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2016年10月02日

「才」は「差異」

 他の誰向けでもない、私だけの絵の描き方、考え方。
 決して一般化できない、妄想絵画論
 続けてみよう。


 絵描きの中には、白いキャンバスを目の前にすると自然にビジョンが見えてきて、自分はそれを写すだけというタイプもいるという。
 たとえばマンガ家の永井豪はこのタイプで、幻視した映像を元に描いている作品が多数あるそうだ。
 幻視の頻度にもよるだろうけれども、このレベルの「才」になると、日常生活に差し障りが出ることもあるだろう。
 幻視に呑みこまれ、生きることが難しくなった絵描きのエピソードは数多い。
「才」の大きさは、「差異」の大きさと同じことなのだ。
 絵描きは多かれ少なかれ幻視の才を持つが、私のレベルでは日常生活の中で「何かが視える」ということはほとんどない。
 生活にとくに変わったことはないけれども、ごく稀にチラッと「何か」が垣間見えるということはある。

 日常生活は地味なものなのだが、の中ではかなり「視る」方ではないかと思う。
 普段は抑えられている幻視が、夢の方で解放されているのかもしれない。
 怪しいイメージの訪れが夢に限定されているおかげで、日常生活はまずまず問題なく送れている。
 集中して作品制作している時期には、夢の中で続きを描いてヒントを得るということもあり、そんな時期には、ぼんやりと反応が鈍いことが多い自覚というはある。
 それでも仕事で支障が出るほどのことはない。

 結局、自分の人生においては、この程度の「差異」がほど良かったのだなと、今は納得している。
 普通の生活をそれなりに味わえているし、時間は限られるけれども、絵描きも続けていられるのはありがたいことだ。
 大きすぎない、このくらいの才だからこそ、できる表現も確かにあるのだ。
posted by 九郎 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする