絵画教室で専門の指導を受けることになった私は、それまで自分なりに絵を描いてきた自負心などは、一切捨てることにした。
なにしろ私には、一年間しか時間がないのだ。先生の指導自体についてあれこれ悩んでいる余裕はないので、とにかく指示されたことは即、実行することにした。
一口にデッサンといっても、鉛筆や木炭、水彩で軽く着色したものまで様々で、教室ごとに「流派」みたいなものもある。
例えば私が指導を受けた先生の場合は、鉛筆デッサンの場合は全てタッチで表現し、木炭のように「こする」ということは一切無かったが、先生によっては鉛筆でも「こする」方法を勧めることもある。
タッチで表現する方が緻密で硬質な雰囲気になるので、私は好みなのだが、美しく仕上げるためにはちょっと時間がかかり、習得にもある程度の期間が必要だ。
私は今でも自分で鉛筆デッサンをするときはタッチで表現するが、濃いめの鉛筆を使って木炭のように「こする」と手っ取り早くハーフトーンを表現できるので、試験時間が短い場合や、短期間で習得しなければならない場合、こする方法を指導することもある。
どれかが唯一の正解ということはないので、好みに応じて習得すれば良いのだが、一から習う場合はごちゃごちゃ考えずに先生の指導に素直にしたがった方が良い。
何かを習う時には100パーセント指示に従うという姿勢は、少年の頃から基本的なマナーとして身に付いており、おかげでこれまで何度も救われてきた。
時が流れて人に指導する立場になってみると、最近の子供の気質も考慮してあまり頭ごなしの押し付けはできなくなっている。
なるべく「そうすることの根拠とメリット」を説明し、納得の上で指導するようにはしている。
しかし何かものを習う時に、習う側が先生と対等のような態度をとるのは、やっぱりおかしいのではないかという意識は変わらない。
能力が不足しているから習うのであって、能力不足の生徒には、言葉による説明が困難な場合も多々ある。
まず理屈抜きで実践してみろという方が、身体技能の分野では当たり前なのだ。
わざわざ習いに来てまで自分のやり方に固執する生徒を見ると「気持ちはわかるけど、それは自分の作品でやらんかね? 時間もないことだし、ここではとにかく受験技術を磨かんかね?」と思うが、まあ口に出すのは我慢する(笑)
強く注意すると、中にはそれきり来なくなる子もいたりするので、ものの言い方には気を遣う。
生徒のキャラを見ながら、伝えても大丈夫そうな子には私がいつ頃からか身に付けた言葉をそっと伝授する。
「修行は相手の土俵で、勝負は自分の土俵で」
私は基本的には独学が好きな人間なのだが、だからこそ独学の限界も知っている。
独学で目一杯まで突き進み、自力で出来ることは解決し尽くし、出来ないことや疑問点をはっきりさせる。
その果てに「面受」で100パーセント指示に従ったとき、理解と習得は怒濤のようにやって来くるのだ。
人の話を聞かない頑固者という傾向は、多かれ少なかれ絵描きにはあるものだが、受験指導でそもそもあまり絵を描いたことがない生徒にデッサンを教える場合は話が逆になる。
それこそ鉛筆の上げ下ろしまで全部指示してもらいたがる子もいたりするので、独学と面受のバランスはけっこう難しい。
短期間に技術を習得しなければならない時、もう一つ大切なのは「教室には無遅刻・無欠席」という基本だ。
そのためには体調管理、スケジュール管理を自分できっちりやらなければならない。
私はこれまで、絵画の実技指導や、小中学生の学習指導はそれなりの期間経験してきたが、時間や用具の管理ができない子の多くは受験に失敗する。
美術実技でも勉強でも、簡単には休まず、始業時間までに持ち物をそろえて机につくというのは基本中の基本だ。
美術系だからと言ってルーズな性格が許されるということはない。
もう少し正確に言うと、日常生活は別にルーズでも構わないのだが、こと美術に関してだけはきっちりしていないと、将来的に稼業にまで繋げるのはとうてい無理なのだ。
体調管理については、高校生の頃の私は不真面目だったとは言え剣道部出身。まだまだ基礎体力の貯金は潤沢に残っていた。
体格やスポーツ的な運動神経には恵まれていなかったが、とにかく無理の効く体の頑丈さはあった。
教室で学べる時間をフル活用するため、私はちょっとした工夫を考えた。
先生の許可を得て始業時間より少し早めに出てその日の授業の準備を手伝い、終わった後は片付けも手伝ったのだ。
準備や片付けを手伝うと、先生がどういう意図でその日の教材を選んでいるのか理解でき、かなり勉強になった。
習い事はなんでもそうだが、教室に入って作業を始めるまでと、終わって帰るまでに、少し時間がかかる。
そういう時間を考慮すると、二時間の教室でも制作に集中できるのは実質1時間30分くらいになってしまうものだが、私の場合は始業時間以前と終業以後に手伝いをしているので、二時間フルにデッサンの勉強に使うことができた。
当時の私の頭の中には、昔風の「弟子入り」のようなイメージがあったのだと思う。
普通、美術や音楽系の受験をする人は、幼い頃からずっと習い事をしていたり、中学生くらいから専門の指導を受けるものだと認識していたので、一年しか時間がない自分は生半可な覚悟ではとうてい間に合わないと考えていた。
それこそ「弟子入り」でもするつもりで、同じ教室に通う中学生が飛び級で大学受験を目指すくらいの勢いで取り組まなければ無理だろうと考えたのだ。
準備や片付けの時に先生の語る雑談が、また面白くて参考になったりした。
私が高校生の頃とは時代が違うので、現在の規模の大きな予備校などでこういう方法はとれないと思うが、要は「直接指導を受けられる時間は貴重なので、無遅刻・無欠席が基本」と言うことだ。
教室でデッサンをするときにはとにかくスピードを心がけ、与えられた課題は必ず時間内にそれなりに完成した形になるよう努めた。
自分が今やろうとしているのは「芸術そのもの」ではなくあくまで受験対策で、じっくり時間をかけて質の高い作品を目指そうとするのとは、目的が違う。
受験対策であるならば、「うまく仕上がるかもしれない未完成作品」よりも「多少アラがあっても完成している作品」の方が、得点が高くなるのは当然だ。
授業が始まって先生の簡単な説明を受け、デッサンのスタートがかかると、私はボクシングの試合でもするつもりで集中した。
目と頭を高速回転させてモデルになっているものを認識し、手を動かし続けた。
少し視線を離して全体の調子を確かめるとき以外は、鉛筆を持つ手を止めなかった。
このあたりは、数学の計算問題を解く時の呼吸と同じだと理解できた。
先生からは教室で描くデッサンとは別に、宿題として一週間に一枚は自宅で描いてくるように指示された。
私は自宅で週に二枚描き、週二回の授業で毎回採点してもらうことを心がけた。
提出したデッサンは全員分が採点して貼り出され、先生が簡単なコメントをつけていく時間があったのだが、これこそまさに「見取り稽古」、人の体験を盗んで我が物にする絶好の機会である。
私はもちろん全員分についてのコメントを聴き逃さぬよう、集中した。
時が流れて指導する側にまわり、人の作品のコメントの時にはそっぽを向いて聞いていない生徒を見ると、「あのな、武道の世界には見取り稽古というものがあって……」と喉元まで出かかった言葉を、またも飲み込む(笑)
そしてごく少数の伝えても大丈夫そうな子に、これまたそっと伝授するのである。