美術スタッフは他にもう一人いて、当初はそのもう一人が主任だった。
私は主任の作った構造計画にデザインを施していく担当。
その後、公演を重ねるごとに主任の彼は役者に軸足を置くようになり、私が美術を全般に担当するようになった。
学生演劇から一歩踏み出して旗揚げすると、いくつかの理由から大掛かりな舞台美術が難しくなることは前回記事でも書いた。
とりわけ問題になるのは、大道具の制作や保管場所の確保だ。
学生演劇サークルなら学内のスペースが使用可能で、機材や資材、工具類もあわせて、先輩方が蓄積したものを継承することができる。
そこから独立して旗揚げすると、基本的には場所も道具も全て、自分たちで身銭を切って確保しなければならない。
私が参加した劇団の場合は、旗揚げ当時まだ半数ぐらいが在学しており、母体になった演劇サークルに籍を置いていたので、厳密に言うとマズかったのかもしれないけれども、当面は「間借り」する形で諸々の問題をしのいでいた。
私自身はもう卒業していたのだが、当時の学内施設の運用は牧歌的で、そのあたりの融通は利いたのだ。
よく言えばおおらか、悪く言えばルーズな昔風の気質が、90年代前半の大学にはまだ残っていた。
老朽化して本来の用途が忘れられ、治外法権のようになった謎の集会所の類が、学内のあちこちに点在していた。
堅気の学生が避けて通るような怪しげなスペースで、演劇や映画、音楽、美術、文芸関連の部やサークルのメンバーが、夜となく昼となく蠢いていた。
サークル活動に限らず、学内に住み込んで研究をしているような学生もいっぱいいた。
私が在籍していた美術科などは、「学校に寝泊りもせずに制作ができるか!」というような雰囲気が、学生はもちろん、先生方の間にすらあった。
そのような学内の「魔窟」の混沌から、私が知っている範囲だけでも、たくさんのユニークな人材が輩出されていった。
そうした皆さんは大物であればあるほどまともに卒業していなかったりするので、公式の新卒就職状況等には決してカウントされない。
しかし、そんな数字に表れない「凄玉」の皆さんも、正規のカリキュラムからは外れていても、間違いなく大学という環境の中で育った人材なのだ。
カルチャーというものは、多くの場合そのような「目的外使用」とか、「奇人変人を許容するゆとり」とかの、訳のわからない混沌状況から生まれるのであって、あまり隅々まできれいに合理化するのは良くない。
このあたりの「秩序と混沌のほどよい間合い」というものを、一昔二昔前の大人、とくに大学教授の皆さんは心得ている人が多かったと思うのだが、最近そうでもなくなってきているように感じられるのは残念なことだ。
ニュース等で時折、大学の老朽化した寮や施設の建て替えと、それに反対する学生の話題が報道されることがある。
事情を知らないと「きれいに立て替わるのに何を反対しているのか?」と奇異の念を抱かれがちだと思うが、私には何となく当の学生さんたちの思いが分かる気がする。
学生は建物が新しくなること自体に反対しているのではなく、学内に辛うじて残っている「文化を生み出し得るカオスの領域」が、合理化で消滅してしまうことに抵抗しているのだと推察されるのである。
90年代に学生演劇から旗揚げした小劇場は、上記のようなルーズな学内の雰囲気や、中小の演劇スペースが官民の余裕からあちこちで維持されていたことなどにも助けられながら、段階的に学外に演劇活動を移行させることができた。
しかし現在、そうした土壌の多くは失われてしまった。
私の母校でも、私が卒業した90年代半ばあたりから、急速に学内の合理化が進み、管理が強化されていった。
今は国公立大ですら授業料が高騰しており、貧乏学生は奨学金という名の借金を背負わされ、ドロップアウトの自由まで奪われてしまっている。
使い勝手の良い規模の演劇スペースも、かなり減ってしまった。
それは徐々に余裕を失っていく世相を反映してのことなので、仕方のないことではある。
今演劇を志す若い人たちは本当に大変だなと思うのである。
(続く)