作家には、その後の作風の萌芽がすべてそろったような初期作がある。
よく「処女作には全てがある」と言われるが、実際はどれが「全ての詰まった初期作」にあたるかは、作家がそれなりのキャリアを積んでから振り返ってみないと分からないものだ。
作家が人生で初めて書いた文字通りの処女作がそれにあたる場合もあれば、商業デビュー作である場合もあり、初ヒット作がそれにあたる場合もある。
夢枕獏のケースでは、この「魔獣狩り三部作」がそれにあたるのではないだろうか。
この作品の発表当時、夢枕獏は33歳。
そして執筆開始当時ということであればさらに数年遡るので、デビューは果たしていたが、まだ作家として食っていけるかどうかは不透明な時期だったはずである。
夢枕獏は、この作品によって既存のSF伝奇小説を一段階進化させた。
進化の方向は、露悪的に表現するならば「俗悪に徹する」ことだ。
通俗小説の素材としてウケるもの、暴力もセックスもSFも格闘技も淫祠邪教も全て大盤振る舞いに叩き込み、グツグツと溶鉱炉で煮立て、したたるエキスをインクとしてペンを暴走させた、そんな作品だ。
いまでこそそうした要素を盛り込んだ作品は珍しくもなんともないのだが、この小説が発表されたのは約30年前、1984年である。
当時を知る人なら、夢枕獏と菊池秀行が両輪のように「その道」を開拓していく様を、鮮烈に憶えているのではないかと思う。
パイオニア作品の持つパワーというのは時代を経ても錆びないもので、この「魔獣狩り」もまた、版を重ね、リニューアルを重ねながら読まれ続けている。
本作は、モチーフの一つである「密教」というものを、極めて通俗的な形で表現したもので、「俗悪に徹する」こうした執筆姿勢は、密教というモチーフを表現するのに、一面ではこれほどふさわしいものはないともいえる。
密教、とくにインド後期密教は、経典の中でも図像の中でも、それまでの仏教が扱わなかった俗であり悪である要素を、大胆に導入している。
それは性であり、死であり、呪であり、快楽であり、いずれも人間の欲望に根差した要素である。
これらは欲望と直結するがゆえにエンターテインメントとは切っても切れぬ要素でもある。
密教というものの構成要素には、この「エンターテインメント」的な側面が不可分に組み込まれているのではないだろうか。
俗悪に徹し、面白いということ、ウケるということに特化した上で、なお作家としての良心と純情を捨てずに長い物語を描き切る。
そうしてことが可能であるということを、夢枕獏はこの作品で自身に対して証明し、プロでやっていくための手ごたえをつかんだのではないかと思う。
後に「新・魔獣狩りシリーズ」という長い続編も書かれており、それも大変面白いのだが、初期三部作はこれはこれとして、付け足すものは何もないと感じられるほどに完結している。
そして、この「魔獣狩り三部作」の設定やキャラクターの構成要素は、シャッフルされ、形を変え、よりリアルな形で「キマイラ・シリーズ」にたくさん導入されている。
だから私が執念深く追及している外法曼陀羅を描くにあたっても、外せない作品なのだ。
今読むなら、三部作を合本の形に編集した以下のものが手に取りやすいだろう。
●「魔獣狩り」夢枕獏(ノン・ノベル)
