作品制作だけで食っていける身分ではないので、絵画や工作の指導の仕事を受ける。
絵描きは概して人と接するのが苦手で、習うというよりは自分で感覚的に習得した技術がベースになっているものなので、人に教えるのは得手ではない場合が多い。
それでも多くの画家や彫刻家は、食いつなぎ、制作し続けるために教える方の仕事もこなしている。
図工や美術の先生に、けっこう「ほったらかし」の授業をする人がいるのは、そういう理由による。
私はと言えば、意外と教えるのは嫌いではない。
人と接するのはもちろん得意ではないが、誰でもそこそこ楽しめる教材を考案し、筋道立てた構成の授業を成立させるのにはやりがいを感じる。
あくまで「絵描きの中では」という限定はつくが、わりと論理性はある方だと思っている。
ただ、教える方をやり始めた当初は、苦しんだこともあった。
もともと内向的な人間が、仕事で受けたからには「いい先生」になってやろうと気負って、うまくいかなかったことも多々あった。
ある時期から、ふと気づいた。
「あ、そうか。ほんまに『いい先生』にならんでも、『いい先生役』でええんや!」
本当にいい先生になろうとすると、度量とか器とか、けっこう人格が関わってくる。
絵描きは自己本位なものだし、本音を言えば作品以外に何の関心もない。
表現というものは自分の病んだ部分を安易に癒さず、後生大事に抱え込んで突き回して形にしていくようなところがある。
人格的な完成とは程遠いし、あまり悟ってしまうと絵は描けない。
絵描きは病んでいて、偏っていて、人の話など聞かない。
対して「先生」は、精神的に安定しているのが望ましいし、許容範囲は広い方がいいし、様々な意見に耳を傾ける必要がある。
絵描きと先生は、けっこう両立しがたいものなのだ。
しかし美術教室という空間限定なら、なんとかなる。
自分はそれなりの技術を持っていて、人に説明できる論理性も持っている。
良き講師という役割をこなすことは十分できると気づいたのだ。
これは学生時代に演劇をやっていたからこその感じ方かもしれない。
劇団で見てきた役者さんたちの中には、普段は物静かであまり人とは交流しないという人がけっこういた。
役者は意外と内向的なタイプが多いのだ。
人前に立つのが大好きという人ももちろんいるが、出番を待つ舞台ソデで震えているような人もたくさんいた。
そういう役者さんが一旦舞台に立つと、全く別人格を見事に演じてのける。
それが役作りだ。
自分も教室限定で「いい先生」という役作りをすればいい。
そう気づいてから、肩の力が抜けて、色々うまく回るようになった。
「先生という役作り」が、結果として私の中の絵描きの部分を守ることにもなったのだ。