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2016年11月26日

地方の小学生が体感したガンプラブーム

 80年代初頭の世相を実体験していない人には想像することすら困難ではないかと思うのだが、当時の子供、とくに男子連中の間では、空前の「ガンプラブーム」だった。
 TVアニメ「機動戦士ガンダム」の関連商品として発売されたプラモデルが予想外の大ヒットになり、プラモ屋の店頭では入荷と共に飛ぶように売れまくった。
 ガンダムのプラモデルだから略称「ガンプラ」で、これは主役機の「ガンダム」だけを指すものではなく、作品に登場する(後にはアニメには登場しないバリエーションまで含めた)メカのモデルを総称して「ガンプラ」と呼ぶ。
 プラモ屋だけではなく、駄菓子屋的な子供相手のお店でもガンプラを取り扱っていたが、凄まじい需要に生産が追い付かず、どこも品薄。
 ブーム最盛期のプラモ屋の入荷日には、早朝から開店前のシャッターに長蛇の列が押し寄せた。

 近年の例では、アニメ「妖怪ウォッチ」の関連玩具が品薄になったことがあった。
 ガンプラブームはあの騒動を十倍ぐらいに拡大し、もっと長期間にわたって継続させたものだと説明すれば、いくらか雰囲気は伝わるかもしれない。
 ブームが最も過熱していたのは私の体感では1981〜82年で、それ以降もしばらく余波は続いていたと記憶している。

 ガンプラブームの時には当のTVアニメの放送自体は、既に終了していた。
 アニメ「機動戦士ガンダム」は、初回放送時には視聴率も関連商品の売り上げも伸びず、今から考えると信じがたいことなのだが、放送回数を大幅に短縮された「打ち切りアニメ」だったのだ。
 しかしその骨太なSFストーリーと、当時としてはかなり「リアル」に見えたプラモデルの品質が評判になり、放送終了後からじわじわ人気に火がついていった。
 そしてTV版を再編集した映画版三部作が制作され、映画も主題歌も関連商品も、相乗効果で売れまくった。
 子供だけでなく、アニメで育った大学生ぐらいまでが熱心なファン層になっていて、模型雑誌ではそうした大学生モデラー達が次々と作品を発表した。
 アニメのキャラクターにミリタリーモデルの手法を使った作例が斬新で、男子の心の中の「工作好きの虫」を強く刺激した。
 模型雑誌だけでなく、子供向けのホビーを前面に押し出した「コミックボンボン」(講談社)が創刊し、ガンプラ作りをメインテーマにした名作「プラモ狂四郎」が生まれた。



 子供ホビーマンガ雑誌「ボンボン」は、残念ながら今はもう休刊してしまったが、あの当時の瞬間的な人気では、今でも子供雑誌の王様を続けている「コロコロコミック」を完全に喰っていたのだ。

 ガンプラブームと時期的に並行して放映されていた別のロボットアニメ作品も人気だった。
 それらの作品は、「ガンダム」以前の、「マジンガーZ」から続いた「スーパーロボット路線」とは一線を画したデザイン、ストーリー展開で「リアルロボット路線」を突き進み、プラモデルもガンプラ人気に乗っかる形でよく売れていた。
 一番人気のガンプラが売っていないので、仕方なく他の作品のプラモを買うということもよくあったのだが、それはそれで納得しての購入だった。
 プラモの質はむしろガンプラより向上していて、模型製作の楽しみを堪能できるものだったのだ。
 しかし、中にはアニメ作品が存在しないのにプラモだけはあるという、ガンプラに箱絵だけ似せた謎のバッタモンシリーズもあり、こちらは中身がとにかく酷かった。
 私は高学年だったのでさすがに騙されなかったが、低学年の子の中にはなけなしのお小遣いをはたいて箱絵は似ていても中身は似ても似つかぬ偽物をつかまされ、ベソをかくという被害報告も多数あった。

 ガンプラ自体がなかなか手に入らないこともあり、他のガンダム関連商品も売れに売れていた。
 当りが出るとガンプラが送ってもらえる「ガンダムチョコ」や、おまけにミニプラモが入った「ガンダムチョコスナック」、アニメのストーリーをダイジェストしたシールブックなどが人気だったと記憶している。
 これらの商品は「当りつき」だったので、子供の射幸心を煽るギャンブル的な要素も、ほんの少し混じっていた。

 品薄をあてこんだ抱き合わせ商法や、もっとひどい場合は「ガンプラ狩り」、プラモ屋に詰めかけた客の将棋倒し事件など、ブームの暗黒面ももちろんあった。
 今と違って子供が溢れていた時代なので、子供の熱はそのまま世相の熱になっていた。
 
 私たち子供は、近所に何件かあった「駄菓子屋的なお店」の店頭で、泣いたり笑ったりしながら、やや毒のあるサブカル消費の密の味を覚えていったのだ。

 そんな世相の中、当時の私は一人の「達人」と出会ったのだった。
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2016年11月27日

「当てもん」の達人1

 私がその少年と出会ったのは、小学五年生の新学期のことだった。
 同じクラスになり、たまたま同じ「算数がかり」になったことから、友だちになった。
 彼は小学生離れした体格で、小柄な私が並ぶと言葉の上だけでなく本当に「頭一つ分」くらい大きく、体重は倍くらいありそうに思えた。
 よく目立つ少年だったので存在は知っていたが、それまで同じクラスになったことはなく、ほぼ初対面のようなものだったはずだ。
 まだ時代は少子化が進む前のことである。
 私が当時通っていた小学校は一学年に五クラスくらいあり、同学年の中でも「知らない子」はけっこうたくさんいたのだ。
 私は子供の頃から孤独癖があったのでさほど友人は多くなかったが、彼とは5〜6年生の二年間、かなり親しく遊びまわっていた。
 彼のキャラクターは強烈で、今でも記憶に焼き付いている。
 以前、彼をモデルにしたキャラクターの登場する物語を書いたこともあって、現在ネット公開中である。

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 図工室の鉄砲合戦


 主人公の工作マニアのメガネ男子にはもちろん私自身が投影されているが、それでもシンクロ率70パーセントと言ったところだ。
 しかしこの物語に登場する「バンブー」という超大型少年は、かつての友人である彼とシンクロ率90パーセント以上で、私の中ではほぼ本人と言ってよい。
 よってこの記事の中での彼の仮名も、物語に準じて「バンブー」と表記することにする。

 バンブーは色々な特技を持っていた。
 何より圧倒的な体格から喧嘩上等、無敵を誇り、一部ではかなり恐れられていたようだ。
 しかし、私は実はその面でのバンブーをあまり知らない。
 噂には聞いていたが、私の知るバンブーはひっきりなしに冗談を連発する明るい少年だった。
 目立つタイプで何かと標的になりやすく、「専守防衛」しているうちに怖がられてしまった面もあったのではないだろうか。
 私から見たバンブーは粗暴なタイプでは全くなく、むしろおバカな小学生男子の中では、ちょっと「浮いてる」くらいに知的な少年だった。
 今から考えると私は当時のバンブーに、多少は話の通じる相手として見てもらえていたのかもしれないなと思う。
 
 そしてバンブーは、「当てもん」の達人でもあった。
 近所に何か所かあった駄菓子屋的なお店や、露天などで「当り」を引き当てる極意を会得していて、賞品をたくさん持っていた。
 それも単に運まかせであるとか経済力に物を言わせるのではなく、きちんとした論理的な方法論のもとに当りを引き当てており、私もその現場を何度も目撃した。
 実は私はその秘密をこっそり伝授されていて、二人で近所のお店の「商品荒し」をやって回っていたのである。
 差支えない程度に、秘伝の一端を紹介してみよう。
(つづく)
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2016年11月28日

「当てもん」の達人2

 私の小学生の頃の友人・バンブー(仮名)は、「当てもん」の達人だった。
 1980年代初頭の駄菓子屋的なお店の店先で、私が特別に伝授された彼の秘術の一端を、差支えない程度に紹介してみよう。
 当時はガンプラブームの真っ只中。
 模型店ではないそうしたお店もガンプラを扱っていたが、何しろ品薄でプラモそのものはなかなか入荷されず、たとえ入荷しても速攻で売り切れた。
 ガンプラそのものがなかなか手に入らないので、関連の「当てもん」が多数存在した。
 中でもガンダムのシーンをダイジェストしたシールブックや、ガンプラを送ってもらえる応募券が当たるチョコ等が一番人気だったと記憶している。
 当然、私たち小学生のターゲットも、第一はガンプラそのもの、第二はそうした関連商品になる。

 バンブーの秘伝は、まずお店の入荷日を知ることから始まる。
 私たちがよく通っていたお店は「前田」という、元々パン屋だったのが駄菓子屋的に収斂進化したお店だった。
 例えばその「前田」というお店であれば、バンブーの綿密な観察によると、毎週木曜日が「本業」のパン以外の雑貨の入荷日になっていた。
 バンブーの教えによると、当り付きの商品は入荷した時点が一番賞品が残っており、その後はだんだん減っていって、入荷日から日が経つと、下手したら当りがなくなってるのに売り続けられている場合があるとのこと。
 だから、当てに行くなら入荷日をねらわなければ不利なのだ。
 他にも、箱詰めで入荷される商品の場合は、その箱を開封した瞬間でないと通用しない方法がいくつかあるそうで、ぜひとも入荷当日でなければならないのだ。

 ガンダムシールブックを例に、もう少し手の内を明かしてみよう。
 これは、三枚のシールが入った小封筒を買い、中身のシールの裏に「当り」と書いてあると、ストーリー順に貼れるシールブックがもらえる仕組みだ。
 バンブーの教えの基本は、「当てもんは工場で作られている」という大前提にあった。
 シールブックであれば、当りシールの入っている封筒は別ラインで作られていてるので、一見同じデザインに見えても微妙な違いがあるからよく観察しろというのだ。
 ホンマかいなと思いながら、入荷日の木曜日に開封されたばかりの箱の中の封筒を順に観察すると、たしかにいくつか、ある「違い」の認められるものがあった。
 それらをピックアップして店主である「前田のおばはん」に渡して代金を払う。
 ドキドキしながら中身をあらためてみると、全てではないが大体三分の一くらいの確率で「当り」が入っていた。
 これは全くの運まかせに比べると、驚異的な確率と言えた。
 バンブーと私は毎週入荷日の「前田」を襲撃して、シールブックの当りをほとんどさらってしまい、おばはんにいやな顔をされたりしていた。
 顔はしかめられたけれども、丹念に選んでいるだけで不正をやっているわけではなく、またバンブーと私は毎週いくらかの小遣いを使ってくれるお得意様でもあったので、追い出されたりはしなかった。
 余分にゲットしたシールブックをネタに、バンブーと私はまだ埋まっていないシーンのシールを他の子供と物々交換してコンプリートし、ガンダムのストーリーの大筋を名シーンの数々と共に知ることができた。
 当時私たちの住む地方では、まだビデオ録画がさほど一般化していなかった。
 初回放映時不人気だった「ガンダム」のストーリーは、プラモデルに付属している断片的な解説や、こうしたダイジェスト情報を元に、子供たちの間に広まっていったのだ。
 確か、プラモデル→断片的な情報→再放送→映画化というような、情報の伝播の仕方だったと記憶している。

 ガンプラの応募券が当りとして入ったチョコも、同じような理屈である「コツ」があったのだが、こちらはバンブーだけでなく他にも気づいた子供がいたようで、すぐ噂になってあまり有利に進められなくなってしまった。

「人間がやってることには必ず何か攻略法がある。無いと思うのはまだ見つけてないだけ」

 そんな風に、バンブーはよく言っていた。
 今でも時々その言葉を思い出す。
(つづく)
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2016年11月29日

「当てもん」の達人3

 バンブーの「当てもん」の秘伝は他にもいくつかあったが、はるか昔のこととは言え、私と彼の間の機密事項なので手の内を明かすのはこの辺にしておく。
 まあ、そもそも当時の当てもんで今も残っているものはほとんど無いし、当り付き商品の形態もかなり変化しているので、秘密も糞もないのだけれども(笑)
 
 バンブーの教えを受け、私が開発した手法もある。
 今でいう「ガシャポン」のことを、私の住む地方では当時「ガチャガチャ」と呼んでいて、そのガチャガチャにも当り付きがあった。
 昔のガチャガチャは一回20円〜50円くらいで、今の物よりカプセルがずっと小さく、中身もショボかったのだが、中にはわりと豪華な景品が当たるものもあった。
 小さなカプセルに景品は入らないので、カプセルと同じ大きさの「当り」と表記されたプラスティックボールがガチャガチャの機械に混入してあって、それ目当てになけなしの小遣いを投入するのだ。
 しかし、景品が豪華であるほど当りボールは少なく、それと反比例して他のカプセルに入っているオモチャは誰も欲しがらないような屑が多くなっていて、そうした屑をつかまされた多くの子供たちが涙を飲んでいた。
 私もバンブーと出会うまでは運まかせで闇雲に小遣いを投入し、泣かされてきたのだが、バンブーの教えを受けてからは、まず「観察」することを覚えた。
 当りボールはガチャガチャの機械の透明な容器の外周の、よく見える位置に詰められていて、さもゲットできそうに見える。
 しかし、ハズレの屑カプセルが外から見えにくい中の方にぎっしり詰められていて、順番としてはそちらから排出されていくので、見た目ほどには当りは出ないのだ。
 だから新しい当り付きガチャガチャが出たときは、あわてず騒がず、まずはゆっくり待つ。
 無邪気な他の「被害者」に、先に屑を引いてもらうのだ。
 そして、半分くらいまでカプセルが排出されたあたりからが勝負になる。
 この時期になるとかなり当りボールも出やすくなっているのだが、さらに万全を期すためにガチャガチャの機械を激しくシェイクする。
 すると、当りボールは中身の入った屑カプセルより軽いので、上の方に浮かび上がってくるのだ。
 下の方に残った屑カプセルを他の無邪気な「被害者」に引いてもらい、さらに当りの確率を高める。
 何度か繰り返して様子を見て、機会の底の方の排出口周辺に当りボールがたくさん残っている段階になって初めて、集中して小遣いを投入するのだ。
 この手法の欠点は、何度か機会を激しくシェイクしなければならないので、そこをお店の人に見つかるとイタズラだと思われてかなり怒られることだ。
 昔の大人はけっこう怖かった。
 今では考えられないことだが、ゲンコツで頭をゴツンとやられるくらいのことは、しょっちゅうあったのだ。
 あまりスマートなやり方とは言えなかったが、バンブーの教えがあってこそ開発できた必勝法だった。

 バンブーはまた、「楽しみ方」の達人でもあった。
 当時の当てもんの中の一つに、スロットカードがあった。
 3×3=9の銀はがしがあるカードで、縦横斜めのどれかが三つそろうと景品がもらえるやつだ。
 これは攻略法が見つかっておらず、運まかせしかなかったのだが、バンブーは銀はがしの手順にもこだわりを見せた。
 私が二個そろった時点で喜んで三つ目を削ろうとすると、「そこは保留して、他を削った方がいい」とアドバイスされた。
 あせって三つ目を削ると、それで結果が当りでもハズレでも、ドキドキ感はそれまでになってしまう。
 三つそろう可能性のある列の結論を出すのは後にとっておいて、他の可能性も探しながら削った方が、同じ一枚のカードでも楽しめるというのだ。
 言われたように保留しながら削っていくと、確かに結果が当りでもハズレでも、ドキドキ感が全然違った。
 一枚のカードから汲み出せる「楽しみ」の量が、段違いに増えるのだ。
 そして、一人でやるより二人や三人でやる方が、ずっと長く盛り上がれることもわかった。



 その後バンブーとは中学が分かれたこともあり、付き合いがなくなっていったが、今でもたまに彼のことは思い出す。
 バンブーには「当てもん」を通して「ものの見方」とか「世の中の楽しみ方」を教えてもらった気がするのだ。
 そしてそれもこれも、駄菓子屋的な店先の空間あってのことで、こっぴどく怒られながらも、さんざん楽しませてもらったお店の人には、今は感謝の気持ちしかない。

 前田のおばはん、ありがとう。
(「当てもん」の達人 完)
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする