2016年12月22日

「写経」の功徳

 よく「写経」的な行為をやっている。
 神仏与太話ブログでこのように書くと、文字通り般若心経等の経典を筆写しているかのように受け取られそうだが、私の場合は少し事情が違う。
 物語の絵解きをやるための準備、鍛錬として、各種の文章や図像を筆写しているのだ。
 このブログで絵解きをやってきた物語の多くも、最初は原典の筆写から始めている。
 たとえば、以下のようなもの。

 極楽往生源大夫
 どろのうみ

 さすがに毛筆や半紙、巻紙までは使わないが、ノートにひとまず一文字一文字丹念に書き写す。
 原典の分量にもよるが、説話程度の長さであれば、最初から終りまで全て筆写する。
 声に出して繰り返し読むこともする。
 あまりに原典が長い場合は音読を中心にして、部分的な筆写にとどめる場合もあるが、なるべく全部書くことにはこだわる。
 挿絵がある場合はそれも筆写する。
 内容や時代背景等で関連する図像を集め、それらもできる限り筆写する。
 とにかく手を動かし、声に出して物語を自分の身体に通してみる。
 自分の作品としての制作を始めるのは、それらの鍛錬を一通り終えたあとだ。
 実際に制作を始めてからは、あまり集めた資料を開く必要が無いほどに、心身に原典が蓄積されている状態が望ましい。
 
 このような鍛錬法は、かなり若い時、中高生の頃にはもう始めていたはずだ。
 当時著書を愛読していたムツゴロウ、畑正憲さんが、何かの本の中で文章表現の練習法として「好きな作家の作品を丸ごと全部筆写しなさい」という意味のことを勧めていた記憶があるので、たぶんその影響だと思う。
 以来、ムツゴロウさんの言葉通りではないけれども、文章でも絵でもとにかく大量の「筆写」から始めるのが私のスタイルになっている。
 その効果、功徳はかなりはっきりしていて、やっているのとやっていないのでは歴然と違う。
 作品制作が思うように進まない場合は「筆写パワー」が足りない場合が多く、遠回りに見えてももう一度書き写しに立ち返るのが良い。

 ところがこの鍛錬法、人に勧めてもまず実行してはもらえない(苦笑)
 たまに美術系の進路相談を受けることがあるのだが、本音では以下のように思っている。

「好きな表現者の作品をとにかく模写しまくれ! 百枚描けたら、そこから個別の技術指導が始められる!」

 私は自分の経験から「これ以上の近道はない」と本気で考えているのだが、このような本音を漏らそうものなら生徒はそそくさと退席し、二度と相談に来なくなるのが通例だ。
 もう少し表現をマイルドにしながら、手を変え品を変えて筆写的な要素を指導に盛り込んでいかなければ生徒はついてこない。

 昔は学習指導等でも、もっと「筆写」や「音読」が重視されていたと思うのだが、最近はそのような地道な指導法に黙って従う時代でもないのだろう。
 しかし、何度でも書くが、結局はそれが一番近道なのである。
 聞く耳を持ち、志を持つ児童生徒には、今後も伝えていきたい鍛錬法だ。
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする