年明け初っ端の1月公演は女子ボクシングがテーマで、作演出からは「ぜひリングが欲しい。ただし予算は10万で」という要望が出ていた。
「その予算ではロープワークができるような強度にはならへんよ」
と、私は答えた。
その代わり、公演に使う会場の中心に、ちゃんとリングに見えるものはでっち上げよう。
客席と舞台を、ボクシング会場そのものに仕立ててみよう。
強度が足りない分は演出次第だ――
などなど、雑談の中からアイデアを出していく。
作演出の彼と私は、実際のリングの構造や演出上の使い方を調べるためと称して、ドサまわりのプロレスを観に行ったりもした。
郊外のショッピングセンターの駐車場特設会場で、場外乱闘に逃げまどいながら、リングのある空間というものを体で覚えた。
とくに印象的だったのは、ミイラ男に扮したレスラーが客に向けてパイプ椅子を投げる間合いの絶妙さだった。
椅子が本当に客に当たってしまうと問題になるので、投げる前に一瞬、ミイラ男のぐるぐる巻きの包帯の奥の眼と、客の間にアイコンタクトがある。
今から投げるという暗黙の合意のもと、よけやすいように山なりでパイプ椅子が飛んでくるのだ。
よけきれなくともおそらく当たらないだろうという微妙なコントロールなのだが、客はその間合いだと悲鳴を上げながら逃げ出さざるを得ない。
いったん何人かの客が走り出してしまえば場外乱闘の渦が生まれて、いやでも盛り上げられ、「ああ、プロレスを観に来たんだな」という満足感ができてしまうのである。
椅子の投げ方一つとっても、プロレスラーの磨き抜かれた「芸」を感じさせられた体験だった。
90年代半ばはプロレスや格闘技の人気が一つのピークを迎えていた。
プロレスではメジャー団体はいうに及ばず、中小の団体が乱立し、漫画の世界がそのまま飛び出してきたようなデスマッチ路線からリアルな格闘技路線まで、ありとあらゆるスタイルが日々実験を繰り返していた。
女子格闘技もキックボクシング等を中心に人気が高まりつつあった。
女子プロレスはそれより以前から「観る方」の人気はあったが、「観るだけでなく実際やる方」の女子格闘技人口が増え始めたのはこの頃だったと記憶している。
そんな機運も反映しての、われらが劇団の女子ボクシング芝居だったのだ。
雑誌では「週プロ(週刊プロレス)」や「格通(格闘技通信)」に最も勢いがあった頃で、他社の「週刊ゴング」「ゴング格闘技」「フルコンタクトKARATE」等も並び立ち、しのぎを削っていた。
他にも同人誌のような判型の「紙のプロレス」が独自路線で遊び狂っていて、いつ潰れるかとハラハラしながらも、私は毎号心待ちにしていた。
完全な競技としての総合格闘技もついに実現し始めており、ターザン山本、谷川貞治、堀辺正史、夢枕獏、鈴木邦男をはじめとするパワフルな語り手がムーブメントを盛り上げていた。
レスラーや格闘家たちもリングで闘うだけでなく、雑誌のインタビューに答える形で多くの「言葉」を発信していた。
私は直接会場まで観戦に行くことは少なかったが、そうした活字メディアを通してプロレス・格闘技を楽しみ、考えることにはハマり切っていた。
そのような楽しみ方は一部で「活字プロレス、活字格闘技」と呼ばれ、一番人気の「週プロ」は、たしか最盛期には公称40万部くらいまで行っていて、ファン層の広大な裾野を形成していた。
当時はTVと言えばまだまだ地上波が主流で、ケータイもさほど一般化しておらず、ネットもSNSも存在しなかったので、プロレスや格闘技の情報は雑誌媒体に最も速報性があり、何か知りたいと思えば雑誌のフィルターを通すしかなかった。
生の情報が乏しい分、読者は各誌のフィルターの色合いを考慮しながら、真相を各自あれこれ想像する訓練を積んでいた。
元々プロレスというジャンルは、やる方も観る方も虚実の狭間で表面上の勝敗を超えた「深読み」をするジャンルだった。
演劇的な要素も持ちながら、同時に、何が起こるかわからない「闘い」でもあったのだ。
当時のプロレス・格闘技ファンは、今風に言うと「情報リテラシー」がかなり高かったのではないかと思う。
私は「週プロ」や「格通」の発売が毎号待ちきれず、深夜から明け方近くのコンビニに駆け込んで、開封されたばかりの雑誌をガッシと握り、沈痛な面持ちでレジに直行していた。
その様がよほど異様に見えたのだろう、たまたまその様子を見かけた演劇の後輩から、「Hさん、あれは怖いですよ」と注意されたこともあった(笑)
少し言い訳しておくと、そんな思い込みの強い私のファンぶりも、必ずしも悪評ばかりではなかった。
よく行くコンビニの店長さんが実はプロレスファンだったらしく、私にも好意的に接してくれ、何かと気を使ってくれたりしたこともあった。
当時はこの店長さんの他にも、同じアパートに一時住んでいたアラスカからの留学生とか、平井和正ファンの風呂屋の兄ちゃんとか、風呂屋のサウナのTVで野球観戦するのが好きな入れ墨背負った若い衆とか、風呂屋帰りによく立ち寄っていたワゴンのタコ焼き屋さんとか、馴染みの古本屋のご主人とか、カレー屋のちょっと変わり者のマスターとか、人付き合いのあまり得意でない私にも、ほど良く世間話ができるくらいのご近所さんがけっこういた。
今思うともう全部が懐かしく、90年代のサブカル風景と共に、様々な記憶がよみがえってくるのである。
(続く)