ロボットアニメにドラマ性やリアルな描写を持ち込もうとすると、「人型ロボットは、兵器としてリアルであり得るのか」という根本的な問題と直面しなければならなくなる。
マッドサイエンティストじみた博士が、個人レベルの研究所で巨大ロボットを開発し、それが地球の命運を担えるほどの性能を持っているというスーパーロボット的な基本設定は、低年齢向けのロボットプロレス・アニメであればこそ成立する。
ガンダム以前のスーパーロボットは、そこの部分はあまり深く突っ込まないようにして作られてきた。
デザイン的にはヒーローロボとしての見栄え(人間っぽい顔立ちや、赤青黄などの原色を多用した色分け)や、玩具で立体化した時の整合性をクリアーできるよう、かなり厳密に配慮されてきた。
しかしそれは、あくまで「子供に売れる玩具」としてのデザイン・整合性であって、「現実にあり得る兵器」としてのリアルさとはまた別だ。
リアルな兵器として考えるなら、そもそも個人レベルの研究所が開発した少数の機体が、国家レベルの軍事組織を差し置いてwarの趨勢を決定することはあり得ない。
また、地上戦であれば車両、空中戦であれば航空機を上回る運動性能を、「人型ロボット」が持ち得るとは考えにくい。
百歩譲ってロボットの手足の機能にあたる「二足歩行」や「汎用性のあるマニピュレーター」には有用な局面があり得るとしても、「目鼻口のそろった人間っぽい顔立ち」の必要性には理屈付けのしようがない。
色に関しても原色多用に実戦性は見込めない。
「宇宙戦艦ヤマト」の場合は、「戦闘用巨大ロボットを出さない」ということでリアルな描写を担保した面があった。
ヤマトのメカニックデザインは、無重力の宇宙空間の兵器としては、重力のある地球上の艦船や戦闘機の形態を引きずりすぎている感はある。
しかし、だからこそ一般視聴者にも「リアルである」と伝わりやすいし、一応「惑星の重力圏内と宇宙空間の兼用であるから」という理屈付けもできているのだ。
リアルロボット・アニメの始祖である「機動戦士ガンダム」は、「人型の巨大メカが兵器として有用であることの理屈付け」に徹底的にこだわった作品だった。
企画段階では「巨大ロボ」というより、「宇宙空間で生命を維持し、人体の機能を拡張するためのパワードスーツ」という概念から出発しており、実際に作品化された時の「モビルスーツ」という呼称にはその名残がある。
無重力の宇宙空間と、一部重力があるスペースコロニーでの作業、戦闘のためのメカニックであれば、「人型」であることの理屈付けは可能になってくる。
初期の、リアルなパワードスーツ的なデザインの要素は、脇役のガンキャノンの方に残っているように見える。
玩具メーカーの提供を受ける必要性から、徐々にパワードスーツは巨大化し、デザインにも「スーパーロボット」的な要素が盛り込まれるようになったようだ。
人体の10倍にあたる18m前後の身長も、現行の戦闘機等と比較すると違和感のないサイズ設定になっている。(だからこそ後に発売されたガンプラも、模型としての定型を踏襲したスケールでシリーズ化できた)
主役機であるガンダムのデザインは、「メカとしてのリアルさ」と「玩具として売れるスーパーロボット」の要素の、ぎりぎりのせめぎあいの中で産み落とされた。
初期デザインでは目鼻口のついた「顔」があったが、人間的に見えるツインアイだけ残され、口元は排気口のような意匠が付いたマスクで覆われた。
白を基調とした航空機的な色合いながら、一部玩具的に赤青黄を取り入れた形にまとめられた。
コクピット兼脱出ポッドのコアファイターは、当初は「味方側」の三機(ガンダム、ガンキャノン、ガンタンク)の上半身と下半身を、自在に組み替えるための変形合体システムとして発案されたようが、これらの設定は、実際の作品作りにはあまり生かされなかった。
言葉は悪いが「スポンサーから金を引っ張るための方便」という意味合いが強かったのかもしれない。
後に番組がスタートし、視聴率が低迷すると、テコ入れ策としてガンダムのパワーアップパーツとして様々な合体変形パターンが可能な「Gアーマー」も登場するが、相変わらず作品内容とはあまりかみ合っておらず、後に映画化された時には「なかったこと」になっていた。
味方側に比べ、敵側のジオンのモビルスーツザクには、制約の少ない分、存分にミリタリー色が強い、リアルなデザインが採用された。
何よりも特筆すべきは、敵も味方もモビルスーツは現行の戦車や戦闘機と同じような「局地戦の一兵器」に過ぎないという、「強さのバランスのリアルさ」が採用されたことだろう。
以前にも書いたが、「ガンダム」は要約するならば「戦争に巻き込まれた難民の少年少女たちのサバイバルストーリー」であった。
見た目上の敵味方は存在するが、スーパーロボット的な勧善懲悪のシンプルな物語ではない。
表立って描かれることは無かったが、裏のストーリーとして「搾取された宇宙移民の独立運動」とか、「独立戦争に名を借りた軍事独裁体制」などの政治劇の要素が匂わされていて、やろうと思えばいくらでも深読みができる作品だった。
表の主人公であるアムロ・レイたち少年少女たちの多くは、「敵」というよりは巻き込まれた極限状態と戦っているのであり、志願兵ではなかった。
本来兵士向きとは思えない内向的な主人公アムロは、パイロットとしての適性を開花させるほどに、その能力を戦争の道具として利用されていく。
そんな痛ましさを執拗に描くところに、それまでのロボットアニメにないリアルさがあり、次回予告の決め台詞にある通り「キミは生き残れるか?」と、視ている側にも問いかける作品であったのだ。
そうしたリアルさと同時に、それでも「ガンダム」はスーパーロボット的な魅力もあわせ持っていた。
先にも書いた通り、主役機ガンダムはスポンサーの意向を汲んで「人間的な顔立ち、原色多用、合体変形」の要素を残していたし、30分の枠内で必ず一回は敵モビルスーツとのバトルが入っていた。
大河原邦男のデザインはリアルと分かりやすいシンプルを両立させており、安彦良和の作る「絵」はダイナミックな格闘戦の面白さを存分に描き出した。
結果的にはスポンサーの意向という「枷」が、幅広い年齢層に届く作品の形成にプラスの効果をもたらしたということになるだろう。
作り手の高い志と、視聴率や玩具の売り上げ。
ストーリーのリアルと、それに見合うだけのメカニックデザインのリアル、そしてどうしても捨てられない「玩具を売らなければならない」という宿命。
相反する要素がギチギチと作品内でぶつかりながら、何とか危ういバランスを保ちつつ、アニメ制作は続く。
しかし、1979年の初回放映時の結果は、残念ながら「打ち切り」だった。
そこからの再評価、劇場版の大ヒットという奇跡の復活を遂げ、空前のガンプラブームが起こる顛末は、以前記事に書いたことがある。
地方の小学生が体感したガンプラブーム
このように「ガンダム」によってロボットアニメは新次元に突入した。
そして80年代半ば過ぎごろまで、スーパーロボットから一段階進化した「リアルロボット」の時代は続くことになり、関連商品の主流も、超合金等の玩具から、リアルなプラモデルへと移行していったのである。