2017年01月18日

祭をさがして3

 年明けて94年の3月公演から、私は舞台美術スタッフとして参加し始めた。
 美術スタッフは他にもう一人いて、当初はそのもう一人が主任だった。
 私は主任の作った構造計画にデザインを施していく担当。
 その後、公演を重ねるごとに主任の彼は役者に軸足を置くようになり、私が美術を全般に担当するようになった。
 
 学生演劇から一歩踏み出して旗揚げすると、いくつかの理由から大掛かりな舞台美術が難しくなることは前回記事でも書いた。
 とりわけ問題になるのは、大道具の制作や保管場所の確保だ。
 学生演劇サークルなら学内のスペースが使用可能で、機材や資材、工具類もあわせて、先輩方が蓄積したものを継承することができる。
 そこから独立して旗揚げすると、基本的には場所も道具も全て、自分たちで身銭を切って確保しなければならない。
 私が参加した劇団の場合は、旗揚げ当時まだ半数ぐらいが在学しており、母体になった演劇サークルに籍を置いていたので、厳密に言うとマズかったのかもしれないけれども、当面は「間借り」する形で諸々の問題をしのいでいた。
 私自身はもう卒業していたのだが、当時の学内施設の運用は牧歌的で、そのあたりの融通は利いたのだ。
 よく言えばおおらか、悪く言えばルーズな昔風の気質が、90年代前半の大学にはまだ残っていた。
 老朽化して本来の用途が忘れられ、治外法権のようになった謎の集会所の類が、学内のあちこちに点在していた。
 堅気の学生が避けて通るような怪しげなスペースで、演劇や映画、音楽、美術、文芸関連の部やサークルのメンバーが、夜となく昼となく蠢いていた。
 サークル活動に限らず、学内に住み込んで研究をしているような学生もいっぱいいた。
 私が在籍していた美術科などは、「学校に寝泊りもせずに制作ができるか!」というような雰囲気が、学生はもちろん、先生方の間にすらあった。
 そのような学内の「魔窟」の混沌から、私が知っている範囲だけでも、たくさんのユニークな人材が輩出されていった。
 そうした皆さんは大物であればあるほどまともに卒業していなかったりするので、公式の新卒就職状況等には決してカウントされない。
 しかし、そんな数字に表れない「凄玉」の皆さんも、正規のカリキュラムからは外れていても、間違いなく大学という環境の中で育った人材なのだ。
 カルチャーというものは、多くの場合そのような「目的外使用」とか、「奇人変人を許容するゆとり」とかの、訳のわからない混沌状況から生まれるのであって、あまり隅々まできれいに合理化するのは良くない。
 このあたりの「秩序と混沌のほどよい間合い」というものを、一昔二昔前の大人、とくに大学教授の皆さんは心得ている人が多かったと思うのだが、最近そうでもなくなってきているように感じられるのは残念なことだ。
 ニュース等で時折、大学の老朽化した寮や施設の建て替えと、それに反対する学生の話題が報道されることがある。
 事情を知らないと「きれいに立て替わるのに何を反対しているのか?」と奇異の念を抱かれがちだと思うが、私には何となく当の学生さんたちの思いが分かる気がする。
 学生は建物が新しくなること自体に反対しているのではなく、学内に辛うじて残っている「文化を生み出し得るカオスの領域」が、合理化で消滅してしまうことに抵抗しているのだと推察されるのである。

 90年代に学生演劇から旗揚げした小劇場は、上記のようなルーズな学内の雰囲気や、中小の演劇スペースが官民の余裕からあちこちで維持されていたことなどにも助けられながら、段階的に学外に演劇活動を移行させることができた。
 しかし現在、そうした土壌の多くは失われてしまった。
 私の母校でも、私が卒業した90年代半ばあたりから、急速に学内の合理化が進み、管理が強化されていった。
 今は国公立大ですら授業料が高騰しており、貧乏学生は奨学金という名の借金を背負わされ、ドロップアウトの自由まで奪われてしまっている。
 使い勝手の良い規模の演劇スペースも、かなり減ってしまった。
 それは徐々に余裕を失っていく世相を反映してのことなので、仕方のないことではある。
 今演劇を志す若い人たちは本当に大変だなと思うのである。
(続く)
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2017年01月19日

祭をさがして4

 本稿「祭をさがして」では、私のささやかな演劇経験を主軸に、90年代前半の世相やサブカルチャーに関する覚書を残そうと試みているのだが、実は少々書き方に迷いながら進めている。
 私は基本的に、所属していた劇団の初期脱退メンバーだ。
 旗揚げ後の二年間ほど、まだあまり売れていない時期に舞台美術を担当していたというだけで、その後の劇団の活躍や集客には何も貢献していない。
 脱退後はほとんど連絡もとってこなかった。
 そんな立場をわきまえ、その後もずっと芝居を続けてきた関係者の皆さんに対して失礼に当たらぬよう、ものの書き方には注意しなければならない。
 劇団名や個人名を出していないのはそのためで、多少読みづらいと思うがご容赦いただきたい。

 私の舞台づくりの手順は、だいたい以下のような流れだった。
 まずは作演出のイメージを聞き、会場のサイズや設備の情報を集める。
 作演出の要望になるべく沿う形で、無理なく実際の形にするには、どのようなデザイン、どのような素材が最適かから考える。
 私は絵描きであるけれども、舞台美術の時はなるべく「絵」は使わない。
 何故か昔から、「書き割り」が置いてある舞台は、嘘っぽい感じがしてあまり好きではなかったのだ。
 そもそも絵描きだし、映画館の看板描きのバイトをやっていたので、学生演劇をやっていたときに「書き割り作れ」と言われればそれなりのものが作れたが、どうしても感覚的に好きにはなれなかった。
 大道具にペンキであれこれ色を塗り分けるのもあまり好きではなく、せいぜいつや消しの白や黒、アイボリーなどを使うくらいであることが多かった。
 なるべく素材を活かして、あまり具象的なモノは作らず、折紙やペーパークラフト程度には抽象化し、シーンによって様々に「見立て」ができる舞台づくりが好みだった。
 作演出の彼は、かなり細かくイメージや要望を出す方だったので、その条件や会場施設を頭に置きながらホームセンターや東急ハンズを巡る。
予算や人員、制作期間、仕込みや撤収の手間等も考え合わせると、自ずと使用素材やデザインが絞られてくる。
 浮かんだアイデアをもとに何案かスケッチを描き、作演出や舞台監督とも相談しながら煮詰めていく。
 OKが出たら制作開始。
 こうして振り返ってみると、絵描きというよりは、素材の知識のある工作職人として参加していたようだ。

 公演資金は、所属している役者やスタッフがそれぞれにチケットノルマを負うことで賄われる。
 作演出や役者はチケット枚数にすると40〜50枚分、スタッフは20数枚分くらいだったと記憶している。
 年に2〜3回の公演であると考えれば「過酷」というほどの額ではなく、90年代当時はどこの劇団も似たような感じだったのではないかと思う。
 ノルマで抱えたチケットがさばければ負担は無くなるわけだが、まだ名の知られていない旗揚げ時は、みんなけっこう苦労していた。
 劇団員というと派手で社交的なイメージがあるかもしれない。
 もちろんそういう人も多いのだが、私の知る限りでは役者にもスタッフにも内向的で売り込みが苦手な人もけっこういた。
 作演出や役者なら学生演劇時代からある程度ファンがついているし、「自分が書いた芝居」とか「自分が出る芝居」ということであれば、比較的チケットは売りやすい。
 私の場合はスタッフで、自分が出ているわけでもないし、さほど人付き合いの多い方ではないので毎回苦労していた。
 演劇はたくさんの人に観てもらってなんぼなので、「売れないチケットは被ればいい」で済ますのは、あまり良くないのだ。

 舞台美術が私の主導で制作されるようになったのは、参加二回目の94年9月公演から。
 この9月公演の前に、抱えたノルマを消化すべく名簿をくっていた時、私はある古い友人のことを思い出した。
(続く)
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2017年01月20日

祭をさがして5

 94年9月に迫った劇団の公演に向けて、私は抱えたチケットノルマを少しでも解消すべく、あれこれ名簿を開いていた。
 当時はまだケータイはさほど一般化していなかったし、もちろんインターネットも普及前だった。
 だから劇団の集客方法も、直接対面で誘うか、電話、郵送によるダイレクトメールの類に限られていた。
 今の若い人がメールもSNSも動画配信も無しにチケットを売れと言われたら、途方に暮れるのではないかと思うが、昔はそれが当たり前だったのだ。
 演劇関係者の中に少なからぬ割合で存在する、内向的で人付き合いが苦手なタイプにとっては、今はいい時代になってきているのではないかと思う。
 それでもTwitterのような常時接続が苦手な私は、もし今演劇を続けていたとしても、相変わらず集客に苦戦していることだろう(笑)

 茶封筒にせっせと宛名書きし、チラシや当日清算チケットを同封したDMを作っているうちに、私は古い名簿の中の、ある友人の名に目をとめた。
 彼は中学、高校の頃の友人だった。
 私たちは柄にもなく中高一貫の私立受験校に通っていて、名簿順が近いせいもあり、よく座席で前後に並んでいた。
 彼は同年代の中では少しセンスが先走っている所があった。
 たとえば中学に入った頃、他のみんなが小学生時代からの延長で少年漫画誌ばかり読んでいた中、彼は既に大友克洋にハマっていて、第一巻が出たばかりの「AKIRA」を読み耽っていた。
 私もかなりの漫画好きを自認していたけれども、大友克洋に手が延びたのは高校生になってからで、それも彼の部屋に遊びに行くようになってからのことだった。
 実家が遠隔地の彼は、中学の頃は寮に入っていたけれども、高校に上がってからは港町のアパートで独り暮しをしていた。
 今でもその部屋のことをよく覚えている。
 レコード(当時はちょうどCDへの移行期だった)を聴いたり、漫画や小説を読んだり、ギターを弾いたり、近くの海岸まで散歩に行ったりしてダラダラと過ごしていた。
 彼が冗談めかして「家出するんやったらうちに来いよ」と笑っていたのを、昨日のことのように思い出す。
 当時、私は彼の影響を強く受けていた。
 先に書いた大友克洋もそうだし、平井和正も、アコースティックギターを弾く様々なアーティストを知ったのも、彼の部屋でのことだった。
 文化祭で「オズの魔法使い」の放送劇を作り、声優の真似事をやったり、映写するためのイラストを描いたのも、彼に誘われてのことだった。
 そういえばあの放送劇が、私の最初の演劇体験だったかもしれない。

 彼や私の高一のときのクラスは、成績別編成の最下位クラスだった。
 そのクラスには、学業が振るわなかったり、素行にも少々問題のある生徒が集まりがちで、ある意味では「隔離場所」みたいな扱いだったらしい。
 教室も同学年の他のクラスとは違う階になっており、先生方からは「他の組に行くな」と度々注意されていた。
 ぶっちゃけ「アホが伝染ったら困る」くらいには思われていたのだろう(笑)
 確かに先生にそう思われても仕方がないくらいのアホばっかり集まっていたのだが、良い方に解釈すれば、画一的な私立受験校の中では珍しい、個性派ばかり揃ったクラスでもあった。
 当時ですら時代錯誤だった体罰上等の厳しい生徒指導にしごかれながら、それでも私たちのクラスの生徒はみんな、そんな苦境を楽しんでいた。
 抑圧の強い分、休み時間や放課後の狂騒は凄まじく、日々繰り広げられるお祭り騒ぎに乗り遅れまいと、欠席する者は少なかった。

 アホな男子を一か所に閉じ込めると、鬱勃たるパトスによってどのような狂態が演じられるか?
 時代は全く違うけれども、以下の本に描かれるような旧制高校のバンカラ気質と、ちょっと似た感じがしていたのを覚えている。
 そもそもわが母校は、在りし日の学園長先生が、自身のルーツである旧制高校の校風を再現しようとして創設されたものだったのだ。


●「どくとるマンボウ青春記」北杜夫 (新潮文庫)

 ちなみにこの成績別クラス編成は、私たちの学年で最後になった。
 単に私たちより下の学年がみんな優秀だったせいかもしれないが、もしかしたら学校側が「アホを一か所に集めると、切磋琢磨してより強力なアホ集団になる」ということの弊害に気づいたのかもしれない。
 成績が振るわない分、私たちのクラスには、文化祭や体育祭では力を発揮するメンバーが揃っていた。
 私はこの高一の時から「一人美術部」として、生徒会などのイラスト関連の仕事を一手に引き受けていたし、放送部や新聞部、文芸部にも同じクラスのメンバーがいた。
 件の彼は放送部所属で、先に述べた「オズの魔法使い」の放送劇は、ほぼ私たちのクラスのメンバーのみで作り上げられたのだ。

 私の古い友人は諸事情から高一で学校を離れ、親元の高校へ転校していった。
 他にも私たちの「アホのクラス」からは、様々な事情で学校を去るメンバーがいて、一年間続いたお祭り騒ぎは終息した。
 狂騒の去った後も私の高校生活は続き、やがて思い切って美術系志望に転向した顛末は、以前記事にしたことがある。

 彼とは高一の最後、夜の公園で別れを告げて以来、何年も会っていなかった。
 なんとなく、いまどうしてるのか消息が知りたくなって、あまり返事を当てにしないで9月公演のDMを送った。
 気分としては、瓶に手紙を詰めて海に流すような感じだった。
 その後は舞台本番に向けて忙しくなり、封書を投函したことも半ば忘れていた。
(続く)
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2017年01月21日

祭をさがして6

 そして9月公演が終わって一息ついた十月の初め、バイトから帰って何気なく郵便受けを開けると、珍しく封書が届いていた。
 誰からだと思いながら茶封筒を裏返すと、見覚えのある汚い字。
 名前を見てドキッとした。
 あの友人の名だった。
 私はその封書を片手に、例のやたらに急な階段を一気に駆け上った。
 急いで自室に入り、封を切ると、中には一枚のチラシが入っていた。
 茶封筒と同じクラフト紙、手書き原稿黒一色刷りの、なんとも「変」なチラシだった。

――「月の祭」

 それがチラシの告知するイベントの名だった。
 場所はとある小さなビーチ、時は十月十九日から二十二日まで、四日間オールナイト。
 参加協力金二千円。
 他にも「フリーマーケット」とか、「出張ドロマッサージ」とか、「寝袋持参なら宿泊無料」とか、「徹夜のライブ」とか、「気功シンポジューム」とか、頭がくらくらするようなキーワードが並んでいた。
 さらに、それぞれの日の夕方から夜にかけてはライブステージが予定されていて、最終夜の二十一日にはボ・ガンボスのボーカル、どんとがソロで出演するとある。
 一瞬「ホンマかいな?」と思った。
 94年当時のボ・ガンボスと言えば、押しも押されもせぬ人気バンドだった。
 私も学生時代の先輩にファンの人がいて、CDをカセットテープに落としてもらったものをもらい、自分でも気に入ってよく聴いていたのだ。
 そんなバンドのフロントマンが、こう言ってはなんだけど地方のちっちゃなビーチで歌ったりするものなのだろうかと、わが目を疑ったのだった。
 そして、チラシの余白部分には、何年も前にはよく見慣れていたミミズの這ったような汚い字が書き込まれていた。

「H、芝居のチラシありがとう。受け取った時にはもう終わっていた。スマン。今度こっちでおもろいイベントがある。よかったら来いよ」

 実になんとも、想像力を刺激される便りだった。
 どうしたものかと二日間ほど考えたあと、メモしてあった電話番号を試してみることにした。
 当時はまだ個人的な連絡先も固定電話だけだったので、私は例によって自室のダイヤル電話の口に指を突っ込んでかき回す。
 ちょっと緊張していた。
 もともと電話が苦手だし、彼とは八年前の夜の公園以来だった。
 呼び出し音が二回ぐらい鳴ったあと、遠い回線の向こうで受話器がとられた。
 最初、お互いの声が分からなかったのは仕方がない。
 ぽつりぽつりと、話した。
 彼は地元の高校を出たあと、ずっと旅を続けていたのだそうだ。
 スタッフとして参加している「月の祭」が終わったら、また長い旅に出るという。
 高校時代に私が強く感化された彼は、相変わらずの彼だった。
 私はすっかり嬉しくなって、「月の祭」にはぜひ参加したいと伝えた。
「そやけど、俺ら何年ぶりやろ。顔わかるかな?」
 私はふと疑問を口にした。
 高一と二十代ではかなり見た目が変わっていて不思議はない。
 私たちの高校は校則が厳しくて、高校生でも全員丸刈りだったのでなおさらだ。
 彼は受話器の向こうで笑いながら答えた。
「大丈夫や。俺今モヒカンやから!」
 それで、久々の電話を終えた。

 受話器を置いた後、私はふと我に返って、モヒカンの話が本当なのかどうか考えた。
 昔、彼や私の仲間内では、そういうくだらない冗談交じりの騙し合いのようなやりとりが、日常的に行われていたことを思い出した。
(先手を打たれたか?)
 などと勘繰りながらも、私は半月後の「月の祭」が身悶えするほど楽しみになった。

 この不思議なお祭りについては、以前カテゴリ:どんとで記事にしたことがある。
 
 私が参加したのはたった一夜のことだったけれども、その印象は強烈だった。
 実を言えば、今でも後をひいている。
(続く)
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2017年01月24日

祭をさがして7

 94年10月下旬、中秋の名月輝く中行われた「月の祭」に参加して以来、夢見心地のまましばらく過ごした。
 海辺のステージでどんとの歌を聴いたことがきっかけで、むかし人に貰ったボ・ガンボスのカセットテープに再びハマり、浸りきっていた。
 中でも「夢の中」という曲は、当時の私の心境にぴったりだった。
 歌いだしの「流されて流されて、どこへ行くやら」という詞からもう歌に引っ張り込まれ、間奏あたりの「明日もどこか祭をさがして、この世の向こうへ連れて行っておくれ」という箇所を聴きたいために、擦り切れかけたカセットテープを何度も何度も再生した。
 当時はまだネット配信は存在せず、様々な音源を聴くならCDかカセットテープだった。
 無料で比較的音質の高い試聴ができるのはFM放送くらいで、後はCDを買うかレンタルするしかなかった。
 レンタルしたCD音源を個人的に保存する場合はカセットテープになり、アナログ録音なのではっきり音質は落ちた。
 80年代半ばにレコードがCDに置き換わって以来、音楽鑑賞はかなり手軽にはなっていたけれども、高音質なデジタル音源、機器が当り前になった現在とは全く比較にならない。
 CD選びは今よりずっと真剣勝負で、ハズレを掴まないために一枚買うにもかなり気合が必要だったし、CDであれテープであれ、せっかく手に入れた音源は繰り返し繰り返し聴きこむのが普通だったのだ。

 2010年代の今になってみれば、「月の祭」タイプの野外イベントは珍しくない。
 アコースティック楽器や民俗音楽を取り上げたライブや、フリーマーケット、エスニックな服飾や食べ物、環境、健康などのテーマを盛り込んだフェスは、各地で頻繁に開催されるようになっている。
 しかし当時、とくに地方ではそうした催しはまだまだ目新しかったし、「月の祭」の場合は「かつて栄え、今は打ち捨てられた観光地」という、廃墟の魅力を持つロケーションも良かかった。
 90年代的な世紀末感覚もあって、「この世が終わった後の祝祭」みたいなイメージが連想された。
 正直「思い出補正」もあると思うが、今考えても本当に内容が濃いイベントで、雰囲気としては70年代サブカルチャーに通ずるものがあったのではないかと思う。

 よく言われることだが、90年代のサブカルチャーは、70年代リバイバルという一面を持っていた。
 90年代の若者が70年代の文化に傾倒した理由は、なんとなく理解できる。
 子供の頃に原風景として体験したカルチャーを、成人してから「あれはなんだったのだろう?」と追体験してみて、あらためてハマるというパターンが一つ。
 もう一つは、思春期にあたる80年代に好きだったアーティスト達が、直接影響を受けた70年代の文化を紹介するのを目にして、ルーツをさかのぼるというパターンだ。
 自分のこととしてふり返ってみると、音楽で言えば90年代前半の私が一番聴き込んでいたのはLed Zeppelinだった。
 子供の頃に、周囲に流れる音の風景の一つとして、「胸いっぱいの愛を」「移民の歌」などの面白邦題のついた曲で、印象的なリフパターンとサビが記憶に刻み込まれた。
 そして中高生の頃に聴いていた複数のアーティストが「Led Zeppelinを聴け!」と発言しているのを見て手を伸ばし、実際に聴いてみて「ああ、あれがそうだったのか」と子供の頃受けた強い印象がよみがえってきた。
 Led Zeppelinは1968年から1980年まで活動したバンドで、90年代初頭にはアルバムCD化が一巡し、未発表音源を含んだBOXセット等が発売され、他にも輸入盤のブート音源なんかも豊富に出回っていた頃だった。
 それに加えて93年にはギターのJimmy Pageが「Coverdale Page」で解散後初めてLed Zeppelin的な音を全面復活させ、それに対抗するようにボーカルのRobert Plantがソロで一部復活させた。
 ギターとボーカルの二人がお互い対抗意識丸出しで競っているように見えたかと思えば、94年には突然合流し、Led Zeppelinの楽曲をアコースティックアレンジでリメイクしたりした。
 95年にプロモーションで来日した二人は在りし日の「ニュースステーション」にも登場していて、大御所二人がちょっと照れながら「天国への階段」を演奏するシーンにひっくり返ったファンも多かったのではないかと思う。
 こうした一連の流れをロッキング・オン誌の渋谷陽一が独自の妄想交じりにあちこちで煽ってまわるのがまた面白くて、解散はしていたけれども90年代前半はLed Zeppelinの話題に事欠かず、リアルタイムの盛り上がりがあったのだ。
 往年の曲に民族楽器を大幅に取り入れた90年代版のアレンジは、昔からのガチガチのファンには不評だったかもしれない。
 しかしLed Zeppelinは元々アコースティックや民族音楽を取り入れていて、私はそこが好きで聴いていた。
 だからその傾向を一段と推し進めた90年代のスタイルは、当時の私の好みにぴったりだった。
 
 そのあたりから私の民族音楽、民俗楽器趣味も始まっていて、今に続いている。
 同時に「自分にとっての民族音楽は何なのか?」という問いも、ずっと心に残ったまま今に続いているのである。
(続く)
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2017年01月25日

祭をさがして8

 そうこうしているうちに94年も11月に入り、劇団の次回公演が近づいてきた。
 年明け初っ端の1月公演は女子ボクシングがテーマで、作演出からは「ぜひリングが欲しい。ただし予算は10万で」という要望が出ていた。
「その予算ではロープワークができるような強度にはならへんよ」
 と、私は答えた。
 その代わり、公演に使う会場の中心に、ちゃんとリングに見えるものはでっち上げよう。
 客席と舞台を、ボクシング会場そのものに仕立ててみよう。
 強度が足りない分は演出次第だ――
 などなど、雑談の中からアイデアを出していく。
 作演出の彼と私は、実際のリングの構造や演出上の使い方を調べるためと称して、ドサまわりのプロレスを観に行ったりもした。
 郊外のショッピングセンターの駐車場特設会場で、場外乱闘に逃げまどいながら、リングのある空間というものを体で覚えた。
 とくに印象的だったのは、ミイラ男に扮したレスラーが客に向けてパイプ椅子を投げる間合いの絶妙さだった。
 椅子が本当に客に当たってしまうと問題になるので、投げる前に一瞬、ミイラ男のぐるぐる巻きの包帯の奥の眼と、客の間にアイコンタクトがある。
 今から投げるという暗黙の合意のもと、よけやすいように山なりでパイプ椅子が飛んでくるのだ。
 よけきれなくともおそらく当たらないだろうという微妙なコントロールなのだが、客はその間合いだと悲鳴を上げながら逃げ出さざるを得ない。
 いったん何人かの客が走り出してしまえば場外乱闘の渦が生まれて、いやでも盛り上げられ、「ああ、プロレスを観に来たんだな」という満足感ができてしまうのである。
 椅子の投げ方一つとっても、プロレスラーの磨き抜かれた「芸」を感じさせられた体験だった。

 90年代半ばはプロレスや格闘技の人気が一つのピークを迎えていた。
 プロレスではメジャー団体はいうに及ばず、中小の団体が乱立し、漫画の世界がそのまま飛び出してきたようなデスマッチ路線からリアルな格闘技路線まで、ありとあらゆるスタイルが日々実験を繰り返していた。
 女子格闘技もキックボクシング等を中心に人気が高まりつつあった。
 女子プロレスはそれより以前から「観る方」の人気はあったが、「観るだけでなく実際やる方」の女子格闘技人口が増え始めたのはこの頃だったと記憶している。
 そんな機運も反映しての、われらが劇団の女子ボクシング芝居だったのだ。
 雑誌では「週プロ(週刊プロレス)」や「格通(格闘技通信)」に最も勢いがあった頃で、他社の「週刊ゴング」「ゴング格闘技」「フルコンタクトKARATE」等も並び立ち、しのぎを削っていた。
 他にも同人誌のような判型の「紙のプロレス」が独自路線で遊び狂っていて、いつ潰れるかとハラハラしながらも、私は毎号心待ちにしていた。
 完全な競技としての総合格闘技もついに実現し始めており、ターザン山本、谷川貞治、堀辺正史、夢枕獏、鈴木邦男をはじめとするパワフルな語り手がムーブメントを盛り上げていた。
 レスラーや格闘家たちもリングで闘うだけでなく、雑誌のインタビューに答える形で多くの「言葉」を発信していた。
 私は直接会場まで観戦に行くことは少なかったが、そうした活字メディアを通してプロレス・格闘技を楽しみ、考えることにはハマり切っていた。
 そのような楽しみ方は一部で「活字プロレス、活字格闘技」と呼ばれ、一番人気の「週プロ」は、たしか最盛期には公称40万部くらいまで行っていて、ファン層の広大な裾野を形成していた。
 当時はTVと言えばまだまだ地上波が主流で、ケータイもさほど一般化しておらず、ネットもSNSも存在しなかったので、プロレスや格闘技の情報は雑誌媒体に最も速報性があり、何か知りたいと思えば雑誌のフィルターを通すしかなかった。
 生の情報が乏しい分、読者は各誌のフィルターの色合いを考慮しながら、真相を各自あれこれ想像する訓練を積んでいた。
 元々プロレスというジャンルは、やる方も観る方も虚実の狭間で表面上の勝敗を超えた「深読み」をするジャンルだった。
 演劇的な要素も持ちながら、同時に、何が起こるかわからない「闘い」でもあったのだ。
 当時のプロレス・格闘技ファンは、今風に言うと「情報リテラシー」がかなり高かったのではないかと思う。

 私は「週プロ」や「格通」の発売が毎号待ちきれず、深夜から明け方近くのコンビニに駆け込んで、開封されたばかりの雑誌をガッシと握り、沈痛な面持ちでレジに直行していた。
 その様がよほど異様に見えたのだろう、たまたまその様子を見かけた演劇の後輩から、「Hさん、あれは怖いですよ」と注意されたこともあった(笑)
 少し言い訳しておくと、そんな思い込みの強い私のファンぶりも、必ずしも悪評ばかりではなかった。
 よく行くコンビニの店長さんが実はプロレスファンだったらしく、私にも好意的に接してくれ、何かと気を使ってくれたりしたこともあった。
 当時はこの店長さんの他にも、同じアパートに一時住んでいたアラスカからの留学生とか、平井和正ファンの風呂屋の兄ちゃんとか、風呂屋のサウナのTVで野球観戦するのが好きな入れ墨背負った若い衆とか、風呂屋帰りによく立ち寄っていたワゴンのタコ焼き屋さんとか、馴染みの古本屋のご主人とか、カレー屋のちょっと変わり者のマスターとか、人付き合いのあまり得意でない私にも、ほど良く世間話ができるくらいのご近所さんがけっこういた。
 今思うともう全部が懐かしく、90年代のサブカル風景と共に、様々な記憶がよみがえってくるのである。
(続く)
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2017年01月27日

祭をさがして9

 95年1月年明けの公演では、舞台美術だけでなくチラシの絵を描いたりパンフレットのデザインをしたり、チケットのイラストを描いたりもした。
 当時の舞台の写真など貼ろうかとも思うのだが、先に述べた通り私は劇団の初期脱退メンバーに過ぎないのでちょっと遠慮があるし、そもそも手元に残っている写真が非常に少ない。
 90年代半ばはまだフィルム写真の時代で、今のデジカメの感覚で「とりあえずシャッターを切っておけばいい」というものではなかった。
 フィルム写真はデータの書き換えが利かず、一回シャッターを切れば確実に一枚分のフィルムが消費され、仕上がり具合も基本的には現像してみなければわからなかったので、撮影は今よりずっと慎重で、写真枚数自体が少なかったのだ。

 会場になったOMS(扇町ミュージアムスクエア)は、大阪梅田からさほど遠くなく、キャパも手頃だったので、学生劇団や、そこから旗揚げした小劇場が芝居を打つのによく利用されていた演劇スペースだった。
 当時の私の演劇活動期間は、学生時代も含めると五年ほどだったと思うが、その間に舞台美術を担当しただけでも四回、手伝いで仕込みやバラしに参加したのも含めると、十回以上はOMSを経験していたはずだ。
 会場フォーラムの真ん中あたりに極太の柱が二本立っているのが特徴で、その柱をどう使うかが制約でもあり、各劇団のセンスの出るところでもあった。
 参考までに、92年頃の学生時代に、私が別の劇団で担当したOMSでの舞台美術のスケッチを紹介してみよう。
 かなり後になってから描いた再現イラストだが、当時の雰囲気は出ていると思う。

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 客席を含めた会場全体を酒場に見立て、酒場のステージと公演の舞台をシンクロさせる構成になっていて、OMS独特の柱も利用されているのがわかる。
 こちらの舞台美術は、芝居全体がうまく回ったこともあって、私の中では「完全燃焼」と言えるほどに充実感があった。
 私が楽日にちょっと舞い上がっていたら、観に来てくださっていた若い頃の西田シャトナーさんに「調子に乗んな!」と注意されてしまったのもいい思い出だ。
 ご本人は全く覚えていないだろうけれど……

 今はもう閉鎖されてしまったOMSだけれども、「昔のホームグラウンド」として懐かしく思い出す芝居関係者は今も多いのではないだろうか。
 アマチュアだけではなく、名のある関西小劇場もよく公演に使っていて、出入りしているとけっこう有名人を見かけた。
 ある時、休憩で裏の駐車場に出ていたら、中島らもさんが一人でブラブラ歩いてきたことがあった。
 とっさに気の利いた言葉が出てこなくて、「いつも『明るい悩み相談室』読んでます!」などと口走ってしまい、「あれはまあ、別に」と苦笑されてしまった。
 その時らもさんが担いでいたエレキ三味線をチラッと見せてもらい、ふと「弦楽器作るのも面白そうやな」と思ったことが記憶に残っている。

 95年1月公演で私が担当したパートについては、うまく行かなかった点も多々あり、振り返ってみると劇団メンバー、とくに作演出の彼には色々謝りたい気持ちでいっぱいになるのだけれども、ともかく私なりに当時の「全力」は出した結果だった。
 完全燃焼とまでは行かなかったが、自分の舞台美術としての能力の範囲が把握できた気がして、その能力の範囲内でもっと上手くやれるはずだという感触はつかんでいた。
 舞台監督担当の外部スタッフさんとの相性も良かった。
 その舞台監督さんはTVの仕事もやっているプロだったのだが、金も人もないなりに色々工夫するスタイルを面白がってくれて、良いチームの雰囲気が出来つつあったと思う。

 公演の終わった95年の年始、私はそれからもしばらくは舞台作りをやっていくはずの自分に、何の疑問も持っていなかった。
 自分の求める「祭」を、なんとか舞台を通して探すつもりでいた。
 その時点からいくらもたたないうちに、思わぬ「刻限」が迫っていることなど、ひとかけらも想像していなかったのだ。


 ここまでで、「祭をさがして」の章、ひとまず了としたい。
 小休止の後、次章「祭の影」開始予定。
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2017年01月28日

イラスト魔導全書、降臨!

 この12月から1月にかけて、九州のみやざきアートセンターで、わが敬愛するイラスト魔神・生頼範義の第三回展覧会が開催されていた。
 生ョ範義展V THE LAST ODYSSEY
 残念ながら私は甲斐性がなくて九州まで行けなかったのだが、刊行された図録二冊はamazonで無事入手。
 前回第二回展覧会の図録と合わせると、生ョ範義の全キャリアをフォローする構成になっている。
 もちろん全作品が網羅されているわけではないが、現時点では「生ョ範義全集」的な位置付けのシリーズになっている。
 今ならまだ定価販売が続いているようなので、ファンは要チェックである。
 在庫切れ表示になることがよくあるが、しばらく待つと補充される状態にはあるようだ。


●「生ョ範義U 記憶の回廊 1966-1984」
●「生ョ範義V THE LAST ODYSSEY 1985‐2015」
●「生ョ範義 拾遺集」

 これとは別に第一回展覧会の図録もある。


●「生頼範義 The illustrator」

 こちらも非常に素晴らしいのだが、残念ながら再販されておらず、古書価格がかなり高くなってしまっている。
 この一冊目が欠けていても上掲三冊で一組の構成になっているようなので、当面は無理してまで入手する必要は無いと思う。

 全集ほどのボリュームでなくとも、とりあえず何か一冊オーライ画集を手元に置きたいということであれば、以下の本あたりが手頃なのではないかと思う。


●「生頼範義 緑色の宇宙」(玄光社MOOK illustration別冊)


 今回の展示には行けなかったのだが、昨年春に近場で展覧会があり、何度も通ってオーライワールドを堪能する体験が持てたのは幸いだった。
 自分の持てる能力を全開にして観て考えて、レポートを連発した。

時は来た!! 生ョ範義展 The Illustraor in明石
難読の壁
ほら、あの凄い絵を描いたのが
イラストの真髄
百戦が錬磨した画風
ペンキ絵の究極
「絵画」だけではくくりきれない画風の謎
いかにして生頼範義となったか
生活者としての絵描き

 今回手にした図録をめくりながら、また色々感じ、考えてみたいと思う。
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2017年01月29日

軽めの一撃

 一週間前、朝布団を上げている時に、少々腰を痛めてしまった。
 ドイツ語ではぎっくり腰のことを「魔女の一撃」と表現するとか。
 今回の私の場合は、そこまではいかないけれども、軽めの一撃を食らった感じ。
 日常生活は一応こなせるが、姿勢を変える時に少し痛んだり、立ち時間が長くなると辛かったりという程度だ。
 寒い時期の朝は、身体が固まっているので要注意。
 もうよくわかっているのだけれども、朝一に近い時間帯に頭がよく働かないのは、なかなか避けがたい。
 それでも布団を上げようとした瞬間、とっさにヤバさを感じてすぐに下したのが良かったのだろう、最悪の事態は回避できた。
 軽く腰を痛めたのは一年ぶりぐらいか。
 身動きできないほどの重症のぎっくり腰はこれまでに二度経験しているが、ここ十年近くは軽症だけで、基本的に腰に対する意識はできてきている気もする。
 軽めの腰痛で済んでいる分には、たまに注意喚起する意味でも悪くはないかもしれない。
 部屋のボイラーの調子が今一つだったこともあり、近所の風呂屋に何度か通ってゆっくり温まると、症状は緩和された。
 春までにあと一回くらいは、クソ寒い仕事場の灯油タンクの入れ替えをしなければならない。
 自分が腰痛持ちであることを忘れぬよう、注意注意。

 もう一つの持病の胃腸炎は、ヘルニア騒動以降、鳴りを潜めている。
 こちらも忘れずに……
posted by 九郎 at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2017年01月31日

映画「この世界の片隅に」

 しばらく前になるが、映画「この世界の片隅に」を観た。
 仕事のシフト変更でぽっかり時間が空いた時には、映画鑑賞などがほど良い。
 この作品、話題作ということもあるし、あまり交友関係の広くない私の、数少ない知人の一人が参加しているとあっては、やっぱり映画館で観ておきたかった。
 平日昼間だったがかなり人が詰まっていて、満席に近かった。
 公開からかなり経っているのにこの入りは素晴らしい。
 これから観に行こうという人は、とくに休日は念のため予約するか、早めに映画館に着くようにした方がいいかもしれない。

 噂にたがわぬ良い作品だった。
 戦争や原爆はテーマとして厳然とあるのだけれども、描写の中心は名もない庶民のごく普通の生活風景だ。
 ちょっとぼんやりした、絵を描くのが好きな女性「すずさん」の眼と手を通して、戦前から戦中、戦後の広島近辺の風景が、ていねいにていねいに描かれる。
 精緻を極めた絵作りがなされているはずなのに、原作マンガ家こうの史代の画風もあって、観客の眼に入る映像はあくまでさりげない。
 絵作りに全力を傾注しているはずの作り手の熱意が、前面には出過ぎていないのがまた素晴らしい。
 そうした細やかな生活描写や、情のやりとりが描かれてこそ、徐々にスクリーンに侵攻してくる戦争の暴威が、強烈なコントラストを感じさせるのだ。

 映画を観ながら、なんとなく石牟礼道子の著作のことを思い出していた。
 水俣の語り部であるかの作家も、公害の惨禍だけでなく、それ以前の美しく懐かしい水俣の海山、民俗の在り様を作品として結晶させ続けてきた。
 作品に少し「異界」とか「幻視」の要素が含まれていることも、共通しているように感じる。
 理不尽な暴虐に対する時、失われたものの美しさを描き残すことこそが、もっとも強い力を発揮することもあるのだ。
 そう言えば3.11後の反原発デモでも、幾多の力のこもった演説にもまして多くの人の心を打ったのは、唱歌「ふるさと」だった。

 絵描きのハシクレとして観るならば、主人公のすずさんが空襲時に呆然と空を眺めながら「今絵の具があったら」と夢想するシーンが心に突き刺ささる。
 そう、絵描きはそのように感じるのだ。
 現実と並行してふと夢想が混ざり込み、そんな物語を描き留めたくなる感覚は本当によくわかる。
 それは絵描きの「業」だ。
 すずさんは状況的に描けなかったけれども、絵描きの業を背負った者は、できることならそんな時は、まわりにどう思われようと、やはり描いた方が良いのだ。
 

 あまり人には言わないけれども、私は毎日のように「絵を描く手がなくなったら」とか「目が見えなくなったら」と、ひとしきり想像する時間を持っている。
 実際そうなってみないと分からないが、もしそうなっても描けるようにと、そのような想定をする時間を持つように心がけている。
 明日何が起こるかわからないのが人生だ。
 元弱視児童であり、阪神淡路大震災の被災者でもある私は、そのことを身に染みて知っている。

 描き残す、そして書き残すということについて、深く感ずるところの多い、本当に良い映画だったと思う。


【2017年末の追記】
 一年ほど前、映画「この世界の片隅に」を観た。
 印象的な画面が目白押しの素晴らしい映画だったが、今でもたまに反芻するシーンがある。
 終戦の場面である。
 玉音放送を聴いた主人公・すずさんが、一人裏庭に出て、地面を叩きながら慟哭する。
 その時の独白が、言葉通りに受け取ると非常に「好戦的」で、まるで敗戦を悔しがり、戦い抜きたがっているかのようなのだ。
(あの大人しいすずさんが、なぜ?)
 そんな疑問を感じた人も、多かったのではないだろうか。
 その時すずさんが感じた「悔しさ」、私はなんとなくわかる気がするのだ。

 何度も書いてきたが、私は中高生の頃、カルト教団じみた、または戦前の軍国主義じみた、超スパルタ受験校に通い、過酷な体罰教育を受けてきた。

 青春ハルマゲドン

 もちろん中高生としての楽しい思い出もたくさんあったのだが、反発が大きすぎて、卒業後はなるべく母校とは距離を置き、関わらずに過ごしてきた。
 そして90年代、卒業から十年ほど経った頃、我が母校が進学実績の伸びと共に、ごく常識的な範囲の「普通の校風」に脱皮していったことを、風の便りに知った。
 それ自体は「良いこと」で、後輩たちのことを考えれば、まことに好ましい変化だ。
 しかし、私がその時反射的抱いたのは、「悔しさ」に似た感情だった。
 カルトな校風に馴染めず、卒業せずに去っていった友人たちのことや、どうにかサバイバルした自分の感情が蘇ってきた。
 そして、母校の「最高傑作」の一人でありながら、後にカルト教団に走ってしまった面識のない先輩のこと。
 映画館でラストに近づく画面を観ながら、そんなことを思い返していた。

 そう言えば映画の中のすずさんも、戦争で大切なものをたくさん失いながらも、淡々とした日常に還っていったのだった。
 あの終盤の流れ、映画館の暗闇でひっそり涙しながら、見入ってしまった。


posted by 九郎 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする