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2017年01月10日

祭礼の夜9

 十日戎の喧騒を楽しみながら、そぞろ歩き。
 最近は世知辛くて、屋台は午後11時で終了するという。
 以前は深夜まで盛り上がっていたのだが、ご近所の苦情で数年前から早じまいになったとのこと。
 年に3日の縁日が、そんなに耐えがたいほど迷惑か?
 そう言えば除夜の鐘がうるさいからと、夜中に撞けなくなったお寺もあるとか。
 俺の感覚で言えば「嫌なら神社仏閣の近所に住むな!」でおしまいなのだが、そんな感覚が通じないのが今の世の中か。
 保育園が「迷惑施設」扱いになるとか、そんなことばかりがまかり通ると、どんどん住みづらい国になっていくと思うのだけれども、こんな感じ方は少数派なのだろうな。
 
 まあ、しょせん俺は昔から少数派なのである。
 そもそも弱視児童から出発してるし、偏屈者だし、絵描きだし。
 それでも普段はなるべく周りに合わせる努力はしてるが、せっかくの匿名ブログ。
 思うところは書いておきたいものである。

 十日戎の賑わいの中、今年も世間の風潮とは合わない本を一冊、ご紹介。


●「やくざと芸能界 」なべおさみ(講談社+α文庫)
●「やくざと芸能と 私の愛した日本人」なべおさみ(イースト・プレス)
 執筆開始の時点では、「役者なべおさみ自伝」というような体裁で書き起こされたのではないだろうか。
 やんちゃものの少年時代からアウトローの世界に半歩ほど足を踏み入れつつも、侠気ある面々に支えられ、諭されながら、やがて若者は「ヤクザ」ならぬ「役者」となった。
 負けん気で才気走った若者が身一つで飛び込んだ世界には、多くの不思議な縁、出会いが待っていた。
 芸能、文化、政治、アウトローなど、各界で伝説的な人物たちと面受の機会に恵まれたのは、昭和という時代背景もあるだろうし、著者自身の人徳のようなものもあるだろう。
 そうした出会いに彩られた自伝は単なる個人史の範囲を越え、やがて単行本版の帯にある「知られざる昭和裏面史」というレベルすら越えていく。
 日本の芸能史に深く分け入って書き進めるうちに、「文字に残されていない日本分化史」にまで拡大していくのである。
 それは史実として学問的に裏付けられる性質のものではないだろうけれども、著者が自身の人生の中で練り上げた「神話」であるだけに、説得力とリアリティを持っている。
 細かな固有名詞や事象の当否は分からないけれども、日本の芸能・アウトロー史を概観する「物語」としては、十分首肯できるものになっていると思う。

 芸能とヤクザの世界の密な繋がりは、遠く中世以前まで遡る。
 共通の階層に属する者たちが、凄まじい貧困の中、互いに支え合いながら、したたかに生き延びてきたと解するのが妥当なのだ。
 注目に値するのは江戸時代の為政者の狡猾な知恵だ。
 芸能者やヤクザ者にも一定の居場所と稼業を認め、庶民の生活のガス抜きや治安維持の補完機能として利用してきたことが、ともかく表面上は長く「太平の世」を保てたことの最大要因だったのではないかと思う。
 近代までの日本のヤクザも、江戸時代から続く性格を引き継いでおり、「反社会勢力」であった歴史は一度もない。
 基本的には時の権力による統治を裏面から補完するものであって、尊皇の念篤く、お上には逆らわない存在だったのだ。
  
 芸能やヤクザの世界に対する素朴な憧憬は、誰しも心の中に持っている。
 普通は遠目に眺めるだけで、真っ当な職を得て堅気に生きるものだし、それは絶対的に正しい。
 華やかに見える世界でも、実際に足を踏み入れてしまえば失うものの方が多いのだ。
 しかし、人は正しいか正しくないかだけで生きられるほど単純ではなく、どうしても一定数の「はみ出し者」は生じてくる。
 生まれながらの社会的階層、経済状態が要因としては最も大きいし、時には各個人の資質により、どうしようもなく堅気の世界からはみ出す人は出てくるものだ。
 大切なのは、そうした面々を、社会がどのように包摂するかということだ。

 この本の初出は2014年。
 十年遅ければこうした本は出版することすら困難な時代になってしまうかもしれない。
 一読の価値あり。
posted by 九郎 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする