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2017年01月27日

祭をさがして9

 95年1月年明けの公演では、舞台美術だけでなくチラシの絵を描いたりパンフレットのデザインをしたり、チケットのイラストを描いたりもした。
 当時の舞台の写真など貼ろうかとも思うのだが、先に述べた通り私は劇団の初期脱退メンバーに過ぎないのでちょっと遠慮があるし、そもそも手元に残っている写真が非常に少ない。
 90年代半ばはまだフィルム写真の時代で、今のデジカメの感覚で「とりあえずシャッターを切っておけばいい」というものではなかった。
 フィルム写真はデータの書き換えが利かず、一回シャッターを切れば確実に一枚分のフィルムが消費され、仕上がり具合も基本的には現像してみなければわからなかったので、撮影は今よりずっと慎重で、写真枚数自体が少なかったのだ。

 会場になったOMS(扇町ミュージアムスクエア)は、大阪梅田からさほど遠くなく、キャパも手頃だったので、学生劇団や、そこから旗揚げした小劇場が芝居を打つのによく利用されていた演劇スペースだった。
 当時の私の演劇活動期間は、学生時代も含めると五年ほどだったと思うが、その間に舞台美術を担当しただけでも四回、手伝いで仕込みやバラしに参加したのも含めると、十回以上はOMSを経験していたはずだ。
 会場フォーラムの真ん中あたりに極太の柱が二本立っているのが特徴で、その柱をどう使うかが制約でもあり、各劇団のセンスの出るところでもあった。
 参考までに、92年頃の学生時代に、私が別の劇団で担当したOMSでの舞台美術のスケッチを紹介してみよう。
 かなり後になってから描いた再現イラストだが、当時の雰囲気は出ていると思う。

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 客席を含めた会場全体を酒場に見立て、酒場のステージと公演の舞台をシンクロさせる構成になっていて、OMS独特の柱も利用されているのがわかる。
 こちらの舞台美術は、芝居全体がうまく回ったこともあって、私の中では「完全燃焼」と言えるほどに充実感があった。
 私が楽日にちょっと舞い上がっていたら、観に来てくださっていた若い頃の西田シャトナーさんに「調子に乗んな!」と注意されてしまったのもいい思い出だ。
 ご本人は全く覚えていないだろうけれど……

 今はもう閉鎖されてしまったOMSだけれども、「昔のホームグラウンド」として懐かしく思い出す芝居関係者は今も多いのではないだろうか。
 アマチュアだけではなく、名のある関西小劇場もよく公演に使っていて、出入りしているとけっこう有名人を見かけた。
 ある時、休憩で裏の駐車場に出ていたら、中島らもさんが一人でブラブラ歩いてきたことがあった。
 とっさに気の利いた言葉が出てこなくて、「いつも『明るい悩み相談室』読んでます!」などと口走ってしまい、「あれはまあ、別に」と苦笑されてしまった。
 その時らもさんが担いでいたエレキ三味線をチラッと見せてもらい、ふと「弦楽器作るのも面白そうやな」と思ったことが記憶に残っている。

 95年1月公演で私が担当したパートについては、うまく行かなかった点も多々あり、振り返ってみると劇団メンバー、とくに作演出の彼には色々謝りたい気持ちでいっぱいになるのだけれども、ともかく私なりに当時の「全力」は出した結果だった。
 完全燃焼とまでは行かなかったが、自分の舞台美術としての能力の範囲が把握できた気がして、その能力の範囲内でもっと上手くやれるはずだという感触はつかんでいた。
 舞台監督担当の外部スタッフさんとの相性も良かった。
 その舞台監督さんはTVの仕事もやっているプロだったのだが、金も人もないなりに色々工夫するスタイルを面白がってくれて、良いチームの雰囲気が出来つつあったと思う。

 公演の終わった95年の年始、私はそれからもしばらくは舞台作りをやっていくはずの自分に、何の疑問も持っていなかった。
 自分の求める「祭」を、なんとか舞台を通して探すつもりでいた。
 その時点からいくらもたたないうちに、思わぬ「刻限」が迫っていることなど、ひとかけらも想像していなかったのだ。


 ここまでで、「祭をさがして」の章、ひとまず了としたい。
 小休止の後、次章「祭の影」開始予定。
posted by 九郎 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする