学生時代は教育系の美術科だったので、絵画もデザインも立体も工芸も、一通り実習することができた。
浅く広くではあるけれども、様々な手法や表現に接することができたのはありがたかった。
講師の先生方はいずれも個性的な実力派で、少人数の面授で制作過程を教わったのは、得難い見取り稽古の機会になったと思う。
どのジャンルも楽しかったのだが、デザインの色彩構成だけは手こずった。
微妙な色の組み合わせということになかなか感情移入できず、出来上がるのは赤黄青などを混色せずにそのまま塗りたくったような作品ばかり。
先生からは色々指導していただいた。
要するに「キミの色使いは子供のオモチャみたいだ」と注意されていたのだが、実際はもっと優しく言葉を選びながら指導していただきながらも、結局そうした傾向は改まらなかった。
そもそも私は思春期くらいまでの成育歴の中で、まさに「子供のオモチャ」であるプラモやマンガ等の色使いにしか興味を持ってこなかったのだから、それ以上のものが出力できるわけがないのである。
デザインでも「形」に関するものや、プレゼンテーションパネルの制作などは得意としていたのでなんとか面目を保てたけれども、「色彩」だけだったらちょっと困った成績になったかもしれない。
つまるところ「入力」の問題なのだ。
美術に関する能力には、遺伝的な「生まれつき」はほとんど関係がない。
幼少時代にどんな遊びを楽しんできたかが感性の基本になり、思春期あたりにどれだけ意識的に情報に接し、自分でも手を動かしてきたかが表現の基礎になる。
大人になってから学んだことも、努力によって「そこそこ」までは行く。
頭で理解してそれなりに使えるところまでは届くが、そこまでだ。
補助にはなっても、深く感情移入できる表現の中心軸にはならない。
そして、作品制作は別にオールマイティーでなくても良い。
色々出来るに越したことはないが、結局は幼少時代から培った心身の機能の中で勝負するしかないのだ。
私はタイプ的に単機能を追及するのではなく、いくつかの使える機能を組み合わせて加算する方なのだが、その「使える機能」の中に色彩は入っていないので、勘違いしてはいけない。
しょせん私は子供のオモチャの色使いしかできないし、やる気がない。
色を塗れば、自然に戦隊ヒーロー番組の合体ロボみたいな、原色がゴツゴツぶつかり合ったような画面になってしまう。
ここで必要なのは「微妙な色使いの学習」ではなく、「開き直り」だ。
子供のオモチャの色使いは、見方を変えると「子供でも分かる普遍性」ということにもつながる。
知識だの教養だの文化だのという難しい理屈をすっ飛ばして、初見で伝わるパワーが原色にはある。
幸いにして私が描きたいモチーフは「神仏」だ。
元々が毒々しいほど原色多用のジャンルである。
密教美術のマンダラや仏像が極彩色で塗られていることも、おそらく「原色の持つ普遍的なパワー」に理由がある。
密教は「最底辺の表現を使いながら、最高の真理を伝える」という傾向を持つ。
精緻な理論を築きながらも、その表現は無知無学な衆生にも届く、それこそ子供や動物にまで届きうる手法をとっていると、私は解釈している。
大丈夫、俺はこのままでOKなはず(笑)