11月に入って急に寒くなった。
夜間の冷えに起因するぎっくり腰に要注意である。
昨年のこの時期には胃腸炎もやってしまい、今から思えばその時に鼠径ヘルニアがかなり悪化していたはずで、それが半年後に爆発した。
緊急手術で一応ヘルニアの方は治療済みだが、季節の変わり目の腰と胃腸には相変わらず注意である。
最近ちょっと睡眠不足気味なので、ちゃんと寝ないといけない。
サボりながらも緩めの糖質制限は継続中。
夏の終わりから秋にかけては体重が落ちにくい。
冬に向けて体脂肪を蓄積する、哺乳類としての身体の造りなのだろう。
そこそこ糖質制限していれば、春先までにはけっこう落ちることは経験的に分かっているので、なし崩しにならないよう、ほどほどに気を付ける。
心が折れないように、たまには好きな炭水化物や甘いものも解禁し、糖質オフの焼酎は少々嗜んでいく。
何事もほどほどに、悪いと分かっているものも少しは楽しみながら。
そう言えば昨日、コンビニで変わったカップヌードルを見かけた。
カップヌードル45周年ということで、いくつか企画商品が並んでいた中の一つ。
「謎肉」というのは2ちゃんねるなんかでよく使われていたスラングで、カップヌードルに具として入っている、あの「肉っぽい何か」のことだ。
あれが通常の十倍盛りになっているらしい。
日清が公式にこういうスラングを使って商品化するところに時代を感じる(笑)
昼飯に食ってみようと、ふたを開けると……
すでに微妙な感じ。
なんかどこかで見たような。。。
ウサギのふ(以下略)
悪い予感を振り払いながら、お湯を注いで三分後。
……言うまい言うまいと思っていた言葉が、ついに口から洩れる。
なにこれ!
キモい!
マズそう!
減退する食欲を奮い立たせながら、麺が見えないくらいてんこ盛りに膨れ上がった「謎肉」を噛みしめる。
肉味のクルトンをじゃりじゃり噛むような食感。
やっぱりマズいっす!
私は決して「謎肉」は嫌いではなかったのだが、あれはやっぱり玉子やエビと一緒に数個入っているから食べられるのであって、それ単独で「10倍」はキツいっす!
それでも食べ物を残すのも捨てるのも大嫌いなので、なんとか完食。
うっぷ。
もうしばらくはカップヌードルは見たくもないっす……
こんな感じで、たまにアホもやりながら、ボチボチ節制。
2016年11月01日
2016年11月02日
映画「GANTZ:O」
しばらく前に、映画「GANTZ:O」を観てきた。
原作のマンガ「GANTZ」については、完結時に一度記事にしている。
この作品は以前にも一度実写映画化されているが、そのときは特に興味は湧かなかった。
日本における人気漫画の実写化はスルーが基本であるというのは、これまで生きて来て得た知恵の一つである。
実写版「GANTZ」はまあそれほど酷くはなかったそうだが、原作マンガが好きすぎる場合は避けておくのが無難だ。
今回は実写ではなくフル3DCGによる映画化。
私は実は、この3DCGというものがあまり好みの手法ではないのだが、原作者の奥浩哉が今回の映画の出来をかなり喜んでいるようなので、興味を持った。
原作マンガがそもそも3DCGを多用した作画なので、実写より相性が良さそうに思えたことも足を運んだ理由の一つだ。
公開からあまり日をおかず観に行った結果、確かにかなり良かった。
原作でも人気の高い大阪編を、2時間の尺に収めるためにかなり刈り込み、設定に少々変更を加えていたが、納得できる範囲の上手い改変だったと思う。
主人公が原作の玄野計ではなく加藤になっているのは、大阪編なのだから妥当。
東京チームも大阪チームともに人数を絞り込み、要素を割り振りながらも、原作大阪編の見せ場は全て網羅されているのは見事だった。
大阪チーム最強の岡八郎の駆るハードスーツと、敵ボスキャラぬらりひょんの対戦は、まさに「圧巻」と言えるほどに再現されていた。
PG12になっているのは主に戦闘シーンの描写が理由のようで、エロ要素はほぼ無しだったので、わりと広い範囲の客が観に行きやすい作りになっていたと思う。
私は世代のせいか3DCGの登場人物にはなかなか感情移入できない性なのだが、今回は十分入り込めた。
技術は確実に進歩しているんですね(笑)
フルカラーで動きもあって、しかも原作マンガに忠実、「絵」的な面ではかなり頑張っていたのだが、まだ「重力の重み」のリアリティは、原作マンガの手描きの方が勝っていると感じた。
具体的に言うと、Zガンの威力や、ぶん殴った時の「痛み」の伝わり具合だ。
CGは空間描写には向いているが、まだ「軽い」感じがする。
最初から観ていて少し気になったのが、玄野と加藤の友人関係の不在だった。
二人の関係は「GANTZ」という作品世界の根幹をなすので、二時間尺に収めるためとはいえ、そこに触れないのはちょっと寂しいなと思いながら観ていると、最後の最後できちんと回収されていて一安心した。
やっぱり「GANTZ」は玄野と加藤の物語でなければならない。
日常と、宇宙人との戦いの非日常の対比も少し弱かったが、これも二時間という尺の制限があるかぎりは仕方がない部分だ。
総じて、原作のことをよく理解した手練れのスタッフが作り上げた映画だと思った。
もう一度、原作マンガが読み返したくなる映像化で、これなら奥浩哉が喜んだというのもうなずける。
原作マンガのファンは、一応おさえておいてもいい作品だと思う。
原作のマンガ「GANTZ」については、完結時に一度記事にしている。
この作品は以前にも一度実写映画化されているが、そのときは特に興味は湧かなかった。
日本における人気漫画の実写化はスルーが基本であるというのは、これまで生きて来て得た知恵の一つである。
実写版「GANTZ」はまあそれほど酷くはなかったそうだが、原作マンガが好きすぎる場合は避けておくのが無難だ。
今回は実写ではなくフル3DCGによる映画化。
私は実は、この3DCGというものがあまり好みの手法ではないのだが、原作者の奥浩哉が今回の映画の出来をかなり喜んでいるようなので、興味を持った。
原作マンガがそもそも3DCGを多用した作画なので、実写より相性が良さそうに思えたことも足を運んだ理由の一つだ。
公開からあまり日をおかず観に行った結果、確かにかなり良かった。
原作でも人気の高い大阪編を、2時間の尺に収めるためにかなり刈り込み、設定に少々変更を加えていたが、納得できる範囲の上手い改変だったと思う。
主人公が原作の玄野計ではなく加藤になっているのは、大阪編なのだから妥当。
東京チームも大阪チームともに人数を絞り込み、要素を割り振りながらも、原作大阪編の見せ場は全て網羅されているのは見事だった。
大阪チーム最強の岡八郎の駆るハードスーツと、敵ボスキャラぬらりひょんの対戦は、まさに「圧巻」と言えるほどに再現されていた。
PG12になっているのは主に戦闘シーンの描写が理由のようで、エロ要素はほぼ無しだったので、わりと広い範囲の客が観に行きやすい作りになっていたと思う。
私は世代のせいか3DCGの登場人物にはなかなか感情移入できない性なのだが、今回は十分入り込めた。
技術は確実に進歩しているんですね(笑)
フルカラーで動きもあって、しかも原作マンガに忠実、「絵」的な面ではかなり頑張っていたのだが、まだ「重力の重み」のリアリティは、原作マンガの手描きの方が勝っていると感じた。
具体的に言うと、Zガンの威力や、ぶん殴った時の「痛み」の伝わり具合だ。
CGは空間描写には向いているが、まだ「軽い」感じがする。
最初から観ていて少し気になったのが、玄野と加藤の友人関係の不在だった。
二人の関係は「GANTZ」という作品世界の根幹をなすので、二時間尺に収めるためとはいえ、そこに触れないのはちょっと寂しいなと思いながら観ていると、最後の最後できちんと回収されていて一安心した。
やっぱり「GANTZ」は玄野と加藤の物語でなければならない。
日常と、宇宙人との戦いの非日常の対比も少し弱かったが、これも二時間という尺の制限があるかぎりは仕方がない部分だ。
総じて、原作のことをよく理解した手練れのスタッフが作り上げた映画だと思った。
もう一度、原作マンガが読み返したくなる映像化で、これなら奥浩哉が喜んだというのもうなずける。
原作マンガのファンは、一応おさえておいてもいい作品だと思う。
2016年11月10日
海の向こうの話より
暴言王が大統領か。
まあでもけっこうある話で、日本でも同じような人間が首相になったり知事になったりしてきた。
TPPはチャラになるかもしれんので、そこは期待。
海の向こうの狂騒のどさくさに、こそっとニュースが流れている。
九州電力の玄海原発3、4号機について、原子力規制委は新規制基準に適合との判断。
再稼働は来年度以降になる見通しとのこと。
また一つ、危険な立地の原発が再稼働に向けて動き出す。
報道が何かで一色になっている時は、小さな扱いのニュースに注目である。
まあでもけっこうある話で、日本でも同じような人間が首相になったり知事になったりしてきた。
TPPはチャラになるかもしれんので、そこは期待。
海の向こうの狂騒のどさくさに、こそっとニュースが流れている。
九州電力の玄海原発3、4号機について、原子力規制委は新規制基準に適合との判断。
再稼働は来年度以降になる見通しとのこと。
また一つ、危険な立地の原発が再稼働に向けて動き出す。
報道が何かで一色になっている時は、小さな扱いのニュースに注目である。
2016年11月19日
広げた風呂敷の畳み方2 再び漫画「GANTZ」のこと
一か月ほど前に映画「GANTZ:O」を観て以来、折に触れ、なんとなく原作マンガの「GANTZ」のことを考え続けていた。
この原作マンガのことは連載完結時に一度記事にしたことがあったのだが、まだ語り残しがあるなと感じつつも長らく放置してしまっていた。
今回の映画鑑賞をきっかけに、もう少し続けられそうなので、心覚えに書き残しておきたい。
私が男性表現者の作品を鑑賞するときの見方の一つとして「心の中の恋人、心の中の友だち」というタイプ分けのことを記事にしたことがある。
そのタイプ分けで見ると、私にとってのマンガ「GANTZ」は、完全に「心の中の友だち」の物語である。
単行本で全37巻の長大な作品なので、「友だち」以外の「恋人」やその他の要素もかなりの比重を持って描かれているが、物語の根幹の構造は間違いなく「友だち」であると考える。
物語は冒頭から、主人公の男子高校生・玄野計(くろのけい)と、旧友である加藤勝(かとうまさる)との、偶然にして久々の再会からスタートしている。
この時点での玄野は、とくにこれといった特徴のない高校生として登場する。
顔立ちは悪くないけれども、チビでイケてない。
自覚している通り「世の中ナメてる」自己中な性格だが、まあ男子高校生というのは大体こんなものなので、つまりはごく普通の十代の少年だ。
通学途中の駅構内で、小学生の頃一番仲が良かったが、その後交流がなかった加藤と偶然再会する。
久々に顔を合わせた加藤は、やせ形ながらかなり身長が伸び、ちょっとこわもての風貌になっていた。
小学生の頃の友人と久しぶりに会ったらグレていて気まずかったという経験は、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
主人公・玄野もまた、多少の戸惑いとともに、懐かしい記憶をよみがえらせる。
ところがこの加藤、外見とは裏腹に、実は非常に真面目で硬派な少年として成長していたのだ。
事故で早くに両親を亡くし、バイトをしながら年の離れた小学生の弟の面倒を見て、困った人を見かければ助けずにはいられないという、昨今の少年としては珍しいタイプとして描かれている。
不良っぽい外見になったのは、そんな筋を通す生き方の中で必要に迫られてのことで、実はあまり争い事は好きではなかったりする。
そして、逆境にも負けず真っ直ぐに成長した加藤をここまで支えてきたのが、小学生の頃の親友「計ちゃん」、すなわち玄野との思い出だったのだ。
どんなピンチに陥っても、無茶な糞度胸と機転で切り抜け、決して負けない親友。
加藤の記憶にはそんな「憧れの男、計ちゃん」の雄姿が刻み込まれていて、いつか自分もあんな風になりたいという思いを胸に、自分を磨き続けてきたのだ。
おそらく、加藤の記憶の中の「計ちゃん」は、かなり美化されていたのではないかと思う。
子供時代の記憶というものは、何割増しにも感じられるものだ。
まだ育ち切らない体は相対的に外界を巨大に感じさせるし、体力に比して軽い体重のバランスは、大人よりはるかにアクロバットな動きを可能にする。
ごく普通の子供の遊びの世界も、理想化してふり返ってみれば、輝かしい冒険の日々になり得るのだ。
その後の成育歴の中で環境に恵まれなかった加藤にとって、「計ちゃん」と過ごしたごく短い日々は、最大限までイメージアップされ、宝石のように大切な記憶になったのだろう。
過酷な境遇にもめげず成長した加藤に対し、かつての「憧れの男」であったはずの玄野は、日常に埋没してすっかり腐ってしまっていた。
そんなタイミングでの二人の偶然の再会だったのである。
そして二人は、生死を賭けた異常な戦いの世界に巻き込まれることになる。
その非日常の世界で、玄野は徐々に子供時代のサバイバルの力を取り戻していく。
玄野は、自分に憧れてそうなったという加藤の真っ当な姿にショックを受け、むしろそんな加藤の背中を追うことで、本来の個性を回復していく。
二人は戦いの中で生死を潜り抜け、疑似的な輪廻転生を繰り返すことで成長していくことになる。
どちらかというと「日常」の中で強く生きるタイプの加藤と、「非日常」にあってこそ力を発揮できる玄野の交流が、お互いを大きく成長させるのだ。
執筆十数年、全37巻の長大な物語なので、他にも様々な要素が盛り込まれているが、私なりに「GANTZ」という物語を要約するなら、以上のようになる。
だから、途中経過のハードな描写に比べると、ややあっさりとした印象があり、「期待外れ」という感想も多かったあのラストの展開も、私にとっては非常に納得のいくものだった。
玄野と加藤という二人を軸に「心の中の友だち」の物語と読むならば、いい年こいたおっさんが週刊連載マンガのラストで涙のにじむのを抑えがたいという不覚をとることになるのである。
世界の命運を託されて最後の決戦にただ一人臨む玄野。
連載開始当初の「世の中なめてる」姿とは全く違う、完全無欠のヒーローの姿である。
そして、最後の最後に救援に間に合う加藤。
絶対に負けない、必ず生き残る「おれの憧れの男、計ちゃん」は、やっぱり凄かった。
加藤の驚きと歓喜の視点の中、最後の戦いは決着する。
しかしそのヒーローである玄野の姿は、本来は加藤の記憶の中だけに存在する「夢」だったかもしれないのだ。
実際の玄野はむしろ、しばらく会わないうちに「男の中の男」に成長していた加藤に逆に憧れることでヒーローとして成長したのだが、加藤自身はそのことに全く気付いていないのがまた良い。
そんな二人が最終決戦後、生還し、波間に漂うラストシーンは素晴らしい。
友だちとの再会で始まった物語は、やはりどうしても二人の帰還で終わらなければならない。
限りなく拡散しきった物語を力技でここまで収束させて見せたマンガ家の力は凄まじく、「広げた風呂敷の畳み方」としては見事であったと、改めて感じるのである。
この原作マンガのことは連載完結時に一度記事にしたことがあったのだが、まだ語り残しがあるなと感じつつも長らく放置してしまっていた。
今回の映画鑑賞をきっかけに、もう少し続けられそうなので、心覚えに書き残しておきたい。
私が男性表現者の作品を鑑賞するときの見方の一つとして「心の中の恋人、心の中の友だち」というタイプ分けのことを記事にしたことがある。
そのタイプ分けで見ると、私にとってのマンガ「GANTZ」は、完全に「心の中の友だち」の物語である。
単行本で全37巻の長大な作品なので、「友だち」以外の「恋人」やその他の要素もかなりの比重を持って描かれているが、物語の根幹の構造は間違いなく「友だち」であると考える。
物語は冒頭から、主人公の男子高校生・玄野計(くろのけい)と、旧友である加藤勝(かとうまさる)との、偶然にして久々の再会からスタートしている。
この時点での玄野は、とくにこれといった特徴のない高校生として登場する。
顔立ちは悪くないけれども、チビでイケてない。
自覚している通り「世の中ナメてる」自己中な性格だが、まあ男子高校生というのは大体こんなものなので、つまりはごく普通の十代の少年だ。
通学途中の駅構内で、小学生の頃一番仲が良かったが、その後交流がなかった加藤と偶然再会する。
久々に顔を合わせた加藤は、やせ形ながらかなり身長が伸び、ちょっとこわもての風貌になっていた。
小学生の頃の友人と久しぶりに会ったらグレていて気まずかったという経験は、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
主人公・玄野もまた、多少の戸惑いとともに、懐かしい記憶をよみがえらせる。
ところがこの加藤、外見とは裏腹に、実は非常に真面目で硬派な少年として成長していたのだ。
事故で早くに両親を亡くし、バイトをしながら年の離れた小学生の弟の面倒を見て、困った人を見かければ助けずにはいられないという、昨今の少年としては珍しいタイプとして描かれている。
不良っぽい外見になったのは、そんな筋を通す生き方の中で必要に迫られてのことで、実はあまり争い事は好きではなかったりする。
そして、逆境にも負けず真っ直ぐに成長した加藤をここまで支えてきたのが、小学生の頃の親友「計ちゃん」、すなわち玄野との思い出だったのだ。
どんなピンチに陥っても、無茶な糞度胸と機転で切り抜け、決して負けない親友。
加藤の記憶にはそんな「憧れの男、計ちゃん」の雄姿が刻み込まれていて、いつか自分もあんな風になりたいという思いを胸に、自分を磨き続けてきたのだ。
おそらく、加藤の記憶の中の「計ちゃん」は、かなり美化されていたのではないかと思う。
子供時代の記憶というものは、何割増しにも感じられるものだ。
まだ育ち切らない体は相対的に外界を巨大に感じさせるし、体力に比して軽い体重のバランスは、大人よりはるかにアクロバットな動きを可能にする。
ごく普通の子供の遊びの世界も、理想化してふり返ってみれば、輝かしい冒険の日々になり得るのだ。
その後の成育歴の中で環境に恵まれなかった加藤にとって、「計ちゃん」と過ごしたごく短い日々は、最大限までイメージアップされ、宝石のように大切な記憶になったのだろう。
過酷な境遇にもめげず成長した加藤に対し、かつての「憧れの男」であったはずの玄野は、日常に埋没してすっかり腐ってしまっていた。
そんなタイミングでの二人の偶然の再会だったのである。
そして二人は、生死を賭けた異常な戦いの世界に巻き込まれることになる。
その非日常の世界で、玄野は徐々に子供時代のサバイバルの力を取り戻していく。
玄野は、自分に憧れてそうなったという加藤の真っ当な姿にショックを受け、むしろそんな加藤の背中を追うことで、本来の個性を回復していく。
二人は戦いの中で生死を潜り抜け、疑似的な輪廻転生を繰り返すことで成長していくことになる。
どちらかというと「日常」の中で強く生きるタイプの加藤と、「非日常」にあってこそ力を発揮できる玄野の交流が、お互いを大きく成長させるのだ。
執筆十数年、全37巻の長大な物語なので、他にも様々な要素が盛り込まれているが、私なりに「GANTZ」という物語を要約するなら、以上のようになる。
だから、途中経過のハードな描写に比べると、ややあっさりとした印象があり、「期待外れ」という感想も多かったあのラストの展開も、私にとっては非常に納得のいくものだった。
玄野と加藤という二人を軸に「心の中の友だち」の物語と読むならば、いい年こいたおっさんが週刊連載マンガのラストで涙のにじむのを抑えがたいという不覚をとることになるのである。
世界の命運を託されて最後の決戦にただ一人臨む玄野。
連載開始当初の「世の中なめてる」姿とは全く違う、完全無欠のヒーローの姿である。
そして、最後の最後に救援に間に合う加藤。
絶対に負けない、必ず生き残る「おれの憧れの男、計ちゃん」は、やっぱり凄かった。
加藤の驚きと歓喜の視点の中、最後の戦いは決着する。
しかしそのヒーローである玄野の姿は、本来は加藤の記憶の中だけに存在する「夢」だったかもしれないのだ。
実際の玄野はむしろ、しばらく会わないうちに「男の中の男」に成長していた加藤に逆に憧れることでヒーローとして成長したのだが、加藤自身はそのことに全く気付いていないのがまた良い。
そんな二人が最終決戦後、生還し、波間に漂うラストシーンは素晴らしい。
友だちとの再会で始まった物語は、やはりどうしても二人の帰還で終わらなければならない。
限りなく拡散しきった物語を力技でここまで収束させて見せたマンガ家の力は凄まじく、「広げた風呂敷の畳み方」としては見事であったと、改めて感じるのである。
2016年11月20日
加筆再構成:デッサンと見取稽古1
そろそろ晩秋。
高校生の頃、私が受験の実技対策を本格的に開始したのも高二の、確か11月頃のことだったと思う。
季節は巡り、今年もそんな昔のことを思い出す時期になった。
高二から高三にかけて、大学受験の実技対策で近場の絵画教室に通って、鉛筆や木炭、水彩のデッサンを練習していた頃のことは、今でもかなり鮮明に覚えている。
このブログの読者に、受験を控えた中高生がいるのかどうか定かではないけれども、私の写実デッサンの修行過程をこのカテゴリ妄想絵画論でも覚書にしておく。
以前投稿した「デッサンと見取稽古」という一連の記事を、加筆再構成したものである。
一口に美術系受験と言っても、その在り方は様々だ。
難関芸大・美大の他にも、教育系の美術科などもあるし、各種専門学校もある。
建築や工業デザインなら理系的な扱いになってくる。
志望が絵画かデザインか、立体表現か工芸分野かでも対策はそれぞれ違う。
難関芸大・美大なら中学生くらいから対策を開始している生徒も数多い。
各自の学年、経済状態、その時点での実力により、選択すべき道は無限に分岐し、どれが正解ということはない。
根本的なことを言えば、「表現」の世界には経歴は必ずしも必要ではない。
ただ、人は生きていかなければならず、芸術を志す者もその例外ではない。
若い内に「表現」が評価され、それが換金されれば問題ないが、世間的な評価には「運や巡り合わせ次第」という側面が非常に強い。
ある程度評価されたところで、それが直ちに十分なゼニに結び付くかどうかというハードルが、またとてつもなく高い。
数少ない「ジャパニーズドリーム」への入り口であった雑誌掲載漫画の分野も、出口の見えない出版不況で、いまや若者が夢を託せる場ではなくなった。
日本で「画家」や「彫刻家」と呼ばれている先生方も、経済基盤は「作品」ではなく「指導」である場合が非常に多い。
己の表現の追求、そして世間的な評価というチャンスを粘り強くうかがうためにも、様々な形で食っていく方法は探らなければならない。
極端な話、日々の糧は堅い正業で得て、「表現」のための時間と自由を守り抜くという道も、当然ありなのだ
美術系志望という選択は、そういうことも含めて全部自分で考えて生きていくスタートラインに立つということだ。
そして「表現」そのものではなく、「食っていく」という側面に限定すれば、経歴はそれなりに力を発揮するし、とりわけ写実デッサンの技術は身に付けておくと換金されやすい「芸」となる。
音楽志望者の中ではピアノの弾ける人が「食っていきやすい」のと似ている。
どちらも「教えること」に対する需要が、いつの時代も一定数見込めるからだ。
私の場合は、教育学部の中等美術科を志望した。
当時通っていたのが進学に特化した私立中高一貫校だったので、高二の時点で校内では折り紙つきの劣等生であった私にも、国公立大入学の可能性は残されていた。
暗記が苦手で、範囲の決まった定期テストでは壊滅的な成績でも、実力テストでは力を発揮できるタイプだったのだ。
中高の五年間、それなりに苦労して留年・退学しないよう死守してきたその手札を、なんとか美術系の志望とリンクさせられないものかと、無い知恵を絞った結果である。
学科の成績が役に立ち、実技の配点もそれなりに高い。
入学後は平面、立体、デザイン、工芸など、広く浅くではあるけれども一通り指導を受けることができ、うまくいけば大卒の肩書を得て、教員免許も取ることができる。
高二の冬の時点の自分の「手札」と、その後一年間の「伸びしろ」を勘案し、活路はそこにしかないと判断したのだ。
「夢」と「手札」の冷静な計算が、「表現に生きる」ために必要だ。
たとえばゴッホのように「表現に死ぬ」なら計算は必要ないけれども、それは結果としてどうしようもなく押しやられる運命のようなものであって、他人に勧めたり勧められたりする道ではないのだ。
高校生の頃、私が受験の実技対策を本格的に開始したのも高二の、確か11月頃のことだったと思う。
季節は巡り、今年もそんな昔のことを思い出す時期になった。
高二から高三にかけて、大学受験の実技対策で近場の絵画教室に通って、鉛筆や木炭、水彩のデッサンを練習していた頃のことは、今でもかなり鮮明に覚えている。
このブログの読者に、受験を控えた中高生がいるのかどうか定かではないけれども、私の写実デッサンの修行過程をこのカテゴリ妄想絵画論でも覚書にしておく。
以前投稿した「デッサンと見取稽古」という一連の記事を、加筆再構成したものである。
一口に美術系受験と言っても、その在り方は様々だ。
難関芸大・美大の他にも、教育系の美術科などもあるし、各種専門学校もある。
建築や工業デザインなら理系的な扱いになってくる。
志望が絵画かデザインか、立体表現か工芸分野かでも対策はそれぞれ違う。
難関芸大・美大なら中学生くらいから対策を開始している生徒も数多い。
各自の学年、経済状態、その時点での実力により、選択すべき道は無限に分岐し、どれが正解ということはない。
根本的なことを言えば、「表現」の世界には経歴は必ずしも必要ではない。
ただ、人は生きていかなければならず、芸術を志す者もその例外ではない。
若い内に「表現」が評価され、それが換金されれば問題ないが、世間的な評価には「運や巡り合わせ次第」という側面が非常に強い。
ある程度評価されたところで、それが直ちに十分なゼニに結び付くかどうかというハードルが、またとてつもなく高い。
数少ない「ジャパニーズドリーム」への入り口であった雑誌掲載漫画の分野も、出口の見えない出版不況で、いまや若者が夢を託せる場ではなくなった。
日本で「画家」や「彫刻家」と呼ばれている先生方も、経済基盤は「作品」ではなく「指導」である場合が非常に多い。
己の表現の追求、そして世間的な評価というチャンスを粘り強くうかがうためにも、様々な形で食っていく方法は探らなければならない。
極端な話、日々の糧は堅い正業で得て、「表現」のための時間と自由を守り抜くという道も、当然ありなのだ
美術系志望という選択は、そういうことも含めて全部自分で考えて生きていくスタートラインに立つということだ。
そして「表現」そのものではなく、「食っていく」という側面に限定すれば、経歴はそれなりに力を発揮するし、とりわけ写実デッサンの技術は身に付けておくと換金されやすい「芸」となる。
音楽志望者の中ではピアノの弾ける人が「食っていきやすい」のと似ている。
どちらも「教えること」に対する需要が、いつの時代も一定数見込めるからだ。
私の場合は、教育学部の中等美術科を志望した。
当時通っていたのが進学に特化した私立中高一貫校だったので、高二の時点で校内では折り紙つきの劣等生であった私にも、国公立大入学の可能性は残されていた。
暗記が苦手で、範囲の決まった定期テストでは壊滅的な成績でも、実力テストでは力を発揮できるタイプだったのだ。
中高の五年間、それなりに苦労して留年・退学しないよう死守してきたその手札を、なんとか美術系の志望とリンクさせられないものかと、無い知恵を絞った結果である。
学科の成績が役に立ち、実技の配点もそれなりに高い。
入学後は平面、立体、デザイン、工芸など、広く浅くではあるけれども一通り指導を受けることができ、うまくいけば大卒の肩書を得て、教員免許も取ることができる。
高二の冬の時点の自分の「手札」と、その後一年間の「伸びしろ」を勘案し、活路はそこにしかないと判断したのだ。
「夢」と「手札」の冷静な計算が、「表現に生きる」ために必要だ。
たとえばゴッホのように「表現に死ぬ」なら計算は必要ないけれども、それは結果としてどうしようもなく押しやられる運命のようなものであって、他人に勧めたり勧められたりする道ではないのだ。
(つづく)
2016年11月21日
加筆再構成:デッサンと見取稽古2
絵描きの多くは学生時代に鉛筆や木炭による写実デッサンの修練を積む。
一定レベルの写実を身に付けた後は独自の表現の探求に進むのが常道なので、「写実デッサン」という一点だけに絞れば二十代あたりがピークである絵描きが多いだろう。
デッサンの練習は、「手」の技術研鑽を通して、立体や空間、色彩などを、正しくありのまま把握するための「眼」と「頭」を鍛えるためのものだ。
絵を描くという行為は、端から見ると実際に絵筆をとっている「手」に注目が集まりがちだが、実は「手」という要素は全体のせいぜい三分の一に過ぎない。
根本的には、ものを観る「眼」が重要だ。
PC関連機器で喩えれば、「眼」はスキャナーやデジカメ等の入力機器、「頭」はPC本体や画像処理ソフト、「手」はモニターやプリンターなどの出力機器に相当する。
入力された時点の画像データ自体の精度や情報量が、その後の画像処理を左右することを考えれば、絵を描くことにおける「眼」の重要性が理解されやすいだろう。
「絵は眼で描く、音楽は耳で奏でる」という表現は昔からあるが、芸術の本質を簡潔に述べていると思う。
ただ、人間の「眼」というものは意外に騙されやすく、錯覚や先入観により間違うことが多い。
だから「眼」から得た情報を、知識や経験から常にチェックし補整する「頭」も重要で、それも含めての「眼」である。
「手」の技術ももちろん重要だが、表現方法によっては意外に他のものでも代替可能な場合が多いのだ。
空間認識能力を高め、それを作品の形に出力するためには他の手段もあるので、現代アートにおいては写実デッサンの比重は軽くなりつつある。
分野によっては、写実デッサンがマイナスに働く場合もあり得る。
このあたりについては、このカテゴリ妄想絵画論でも何度か触れてきた。
「線」と「面」
写実デッサンは必要か?
おりがみと積木
それではなぜ様々な表現形式の発達した現代でも、美術志望の学生の多くが写実デッサンという「手」の修練を積むのかと言えば、それが一番「眼」を鍛えるのに有効だからだ。
人間の眼と頭の進化は、手の発達と共に進行した。
だから認識能力を高めるには手の修練と関連付けるのが最も手っ取り早いのだ。
ハシクレとは言え私も絵描きなので、ときに中高生から美術系の進路相談を受ける機会もある。
そのような場合には、経済的に許されるならばどこかの教室に通って写実デッサンの訓練を積むことを勧めるし、時には直接指導することもある。
独学も不可能ではないが、写実デッサンに限って言えば、なるべく他の生徒もたくさんいる教室での訓練が望ましい。
一つには、鉛筆や木炭デッサンの作品が、印刷で再現されにくいことがある。
モノクロ作品だからテキストを見ながらの練習でも良さそうに思えるかもしれないけれども、おそらく印刷物では実物の十分の一の情報量も伝えられていないだろう。
鉛筆や木炭によるデッサンは、基本的には紙の表面にカーボンの粉末を擦り付けたり、ゴムで削り落としたりしながら、様々な階調のグレーで空間を描き分ける行為だ。
その描き分け具合で、観るものにまるでその紙の上に空間が広がっているかのような錯覚を起こさせるのが、上手いデッサンということになる。
シンプルな画材で錯覚を起こさせるために、画学生はあらゆる手を使う。
鉛筆や木炭のカーボン粉末を、紙の表面に軽くのせるだけにするのと、紙の繊維に深くすりこむのとでは別の質感になるし、タッチの付け方で光の方向や素材の雰囲気は細かく描き分けられる。
鉛筆であれば、濃い鉛筆と薄い鉛筆では「黒」に違いがあるし、芯の削りだし方から研究するものだ。
そう言った微妙な表現は、印刷物では伝わりづらい。(印刷を前提とする場合は、タッチによる表現を強めにしてペン画に近い手法にする必要がある)
そして、実際に「描けている」作品や、描いた本人と親しく接することができるのも大きい。
各教室に何人かいる写実デッサンの名手の作品の実物を目前にすると、ちょっとした衝撃がある。
背景になっている紙の地がスコーンと後ろに抜けて、描かれたモデルの周囲に風が吹いているような感覚に襲われるのだ。
そこまでのレベルの写実の技術が、美術志望者全員に必要があるわけではない。
表現は多用なので「出力」に関して言えば、誰もが写実の名手を目指す必要はない。
しかし、同年代の学生が実際に手を動かしてそれを描いているという刺激は、空間認識能力という「入力」を育成する面で、絶大な効果を発揮する。
上手い作品や、それを制作する者の佇まい、用具の使い方に身近に接することで、周りものの空間認識能力が引っ張りあげられるという効果は、確かにあるのだ。
武術の世界では「見取り稽古」という言葉がある。
スポーツで言う「見学」と似ているけれども、もっと積極的に「観ることで技を盗む」というニュアンスがある。
技術は教わるものではなく、観て盗むものだという考え方は、武術に限らず日本の伝統的な芸事や職人技全般に「常識」として存在する。
デッサン技術は身体操作法としての側面が強いので、「見取り稽古」的な技術伝達が、かなり有効に機能するのだ。
一定レベルの写実を身に付けた後は独自の表現の探求に進むのが常道なので、「写実デッサン」という一点だけに絞れば二十代あたりがピークである絵描きが多いだろう。
デッサンの練習は、「手」の技術研鑽を通して、立体や空間、色彩などを、正しくありのまま把握するための「眼」と「頭」を鍛えるためのものだ。
絵を描くという行為は、端から見ると実際に絵筆をとっている「手」に注目が集まりがちだが、実は「手」という要素は全体のせいぜい三分の一に過ぎない。
根本的には、ものを観る「眼」が重要だ。
PC関連機器で喩えれば、「眼」はスキャナーやデジカメ等の入力機器、「頭」はPC本体や画像処理ソフト、「手」はモニターやプリンターなどの出力機器に相当する。
入力された時点の画像データ自体の精度や情報量が、その後の画像処理を左右することを考えれば、絵を描くことにおける「眼」の重要性が理解されやすいだろう。
「絵は眼で描く、音楽は耳で奏でる」という表現は昔からあるが、芸術の本質を簡潔に述べていると思う。
ただ、人間の「眼」というものは意外に騙されやすく、錯覚や先入観により間違うことが多い。
だから「眼」から得た情報を、知識や経験から常にチェックし補整する「頭」も重要で、それも含めての「眼」である。
「手」の技術ももちろん重要だが、表現方法によっては意外に他のものでも代替可能な場合が多いのだ。
空間認識能力を高め、それを作品の形に出力するためには他の手段もあるので、現代アートにおいては写実デッサンの比重は軽くなりつつある。
分野によっては、写実デッサンがマイナスに働く場合もあり得る。
このあたりについては、このカテゴリ妄想絵画論でも何度か触れてきた。
「線」と「面」
写実デッサンは必要か?
おりがみと積木
それではなぜ様々な表現形式の発達した現代でも、美術志望の学生の多くが写実デッサンという「手」の修練を積むのかと言えば、それが一番「眼」を鍛えるのに有効だからだ。
人間の眼と頭の進化は、手の発達と共に進行した。
だから認識能力を高めるには手の修練と関連付けるのが最も手っ取り早いのだ。
ハシクレとは言え私も絵描きなので、ときに中高生から美術系の進路相談を受ける機会もある。
そのような場合には、経済的に許されるならばどこかの教室に通って写実デッサンの訓練を積むことを勧めるし、時には直接指導することもある。
独学も不可能ではないが、写実デッサンに限って言えば、なるべく他の生徒もたくさんいる教室での訓練が望ましい。
一つには、鉛筆や木炭デッサンの作品が、印刷で再現されにくいことがある。
モノクロ作品だからテキストを見ながらの練習でも良さそうに思えるかもしれないけれども、おそらく印刷物では実物の十分の一の情報量も伝えられていないだろう。
鉛筆や木炭によるデッサンは、基本的には紙の表面にカーボンの粉末を擦り付けたり、ゴムで削り落としたりしながら、様々な階調のグレーで空間を描き分ける行為だ。
その描き分け具合で、観るものにまるでその紙の上に空間が広がっているかのような錯覚を起こさせるのが、上手いデッサンということになる。
シンプルな画材で錯覚を起こさせるために、画学生はあらゆる手を使う。
鉛筆や木炭のカーボン粉末を、紙の表面に軽くのせるだけにするのと、紙の繊維に深くすりこむのとでは別の質感になるし、タッチの付け方で光の方向や素材の雰囲気は細かく描き分けられる。
鉛筆であれば、濃い鉛筆と薄い鉛筆では「黒」に違いがあるし、芯の削りだし方から研究するものだ。
そう言った微妙な表現は、印刷物では伝わりづらい。(印刷を前提とする場合は、タッチによる表現を強めにしてペン画に近い手法にする必要がある)
そして、実際に「描けている」作品や、描いた本人と親しく接することができるのも大きい。
各教室に何人かいる写実デッサンの名手の作品の実物を目前にすると、ちょっとした衝撃がある。
背景になっている紙の地がスコーンと後ろに抜けて、描かれたモデルの周囲に風が吹いているような感覚に襲われるのだ。
そこまでのレベルの写実の技術が、美術志望者全員に必要があるわけではない。
表現は多用なので「出力」に関して言えば、誰もが写実の名手を目指す必要はない。
しかし、同年代の学生が実際に手を動かしてそれを描いているという刺激は、空間認識能力という「入力」を育成する面で、絶大な効果を発揮する。
上手い作品や、それを制作する者の佇まい、用具の使い方に身近に接することで、周りものの空間認識能力が引っ張りあげられるという効果は、確かにあるのだ。
武術の世界では「見取り稽古」という言葉がある。
スポーツで言う「見学」と似ているけれども、もっと積極的に「観ることで技を盗む」というニュアンスがある。
技術は教わるものではなく、観て盗むものだという考え方は、武術に限らず日本の伝統的な芸事や職人技全般に「常識」として存在する。
デッサン技術は身体操作法としての側面が強いので、「見取り稽古」的な技術伝達が、かなり有効に機能するのだ。
2016年11月22日
加筆再構成:デッサンと見取稽古3
高二の二学期が終わりに近づき、そろそろ進路を決定しなければならない時期になって、私は思い切って美術系志望に切り替えることにした。
私立の中高一貫、中堅進学校の生徒としては、変わり種ということになる。
絵を描くことは子供のころから大好きで、中学高校でも自分なりにずっと描き続けていた。
とくに高校に入ってからは「一人美術部」として、文化祭の展示で教室一つ分を一人で埋めるため、描きまくり、作りまくり、生徒会や他の部活で必要なイラストも一手に引き受けていた。
美術系志望の大前提として必要なのが、才能云々以前に「自発的に毎日のように描いたり造ったりしているか」という部分だ。
このカテゴリ「妄想絵画論」でも、以前に一度そのような主旨の記事をアップしたことがある。
教わる前から描いているか?
私の場合は、悲惨な通知簿の中でも美術だけはほぼ満点に近く、全教科平均点を5点ほど底上げできたので、留年回避のための「奥の手」になっていた。
私の出身校は年間の平均40点以下の科目が2つ、または全教科平均50点以下であれば留年という規定があり、前者の規定を気にするあまり、後者の規定にひっかかってダブるケースがけっこう多かったのだ。
どの科目も規定の40〜50点あたりをフラフラと低空飛行していた私も、この「全教科平均50点以上」という規定がかなり危なかったのだが、美術で5点、音楽で3点、国語で2点ほど平均点を「上げ底」できたので、なんとかダブらずに済んでいた。
勉強の方はさっぱりだったが、絵を描くことだけは楽しくて、毎日、何時間続けても苦にならなかった。
しかしそれは全て我流でやっていたこと。
それなりに「描ける」という自負はあったけれども、いざ美術系受験を決めてみると、「実技試験で点の取れるデッサンができるのか」ということは、全く未知数であることに向き合わなければならなかった。
いわゆる「頭が良い」ということと、「試験で点が取れる」ということの間には少しズレがあるけれども、美術の分野でもこと入試に関して言えば、「点の取り方」のようなものが当然あるのではないか?
そのように洞察することができたのは、劣等生とは言え中堅進学校に身をおいていたことの功徳だったと思う。
まずは、「美術実技の採点基準」というものを学ばなければならない。
とりあえず受験指導もやっている近所の絵画教室に問い合わせてみると、「自分で描いたものを持って来週面接に来るように」ということになった。
さっそく私は、放課後の美術部の時間を利用して、石膏デッサンをスケッチブックに描きためた。
採点基準が全くわからないからには、とにかく数を描いて「やる気」と「手の速さ」を示すことがまずは必要だと判断したのだ。
そして一週間後、絵画教室へ。
教室のみんなが興味津々で見守る中、先生との面接が始まった。
私は緊張の中、覚悟をきめてスケッチブックを先生に手わたした。
どんな評価が返ってくるか、まったく分からない。「ぜんぜん話にならん!」と、ボロカスにいわれることも覚悟の上だった。
新入りに対して、まずはガツンと鼻っ柱をへし折る。
私は剣道少年でもあったので、「道場」とはそう言うものだと認識していた。
先生がパラパラとスケッチブックをめくっていく。無言なのでどんな感想を持っているのかうかがい知ることはできない。
まわりではその教室でデッサンを学んでいる中学生や高校生の「先輩」たちが、「新入りのヤツはなんぼほどのもんじゃ?」という感じでこちらをながめている。
先生は一通りスケッチブックをめくり、さらに何度か見なおしてから、ようやく口を開いた。
「なかなかよく描いてきたけど、正直言って、これだとまだ点数はつけられないと思う」
それを聞いた私は、ほっと一息ついた。
決して「良い評価」ではなかったが、「道場の新入り」に対する言葉としてはかなりマシな部類に入ることを、知っていたのだ。
先生は続けた。
「出来はともかく、真面目に石膏デッサンを描きためてきた姿勢がいい。最近の子は描いたものを持ってくるように言うと、マンガやイラストみたいなのを持ってくる子が多い。そういう子に一年やそこらで受験向けのデッサンを教えるのは難しいが、君は地道に頑張る気があるようだ」
こうして私は、それからの一年間、その絵画教室に通って「受験勉強」をすることになった。
土日の週二回、二時間ずつの教室と、他に宿題として自宅で一時間半〜二時間かけて描く鉛筆デッサン。
合計すると最低でも週に8時間ほどは受験向けのデッサンの練習に費やす計算だ。
私の場合は美大・芸大ではなく、教育学部系の美術科志望である。
他の学科にも時間を割かなければならないので、大体このくらいの時間配分になる。
教育学部の初等科や、理系の建築科や工業デザイン系の志望で、配点がもっと少なめの美術実技が課される場合は、学科でほとんど合否が決定するので、ここまでデッサンに時間を割く必要はない。
たとえば一次試験終了後、完全に志望学科が決定してから学校の美術の先生に相談し、「短期間で塞げる穴は塞ぐ」という程度でもいいだろう。
逆に本格的に芸大、美大を受験するならば、もっと早くから準備を始めなければならない。
とくに高二から高三の一年間は、より極端なスケジュールで実技対策メインで過ごさなければならないだろう。
日常的なスケジュールの中に組み込んで、無理なく確実に習得ペースを維持できるような環境を作り上げることが、受験対策では大切になる。
私立の中高一貫、中堅進学校の生徒としては、変わり種ということになる。
絵を描くことは子供のころから大好きで、中学高校でも自分なりにずっと描き続けていた。
とくに高校に入ってからは「一人美術部」として、文化祭の展示で教室一つ分を一人で埋めるため、描きまくり、作りまくり、生徒会や他の部活で必要なイラストも一手に引き受けていた。
美術系志望の大前提として必要なのが、才能云々以前に「自発的に毎日のように描いたり造ったりしているか」という部分だ。
このカテゴリ「妄想絵画論」でも、以前に一度そのような主旨の記事をアップしたことがある。
教わる前から描いているか?
私の場合は、悲惨な通知簿の中でも美術だけはほぼ満点に近く、全教科平均点を5点ほど底上げできたので、留年回避のための「奥の手」になっていた。
私の出身校は年間の平均40点以下の科目が2つ、または全教科平均50点以下であれば留年という規定があり、前者の規定を気にするあまり、後者の規定にひっかかってダブるケースがけっこう多かったのだ。
どの科目も規定の40〜50点あたりをフラフラと低空飛行していた私も、この「全教科平均50点以上」という規定がかなり危なかったのだが、美術で5点、音楽で3点、国語で2点ほど平均点を「上げ底」できたので、なんとかダブらずに済んでいた。
勉強の方はさっぱりだったが、絵を描くことだけは楽しくて、毎日、何時間続けても苦にならなかった。
しかしそれは全て我流でやっていたこと。
それなりに「描ける」という自負はあったけれども、いざ美術系受験を決めてみると、「実技試験で点の取れるデッサンができるのか」ということは、全く未知数であることに向き合わなければならなかった。
いわゆる「頭が良い」ということと、「試験で点が取れる」ということの間には少しズレがあるけれども、美術の分野でもこと入試に関して言えば、「点の取り方」のようなものが当然あるのではないか?
そのように洞察することができたのは、劣等生とは言え中堅進学校に身をおいていたことの功徳だったと思う。
まずは、「美術実技の採点基準」というものを学ばなければならない。
とりあえず受験指導もやっている近所の絵画教室に問い合わせてみると、「自分で描いたものを持って来週面接に来るように」ということになった。
さっそく私は、放課後の美術部の時間を利用して、石膏デッサンをスケッチブックに描きためた。
採点基準が全くわからないからには、とにかく数を描いて「やる気」と「手の速さ」を示すことがまずは必要だと判断したのだ。
そして一週間後、絵画教室へ。
教室のみんなが興味津々で見守る中、先生との面接が始まった。
私は緊張の中、覚悟をきめてスケッチブックを先生に手わたした。
どんな評価が返ってくるか、まったく分からない。「ぜんぜん話にならん!」と、ボロカスにいわれることも覚悟の上だった。
新入りに対して、まずはガツンと鼻っ柱をへし折る。
私は剣道少年でもあったので、「道場」とはそう言うものだと認識していた。
先生がパラパラとスケッチブックをめくっていく。無言なのでどんな感想を持っているのかうかがい知ることはできない。
まわりではその教室でデッサンを学んでいる中学生や高校生の「先輩」たちが、「新入りのヤツはなんぼほどのもんじゃ?」という感じでこちらをながめている。
先生は一通りスケッチブックをめくり、さらに何度か見なおしてから、ようやく口を開いた。
「なかなかよく描いてきたけど、正直言って、これだとまだ点数はつけられないと思う」
それを聞いた私は、ほっと一息ついた。
決して「良い評価」ではなかったが、「道場の新入り」に対する言葉としてはかなりマシな部類に入ることを、知っていたのだ。
先生は続けた。
「出来はともかく、真面目に石膏デッサンを描きためてきた姿勢がいい。最近の子は描いたものを持ってくるように言うと、マンガやイラストみたいなのを持ってくる子が多い。そういう子に一年やそこらで受験向けのデッサンを教えるのは難しいが、君は地道に頑張る気があるようだ」
こうして私は、それからの一年間、その絵画教室に通って「受験勉強」をすることになった。
土日の週二回、二時間ずつの教室と、他に宿題として自宅で一時間半〜二時間かけて描く鉛筆デッサン。
合計すると最低でも週に8時間ほどは受験向けのデッサンの練習に費やす計算だ。
私の場合は美大・芸大ではなく、教育学部系の美術科志望である。
他の学科にも時間を割かなければならないので、大体このくらいの時間配分になる。
教育学部の初等科や、理系の建築科や工業デザイン系の志望で、配点がもっと少なめの美術実技が課される場合は、学科でほとんど合否が決定するので、ここまでデッサンに時間を割く必要はない。
たとえば一次試験終了後、完全に志望学科が決定してから学校の美術の先生に相談し、「短期間で塞げる穴は塞ぐ」という程度でもいいだろう。
逆に本格的に芸大、美大を受験するならば、もっと早くから準備を始めなければならない。
とくに高二から高三の一年間は、より極端なスケジュールで実技対策メインで過ごさなければならないだろう。
日常的なスケジュールの中に組み込んで、無理なく確実に習得ペースを維持できるような環境を作り上げることが、受験対策では大切になる。
2016年11月23日
加筆再構成:デッサンと見取稽古4
絵画教室で専門の指導を受けることになった私は、それまで自分なりに絵を描いてきた自負心などは、一切捨てることにした。
なにしろ私には、一年間しか時間がないのだ。先生の指導自体についてあれこれ悩んでいる余裕はないので、とにかく指示されたことは即、実行することにした。
一口にデッサンといっても、鉛筆や木炭、水彩で軽く着色したものまで様々で、教室ごとに「流派」みたいなものもある。
例えば私が指導を受けた先生の場合は、鉛筆デッサンの場合は全てタッチで表現し、木炭のように「こする」ということは一切無かったが、先生によっては鉛筆でも「こする」方法を勧めることもある。
タッチで表現する方が緻密で硬質な雰囲気になるので、私は好みなのだが、美しく仕上げるためにはちょっと時間がかかり、習得にもある程度の期間が必要だ。
私は今でも自分で鉛筆デッサンをするときはタッチで表現するが、濃いめの鉛筆を使って木炭のように「こする」と手っ取り早くハーフトーンを表現できるので、試験時間が短い場合や、短期間で習得しなければならない場合、こする方法を指導することもある。
どれかが唯一の正解ということはないので、好みに応じて習得すれば良いのだが、一から習う場合はごちゃごちゃ考えずに先生の指導に素直にしたがった方が良い。
何かを習う時には100パーセント指示に従うという姿勢は、少年の頃から基本的なマナーとして身に付いており、おかげでこれまで何度も救われてきた。
時が流れて人に指導する立場になってみると、最近の子供の気質も考慮してあまり頭ごなしの押し付けはできなくなっている。
なるべく「そうすることの根拠とメリット」を説明し、納得の上で指導するようにはしている。
しかし何かものを習う時に、習う側が先生と対等のような態度をとるのは、やっぱりおかしいのではないかという意識は変わらない。
能力が不足しているから習うのであって、能力不足の生徒には、言葉による説明が困難な場合も多々ある。
まず理屈抜きで実践してみろという方が、身体技能の分野では当たり前なのだ。
わざわざ習いに来てまで自分のやり方に固執する生徒を見ると「気持ちはわかるけど、それは自分の作品でやらんかね? 時間もないことだし、ここではとにかく受験技術を磨かんかね?」と思うが、まあ口に出すのは我慢する(笑)
強く注意すると、中にはそれきり来なくなる子もいたりするので、ものの言い方には気を遣う。
生徒のキャラを見ながら、伝えても大丈夫そうな子には私がいつ頃からか身に付けた言葉をそっと伝授する。
「修行は相手の土俵で、勝負は自分の土俵で」
私は基本的には独学が好きな人間なのだが、だからこそ独学の限界も知っている。
独学で目一杯まで突き進み、自力で出来ることは解決し尽くし、出来ないことや疑問点をはっきりさせる。
その果てに「面受」で100パーセント指示に従ったとき、理解と習得は怒濤のようにやって来くるのだ。
人の話を聞かない頑固者という傾向は、多かれ少なかれ絵描きにはあるものだが、受験指導でそもそもあまり絵を描いたことがない生徒にデッサンを教える場合は話が逆になる。
それこそ鉛筆の上げ下ろしまで全部指示してもらいたがる子もいたりするので、独学と面受のバランスはけっこう難しい。
短期間に技術を習得しなければならない時、もう一つ大切なのは「教室には無遅刻・無欠席」という基本だ。
そのためには体調管理、スケジュール管理を自分できっちりやらなければならない。
私はこれまで、絵画の実技指導や、小中学生の学習指導はそれなりの期間経験してきたが、時間や用具の管理ができない子の多くは受験に失敗する。
美術実技でも勉強でも、簡単には休まず、始業時間までに持ち物をそろえて机につくというのは基本中の基本だ。
美術系だからと言ってルーズな性格が許されるということはない。
もう少し正確に言うと、日常生活は別にルーズでも構わないのだが、こと美術に関してだけはきっちりしていないと、将来的に稼業にまで繋げるのはとうてい無理なのだ。
体調管理については、高校生の頃の私は不真面目だったとは言え剣道部出身。まだまだ基礎体力の貯金は潤沢に残っていた。
体格やスポーツ的な運動神経には恵まれていなかったが、とにかく無理の効く体の頑丈さはあった。
教室で学べる時間をフル活用するため、私はちょっとした工夫を考えた。
先生の許可を得て始業時間より少し早めに出てその日の授業の準備を手伝い、終わった後は片付けも手伝ったのだ。
準備や片付けを手伝うと、先生がどういう意図でその日の教材を選んでいるのか理解でき、かなり勉強になった。
習い事はなんでもそうだが、教室に入って作業を始めるまでと、終わって帰るまでに、少し時間がかかる。
そういう時間を考慮すると、二時間の教室でも制作に集中できるのは実質1時間30分くらいになってしまうものだが、私の場合は始業時間以前と終業以後に手伝いをしているので、二時間フルにデッサンの勉強に使うことができた。
当時の私の頭の中には、昔風の「弟子入り」のようなイメージがあったのだと思う。
普通、美術や音楽系の受験をする人は、幼い頃からずっと習い事をしていたり、中学生くらいから専門の指導を受けるものだと認識していたので、一年しか時間がない自分は生半可な覚悟ではとうてい間に合わないと考えていた。
それこそ「弟子入り」でもするつもりで、同じ教室に通う中学生が飛び級で大学受験を目指すくらいの勢いで取り組まなければ無理だろうと考えたのだ。
準備や片付けの時に先生の語る雑談が、また面白くて参考になったりした。
私が高校生の頃とは時代が違うので、現在の規模の大きな予備校などでこういう方法はとれないと思うが、要は「直接指導を受けられる時間は貴重なので、無遅刻・無欠席が基本」と言うことだ。
教室でデッサンをするときにはとにかくスピードを心がけ、与えられた課題は必ず時間内にそれなりに完成した形になるよう努めた。
自分が今やろうとしているのは「芸術そのもの」ではなくあくまで受験対策で、じっくり時間をかけて質の高い作品を目指そうとするのとは、目的が違う。
受験対策であるならば、「うまく仕上がるかもしれない未完成作品」よりも「多少アラがあっても完成している作品」の方が、得点が高くなるのは当然だ。
授業が始まって先生の簡単な説明を受け、デッサンのスタートがかかると、私はボクシングの試合でもするつもりで集中した。
目と頭を高速回転させてモデルになっているものを認識し、手を動かし続けた。
少し視線を離して全体の調子を確かめるとき以外は、鉛筆を持つ手を止めなかった。
このあたりは、数学の計算問題を解く時の呼吸と同じだと理解できた。
先生からは教室で描くデッサンとは別に、宿題として一週間に一枚は自宅で描いてくるように指示された。
私は自宅で週に二枚描き、週二回の授業で毎回採点してもらうことを心がけた。
提出したデッサンは全員分が採点して貼り出され、先生が簡単なコメントをつけていく時間があったのだが、これこそまさに「見取り稽古」、人の体験を盗んで我が物にする絶好の機会である。
私はもちろん全員分についてのコメントを聴き逃さぬよう、集中した。
時が流れて指導する側にまわり、人の作品のコメントの時にはそっぽを向いて聞いていない生徒を見ると、「あのな、武道の世界には見取り稽古というものがあって……」と喉元まで出かかった言葉を、またも飲み込む(笑)
そしてごく少数の伝えても大丈夫そうな子に、これまたそっと伝授するのである。
なにしろ私には、一年間しか時間がないのだ。先生の指導自体についてあれこれ悩んでいる余裕はないので、とにかく指示されたことは即、実行することにした。
一口にデッサンといっても、鉛筆や木炭、水彩で軽く着色したものまで様々で、教室ごとに「流派」みたいなものもある。
例えば私が指導を受けた先生の場合は、鉛筆デッサンの場合は全てタッチで表現し、木炭のように「こする」ということは一切無かったが、先生によっては鉛筆でも「こする」方法を勧めることもある。
タッチで表現する方が緻密で硬質な雰囲気になるので、私は好みなのだが、美しく仕上げるためにはちょっと時間がかかり、習得にもある程度の期間が必要だ。
私は今でも自分で鉛筆デッサンをするときはタッチで表現するが、濃いめの鉛筆を使って木炭のように「こする」と手っ取り早くハーフトーンを表現できるので、試験時間が短い場合や、短期間で習得しなければならない場合、こする方法を指導することもある。
どれかが唯一の正解ということはないので、好みに応じて習得すれば良いのだが、一から習う場合はごちゃごちゃ考えずに先生の指導に素直にしたがった方が良い。
何かを習う時には100パーセント指示に従うという姿勢は、少年の頃から基本的なマナーとして身に付いており、おかげでこれまで何度も救われてきた。
時が流れて人に指導する立場になってみると、最近の子供の気質も考慮してあまり頭ごなしの押し付けはできなくなっている。
なるべく「そうすることの根拠とメリット」を説明し、納得の上で指導するようにはしている。
しかし何かものを習う時に、習う側が先生と対等のような態度をとるのは、やっぱりおかしいのではないかという意識は変わらない。
能力が不足しているから習うのであって、能力不足の生徒には、言葉による説明が困難な場合も多々ある。
まず理屈抜きで実践してみろという方が、身体技能の分野では当たり前なのだ。
わざわざ習いに来てまで自分のやり方に固執する生徒を見ると「気持ちはわかるけど、それは自分の作品でやらんかね? 時間もないことだし、ここではとにかく受験技術を磨かんかね?」と思うが、まあ口に出すのは我慢する(笑)
強く注意すると、中にはそれきり来なくなる子もいたりするので、ものの言い方には気を遣う。
生徒のキャラを見ながら、伝えても大丈夫そうな子には私がいつ頃からか身に付けた言葉をそっと伝授する。
「修行は相手の土俵で、勝負は自分の土俵で」
私は基本的には独学が好きな人間なのだが、だからこそ独学の限界も知っている。
独学で目一杯まで突き進み、自力で出来ることは解決し尽くし、出来ないことや疑問点をはっきりさせる。
その果てに「面受」で100パーセント指示に従ったとき、理解と習得は怒濤のようにやって来くるのだ。
人の話を聞かない頑固者という傾向は、多かれ少なかれ絵描きにはあるものだが、受験指導でそもそもあまり絵を描いたことがない生徒にデッサンを教える場合は話が逆になる。
それこそ鉛筆の上げ下ろしまで全部指示してもらいたがる子もいたりするので、独学と面受のバランスはけっこう難しい。
短期間に技術を習得しなければならない時、もう一つ大切なのは「教室には無遅刻・無欠席」という基本だ。
そのためには体調管理、スケジュール管理を自分できっちりやらなければならない。
私はこれまで、絵画の実技指導や、小中学生の学習指導はそれなりの期間経験してきたが、時間や用具の管理ができない子の多くは受験に失敗する。
美術実技でも勉強でも、簡単には休まず、始業時間までに持ち物をそろえて机につくというのは基本中の基本だ。
美術系だからと言ってルーズな性格が許されるということはない。
もう少し正確に言うと、日常生活は別にルーズでも構わないのだが、こと美術に関してだけはきっちりしていないと、将来的に稼業にまで繋げるのはとうてい無理なのだ。
体調管理については、高校生の頃の私は不真面目だったとは言え剣道部出身。まだまだ基礎体力の貯金は潤沢に残っていた。
体格やスポーツ的な運動神経には恵まれていなかったが、とにかく無理の効く体の頑丈さはあった。
教室で学べる時間をフル活用するため、私はちょっとした工夫を考えた。
先生の許可を得て始業時間より少し早めに出てその日の授業の準備を手伝い、終わった後は片付けも手伝ったのだ。
準備や片付けを手伝うと、先生がどういう意図でその日の教材を選んでいるのか理解でき、かなり勉強になった。
習い事はなんでもそうだが、教室に入って作業を始めるまでと、終わって帰るまでに、少し時間がかかる。
そういう時間を考慮すると、二時間の教室でも制作に集中できるのは実質1時間30分くらいになってしまうものだが、私の場合は始業時間以前と終業以後に手伝いをしているので、二時間フルにデッサンの勉強に使うことができた。
当時の私の頭の中には、昔風の「弟子入り」のようなイメージがあったのだと思う。
普通、美術や音楽系の受験をする人は、幼い頃からずっと習い事をしていたり、中学生くらいから専門の指導を受けるものだと認識していたので、一年しか時間がない自分は生半可な覚悟ではとうてい間に合わないと考えていた。
それこそ「弟子入り」でもするつもりで、同じ教室に通う中学生が飛び級で大学受験を目指すくらいの勢いで取り組まなければ無理だろうと考えたのだ。
準備や片付けの時に先生の語る雑談が、また面白くて参考になったりした。
私が高校生の頃とは時代が違うので、現在の規模の大きな予備校などでこういう方法はとれないと思うが、要は「直接指導を受けられる時間は貴重なので、無遅刻・無欠席が基本」と言うことだ。
教室でデッサンをするときにはとにかくスピードを心がけ、与えられた課題は必ず時間内にそれなりに完成した形になるよう努めた。
自分が今やろうとしているのは「芸術そのもの」ではなくあくまで受験対策で、じっくり時間をかけて質の高い作品を目指そうとするのとは、目的が違う。
受験対策であるならば、「うまく仕上がるかもしれない未完成作品」よりも「多少アラがあっても完成している作品」の方が、得点が高くなるのは当然だ。
授業が始まって先生の簡単な説明を受け、デッサンのスタートがかかると、私はボクシングの試合でもするつもりで集中した。
目と頭を高速回転させてモデルになっているものを認識し、手を動かし続けた。
少し視線を離して全体の調子を確かめるとき以外は、鉛筆を持つ手を止めなかった。
このあたりは、数学の計算問題を解く時の呼吸と同じだと理解できた。
先生からは教室で描くデッサンとは別に、宿題として一週間に一枚は自宅で描いてくるように指示された。
私は自宅で週に二枚描き、週二回の授業で毎回採点してもらうことを心がけた。
提出したデッサンは全員分が採点して貼り出され、先生が簡単なコメントをつけていく時間があったのだが、これこそまさに「見取り稽古」、人の体験を盗んで我が物にする絶好の機会である。
私はもちろん全員分についてのコメントを聴き逃さぬよう、集中した。
時が流れて指導する側にまわり、人の作品のコメントの時にはそっぽを向いて聞いていない生徒を見ると、「あのな、武道の世界には見取り稽古というものがあって……」と喉元まで出かかった言葉を、またも飲み込む(笑)
そしてごく少数の伝えても大丈夫そうな子に、これまたそっと伝授するのである。
2016年11月24日
加筆再構成:デッサンと見取稽古5
私の一年間のデッサン修行は、前半の半年が鉛筆、後半の半年が水彩と、木炭による石膏デッサンに費やされることになった。
志望校の過去問を調べた結果から立てられた対策である。
過去問によると、傾向は毎年違うのだが、水彩による平面と、立体造形の二問が出題されるらしいことがわかった。
少し注意を要したのは、平面作品は基本的にモデルが用意されない状態で、想像で描かなければならないらしいこと、立体は紙や粘土など、素材も分野もばらつきがあって、事前の準備が難しいらしいことだった。
平面でモデルが用意されず、問題文に則した作品を2時間程度で制作しなければならないということは、試験本番までに身の回りのものは一通り水彩でデッサンしておく必要があることになる。
問題文によっては人物や風景画の要素も含まれる可能性がある。
モデルが用意されず、想像で描くタイプの出題は、教育系の美術実技やデザインの分野でわりとよくある。
身の回りのものに対する普段からの観察力が問われる問題背設定だ。
何の気なしに生活していると、ものの大きさのバランスというのは意外に分かっていない。
たとえば部屋の中の様子一つとってみても、椅子や机は高さ何センチぐらいで、窓はどんな風についているのか、ドアや畳の大きさ、天井の高さなど、いざ想像で絵に描いてみようとすると、分からないことだらけであることに気づく。
机の上に並べたものを実際に観ながらのデッサンであればかなり写実的に描ける人でも、何も見ずにいきなり「窓辺の情景」を描いてみろと言われると、勝手が違って子供のような稚拙な絵になってしまうこともあるのだ。
このあたりは、デッサンの修練というより、普段からどれだけものをよく観て、マンガやイラスト風でもいいから描き続けているかどうかが問題になってくる。
そして私の場合、そちらの方面は、教室に通い始める以前に膨大な量の蓄積があった。
同時に、子供の頃からの「工作遊び」や「模型制作」の蓄積もあったので、立体表現でどんな素材が出てこようと、ビビらず対応できる自信はあった。
子供の頃からのお絵描きや工作で蓄積されたセンスに、写実デッサンの訓練を通してがっしりとした骨組み通すことが、受験対策に費やした一年間の私のテーマだったのだ。
入試では美術実技の他に、作品に小論文を添えて提出する場合もあり得たので、そのための資料調べも欠かせなかった。
日曜の午後、絵画教室が終わった後は図書館に直行して、美術や教育、心理に関する言葉や考え方を仕入れるために、様々な本を読み漁った。
図書館には有名画家の画集や美術全集も揃っていたので、片っぱしから手にとった。
一つの分野について読書を進めると、その分野を通して他の分野のこともよく理解できるようになってくる。
たとえば日本の美術史について勉強すると、密接に関連した日本の歴史や建築、仏教思想についても知識が広がる。
同様に西洋美術について本を読むと世界史や思想について知識が得られ、日本と西洋を対照させることで、現代文の設問でよく取り上げられる、東西の文明比較のパターンも、よく理解できるようになる。
自分の関心のある分野の読書を進めることは、学校ではバラバラに教わりがちな各教科間の学習内容を、自分の中で横断的に結びつけて理解することに役立つ。
私の場合、美術系の受験対策をメインテーマに据えたことで、結果的には他の教科の学習も進むことになった。
最近、受験生をもつ保護者の間で、「やる気スイッチ」という言葉がよく話題にのぼっているようだ。
それまで今一つ勉強に身が入らなかった受験生が、何かのきっかけで突然やる気を出して猛然と勉強し始める現象は、とくにそれまで部活に熱心だった生徒などによく見られる。
思い返してみると、ずっと好きだった美術で志望校を決め、具体的な合格戦略を練り始めた辺りが私の「やる気スイッチ」だったのかもしれない。
受験校である中学高校ではどうしても勉強に身が入らず、厳しい体罰で殴られてばかり。
成績別クラス編成では常に最下位クラスで、友人の多くが学年を変わるごとに学校を去る。
あまり良いことはなかった学校生活の中、唯一活躍できたのが、絵を描くことだった。
大学受験が迫る中、せっかく好きな美術を目一杯学ぶ環境に恵まれたのだから、ここで頑張らなければ自分にはもう他に何もないと思った。
美術実技を中心にした受験対策がうまくハマり、学科の方の成績も順調に伸びた。
他の教科の学習法にもちょっとした工夫があったのだが、話が長くなるので今回は省略。
確か高三の秋の模試あたりでは、もう第一志望でA判定が出ていたと思う。
その頃から、高校の先生方の感触が変わってきた。
それまでは先生方にとってもほとんど経験のない美術系受験ということで、正直、厄介者だったと思うのだが、どうやら合格の見込みがあるらしいということで評価が裏返ったのだ。
受験校では進学実績こそが至上価値である。
国公立大に滑り込める「弾」は、形はどうあれ貴重なのだ。
高三の2学期末試験を終え、卒業も確定すると、私は校内で完全に「放し飼い」状態になった。
学校内に美術実技の指導ができる先生はいなかったので、私は一人美術部室に籠って好き勝手に絵を描いていることが許された。
厳しい先生方も「あいつはもう好きにさせといた方がいい」と納得してくれたのだ。
こうして不思議に軽々とした雰囲気の中で、私の大学受験は過ぎ去っていった。
背負える武器は全部背負い、90年代前半の学生生活へと、私は突撃していった。
志望校の過去問を調べた結果から立てられた対策である。
過去問によると、傾向は毎年違うのだが、水彩による平面と、立体造形の二問が出題されるらしいことがわかった。
少し注意を要したのは、平面作品は基本的にモデルが用意されない状態で、想像で描かなければならないらしいこと、立体は紙や粘土など、素材も分野もばらつきがあって、事前の準備が難しいらしいことだった。
平面でモデルが用意されず、問題文に則した作品を2時間程度で制作しなければならないということは、試験本番までに身の回りのものは一通り水彩でデッサンしておく必要があることになる。
問題文によっては人物や風景画の要素も含まれる可能性がある。
モデルが用意されず、想像で描くタイプの出題は、教育系の美術実技やデザインの分野でわりとよくある。
身の回りのものに対する普段からの観察力が問われる問題背設定だ。
何の気なしに生活していると、ものの大きさのバランスというのは意外に分かっていない。
たとえば部屋の中の様子一つとってみても、椅子や机は高さ何センチぐらいで、窓はどんな風についているのか、ドアや畳の大きさ、天井の高さなど、いざ想像で絵に描いてみようとすると、分からないことだらけであることに気づく。
机の上に並べたものを実際に観ながらのデッサンであればかなり写実的に描ける人でも、何も見ずにいきなり「窓辺の情景」を描いてみろと言われると、勝手が違って子供のような稚拙な絵になってしまうこともあるのだ。
このあたりは、デッサンの修練というより、普段からどれだけものをよく観て、マンガやイラスト風でもいいから描き続けているかどうかが問題になってくる。
そして私の場合、そちらの方面は、教室に通い始める以前に膨大な量の蓄積があった。
同時に、子供の頃からの「工作遊び」や「模型制作」の蓄積もあったので、立体表現でどんな素材が出てこようと、ビビらず対応できる自信はあった。
子供の頃からのお絵描きや工作で蓄積されたセンスに、写実デッサンの訓練を通してがっしりとした骨組み通すことが、受験対策に費やした一年間の私のテーマだったのだ。
入試では美術実技の他に、作品に小論文を添えて提出する場合もあり得たので、そのための資料調べも欠かせなかった。
日曜の午後、絵画教室が終わった後は図書館に直行して、美術や教育、心理に関する言葉や考え方を仕入れるために、様々な本を読み漁った。
図書館には有名画家の画集や美術全集も揃っていたので、片っぱしから手にとった。
一つの分野について読書を進めると、その分野を通して他の分野のこともよく理解できるようになってくる。
たとえば日本の美術史について勉強すると、密接に関連した日本の歴史や建築、仏教思想についても知識が広がる。
同様に西洋美術について本を読むと世界史や思想について知識が得られ、日本と西洋を対照させることで、現代文の設問でよく取り上げられる、東西の文明比較のパターンも、よく理解できるようになる。
自分の関心のある分野の読書を進めることは、学校ではバラバラに教わりがちな各教科間の学習内容を、自分の中で横断的に結びつけて理解することに役立つ。
私の場合、美術系の受験対策をメインテーマに据えたことで、結果的には他の教科の学習も進むことになった。
最近、受験生をもつ保護者の間で、「やる気スイッチ」という言葉がよく話題にのぼっているようだ。
それまで今一つ勉強に身が入らなかった受験生が、何かのきっかけで突然やる気を出して猛然と勉強し始める現象は、とくにそれまで部活に熱心だった生徒などによく見られる。
思い返してみると、ずっと好きだった美術で志望校を決め、具体的な合格戦略を練り始めた辺りが私の「やる気スイッチ」だったのかもしれない。
受験校である中学高校ではどうしても勉強に身が入らず、厳しい体罰で殴られてばかり。
成績別クラス編成では常に最下位クラスで、友人の多くが学年を変わるごとに学校を去る。
あまり良いことはなかった学校生活の中、唯一活躍できたのが、絵を描くことだった。
大学受験が迫る中、せっかく好きな美術を目一杯学ぶ環境に恵まれたのだから、ここで頑張らなければ自分にはもう他に何もないと思った。
美術実技を中心にした受験対策がうまくハマり、学科の方の成績も順調に伸びた。
他の教科の学習法にもちょっとした工夫があったのだが、話が長くなるので今回は省略。
確か高三の秋の模試あたりでは、もう第一志望でA判定が出ていたと思う。
その頃から、高校の先生方の感触が変わってきた。
それまでは先生方にとってもほとんど経験のない美術系受験ということで、正直、厄介者だったと思うのだが、どうやら合格の見込みがあるらしいということで評価が裏返ったのだ。
受験校では進学実績こそが至上価値である。
国公立大に滑り込める「弾」は、形はどうあれ貴重なのだ。
高三の2学期末試験を終え、卒業も確定すると、私は校内で完全に「放し飼い」状態になった。
学校内に美術実技の指導ができる先生はいなかったので、私は一人美術部室に籠って好き勝手に絵を描いていることが許された。
厳しい先生方も「あいつはもう好きにさせといた方がいい」と納得してくれたのだ。
こうして不思議に軽々とした雰囲気の中で、私の大学受験は過ぎ去っていった。
背負える武器は全部背負い、90年代前半の学生生活へと、私は突撃していった。
(「デッサンと見取稽古」完)
2016年11月25日
駄菓子とサブカル
このカテゴリの名であるサブカルチャーという言葉も、その意味するところはかなり幅広い。
万人に共通の定義などありはしないので、それぞれのイメージで語るしかない。
私にとっての「サブカルチャー」が囲む領域は、「駄菓子」という言葉がカバーする範囲に近似する。
昔であれば「駄菓子屋」の店頭で扱われる商品が、ほぼイコール「サブカルチャー」ではないかと思うのだ。
それは、基本的には子供のお小遣いで消費されるものである。
それは、駄菓子である。
それは、オモチャである。
それは、付録付き子供雑誌である。
それは、「あてもの」である。
それは、あまり心身の健康には良さそうに思えないものである。
それは、子供の物欲や射幸心を煽るものである。
それは、「親に買ってもらう」幼児期から抜け出た、子供自身のはじめての消費行動である。
それは、子供の父兄はあまり推奨しない類のものである。
にもかかわらずそれは、この混沌たる世界で生きていかなければならない子供の心身の発達に、欠くべからざるものである。
これが、私の持つ「サブカルチャー」という言葉のイメージだ。
もちろん子供時代を脱し、青少年から大人にかけてのサブカルもある。
各年代が各年代相応の楽しみとしてサブカルを消費するのだけれども、基本的にはそれぞれがそれぞれの「子供の部分」を引きずりながら、小遣い銭の範囲で蕩尽するのがサブカルなのではないかと思う。
私が上記のような意味での「サブカルチャー」を、現役の子供として体験したのは、1980年を真ん中にした3〜4年ほどだった。
当時は既に文字通りの「駄菓子屋」はほとんど存在しなかったが、「駄菓子屋的な品ぞろえのお店」は近所に何か所もあった。
本来はパン屋であったり雑貨屋であったり本屋であったりした店舗が、1980年頃にはまだうじゃうじゃとそこらを走り回っていた子供たちをメインターゲットにして、駄菓子やオモチャや「あてもの」や付録付き子供雑誌を並べた結果、どこも似たような品ぞろえになっていたのだ。
そして、まさにその当時、そうした「子供相手の駄菓子屋的なお店」を空前のバブル景気に湧かせたのが、ガンプラブームだったのである。
それぞれの年代で「子供時代に一番楽しんだ遊び」は異なる。
マンガや子供番組やゲームは、作品が変遷しながら今に続いているけれども、私が子供時代を過ごした1980年前後は、特に男子の場合は完全に「ガンプラの時代」だった。
それなりの技能が要求された当時のプラモは、本来ならかなりマニアックなホビーなのだが、それが一番人気であった所に私の年代の特徴があったと言えるかもしれない。
ガンプラブームが終息し、子供の数がピークを過ぎたあたりから、私たちが日参したようなお店は徐々に閉店していき、90年代にはもうほとんど残っていなかったと思う。
あれからさらに少子化が進んだ現在では、純粋に「子供相手」だけの小規模店舗は成り立たなくなっているだろう。
それでもこの世に「子供」が存在する限り、「駄菓子屋的なもの」も必ず残る。
今でもコンビニやスーパーの一画には必ず、安くて少量の駄菓子や、あてもの、食玩、子供雑誌が並ぶコーナーがある。
私の愛してやまないサブカルチャーであるプラモデルも、1980当時のような「子供のホビーの王様」の地位ではないけれども、食玩の中の一種として細々とであるがしぶとく生き残っているのだ。
万人に共通の定義などありはしないので、それぞれのイメージで語るしかない。
私にとっての「サブカルチャー」が囲む領域は、「駄菓子」という言葉がカバーする範囲に近似する。
昔であれば「駄菓子屋」の店頭で扱われる商品が、ほぼイコール「サブカルチャー」ではないかと思うのだ。
それは、基本的には子供のお小遣いで消費されるものである。
それは、駄菓子である。
それは、オモチャである。
それは、付録付き子供雑誌である。
それは、「あてもの」である。
それは、あまり心身の健康には良さそうに思えないものである。
それは、子供の物欲や射幸心を煽るものである。
それは、「親に買ってもらう」幼児期から抜け出た、子供自身のはじめての消費行動である。
それは、子供の父兄はあまり推奨しない類のものである。
にもかかわらずそれは、この混沌たる世界で生きていかなければならない子供の心身の発達に、欠くべからざるものである。
これが、私の持つ「サブカルチャー」という言葉のイメージだ。
もちろん子供時代を脱し、青少年から大人にかけてのサブカルもある。
各年代が各年代相応の楽しみとしてサブカルを消費するのだけれども、基本的にはそれぞれがそれぞれの「子供の部分」を引きずりながら、小遣い銭の範囲で蕩尽するのがサブカルなのではないかと思う。
私が上記のような意味での「サブカルチャー」を、現役の子供として体験したのは、1980年を真ん中にした3〜4年ほどだった。
当時は既に文字通りの「駄菓子屋」はほとんど存在しなかったが、「駄菓子屋的な品ぞろえのお店」は近所に何か所もあった。
本来はパン屋であったり雑貨屋であったり本屋であったりした店舗が、1980年頃にはまだうじゃうじゃとそこらを走り回っていた子供たちをメインターゲットにして、駄菓子やオモチャや「あてもの」や付録付き子供雑誌を並べた結果、どこも似たような品ぞろえになっていたのだ。
そして、まさにその当時、そうした「子供相手の駄菓子屋的なお店」を空前のバブル景気に湧かせたのが、ガンプラブームだったのである。
それぞれの年代で「子供時代に一番楽しんだ遊び」は異なる。
マンガや子供番組やゲームは、作品が変遷しながら今に続いているけれども、私が子供時代を過ごした1980年前後は、特に男子の場合は完全に「ガンプラの時代」だった。
それなりの技能が要求された当時のプラモは、本来ならかなりマニアックなホビーなのだが、それが一番人気であった所に私の年代の特徴があったと言えるかもしれない。
ガンプラブームが終息し、子供の数がピークを過ぎたあたりから、私たちが日参したようなお店は徐々に閉店していき、90年代にはもうほとんど残っていなかったと思う。
あれからさらに少子化が進んだ現在では、純粋に「子供相手」だけの小規模店舗は成り立たなくなっているだろう。
それでもこの世に「子供」が存在する限り、「駄菓子屋的なもの」も必ず残る。
今でもコンビニやスーパーの一画には必ず、安くて少量の駄菓子や、あてもの、食玩、子供雑誌が並ぶコーナーがある。
私の愛してやまないサブカルチャーであるプラモデルも、1980当時のような「子供のホビーの王様」の地位ではないけれども、食玩の中の一種として細々とであるがしぶとく生き残っているのだ。