当ブログではカテゴリ:90年代で、阪神淡路大震災の被災体験を中心に、あの頃の世相などを極私的な観点から覚書にしてきた。
破壊され、瓦礫と化した街に立ち尽くした被災体験は今でも強烈に印象に残っていて、幼少の頃の記憶とともに、私の「第二の原風景」と呼べるものになっている。
私にとっての90年代は、震災であり、そしてサブカルチャーに埋もれた日々だった。
その二つの要素は別々のものではなく、(あくまで私の内面でのことだが)どこかで通底するものがあったはずで、今でも「それ」についてあれこれ考え続けている。
今年もまた、1.17の阪神淡路大震災メモリアルが近づいてきた。
ともすれば薄れがちな記憶を蘇らせながら、90年代について、引き続き再考してみたい。
私の学生生活は、90年代の始まりとほぼ同期していた。
よく言われる「バブル崩壊」の時期とも一致していたはずだが、少なくとも私の体感ではまだまだ世の中にカネは回っていた。
その気になれば学生がバイトや各種企画でそれなりに稼ぐことも可能で、けっこう派手に遊んでいる同級生も数多くいた。
企業にも余力が残されており、学生の活気を吸い上げながらカルチャーを支えていた部分があったと思う。
私自身はほとんど派手な遊びは経験していないのだが、美術科の作品制作に追われながらも、同人誌制作、演劇活動などにうつつを抜かせていた。
当時はまだインターネットは存在せず、ケータイも一般化していなかった。
今のようにスマホを片手で操作するだけで様々な情報が手に入る時代ではなく、情報収集するにはとにかく歩き回って現地を見たり、紙媒体を渉猟するのが普通だった。
インターネットの先駆けとも言えるパソコン通信は存在したが、かなりマニアックな世界だったと思う。
そのディープな世界については、以下の本が詳しい。
●「竹熊の野望 インターネット前夜、パソコン通信で世界征服の実現を目論む男の物語」竹熊健太郎(立東舎)
私が見てきた範囲のサブカルチャーの世界では、バンドブームがまだ続いていたり、ミニコミ誌に勢いがあったり、プロレスや格闘技が進化の真っ最中であったり、アマチュア映画制作や小劇場演劇が盛り上がったりしていた。
アマチュアの映画やアニメの制作には、驚くべきことに90年代初頭でもまだ「8oフィルム」(注意!8oビデオではない!)が使用されていた。
映像メディアとして8oフィルムが流行したのは70年代で、80年代にはビデオに取って代わられ、90年代には機材はもう生産されていなかったはずだが、まだフィルムの供給はあった。
当時のアマチュア映画制作には、もちろんビデオも使用されていたが、編集のやり易さから8oを選ぶ者も多かった。
とくに大学などの公共機関では、あまり使われなくなった8o機材をたっぷり死蔵している場合があり、カメラや映写機、編集機材が貸出OKのところもけっこうあったのだ。
在りし日のアマチュア8o映画制作の雰囲気は、以下の作品によく描かれている。
●「あどりぶシネ倶楽部」細野不二彦(小学館)
作品自体は80年代のものだが、描かれる大学のサークルの在り様は、私が体感した90年代初頭と非常に近い雰囲気で、基本的には変わっていなかったのだなと感じる。
パソコン、デジカメ、ケータイなどのデジタル機器が完全に一般化したのが2000年代に入ってからなので、90年代のとくに前半は万事「アナログ」だった。
音楽はレコードからCDに置き換わっていたが、アマチュアが作品をメディアに記録する時はカセットテープが一般的だった。
ミニコミ誌制作にワープロ専用機は活用されていたが、「データ入稿」などという概念は存在せず、ワープロ専用機の限られた書式を越えて気の利いた誌面を作ろうとすると、切った貼ったの「版下作業」が不可欠だった。
コンビニが増え、十円コピーがどこでもできるようになったのが、確か80年代後半になってから。
ワープロ専用機と10円コピーの登場が、ミニコミ誌の表現の自由度を格段に上げたのだ。
小劇場演劇は80年代の余波でまだ勢いが残っていて、学生演劇サークルから次々に旗揚げ劇団があった。
アマチュアから離陸する際、ちょうど手ごろな規模の会場がいくつもあり、それはまだ世の中にカネが回っていることの恩恵でもあった。
そんな90年代サブカルチャーの風景の片隅に、私もいたのだ。