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2017年01月01日

2017年、新年のご挨拶

 新年あけましておめでとうございます。

 引き続きぼちぼちではありますけれども「人生でずっとやりたかったけれど、今までやれなかったこと」を形にしていきたいと思います。
 神仏与太話ブログ「縁日草子」、今年もよろしくお付き合いください。

 例年のごとく、ブログでは一回り前の年賀状に使ったデザインをアップしておきたいと思います。

2005tori.jpg


 今思い出しましたが、この作品は私の初CGです。
 12年前の年賀状に切り絵でこの図柄を作り、試しにWindowsXPのアクセサリ「ペイント」を使って着色してみたのがCG制作始まりだったのでした。
 あれからなんと遠くまで来たものか……

 よし大丈夫、俺はまだまだ右肩上がり!
posted by 九郎 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

夏目漱石「夢十夜」

 昨年2016年の12月9日は夏目漱石の没後100年ということで、「夢十夜」が話題にのぼるシーンを度々TV等で見かけた。
 有名な「第一夜」のラストシーン、「百年はもう来ていたんだな」という独白にちなんでの取り上げ方だった。

 私は幼いころから独自にの探求を続けてきたので、他人の夢についても興味があり、夢をテーマにした作品は色々渉猟してきた。
 中でも夏目漱石の「夢十夜」は大好きな作品で、これまで何度となく読み返してきた。
 とくに第一夜は個人的に「最も美しい小説」だと感じていて、長年その評価は変わっていない。
 
 夏目漱石は没後100年なので、著作権は既に失効しており、その作品の多くはネットでも無料公開されている。
 青空文庫「夢十夜」

 kindle無料本もある。


 今読むと、十夜の夢それぞれの仕上げ方には違いを感じる。
 見た夢をそのまま記録したような作品もあれば、かなり推敲を重ねたと思しき作品もある。
 第一夜は何度も手を入れて仕上げているのではないかと感じるが、本当のところは漱石本人にしかわからないだろう。
 夢では見ていないものもあるかもしれない。

 夢はメモに残した時点で多かれ少なかれ作品化されているものだ。
 原稿段階の加工の度合いの大小は、作品の良し悪しとはあまり関係がない。
 加工した方が良い夢もあれば、メモ書きそのままの方が雰囲気が伝わる夢もある。

 この作品は多くの絵描きの創作意欲を刺激する作品でもあるようで、視覚化の試みも数多い。
 私もハシクレとは言え絵描きなので、ずっと「夢十夜」は気になっていた。
 また久々に読み返してみよう。
posted by 九郎 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2017年01月06日

「スーパーロボット」の誕生

 そもそも日本のTVアニメはロボットアニメから始まった。
 言わずと知れた「鉄腕アトム」(1963年〜)である。
 手塚治虫によって、週一回30分枠のアニメ制作が可能であること、それがどうやらビジネスに結びつくらしいことが実証されたのだが、それは多分に「マンガの神様」の天才と狂気に負うところが大きかった。
 手塚治虫は日本のマンガ・アニメの生みの親であると同時に、現在のアニメ制作現場が抱える様々な問題点、劣悪な労働環境も生み出してしまったのだが、それはまた別の話。
 作品そのものに含まれる要素で考えるなら、「鉄腕アトム」には後のロボットアニメに継承される根幹部分は全てそろっていた。
 等身大ロボット、巨大ロボット・バトル、メディアミックス、キャラクターグッズ展開など、後発のロボットアニメは「アトム」の要素を受け継ぎ、一部抽出したり新たな要素を次々に添付することで発展したと言ってよいだろう。
 巨大ロボット・バトルの要素を抽出し、「人間が操る」という要素を加えれば「鉄人28号」になり、「兵器としての操縦型巨大ロボット」の流れができた。
 コミュニケーション可能な等身大ロボットの要素は、「人間と機械の融合」という要素を加えた「エイトマン」をはじめ、サイボーグテーマのマンガやアニメ、特撮作品に継承されて行った。

 アトム以降のロボットアニメを新次元に進化させた例としては、なんといっても永井豪の「マジンガーZ」(1972年〜)が挙げられる。
 時代的にはアニメもマンガも「スポ根モノ」の全盛期で、手塚から始まるSF路線、ロボット路線の人気が低迷していた時期である。
 そんな時期に再び子供の興味を巨大ロボットに引き戻したのが、「マジンガーZ」だったのだ。
 手塚から石ノ森章太郎、永井豪へと続くラインは、ある意味で日本のSFマンガの直系とも言えるだろう。
 先行するロボットモノの要素を継承しながら、「マジンガーZ」から独自に創出された要素も数多い。
 何よりもまず、実際に人が乗り込む「搭乗型巨大ロボット」であることが特筆される。
 これにより、鉄人28号の遠隔操作型より主人公との一体感が増し、バトル描写に臨場感が生まれたのだ。
 人体を十倍に拡大した18m前後の設定、コクピットを兼ねた小型戦闘機との合体、飛行ユニットとの合体も、既に「マジンガーZ」から始まっている。
 他にも、
・下手すると悪役に見えてしまいそうな悪魔的なデザイン。
・新素材や新エネルギーによる高性能化の理屈付け。
・続編である「グレートマジンガー」まで含めると、主役機の交代劇。
・同じく永井豪率いるダイナミックプロ原作の「ゲッターロボ」まで含めると、複数のチームマシンによる変形合体。
 などなど、後のロボットアニメにも継承される「ウケる」要素が、これでもかというほど「マジンガーZ」をはじめとする一連のダイナミックプロ原案の作品で創出された。
 他ならぬ「スーパーロボット」という呼称自体が「Z」の主題歌の歌詞の一節で、勇ましく戦闘的なアニメソングの系譜も同じ主題歌から始まったのだ。

 そしてこれらのダイナミックプロによるスーパーロボット作品は、TVアニメ先行の企画であった。
 マンガ版は必ずしも「原作」ではなく、アニメ版と並行した別作品という体裁になっている。
 こうした構図はほぼ同時期に制作された石ノ森章太郎原作の特撮番組「仮面ライダー」等とも共通している。
(TVアニメと並行したマンガ版が、マンガ家のSF的「暴走」により、制約の多いアニメとはかけ離れた展開を見せることもあり、そちらもかなり興味深いテーマなのだが、今回は省略)

 マジンガーZは玩具にも進化をもたらした。
 ダイカスト素材を使用した頑丈で重量感のある「超合金」と、軽量で比較的大型のソフトビニール製玩具は、以後のスーパーロボットアニメの定番アイテムになり、おもちゃメーカーが作品を提供するビジネスモデルが確立した。
 30分枠の一話完結方式で主役ロボットが活躍する構図は、「ロボットプロレス」と言われながらも多くの作品を生み、私はまさにその全盛期に子供時代を過ごしたのだ。



 今から五年前の「マジンガーZ生誕40周年」の時に描いたのが以下の一枚。

majin-z-01.jpg


 記憶と勢いだけで描いたのでさすがに細部は間違っているが、子供の頃の「お絵かき」は、やはり自分の絵柄の基礎になっていると感じる。

 TVアニメのアナザーストーリーにあたるマンガ版のマジンガーについては、以下の記事を参照。
 空にそびえる鉄の城1
 空にそびえる鉄の城2

 近年、永井豪自身が過去の有名作の創作秘話を明かすマンガも制作されている。
 マジンガーZについては、以下に詳述されている。


●「激マン!マジンガーZ編」永井豪とダイナミックプロ(ニチブンコミックス)
 おそらく全五巻。
 マンガ内マンガとして、マジンガーZを今の作画密度で描き直したものがかなり挿入されている。
posted by 九郎 at 10:07| Comment(2) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

玩具の進化とリアルな描写の導入

 スーパーロボットの生みの親である永井豪とダイナミックプロのデザインは、シンプルで力強く、ちょっと悪魔的な魅力もあり、子供の心を鷲掴みにするものだったけれども、立体物になったときの整合性は、必ずしも考慮されていなかった。
 そもそも企画・デザイン段階では「玩具を売って儲けを出す」というビジネスモデルを前提にしていなかったのだから、これは仕方がない面もある。
 マンガやアニメのマジンガーZをデザインそのままに立体化しても、「ポーズをつける」という遊び方はほとんど見込めなかった。
 出来てもせいぜい腕の前後スイングや、首を左右にふるくらいのもので、実際出来上がった超合金やソフビの玩具も、まさにその程度の関節可動しかなかったのだ。
 ましてやゲッターロボの複雑な変形合体などは全く不可能だった。

 ビジネスモデルが確立し、玩具の販売がTVアニメ企画の前提になると、実際に立体化された時の整合性や、変形合体が可能なデザインが求められるようになった。
 そうしたニーズをデザインに反映させることに成功したのが、後の「ガンダム」のメカニックデザインを担当することになる大河原邦男や、「スタジオぬえ」等のメカニックデザイン専門のスタッフだった。 
 日本の物作りの伝統は「たかがロボットの玩具」にも十分に発揮され、アニメで見るのと近いレベルの変形合体が、玩具でも再現されるようになった。
 ただ、ダイカスト製の「超合金」は、複雑な変形合体を再現したものほど大型化し、高価になりやすく、子供の小遣いでは容易に買えない「高嶺の花」になっていった。
 高額化した超合金の廉価版という意味合いで、変形や色分け、耐久性を多少犠牲にしたプラスティック製玩具も発売されるようになり、組み立て式のプラモデルもその中の一つだった。

 一話完結の「ロボットプロレス」アニメは、低年齢の子供にも分かりやすい魅力があったが、ある程度の年齢になると視聴者や玩具の消費者としては「卒業」していくのが通例だった。
 そうした卒業組を、視聴者として再びTVアニメに呼び戻せるだけのドラマ性、デザイン性を盛り込むことに成功したのがアニメ「宇宙戦艦ヤマト」だった。
 ヤマトには「巨大ロボ」こそ登場しなかったが、作中の宇宙戦艦、戦闘機のデザインは、実在の艦船や戦闘機などのメカニックを元にSF的に洗練したもので、目の肥えた年齢層にも十分届いた。
 ヤマトのメカニックデザインの主導権が誰にあったかということには諸説あるが、マンガ家の松本零士は生粋のミリタリーマニア、プラモデルマニアであり、スタジオぬえはSF考証や最新技術の反映に長けていた。
 共同作業による効果があったということで良いのではないかと思う。
 プラモデル化した時の見栄えも良く、後にガンプラを制作することになるバンダイは、ヤマトシリーズの宇宙戦艦や戦闘機等を多数手がけることで、リアルなSFモデルを立体化させる経験値を蓄積させ、市場を開拓していった。

 ロボットアニメはロボットアニメで、低年齢層をターゲットに新作が作られ続け、「玩具の30分CM」という制約の枠内ではあるけれども、可能な限りドラマ性を盛り込むことが模索され続けた。
 当時のロボットアニメがいかに高度なドラマ性を持ち始めていたかということは、以前に一度記事にした音がある。
 フェイクがどうした!


 そんな流れの中で異能を発揮していったのが、「勇者ライディーン」「無敵超人ザンボット3」等で活躍した監督・富野喜幸であり、キャラクターデザイン・安彦良和だった。
 富野、安彦、そしてメカニックデザインの大河原邦男は、後に「ガンダム」で合流し、ロボットアニメにマジンガーZ以来の二度目の劇的な進化をもたらし、空前のガンプラブームを勃発させることになったのだ。
 ただ、ガンダムで起こった劇的進化は、作品を創り上げたスタッフの異能だけではなく、玩具メーカーの技術発展、視聴する側・玩具を消費する側の成熟など、全ての条件がタイミングよく結集した結果であったとも言える。
 何かの作品が爆発的にヒットするということには、その作品の質と共に、広く受容される機運のようなものが不可欠なのだ。

 
 70年代のロボットアニメはまさに「スーパーロボット」の時代だった。
 そこから80年代の「リアルロボット」へと再度進化する過程は、やはりその中心近くにいたメカニックデザイナー・大河原邦男の軌跡を追うことで理解しやすくなる。


●「メカニックデザイナーの仕事論 ヤッターマン、ガンダムを描いた職人」大河原邦男(光文社新書)

 昨年2016年から開催されている大規模な「大河原邦男展」の図録も素晴らしい。
 大河原邦男展
 現在、九州で開催中の模様。

 生頼範義展と言い、今九州がアツいのか……
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2017年01月08日

「リアルロボット」の誕生

 ロボットアニメにドラマ性やリアルな描写を持ち込もうとすると、「人型ロボットは、兵器としてリアルであり得るのか」という根本的な問題と直面しなければならなくなる。
 マッドサイエンティストじみた博士が、個人レベルの研究所で巨大ロボットを開発し、それが地球の命運を担えるほどの性能を持っているというスーパーロボット的な基本設定は、低年齢向けのロボットプロレス・アニメであればこそ成立する。
 ガンダム以前のスーパーロボットは、そこの部分はあまり深く突っ込まないようにして作られてきた。
 デザイン的にはヒーローロボとしての見栄え(人間っぽい顔立ちや、赤青黄などの原色を多用した色分け)や、玩具で立体化した時の整合性をクリアーできるよう、かなり厳密に配慮されてきた。
 しかしそれは、あくまで「子供に売れる玩具」としてのデザイン・整合性であって、「現実にあり得る兵器」としてのリアルさとはまた別だ。
 リアルな兵器として考えるなら、そもそも個人レベルの研究所が開発した少数の機体が、国家レベルの軍事組織を差し置いてwarの趨勢を決定することはあり得ない。
 また、地上戦であれば車両、空中戦であれば航空機を上回る運動性能を、「人型ロボット」が持ち得るとは考えにくい。
 百歩譲ってロボットの手足の機能にあたる「二足歩行」や「汎用性のあるマニピュレーター」には有用な局面があり得るとしても、「目鼻口のそろった人間っぽい顔立ち」の必要性には理屈付けのしようがない。
 色に関しても原色多用に実戦性は見込めない。

 「宇宙戦艦ヤマト」の場合は、「戦闘用巨大ロボットを出さない」ということでリアルな描写を担保した面があった。
 ヤマトのメカニックデザインは、無重力の宇宙空間の兵器としては、重力のある地球上の艦船や戦闘機の形態を引きずりすぎている感はある。
 しかし、だからこそ一般視聴者にも「リアルである」と伝わりやすいし、一応「惑星の重力圏内と宇宙空間の兼用であるから」という理屈付けもできているのだ。

 リアルロボット・アニメの始祖である「機動戦士ガンダム」は、「人型の巨大メカが兵器として有用であることの理屈付け」に徹底的にこだわった作品だった。
 企画段階では「巨大ロボ」というより、「宇宙空間で生命を維持し、人体の機能を拡張するためのパワードスーツ」という概念から出発しており、実際に作品化された時の「モビルスーツ」という呼称にはその名残がある。
 無重力の宇宙空間と、一部重力があるスペースコロニーでの作業、戦闘のためのメカニックであれば、「人型」であることの理屈付けは可能になってくる。
 初期の、リアルなパワードスーツ的なデザインの要素は、脇役のガンキャノンの方に残っているように見える。
 玩具メーカーの提供を受ける必要性から、徐々にパワードスーツは巨大化し、デザインにも「スーパーロボット」的な要素が盛り込まれるようになったようだ。
 人体の10倍にあたる18m前後の身長も、現行の戦闘機等と比較すると違和感のないサイズ設定になっている。(だからこそ後に発売されたガンプラも、模型としての定型を踏襲したスケールでシリーズ化できた)
 主役機であるガンダムのデザインは、「メカとしてのリアルさ」と「玩具として売れるスーパーロボット」の要素の、ぎりぎりのせめぎあいの中で産み落とされた。
 初期デザインでは目鼻口のついた「顔」があったが、人間的に見えるツインアイだけ残され、口元は排気口のような意匠が付いたマスクで覆われた。
 白を基調とした航空機的な色合いながら、一部玩具的に赤青黄を取り入れた形にまとめられた。
 コクピット兼脱出ポッドのコアファイターは、当初は「味方側」の三機(ガンダム、ガンキャノン、ガンタンク)の上半身と下半身を、自在に組み替えるための変形合体システムとして発案されたようが、これらの設定は、実際の作品作りにはあまり生かされなかった。
 言葉は悪いが「スポンサーから金を引っ張るための方便」という意味合いが強かったのかもしれない。
 後に番組がスタートし、視聴率が低迷すると、テコ入れ策としてガンダムのパワーアップパーツとして様々な合体変形パターンが可能な「Gアーマー」も登場するが、相変わらず作品内容とはあまりかみ合っておらず、後に映画化された時には「なかったこと」になっていた。
 味方側に比べ、敵側のジオンのモビルスーツザクには、制約の少ない分、存分にミリタリー色が強い、リアルなデザインが採用された。
 何よりも特筆すべきは、敵も味方もモビルスーツは現行の戦車や戦闘機と同じような「局地戦の一兵器」に過ぎないという、「強さのバランスのリアルさ」が採用されたことだろう。

 以前にも書いたが、「ガンダム」は要約するならば「戦争に巻き込まれた難民の少年少女たちのサバイバルストーリー」であった。
 見た目上の敵味方は存在するが、スーパーロボット的な勧善懲悪のシンプルな物語ではない。
 表立って描かれることは無かったが、裏のストーリーとして「搾取された宇宙移民の独立運動」とか、「独立戦争に名を借りた軍事独裁体制」などの政治劇の要素が匂わされていて、やろうと思えばいくらでも深読みができる作品だった。
 表の主人公であるアムロ・レイたち少年少女たちの多くは、「敵」というよりは巻き込まれた極限状態と戦っているのであり、志願兵ではなかった。
 本来兵士向きとは思えない内向的な主人公アムロは、パイロットとしての適性を開花させるほどに、その能力を戦争の道具として利用されていく。
 そんな痛ましさを執拗に描くところに、それまでのロボットアニメにないリアルさがあり、次回予告の決め台詞にある通り「キミは生き残れるか?」と、視ている側にも問いかける作品であったのだ。

 そうしたリアルさと同時に、それでも「ガンダム」はスーパーロボット的な魅力もあわせ持っていた。
 先にも書いた通り、主役機ガンダムはスポンサーの意向を汲んで「人間的な顔立ち、原色多用、合体変形」の要素を残していたし、30分の枠内で必ず一回は敵モビルスーツとのバトルが入っていた。
 大河原邦男のデザインはリアルと分かりやすいシンプルを両立させており、安彦良和の作る「絵」はダイナミックな格闘戦の面白さを存分に描き出した。
 結果的にはスポンサーの意向という「枷」が、幅広い年齢層に届く作品の形成にプラスの効果をもたらしたということになるだろう。
 
 作り手の高い志と、視聴率や玩具の売り上げ。
 ストーリーのリアルと、それに見合うだけのメカニックデザインのリアル、そしてどうしても捨てられない「玩具を売らなければならない」という宿命。
 相反する要素がギチギチと作品内でぶつかりながら、何とか危ういバランスを保ちつつ、アニメ制作は続く。
 しかし、1979年の初回放映時の結果は、残念ながら「打ち切り」だった。
 そこからの再評価、劇場版の大ヒットという奇跡の復活を遂げ、空前のガンプラブームが起こる顛末は、以前記事に書いたことがある。

 地方の小学生が体感したガンプラブーム

 このように「ガンダム」によってロボットアニメは新次元に突入した。
 そして80年代半ば過ぎごろまで、スーパーロボットから一段階進化した「リアルロボット」の時代は続くことになり、関連商品の主流も、超合金等の玩具から、リアルなプラモデルへと移行していったのである。
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2017年01月09日

「十日戎」関連記事まとめ

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 1月10日は「十日戎」。エビス神を祀る神社では、9,10,11日に縁日が開かれる。西宮神社の「福男」などが、毎年ニュースで紹介されて有名だ。

 私のうちの近くでも十日戎が行われている。華やかな縁起物が神社の境内を彩り、「商売繁盛、家内安全」を祈願した極めて俗で現世利益的な雰囲気が楽しい。

 そう言えばクリスマスにサンタと大黒の類似を紹介したこともあるが、正月を挟んだ前後に、大黒と恵比寿ゆかりの行事が根付いているのは、めでたくも面白い。

【ゑびす関連記事】
宵ゑびす
ゑびす縁起物
十日戎
ゑびす大黒
漂着神
お盆2010


 当ブログでは十日戎の時期に、この猥雑で楽しい縁日の風景の中、一杯ひっかけながら様々に妄想をめぐらすことが多い。
 以下にまとめておこう。

 祭礼の夜
 祭礼の夜2
 祭礼の夜3
 祭礼の夜4
 祭礼の夜5
 祭礼の夜6
 祭礼の夜7
 祭礼の夜8
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2017年01月10日

祭礼の夜9

 十日戎の喧騒を楽しみながら、そぞろ歩き。
 最近は世知辛くて、屋台は午後11時で終了するという。
 以前は深夜まで盛り上がっていたのだが、ご近所の苦情で数年前から早じまいになったとのこと。
 年に3日の縁日が、そんなに耐えがたいほど迷惑か?
 そう言えば除夜の鐘がうるさいからと、夜中に撞けなくなったお寺もあるとか。
 俺の感覚で言えば「嫌なら神社仏閣の近所に住むな!」でおしまいなのだが、そんな感覚が通じないのが今の世の中か。
 保育園が「迷惑施設」扱いになるとか、そんなことばかりがまかり通ると、どんどん住みづらい国になっていくと思うのだけれども、こんな感じ方は少数派なのだろうな。
 
 まあ、しょせん俺は昔から少数派なのである。
 そもそも弱視児童から出発してるし、偏屈者だし、絵描きだし。
 それでも普段はなるべく周りに合わせる努力はしてるが、せっかくの匿名ブログ。
 思うところは書いておきたいものである。

 十日戎の賑わいの中、今年も世間の風潮とは合わない本を一冊、ご紹介。


●「やくざと芸能界 」なべおさみ(講談社+α文庫)
●「やくざと芸能と 私の愛した日本人」なべおさみ(イースト・プレス)
 執筆開始の時点では、「役者なべおさみ自伝」というような体裁で書き起こされたのではないだろうか。
 やんちゃものの少年時代からアウトローの世界に半歩ほど足を踏み入れつつも、侠気ある面々に支えられ、諭されながら、やがて若者は「ヤクザ」ならぬ「役者」となった。
 負けん気で才気走った若者が身一つで飛び込んだ世界には、多くの不思議な縁、出会いが待っていた。
 芸能、文化、政治、アウトローなど、各界で伝説的な人物たちと面受の機会に恵まれたのは、昭和という時代背景もあるだろうし、著者自身の人徳のようなものもあるだろう。
 そうした出会いに彩られた自伝は単なる個人史の範囲を越え、やがて単行本版の帯にある「知られざる昭和裏面史」というレベルすら越えていく。
 日本の芸能史に深く分け入って書き進めるうちに、「文字に残されていない日本分化史」にまで拡大していくのである。
 それは史実として学問的に裏付けられる性質のものではないだろうけれども、著者が自身の人生の中で練り上げた「神話」であるだけに、説得力とリアリティを持っている。
 細かな固有名詞や事象の当否は分からないけれども、日本の芸能・アウトロー史を概観する「物語」としては、十分首肯できるものになっていると思う。

 芸能とヤクザの世界の密な繋がりは、遠く中世以前まで遡る。
 共通の階層に属する者たちが、凄まじい貧困の中、互いに支え合いながら、したたかに生き延びてきたと解するのが妥当なのだ。
 注目に値するのは江戸時代の為政者の狡猾な知恵だ。
 芸能者やヤクザ者にも一定の居場所と稼業を認め、庶民の生活のガス抜きや治安維持の補完機能として利用してきたことが、ともかく表面上は長く「太平の世」を保てたことの最大要因だったのではないかと思う。
 近代までの日本のヤクザも、江戸時代から続く性格を引き継いでおり、「反社会勢力」であった歴史は一度もない。
 基本的には時の権力による統治を裏面から補完するものであって、尊皇の念篤く、お上には逆らわない存在だったのだ。
  
 芸能やヤクザの世界に対する素朴な憧憬は、誰しも心の中に持っている。
 普通は遠目に眺めるだけで、真っ当な職を得て堅気に生きるものだし、それは絶対的に正しい。
 華やかに見える世界でも、実際に足を踏み入れてしまえば失うものの方が多いのだ。
 しかし、人は正しいか正しくないかだけで生きられるほど単純ではなく、どうしても一定数の「はみ出し者」は生じてくる。
 生まれながらの社会的階層、経済状態が要因としては最も大きいし、時には各個人の資質により、どうしようもなく堅気の世界からはみ出す人は出てくるものだ。
 大切なのは、そうした面々を、社会がどのように包摂するかということだ。

 この本の初出は2014年。
 十年遅ければこうした本は出版することすら困難な時代になってしまうかもしれない。
 一読の価値あり。
posted by 九郎 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

90年代、記憶召喚の儀

 当ブログではカテゴリ:90年代で、阪神淡路大震災の被災体験を中心に、あの頃の世相などを極私的な観点から覚書にしてきた。
 破壊され、瓦礫と化した街に立ち尽くした被災体験は今でも強烈に印象に残っていて、幼少の頃の記憶とともに、私の「第二の原風景」と呼べるものになっている。
 私にとっての90年代は、震災であり、そしてサブカルチャーに埋もれた日々だった。
 その二つの要素は別々のものではなく、(あくまで私の内面でのことだが)どこかで通底するものがあったはずで、今でも「それ」についてあれこれ考え続けている。
 今年もまた、1.17の阪神淡路大震災メモリアルが近づいてきた。
 ともすれば薄れがちな記憶を蘇らせながら、90年代について、引き続き再考してみたい。

 私の学生生活は、90年代の始まりとほぼ同期していた。
 よく言われる「バブル崩壊」の時期とも一致していたはずだが、少なくとも私の体感ではまだまだ世の中にカネは回っていた。
 その気になれば学生がバイトや各種企画でそれなりに稼ぐことも可能で、けっこう派手に遊んでいる同級生も数多くいた。
 企業にも余力が残されており、学生の活気を吸い上げながらカルチャーを支えていた部分があったと思う。
 私自身はほとんど派手な遊びは経験していないのだが、美術科の作品制作に追われながらも、同人誌制作、演劇活動などにうつつを抜かせていた。
 当時はまだインターネットは存在せず、ケータイも一般化していなかった。
 今のようにスマホを片手で操作するだけで様々な情報が手に入る時代ではなく、情報収集するにはとにかく歩き回って現地を見たり、紙媒体を渉猟するのが普通だった。
 インターネットの先駆けとも言えるパソコン通信は存在したが、かなりマニアックな世界だったと思う。
 そのディープな世界については、以下の本が詳しい。


●「竹熊の野望 インターネット前夜、パソコン通信で世界征服の実現を目論む男の物語」竹熊健太郎(立東舎)

 私が見てきた範囲のサブカルチャーの世界では、バンドブームがまだ続いていたり、ミニコミ誌に勢いがあったり、プロレスや格闘技が進化の真っ最中であったり、アマチュア映画制作や小劇場演劇が盛り上がったりしていた。
 アマチュアの映画やアニメの制作には、驚くべきことに90年代初頭でもまだ「8oフィルム」(注意!8oビデオではない!)が使用されていた。
 映像メディアとして8oフィルムが流行したのは70年代で、80年代にはビデオに取って代わられ、90年代には機材はもう生産されていなかったはずだが、まだフィルムの供給はあった。
 当時のアマチュア映画制作には、もちろんビデオも使用されていたが、編集のやり易さから8oを選ぶ者も多かった。
 とくに大学などの公共機関では、あまり使われなくなった8o機材をたっぷり死蔵している場合があり、カメラや映写機、編集機材が貸出OKのところもけっこうあったのだ。
 在りし日のアマチュア8o映画制作の雰囲気は、以下の作品によく描かれている。


●「あどりぶシネ倶楽部」細野不二彦(小学館)
 作品自体は80年代のものだが、描かれる大学のサークルの在り様は、私が体感した90年代初頭と非常に近い雰囲気で、基本的には変わっていなかったのだなと感じる。

 パソコン、デジカメ、ケータイなどのデジタル機器が完全に一般化したのが2000年代に入ってからなので、90年代のとくに前半は万事「アナログ」だった。
 音楽はレコードからCDに置き換わっていたが、アマチュアが作品をメディアに記録する時はカセットテープが一般的だった。
 ミニコミ誌制作にワープロ専用機は活用されていたが、「データ入稿」などという概念は存在せず、ワープロ専用機の限られた書式を越えて気の利いた誌面を作ろうとすると、切った貼ったの「版下作業」が不可欠だった。
 コンビニが増え、十円コピーがどこでもできるようになったのが、確か80年代後半になってから。
 ワープロ専用機と10円コピーの登場が、ミニコミ誌の表現の自由度を格段に上げたのだ。
 小劇場演劇は80年代の余波でまだ勢いが残っていて、学生演劇サークルから次々に旗揚げ劇団があった。
 アマチュアから離陸する際、ちょうど手ごろな規模の会場がいくつもあり、それはまだ世の中にカネが回っていることの恩恵でもあった。

 そんな90年代サブカルチャーの風景の片隅に、私もいたのだ。
posted by 九郎 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

祭をさがして1

 さて、これからどうしようか?
 93年末、私はぼんやりと考えていた。
 この年の春から親元を離れ、秋には半期遅れで大学を卒業。
 引越し、新生活、卒業論文、卒業制作等、バタバタしていたいくつか事柄が収束し、アルバイト生活もなんとか軌道に乗っていた。
 何よりもこの頃、二年ほど断続的に手がけてきたある作品を完成させてしまったことが、私のぼんやり気分の原因になっていた。
 荒削りな、あちこちで破綻した未熟極まりないものだったが、当時の私が自分なりに「全て」を叩き込んだ完全燃焼の作品だった。
 二年という年月の重さに耐えかねて、もう完成しないのではないかと半ば諦めていたのだが、終わりは意外にさらりと、一抹の寂しさとともにやってきた。

 さて、これからどうしようか?
 ぼんやり考えながら、バイトから帰ってアパートの階段をのぼる。
 建築基準法はクリアーできてるのかと心配したくなるほど、凄まじく急な階段だ。
 3階の部屋に帰るたびに足がパンパンになり、バイト帰りの疲れにダメ押しをくらう。
 部屋は風呂無し・トイレ共同・四畳半一間に、流し台と押入れ付き。
 これで家賃二万五千円なら上等だ。
 駅から直近で、南向きの結構広いベランダがあり、大阪湾が一望できることを考えれば、格安物件だったと思う。
 眺望さえあれば、狭い部屋でも心は広い。
 蛍光灯を点け、リュックを降ろすと、机の上に放っておいたハガキが目に入った。
 劇団の公演を知らせるDMが一枚。
(ああ、そう言えばクリスマス公演だっけ……)
 学生時代に舞台美術の手伝いをしていた演劇サークルの、一年下の後輩達が中心になって旗上げした劇団が、順調に滑り出しているようだ。
 当時、私自身は演劇活動から離れていた。
 2年ほど前に舞台美術で「完全燃焼」と言えるほど力を尽くせた公演があった。
 その学生劇団が一度限りの公演で解散してしまったこともあり、「ああ、これで自分の芝居参加は一段落かな」という思いがあったのだ。
 お呼びがかかれば細かな手伝いはやったし、気が向けば知り合いの公演に行ったりはしていたので、何かあれば連絡は来ていた。
(たまには顔を出しておこうかな……)
 あれこれやり切ったという虚脱感と、学生時代の人間関係がひとまずリセットされた空白の中で、私は何か次の「祭」をさがしていたのだと思う。

 ちょうど世相も下り坂にあった。
 学生時代は「バブル崩壊」のニュースは耳にしながらも、まだ辛うじて景気はもっていたのだが、90年代も半ばに差し掛かると、途端に新卒の就職状況にも陰りが見えてきた。
 企業が学生を求めて右往左往するような、今から思うと「異様」としか言いようのないバブルの残り香が、完全に消え失せようとしていた。
 天人五衰のような退潮の兆しが、徐々に近づいてくる世紀末の感覚とあいまって、あちこちで垣間見えるような雰囲気があったと記憶している。
 
 久々に観に行った芝居に、私はすっかり感心していた。
 沿岸部にある地区の赤レンガの建物の中での公演で、場所の選択がまず面白かった。
 凝った構成のシナリオで、楽器演奏等も折り込んである。
 正直、演出や芝居はまだ荒削りだったけれども「あれもやろう、これもやろう」という貪欲な志が感じられて本当に面白かった。
 帰り道、散歩がてらにその界隈を回りながら、ずっと今観たばかりの芝居のことを考えていた。
 あそこは……、会場は……、舞台の造りはこう……
 気付いてみれば夢中になって、「ああしたい、こうしたい」と、自分のことのように作戦を練っているのに気づいてしまった。

 数日後、パンフレットに挿まれていた「劇団スタッフ・役者募集」のチラシを見ながら、私は電話に手を伸ばした。
 当時は携帯電話はまだ一般的ではなく、電話と言えば固定電話か公衆電話だった。
 私の部屋の電話は固定であるだけでなく、当時ですら骨董品級の緑のダイヤル電話だった。
 今の若者がダイヤル電話を見ても、それが何の機械であるかすらわからないかもしれない(笑)
 当時の写真が残っていた。

ms001.jpg


 目と口が描きこんである。
 もちろん自分で描いた。
 ダイヤルを回すと、口の中に指を突っ込んで掻き回している風になる。
 部屋を訪れた友人が、「これで電話かけるのはイヤだ」と言っていたことを思い出す。

 ともかく私は、チラシに書いてある連絡先に、素知らぬふりでコールしてみた。
「もしもし、夜分失礼します。Kさんですか?」
「はい、そうです」
「あの〜、この間のクリスマス公演を観に行った者なんですけど、すごく面白くて、できれば劇団のお手伝いをしたいなと思いまして……」
「あ! それはありがとうございます! あの、失礼ですが、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「Hと申します」
「Hさん? もしかして先輩ですか?」
「そうそう(笑)」
「なんや! じゃあ今度、ゆっくり話しましょうよ!」
 こうして私は、その劇団に参加することになった。
(続く)
posted by 九郎 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

祭をさがして2

 私が参加した劇団は、作・演出の凝りに凝ったシナリオとあふれ出るアイデアを、可能な限り(時には不可能な領域まで)実現する集団だった。
 旗上げ公演から相当無茶な舞台装置をくみ上げていたし、生演奏や映像もかなり早い段階から取り入れていた。
 各パートの出来は満点でなくとも、それが全て合体したときに立ち上る、わけの分らないパワーが感動を生むタイプの劇団だった。

 私の中には、なんとなく自分もその片隅に生息していた「90年代的な関西小劇場の芝居」のイメージがある。
 もちろん芝居の在り方は各劇団それぞれで、ひとくくりにできるものではない。
 それでもあえて「ある傾向」を挙げるとすれば、そこにはやはりマンガやアニメなどのサブカルチャーからの影響が、強くあったのではないかと思う。
 それも90年代同時代のマンガやアニメというよりは、芝居をやっている当人が子供のころから浴びるように消費してきた時代の作品の影響が強いと感じる。
 もう少し具体的に数字を挙げると、芝居の作り手や主な客層で言えば「昭和40年代生まれ」ということになり、影響を受けたのは原体験として接してきた70年代作品、思春期に接してきた80年代作品ということになるだろう。
 芝居を作る方も観る方も、70年代から80年代のマンガやアニメのスポ根やロボット、ヒーロー、ファミリーアニメ等々を基礎的な「教養」として共有していて、それを下地に、共に笑って泣ける物語を創り出そうとしていたのではないだろうか。
 もう少し上の世代だと、マンガやアニメの影響を口にすることや、元ネタのある表現をすることに、けっこうコンプレックスを持っていたりする場合がある。
 しかし90年代以降に表現する方に回った世代は、わりと無邪気にマンガやアニメっぽい手法をとり、元ネタありにも抵抗感は少ない。
 だから90年代の小劇場芝居はあまり「難しい」ということは無く、とくに作り手と同世代が観に行ってみれば、とにかく楽しめるものが多かったのではないかと思う。
 そしてあの頃から小劇場を続けている皆さんは、今もどこかでそうした傾向を持ち続けていると感じる。

 私の演劇経験は学生時代から舞台や宣伝の美術専門で、役者経験はほとんどない。
 学生演劇の場合はわりと採算度外視で装置を組むこともできた。
 大道具や衣装の制作・保管は学内のスペースで出来たし、役者の稽古場も同じ学内なので、人手を調達しやすく、制作途中の装置を使っての練習も可能だった。
 ところが学内から「外」へ活動の場を移そうとすると、色々問題が出てくる。
 当時はアマチュア学生演劇から旗揚げした小劇場の場合、舞台美術にはあまり力を割かない所が多かったと記憶している。
 何も置かない素舞台で、演出と役者、照明と音効で見せていく芝居作りが主流だったのではないだろうか。
 いくつか理由が考えられる。
 旗揚げ前後くらいだと、使える予算が限られており、さほど大きな会場は使えず、役者の練度を上げながらの公演になる。
 そもそも小さな舞台だとあまり物を置くスペースは無いし、舞台美術にそれなりの機能や見栄えを求めると予算も人員も必要になってくる。
 あまり大道具や資材を抱えてしまうと、保管に困るということもある。
 舞台の構造が複雑化すると、それだけ役者の対応力や技量が求められることにもなる。
 カネも人も足りない中で、中途半端に舞台美術に手をつけて「学芸会の背景」みたいなものを出すよりは、まず自分たちの芝居の確立に集中しようということになり易いし、それはそれで一つの正解ではあるのだ。

 私が自分の演劇活動を学生演劇の範囲内で「一段落」と考えていたのは、上記のような理由による。
 旗揚げした「そこから先」には、舞台美術専門の自分にはあまりできることがないような気がしていた。
 そんな思いもあって二年ほど演劇から離れていたのだが、身近なところから舞台美術も積極的に組んでいこうという、ある意味珍しいチームが立ち上がってきたことに、嬉しさを感じた。

 もう一回、祭をやれるかもしれない……
 そう思ったのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする