもしれない。
 だから、小さい頃は「忍者になりたい」と思っていた。
 どうやら忍者は今いないらしいと分かってからは、「じゃあ刀鍛冶になろう」と思って、せっせと肥後守を磨いたりしていた。
 小4で習いはじめた剣道クラブは、警察官で七段とか五段とかの先生方がずらっと並んで教えてくれる、物凄く豪華で正統派の道場だった。
 とくに小学生には、細かなテクニックより大きく正確な剣道を教える方針だったので、「鉄兵」で描かれるトリッキーなケンカ剣法は入り込む余地がなく、子供心に「マンガとはまた別」と分けて考えていた。
 マンガで描かれる戦法はあまり参考にならなかったが、子供の頃から小柄だった私は、同じく小柄な鉄兵の精神性からはけっこう影響を受けた。
 相手がいくらデカくても気合負けしないこと、相手をよく見てちゃんと考えて戦うことだ。
 私はいわゆる「運動神経」はさっぱりで、球技などはまったくダメなのだが、剣道だけはなぜか性に合っていたらしい。
 小柄ながら、道場では一番強い部類に入ることができたのは、鉄兵のおかげかもしれない。
 私立の中高一貫、中堅受験校に入ってからは、私の主要な興味はだんだん絵を描く方にシフトしていったので、剣道の方はフェードアウトした。
 それでも高二くらいまで剣道部の対外試合には駆り出されて、一応団体戦の「勝ち要員」の内の一人に数えられていた。
 小中学生の頃の練習の「貯金」でなんとかそこまで持たせられた感じだ。
 そして、サボりながらも剣道で作った体力的、精神的な貯金は、もっと後々まで私を支えてくれた。
 習っていて本当に良かったと思う。

 中高生の頃は、剣道の描写と言うよりは、学校生活の風景が「鉄兵」作中の東台寺学園とそっくりだった。

 中高一貫の、ほぼ男子校。
 学内に寮もある、古風なバンカラ気質。
 体罰上等の厳しい指導。
 留年生もたくさんいる成績別クラス編成。
 学校敷地に隣接する裏山。
 入学当初の下級生からは、まるでおっさんみたいに見える上級生の先輩たち。
 浮世離れしたバカ騒ぎ。

 こうして書き出してみると、本当によく似ている。
(残念ながら、わが剣道部は弱小だったので、そこは全く似ていない)
 私の中高生時代と東台寺学園が似ているのは単なる偶然だが、あらためて驚くのは作中の学園生活の描写の密度である。
 旧制高校っぽいバンカラ風景を、これだけ濃密に描いたマンガ作品はあまり例がないのではないだろうか。
 私が大好きな東台寺の脇坂主将や、王臨の吉岡主将の大きさ、大人びた雰囲気は、昔私が先輩たちに感じていた雰囲気そのままだ。
 ちばてつやの、端役に至るまでそれぞれの登場人物の日常生活まで感じさせる筆致が、人物描写にとどまらず、東台寺学園という学び舎まるごとにリアリティを持たせてしまっているのである。
 私も鉄兵と同じく、放課後裏山に入り、軽い登山をしたりスケッチをしたりして、一人「修行」に励んでいたものだ。
 だから「おれは鉄兵」を再読していると、「子供の頃大好きだったマンガ」という以上の懐かしさが感じられて仕方がないのである。

 鉄兵の「精神性」は、今でも私の中に息づいている。

●定められたルールの中でも、あくまで自己流を貫き通せ!
●決してあきらめず、糞まみれになっても戦い抜け!
●手段を選ぶな! 邪道も極めれば正道に匹敵する!

 作中剣道編のクライマックスで、一刀流の極意を使う菊池というキャラクターを相手にした名シーンがある。
 菊池の澄み切った「明鏡止水」の境地に対し、鉄兵は「なめやがって、どたまかち割ってやる!」という邪の一念で応じる。
 体力、技量、気力の戦いの果てに、正邪の区別がなくなるという描写が、なんとも凄まじい。
 邪念も貫き通せば、それはそれで澄み切るのだ。
 ただ、邪道は正道に並ぶことはできても、超えることはできないと描写されているところが、またリアルで良かった。
 描写がここまで来てしまえば、もう剣道というテーマで描くことは残っていない。
 作者は賢明にもこの戦いで「剣道編」を終え、再び「埋蔵金発掘編」へと帰還していくことになる。

 それは、「読み終わったら、それぞれの宝探しに出かけてみないか?」という、作者からの誘いのようにも見えるのである。

(マンガ「おれは鉄兵」紹介、終)
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする