夢枕獏は、プロレスや格闘技について、かなり踏み込んだ意見を発信し続けてきた作家である。
作品を描く上でのメインテーマとして「強さ」を選び、追及してきたと言っても過言ではないだろう。
一口に「強さ」と言っても様々な広がりが考えられるテーマだが、夢枕獏の場合はごく単純に「実際立ち会って一番強いのは誰か」という、ごくシンプルな強さのことである。
知力、精神力、財力、権力等を含めた強さも視野には入っているけれども、メインテーマは「実際戦った強さ」にこだわり続けている。
何らかのジャンルについて作家が物を書く場合、そのスタンスは大きく二つに分かれる。
自分でも体験してみるか、実体験にはこだわらずあくまで観て聴いて調査することに専念するかだ。
創作において、どちらの姿勢が「上」ということはない。
実体験は、あるに越したことはないが、必要不可欠というわけでもない。
体験しなければ書けない文章もあれば、体験にこだわらず調べつくし考えつくすことでしか書けない文章もある。
実体験に縛られることで、想像の翼が広がらなくなることだってあるのだ。
夢枕獏の場合、登山についてはかなり専門的な実体験があるが、格闘技に関しては具体的に何らかの流派を学んだということはないはずである。
基本的には「観るだけ」の立場であるにもかかわらず、夢枕獏は作家としてのキャリアのほとんど全期間、創作やエッセイで「強さ」について語り続けてきた。
現実のプロレス/格闘技の動向について、フィクションではなく語った作品には、たとえば以下のようなものがある。
●「格闘漂流・猛き風に告げよ―私説UWF伝」
●「群狼の旗」
ときにレスラーや格闘家の代弁者として「やる方」の人間からも敬意を払われながら、ときには反発され、ギクシャクし、奇妙な「謝罪文」を書いたりしながらも、決して語ることをやめなかった。
殺人的なスケジュールの合間を縫ってプロレスや格闘技の試合に足を運び、その結果体を壊して入院してしまったことすらあるという。
格闘技を「観る方」としてはこれ以上ないほど「実体験」として観続けてきたのだ。
とくに80年代後半から90年代にかけては、夢枕獏の文章と、現実世界の格闘技の動向がある意味「共振」するように進化し、「総合格闘技」とか「最強トーナメント」という夢想が次々に実体化して行った時代であるとも言えるのだ。
その過剰な思い入れ、費やした時間と金と情熱を盾に(というわけでもないのだろうけれども)、夢枕獏は作品として存分に書き、エッセイの類では傍観者の立場から一歩も二歩も踏み込み続けてきた。
実際に格闘技を「やる方」からは、「観るだけの人間が好き勝手な想像で語るな」という反発は当然あり得る。
しかし、いくら実際「やる方」のものの見方や感じ方は尊重されるべきだとは言え、プロとして興業の場に出てきたからには、金を払い、時間を割いて観に来た客に様々に語られることは、覚悟しなければならない。
公開される試合に出るということは「表現」の場に立つということだ。
ひとたび表現の場に立った者は、受け手の自由な感想に晒されるのは当然なのだ。
観た者、とくに身銭を切った者には、その思いのたけを表現する権利がある。
だから夢枕獏が、格闘技に対して注ぎ込んだ情熱の対価として、思うがままに語り続けることは、それはそれで正しいのだ。
さらに踏み込めば、夢枕獏は自分の作品について、過剰な思い入れを持つファンの好き勝手な「語り」も、覚悟しているということになるだろう。
作中描写、とくに戦いの場面の描写でも繰り返し、「他人に何かするときは、自分が同じことをされてもかまわないという覚悟のもとにやるべきだ」という意味のことが書かれている。
だから私も、夢枕獏については「その覚悟」を決めつつ語り、また描くのである。
