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2017年02月03日

憎むな! 殺すな! 赦しましょう!

 今日は節分。
 季節の変わり目ごとにあれこれ物思うことの多い当ブログ、節分についても開設当初からカテゴリを設け、語り続けてきた。
 これまでにも紹介してきた通り、日本には「鬼」に代表される異物を、完全に殲滅はしない文化がある。
 鬼やモノノケに一旦は門をくぐらせ、適度に暴れさせた後で通り過ぎてもらう形式の行事は数多い。
 対抗措置として何かするとしてもせいぜい豆をまく程度で、むしろ歓待するケースも多くある。
 そんな伝統を反映してか、子供向けのシンプルな勧善懲悪TV番組などでも、あまり殺伐とせず牧歌的な雰囲気の作品の人気は高い。

 すぐに思いつくのは「アンパンマン」だ。
 バイキンマンは毎回アンパンマンにパンチで追い払われるが、決して滅ぼされはしない。
 アンパンマンの役割は乱れた秩序を正すことで、「悪」を滅ぼすことではない。
 そもそもアンパンマンの世界では、おいしい食べ物は全て無償でふるまわれている。
 にも関わらず、奪い取り、必要以上に貪ろうとするからバイキンマンは追い払われるのであって、バイキンマンの存在自体は排除されていないのだ。

 同様の雰囲気を持つ作品で、私が子供の頃好きだったのが「ヤッターマン」だった。
 毎週毎週やられながら、それでも懲りずにイカサマ商売を思いつき、メカを開発するドロンボー三人組は、子供心にとても楽しげに感じられた。
 ボヤッキーは紛れもない天才ではなかっただろうか?
 もし毎週のノルマを免除され、じっくり腰を据えてメカを開発したら、ヤッターマンにボロ勝ちできたんじゃないかと今でも思う。
 しかしそうした地道な努力とは無縁の山っ気が、またドロンボーを魅力的に見せるのだ。
 
 バイキンマンもドロンボーも、美しいけれども退屈な世界の中に、一時のお祭り騒ぎを巻き起こしながら、毎回滅ぼされることなく追い払われる。
 善も悪も、ほど良いところで共存できる形に収めるところに、日本の文化の懐の深さがある。
 悪に見えるものを単純に「根絶」「殲滅」するのはシンプルで分かりやすいけれども、まずは一度立ち止まった方が良い。
 自分を「善」だとか「正義」の位置におくことには、ためらいがあるくらいが良い。

 戦後日本のサブカルチャーの中で、伝統ともつながる懐の深さが感じられる例は、「月光仮面」あたりまでさかのぼれるかもしれない。
 以前投稿した「月光仮面」に関する記事を再録して、今年の節分の夜語りの締めとしよう。

再掲「正義の味方」(2008年04月16日)
 2008年4月6日、川内康範さんがお亡くなりになった。
 その一年ほど「川内康範」という名を聞けば、主にワイドショーなどで森進一と「おふくろさん」の歌詞でもめていた人、というイメージが強かっただろう。
 作詞家として「骨まで愛して」等のヒット曲も手がけているが、私にとっての川内康範さんは、やはり「まんが日本昔ばなし」の作者であり、「レインボーマン」の作者であった。
 記憶に残る番組作りに長けた先生で、あの懐かしい名曲「ぼうや よいこだ ねんなしな……」は、今でも耳にするだけで暖かい気分に浸れるし、「インドの山奥で〜」ではじまる「レインボーマン」の主題歌も鮮烈だった。
 私が幼い頃にTVヒーロー「レインボーマン」を視聴したのは、本放送ではなく、なんどか繰り返された夕方の再放送だったはずだ。
 主題歌は「インドの山奥で 修行をして」の後、このように続く

   ダイバダッタの魂宿し
   空にかけたる虹の夢……

 子供の頃は何の気なしに歌っていたが、ある程度の年齢になって多少仏教の知識が入ってくると、私の頭には「?」が浮かんだ。

 ダイバダッタ?
 ダイバダッタって、あのダイバダッタ?
 
 ダイバダッタと言えば、一般に釈尊の弟子の一人で、破門にされた言わば「悪役」とされている。なぜ主人公はわざわざ悪役に弟子入りしたのだろうか?
 調べてみると、どうやら釈尊の破門を受けたダイバダッタが、二千年以上にわたる贖罪の修行を積んで、戦争を終らせるための超能力を得たという裏設定があったようだ。
 レインボーマンと戦うのは、その名も高き「死ね死ね団」。
 第二次大戦中、日本軍に酷い目にあった外国人が、日本人を滅ぼすために結成した秘密結社であると設定されている。 
 まず、設定が素晴らしすぎるのだ。

 川内康範さんと言えば、政治的にも右派のご意見番として名高く、薬害肝炎問題で福田首相と直談判におよび、解決を促したエピソードで知られる。
 単なる「右翼」の一言で済ませるにはあまりに懐の深い人物であったことは、数々の作品を見れば一目瞭然だ。
 昨今のネット右翼や、ただただアメリカの顔色をうかがうだけの売国保守などとは、スケールが全く違うのである。
 私は絵描きで、「思想」と呼べるほどのものは持たない性分としての左翼であるけれども、このような人物に敬意を払うことには一瞬のためらいもない。

 川内康範さんの実家はお寺で、幼少の頃から仏教には親しんできたと言う。
 幾多の作品の端々に、そうした匂いは表れている。
 代表作「月光仮面」は、薬師三尊の脇仏・月光菩薩に由来するそうだ。「月光仮面」のあまりに有名な主題歌には「正義の味方」という言葉が出てくるが、これも氏の造語。
 この世に完全なる「正義」は神仏以外にあり得ない。
 月光仮面はあくまで人間なのだから、絶対的な正義ではなく「正義の味方」に過ぎない。どこまでも「脇役」でしかない。
 これが氏の「月光仮面」に対する位置づけだったと言う。
 日本におけるヒーローの元祖である「月光仮面」の番組のキャッチコピーは、あまりに平和的なものだった。

「憎むな! 殺すな! 赦しましょう!」

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 川内康範さんについては、以下の本にディープなインタビューが掲載されている。

●「篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝」竹熊健太郎 (河出文庫)
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2017年02月04日

祭の影1

 93年に学生生活を終えた私は、その年末に演劇サークルの後輩たちが中心になって旗揚げした劇団の公演を観に行ったのがきっかけで、94年から舞台美術担当として参加することになった。

祭をさがして-1
祭をさがして-2

 何度か舞台を作ったり、高校時代の友人に誘われて不思議な祭に参加したりするうちに一年が過ぎた。
 90年代関西サブカルチャーの片隅で、その雰囲気を呼吸しながら、自分なりの祭をさがし始めていた。
 当面それは「小劇場」というカテゴリの中で見つけていこうと思っていて、少なくとも95年の年明けまでは、そんな自分になんの迷いも持っていなかった。

 95年1月17日未明、突然「それ」はやってきた。
 阪神淡路大震災である。
 今も生々しく身体によみがえってくる震度7の激震、それから数か月間続いた被災生活の中で、私のものの感じ方は一旦全て解体された。
 瓦礫と化した街で、不思議と広く静かな空を見上げながら、感覚が再構築されていく過程は、このカテゴリ90年代の最初の方で詳述している。
 記事の投稿順は前後するが、時系列では以下の章「GUREN」が、「祭をさがして」の章の後に続くことになる。

GUREN-1
GUREN-2
GUREN-3

 上掲「GUREN」の章では、震災によって「如何に壊れたか」ということを、当時の自分の経験を元に覚書にしてきた。
 断続的に書き綴ってみて、「如何に」の前に「何が壊れたか」を書いておかなければ、震災の本当のところは伝わり難いのではないかと感じていた。
 震災で破壊されるのは、直接的には地盤であり、建造物であるのだが、そうした物理的な破壊によって否応なくそこに住む人の営みも破壊される。
 私の場合で言えば、前章「祭をさがして」で紹介したような、90年代前半に阪神間のサブカルチャーの片隅で活動していた若者の日常が、震災によって一度リセットされたのである。
 震災編にあたる「GUREN」の章は、「祭をさがして」の後に構成し直すことで、より伝わりやすいものになると思う。

 当時私が参加していた劇団のメンバーは、私も含めて大学近辺のアパート等に住み続けている者が多かった。
 劇団などをやっている関係上、とくに男連中は老朽安アパートに居住するケースが多く、程度の差はあれメンバーの大半が被災者になった。
 建物が倒壊して重傷を負うメンバーも出てしまい、劇団の活動は一旦休止となった。
 当面の目標を失った私は、とにかく生活を続けていくことに追われた。
 幸運にも私自身に怪我はなく、住んでいた安アパートも一部損壊程度で済んだ。
 身体と住居に被害はなかったが、中々ライフラインや交通手段は復旧せず、収入を得ていたいくつかのアルバイトに全て復帰できたのは2か月以上後になった。
 震災直後は感覚が非日常に切りかわっていたので、率直に言って「お祭り気分」もあった。
 平時にこういう書き方をすると不謹慎だと思われるかもしれないが、天災などの緊急事態にあって心が湧きたつのは、人間の精神のセーフティーネットのようなものだ。
 誰しもそうした心の仕組みを持っているし、それがあるからこそ非常時を乗り切れる。
 台風が来るとじっとしておれなくなるようなお調子者こそ、緊急時に即座に救援や情報収集に走り始められるタイプなのだ。
 しかし緊急時対応のお祭り気分はそうそう長くは続かない。
 キャンプしているような物珍しさ、楽しさが感じられるのは、比較的被害の少ない者に限られるし、ほんの一時のものだ。
 その後に待っているのは延々と続く過酷な被災生活で、精神的にも肉体的にも、そして経済的にも、本当に窮乏してくるのはそこからなのだ。
 震災のその瞬間、そして直後には「人はあっけなく死ぬ」という事実を突きつけられるのだが、ある程度時間が経過すると「人はなかなか死ねない」という正反対の事実も身に染みてくる。
 あっけなく死んでしまうのは確率としては少数派で、他の圧倒的多数は過酷な現実の中で生き続けなければならないのだ。
 巨大災害では破壊された街の風景や死傷者数などの刺激的な部分に注目が集まりがちで、報道もそこに偏る。
 しかしそれは、言ってみれば「報道のお祭り騒ぎ」に過ぎない。
 絵として地味な「延々と続く被災者の窮乏生活」のキツさには、実際そのような立場になってみて初めて愕然と気づかされるのである。
 さらにやり切れないのは、そうした被災後の生活は、家族や住居や勤めなど、守るべきものの多い堅気の皆さんにほど、重くのしかかるということだ。
 他にも高齢であったり、身体が不自由であったり、小さな子供がいたりということを考えれば、「その後の日常」の比重は限りなく重いものになっていく。
 守るものなど何もない、アマチュア演劇にうつつを抜かす若造であった私の苦境など、被災者の中では例外的に軽いものだったとも言えるのである。
(続く)
posted by 九郎 at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

祭の影2

 そして95年3月。
 ライフラインがひとまず復旧し、交通機関も徐々に原状復帰しつつある中、震災一色だった報道を新たに覆いつくす事件が起こった。
 カルト教団による、毒ガステロ事件である。
 私は件の教団とはなんら関りを持っておらず、個別の人物や教義について、あれこれ直接的に論じるつもりはない。
 正面からのカルト論というよりは、90年代の心象スケッチの一環として個人的な覚書にしておきたいと思うので、検索よけに固有名詞は表記せずに進めたいと思う。

 私は世代としては、事件当時の教団信者の年齢層の、下限あたりに引っかかっていたはずだ。
 TV画面を賑わせた幹部信者連中の大半は、当時の私の年齢+10歳くらいまでの範囲であることが多かった。
 かの教祖のことはテロ事件のかなり前から知っていた。
 これまでにも何度か書いてきたが、私は中高生の頃からオカルト趣味があって、月刊誌「ムー」をよく読んでいたので、かの教祖が教祖になるよりずっと前、一介のヨガ行者・指導者として雑誌に売り込んでいた頃から記事で見知っていた。
 ただ「知っている」というだけなら「古参」と言えるかもしれない。
 後に教祖になる男の修行の成果として、例の「空中浮揚」の写真がムー誌上に掲載されていたことを覚えていたが、その時にはさほど強い印象は受けなかった。
 おそらくその頃には同じ誌上で、成瀬雅春氏あたりの、よりハイレベルなヨガの成果を見ていたはずなので、印象度は低かったのだろう。
 何年か後のムー誌上の広告でかの人を再見した時には、もう完全に教祖になってしまっていた。
 髪と髭はずいぶん伸びており、衣装も宗教色の強いものになっていたが、特徴的な顔立ちから一目で「あの時のヨガ行者だ」とわかった。
 その時私が感じたのは、軽い「興ざめ」だったと記憶している。
「レベルはともかくそれなりに真摯な姿勢で修行を積んでいただろうに、終末論を煽る教祖なんかになってしまっては台無しだ」
 言葉にすると、そんな感想を持ったのだ。
 当時の私は既に自分なりの「絵の修行」を続けていたので、何らかのテーマを孤独に探求する「求道者タイプ」には関心があったけれども、宗教団体や教祖には興味がなかった。
 絵解きのモチーフとして神仏の物語には興味があるけれども、「団体」には関心を持てないという傾向は、今も基本的には変わらず続いている。
 神仏の物語への関心の一環としてオカルト趣味を持っていて、こちらも今でも続いているけれども、それはプロレスと同じく虚実の狭間をあれこれ想像して楽しむためのものだ。
 雑誌記事ではなく、広告ページで終末を煽るかの教団・教祖は、完全に「プロレス」の範囲を越えていると感じた。
 SF作家・平井和正の、カルト集団の中で人の心がどれほど腐れ果てるかを鋭く抉り出した小説もすでに読み込んでいたので、感覚的に「あ、これはアカンやつや!」とすぐにピンと来るところもあった。
 その後も教団挙げて選挙に出て学園祭まがいのパフォーマンスをしたり、度々終末を煽る広告を出したりするのを眺めながら、「まあ、本人たちが楽しいならええんとちゃうの?」というくらいの感想しか持っていなかった。
 ただ、なんとなく不穏なものは感じつつも、本当にテロ事件を起こすほどの外部に対して攻撃的な集団だとは思っていなかった。
 終末論カルトではあるけれども、「サークル活動」の範囲内であろうと思っていた。
 学校を出た後も学園祭ノリのサークル活動を続けたいという気分が生まれるのは、都市化で民俗から切り離され、村祭りを喪失した世代にとっては自然なことだと思うし、それ自体に害はない。
 祭をさがして舞台などを作っている自分も、そこは同じだ。
 しかし、どこか違和感がある。
 感性として共有していると思われる部分と、拒絶反応を感じる部分と両方ある。
 それが何か今は言葉にできないが、とにかく自分が関わるのは「フィクション」であり、「遊び」でいい。
 大層なものではなく、「たかがサブカル」で十分だ。
 そんな感覚で遠巻きに見ていたところに、テロ事件が起こったのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

祭の影3

 震災の被災地では、まだ瓦礫や塵芥の撤去すらままならず、公園や校庭が仮設住宅で埋め尽くされているにも関わらず、全国ネットのTV放送はほとんど全てカルト教団のテロ事件一色に染め上げられた。
 阪神淡路大震災は都市部を襲った巨大地震としては異例の被害を出したが、その被災の範囲はかなり狭い地域に限られた。
 神戸沿岸部を中心とする一地域より、首都圏で起こったテロ事件の報道が優先されるのは仕方のないことかもしれない。
 しかし、気の滅入る日常を送る被災者にとってみれば、おどろおどろしく演出されたカルト教団の情報ばかり見せられる状況は、たまったものではなかった。
 なにしろスマホもネットも存在せず、TVが情報インフラの主役だった時代のことである。
 いやでもニュースで目にせざるを得ない。

 事件後の報道の奔流の中、私と世代的に近い教団幹部や信者達が、連日TV画面に登場していた。
 私自身はかの教団と直接の関係は一切無いけれども、色々情報収集してみると、信者の中には「知り合いの知り合い」くらいの距離感の者が何人かいるらしいことがわかってきた。
 もっとも、これはさほど珍しいことではなく、交友関係の中で「あいつらと意外に近いらしい」という話は身の回りでもよく聞いた。
 同世代である程度の学歴があったり、サブカル界隈で生息していたりすると、同様に感じた人間はたくさんいたのではないかと思う。

 人のつながりで言えば、確かにけっこう近い。
 加えて私には、オカルト趣味とか、神仏や身体的な修行への関心など、興味の対象が重なっている部分もあった。
 さらに間の悪いことに、事件当時の私は髪をかなり短く刈って、坊主頭にしていた。
 別に出家していたわけではなく、被災して中々風呂に入れないという理由で坊主にしていただけなのだが、元々身なりに無頓着なせいもあって、年齢層・ルックスともに極めてかの教団信者に近い状態になってしまった。
 より正確に表現するなら教団信者そのものというよりは、一般にイメージされる信者のステレオタイプに近かったというべきだろうけれども、電車に乗ってバイトに出勤している時、気のせいか周囲の視線が自分の頭に注がれているのを感じることもあった。
 実際、梅田あたりで職務質問を受けたことも何度かあり、その度に「いや〜神戸から来てるんですけど、被災して中々風呂に入れなくて……」などと一々説明しなければならないのが、非常にめんどくさかった。
 今ではこうして完全にネタ扱いで書けるのだが、事件当時は冗談ごとではなかった。
 某プロレスラーが地方のスナックで飲んでいたら、「風貌が教祖に似ている」という理由で通報され、警察に囲まれたという噂もあったりして(後にほぼ事実と判明)、かの教団関連ではシャレでは済まない騒然とした雰囲気があったのだ。
 職務質問というものは、担当する警官のキャラとかその時の気分によって、わりといかようにも転ぶ。
 報道によると、事件後のかの教団信者はカッターナイフ所持程度の微罪でも引っ張られていたようなので、バイトの仕事柄カッターナイフや切り出しナイフを常時携帯していた私は、職質で対応を誤ると更に面倒な事態に陥る可能性もないではなかったのだ。

 自分は単なるビンボーな劇団員に過ぎず、なんらやましいところがなかったにもかかわらず、不愉快を被らなければならないことにムカついていた。
「アホどもがしょーもない事件起こしやがって、迷惑なんじゃ!」
 というような、気分もありながら、
「まあ、他人が俺を見たら怪しいと思うやろな」
 という、ちょっと醒めた自己認識もあった。
 共通している部分があることは認めざるを得ないのだが、はっきり違うという意識もある。
 基本的に徒党を組むのが嫌いであるということ、現実とフィクションの狭間の捉え方に何らかの差があるらしいということはなんとなくわかったけれども、その違いを明確に表現できないことに非常な居心地の悪さを感じていた。
 おりしも演劇活動は休止中、バイトも少ないので、金は無いが時間だけはあった。
 当時はまだ古書店などで普通に入手可能だった教団刊行物を何冊か手に入れ、暇にあかせて読み耽り、彼我の差異を確認しようと試みたこともあった。
「こんなしょーもない本溜め込んで、万一ガサ入れでもされたら一巻の終わりやな……」
 などと自嘲しながらも、被災生活は過ぎていった。
(続く)
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2017年02月09日

祭の影4

 95年8月。
 私は所属劇団の久々の公演準備に追われていた。
 震災で重症を負った作演出のリーダーは数ヶ月で現場復帰し、さっそく大きなプランを持ち込んできた。
 ハコは地元神戸の名門劇場。
 当時の私達の劇団にとってはかなり背伸びした会場だったと思うが、演劇祭に参加する形で、一公演のみ打てることになったのだ。
 まだ体調も万全ではないだろうに、早々と手を打ち始めたリーダーの姿には、素直に「凄い奴だ」と感心させられた。
 彼の意気に感じ、また「名門劇場で一回限りの公演のために舞台を作る」という、その行為自体に開き直った面白さを感じて、また私は舞台美術を担当することになった。

 ただ、勢いで引き受けはしたものの、正直かなり無理をしている状態だった。
 震災とカルト教団によるテロ事件の影響で、精神的にかなりまいっていたのだ。
 表面上は強がってどちらも楽しんでいるふりをしていたが(実際、楽しんでいる部分もあったのだが)、心と体が芯の部分で腐食してくるような疲労を感じていた。
 何かものをつくろうとする人間が、あまりにも強烈な現実の出来事に直面してしまった場合、反応は様々だ。
 描き手のタイプ、描こうとしている作品のタイプによっても違う。
 作演出の彼の場合は、被災をむしろエネルギーとして書くことができた。
 しかし私の場合は、震災もカルトも描きたいモチーフにかなり近接する出来事だったこともあり、創作の意識がブレてしまっていた。
 元々抱えていた孤独癖が、かなり強く出ていた時期でもあった。
 絵も文章も、まとまったものは手につかなくなっていたのだが、作演出の要望を具体化する舞台美術ならなんとかなりそうな気がして、自分の膠着状態を脱するためにも頑張ってみようと思ったのだ。

 8月公演の舞台案には、もちろん作演出の意向を汲んだ上でのことだが、当時の私の心象も濃厚に反映された。
 舞台を誰かの机の上に見立て、大きなパソコン画面とキーボードを中心に据える。
 その他、各種文房具をイメージさせるオブジェなどを配置し、素材は全て無地のダンボールで作る。
 ラストの「大爆発」のシーンでは、ダンボール製のオブジェは全て一気に「崩壊」させる。
 当時のラフスケッチを紹介してみよう。
 完成した舞台とはまた少し違っているが、あの頃の心象スケッチの一つになっていると思う。

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 劇団員でありながら、かなり人嫌いが進行していた当時の私は、材料集めから制作まで全て一人でやろうと試みた。
 最後は結局助けを借りたのだが、それも劇団員ではなく、個人的な友人にお願いした。
 限られた予算で、仕込みとバラシにほとんど時間のとれないタイトな一回公演のスケジュールの中では、まずまずのものが出来たのではないかと思う。
 しかし私は、どうにかこうにかその公演に漕ぎつけた時には、もう集団で何かをするということに疲れきってしまっていた。
 劇団には何の文句も問題も無かったが、私の内面がもう限界だったのだ。
 これ以上続けると、必ず劇団のみんなに迷惑をかける。
 いや、既にかけている。
 中途半端な心のまま、これ以上チームプレイを続けることは、もうできそうにない……
 舞台を撤収し、苦労して作ったダンボールのオブジェをダストシュートに引き裂いて放り込みながら、私はそっと引き際を探り始めていた。
(続く)
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2017年02月11日

祭の影5

 95年8月公演が終り、震災とカルトの年の夏は過ぎていった。
 手伝っていた劇団はメンバーの大半が被災者で、心身共に余裕が無いのは私だけではなかったらしく、この年の本公演は8月の一回きりとなった。
 メンバーの皆さんは、ただ日々を過ごすことに追われながらも、それぞれの表現を求め、何も言われなくとも自主練などでしぶとく活動していたはずだ。
 自分がそうだったので、それはよくわかる。
 どちらかというと私は、演劇人というより絵描きの物作りの一つとしての参加だったので、芝居の練習という形ではなかったけれども、「描く」ということは続けていた。
 絵も文章も「作品」と言えるほどにまとまった形にはできなかったけれども、折にふれスケッチやメモは描き続けていた。
 振り返ってみると、我ながらあの状況の中、よく描き続けられたと思う。
 その蓄積は確実に今につながっている。
 何のあてもなくとも、ただ描く。
 絵描きにとって、それ以上に大切なことなどないのだ。

 当時の記録を探ってみると、スケッチやメモがとくに数多く残っているテーマが「夢」だった。
 私は幼少の頃から睡眠時に見る「夢」というものに興味を持っていて、独自に探求していた。
 あまり夢に没入すると「現実」への適応が難しくなるのだが、幸か不幸か震災後は仕事が少なく、時間だけはたっぷりある状態だったので、夢の記録が多く残せたのだろう。
 内容的にも面白いものが多く、このブログのカテゴリ:夢で公開しているものは、当時の記録の蓄積が母体になっている。
 被災生活、そしてカルト教団によるテロ事件の影響で、生来の孤独癖がかなり進行していたのだが、だからこそこうした極めて浮世離れした記録が可能になったとも言えるのだ。

 そして10月のある夜、私は衝動的に旅に出た。
 午後十一時近く、JRにゆられていた。
 まるで現実感はなく、夢の中にでもいるようだった。
 ほんの数時間前まで、こんなことになるとは考えてもみなかった。
 震災でイエローカードを貼られた安アパートで、いつものように寝転がって夜を過ごすはずだった。
 午後九時頃、南向きの、ボロアパートには不釣り合いな広いベランダから空を見上げた。
 わずかに欠けたほとんど満月。
 フルムーンの一晩前。
 南の空高く、輝く月が私の頭を強くはたいた。
 一年間の酷い現実世界から醒まして、一年前の濃い夢の時間を呼び寄せた。
(ああ、十月で満月だ!)
 居ても立ってもいられなくなって、なんのあてもないままに、突発的に部屋を出た。
 その一年前、私は古い友達からの手紙に誘われ、ある小さな海岸へ行った。
 そこでは毎年中秋の名月の頃、『月の祭』と呼ばれる祭があって、縁あって集まった狂い人たちが、三日三晩乱痴気騒ぎを繰り広げるのだ。

 古い友達からの誘い
 月の祭

 後から思い出してみると、あれが現実のことだったのか、よく分からなくなってくる。
 毎日の生活は固くて、確かで、あの『月の祭』の時間とは余りに差がありすぎて、本当にあったこととは思えなくなってくるのだ。
 それは夢の時間と似ているかもしれない。
 夢を見ているときには、完全にそれが本当のことだと思っているのに、目が覚めて時間の質が変化すると、とたんに姿が霞んでしまう……

 ついさっきJRに乗り込んだばかりなのに、もう自室からは遠く離れたあの海岸への最寄駅に着いている気がした。
 私の心ははやっていた。
 一刻も早くあの海岸へ行こうと、駅前市街の夜道を小走りに駆けていた。
 一年前に一度バスで通っただけの道が、これ以上確かなことはないほどはっきり記憶によみがえってきた。
 分かれ道に差し掛かれば足が勝手に正解を選んだ。
 あの月のきれいな海岸へ一刻も早く着かなければならないのだから、それは出来て当り前のことだった。
 夢の中では、強く望んだことは必ずかなえられる。
 空だって自由自在に飛べるのだ。
 ただし、弱気は禁物。
 空飛ぶ自分に少しでも疑問が湧けば、すぐに墜落してしまう……

 ごくたまに、私はとても非常識になる。
 普段は常識的であろうと努めているのだが、その時ばかりはそういう抑制はまるで効かなくなる。
 衝動的な行動がその後の進路を決めてしまったことも何度かあり、その度に正気に返ってから愕然としたりすることになる。
 今度はいったい、どうなってしまうのだろうか?
 月のきれいな海岸に向かっていることに心踊らせながら、その片隅で正気の部分の私が少しだけ心配していた。
(続く)
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2017年02月12日

祭の影6

 漁港を抜け、古びた灯台を越えると、深夜の真っ暗な波のうねりの向こうに、懐かしい灯りが浮かび上がっていた。
 私はスピードを落として、さくさくと浜辺の砂を踏んだ。
 灯りはともっているけれども、人の気配はあまりなかった。
 少なくとも『月の祭』が今日ではないことは分かった。
 軽い失望。
 海の家のスペースに何人か集まって、映画上映会のようなことをやっていた。
 私は声をかけて、来意を告げた。
 やはり『月の祭』は、やっていなかった。
 今年は少し早目に、一ヶ月前に祭は終えたのだという。
 ああ、そう言えばもう一か月たったか、と一人が笑った。
 祭のスタッフとして参加して、そのまま居着いてごろごろしていたのだそうだ。
 ともかくまあ、あがんなさいよと、私は仲間に加えてもらった。
 あれこれ話すうちに、一同の内の何人かが「ああ、去年のあの絵を描いてた人か」と思い出してくれた。
 よく来たなあと、一杯ごちそうしてくれた。
 ハンモックにくるまれた赤ちゃんをあやしていた若いお母さんが、一冊の本を取り出して、私の生年月日を聞いてきた。
 ネイティブ・アメリカンの生れ月によるトーテム占いだという。
 何のことはない、インディアンの星座占いみたいなものなのだが、「あなたはワタリガラスですね」と言われて、私は何か心の奥深いところでショックを受けた。
 この日、この時でなかったら、こんな衝撃はうけなかったかもしれない。
 ワタリガラス?
 ワタリガラス!
 今まで自分に持ってきた疑問の多くが、この一言でほぼ解き明かされたような気がした。

 ワタリガラスは一所には居られない。
 あちこちを渡り歩いて、その場その集団に助力し、力を与えてまわる役割を果す。
 義理堅く、自分に厳しい。
 自分に厳しいが、そのことが元で周囲の人間を傷付けてしまうことがある。
 ワタリガラスは、ネイティブ・アメリカンの重要なトーテムの一つであると同時に、世界各地にトーテムとして崇拝する部族を持つ。
 日本では熊野にその名残をとどめる……

 私としては珍しく、その占いを信じた。
 普段占いの類にはとくに関心が無いのだが、一期一会のタイミングが偶然合ったということだと思う。
 その瞬間から、私は自分をワタリガラスだと信じ、ワタリガラスとしてものを視、考え、行動するようになった。
 彼女はまるでインディアンの呪術師のようだった。
 いともあっさりと、私はワタリガラスに変身させられてしまった。
 今も、その呪術は私の中に生きている。

 色々話したり、海を眺めたりしながら夜を過ごした。
 夢の中のまた夢のような時間は過ぎ、夜が白み始めた。
 秋の夜明け前、海辺は深々と冷え込んでくる。
 髭のおじさんが、「どこかで見たことのある顔だな」と笑いながら、火鉢でゆっくりと作ったおかゆをごちそうしてくれた。
 夜明け前のおかゆは、素晴らしく旨かった。
 たっぷりの水と一すくいの米で作ったおかゆが、ワタリガラスの夢を心地よく覚まして、朝の世界に着陸させようとしていた。
 私は寝袋に潜り込んで、起きて見る夢の世界から通常の眠りの世界に入った。

 目が覚めたとき、あたりに人影はなかった。
 煙をかき消したように、一人もいなくなっていた。
 昨日の酔いのせいか、くらっと眩暈を感じた。
 しばらくじっと明るいビーチを見ていた。
 それから誰にともなく「帰ります」と一声かけ、寝袋を片付けて、とろとろと砂浜を歩いた。
 古びた灯台を曲がるとき、もう一度振り返った。
 お世話になりました、と言った。
(続く)
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2017年02月13日

祭の影7

 95年10月。
 月の輝く懐かしい海辺から帰ってきて、劇団活動に区切りをつける決心がついた。
 年が明けた2月の大阪公演、そして同じ演目による3月の劇団初の東京公演。
 その二つには全力を尽くそうと決めた。
 あらかじめゴールが決まると、ストレスは劇的に軽減され、あらためて芝居への熱がよみがえってきた。
 なんだかんだ言っても、演劇が好きなことは確かだったのだ。

 蛇足ながら、あの夜私が信じた「占い」について。
 私はこの「神仏与太話」と銘打ったブログで、度々「オカルト趣味」があると書き、同時にスピリチュアル嫌いを公言してきた。
 ずいぶんわけの分からない立場に見えるかもしれないが、私の中では矛盾しない。
 私は普段の生活ではまず「常識の範囲内であること」を強く心がけるが、同時に絵描きでもあるので、創作にまつわる不思議な縁や偶然の符合は日常的に経験している。
 世に不思議が存在することは否定しないが、何でもかんでも不思議で片づけるのは、私の審美に反する。
 宗教や、それに近接する分野の書籍は良く手に取るが、書店で「宗教」の本棚のすぐ隣に並べられがちな「スピリチュアル」の棚にはあまり手を伸ばさない。
 90年代は「スピリチュアル」という言葉はあまり一般的ではなく、「精神世界」というようなカテゴリになっていたはずだが、当時からあまり好きではなかった。
 だから基本的にはこのブログで「スピリチュアル」の本や、書き手を紹介したりすることは無いし、占いやスピリチュアルカウンセリングを勧めることもない。
 私を「ワタリガラスですね」と言った女性とは、ずっと後になってから何度か再会している。
 非常にパワフルな人だが、別に占い師でも呪術師でもない。
例のインディアンの占いも、有態に言えば、その時手元にあった本を読みながらの、世間話のようなものだった。
 ただ、それを聞いた当時の私の精神状態や出会いのタイミングにより、色々思うところがあったということだ。

 ネイティブアメリカンの文化には子供の頃から関心があった。
 90年代、映画など先住民の文化をテーマにしたヒット作がいくつかあり、関連書籍が多く出ていたと記憶している。
 その分野の本は、便宜上「精神世界」の棚に並ぶことも多かった。
 あの海辺の夜に開いた本もそんな中の一冊で、当時わりと読まれていたのではないだろうか。


●「メディスンホイール シャーマンの処方箋」

 ネイティブアメリカンをはじめとする、世界各地の先住民の文化に関する本がよく出る時期というものがあり、70年代と90年代はそのような時期にあたっていたのではないかと思う。
 特に90年代頃からは、書籍だけでなく雑貨や食べ物としても様々なエスニックが日本で紹介され始めていた時期だった。
 そんな機運に乗って、私も多少読みかじっていた。
 中でも、70年代から90年代にわたって書き続けられた、カルロス・カスタネダの「呪術師ドン・ファン」のシリーズは面白かった。
 メキシコ先住民の知られざる文化に対する関心と共に、内容がどこまで「事実」なのかということについても色々議論のあるシリーズだ。
 私が最も関心を持つ「現実とフィクションの狭間」というテーマも絡んでいて、とても興味深く読んだ。
 一冊挙げるとするなら以下の本。


●「未知の次元」カルロス・カスタネダ(講談社学術文庫)

 そして、あの海辺の夜の体験から、ワタリガラスというトーテムに興味を持って、資料を渉猟し始めた。
 一冊挙げるとするなら以下の本。


●「森と氷河と鯨―ワタリガラスの伝説を求めて」星野道夫

 94年の『月の祭』で素晴らしいパフォーマンスを見せてもらい、少しだけお話もさせてもらったどんとが、バンドを解散して95年から沖縄に移住し、ソロ活動を始めたらしいということは、雑誌記事などで何となく知っていた。
 ネットが普及する前なので、いくら関心のあるアーティストでもメジャーシーンから一歩降りると、とたんに情報が乏しくなる。
 私が沖縄移住以降のどんとの作品に触れることができたのは、2000年のどんとの訃報後、再評価の機運が盛り上がってからのことになった。
 当時はただ、「あのどんとも一人になったのか」と、勝手に共感していただけだった。
(続く)
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2017年02月17日

祭の影8

 劇団をやめてからどうするか、とくに展望があったわけではない。
 学生とか劇団員とかアルバイトとかいう肩書を外してもなお、私にはただ一つ「絵描きである」ということだけは残る。
 絵描きは絵を描けばよい。
 まとまった作品にならなくとも、スケッチでもメモでも何でも良い。
 他にやれることがあるとすれば「学ぶこと」ぐらいだ。
 描き、本を読む。
 最後と思い定めた次の公演まで、そしてその公演が終った後も、当面はそれだけ続けられれば十分だ。
 心折れずにやっていける。

 94年11月。
 私は何度か衝動的に、カラースプレーによるライブペインティングをやっていた。
 過去にも学祭などで飛び込みで敢行していて、経験はあった。
 カラースプレー各色、パネルとブルーシート、クラフト紙をつないだ大きめの紙を何枚か用意する。
 あまり迷惑にならないようなほど良い場所で、用紙をパネルに貼り付けて立てるか、ブルーシートの上に敷いてセットする。
 あとはCDラジカセ(これも90年代的なアイテムだ)で好きなBGMを流しながら、描く。
 あまり事前にネタは用意しない方が良い。
 その時その時の気分と手の動きと、あとは見物人の反応を見ながら、即興で描くのだ。
 当時ライブペインティングで描いたものの写真が何点か残っている。

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 サイズは大体135cm×180cmくらいだろうか。
 白、黒、赤、シルバーを多用しているのは、単純にその四色がホームセンターで安く手に入りやすいからだ。
 今見るといい年こいてかなりの「中二病」だが(笑)、まあわざとそのように描いている面もあった。
 屋外で人目を引いて立ち止まってもらうためには、あまり細かく繊細なことはやっていられない。
 なるべくインパクトの強い、分かりやすい絵の方がいいし、「ちょっとイカれた絵描き」というイメージがあった方が、好奇心をもってもらいやすい。
 当時の私は実際に少々病んでいたし、震災とカルト事件で騒然とした世紀末の世相もあって、上掲のような怪しい絵柄もけっこうウケた。
 投げ銭でカラースプレー代くらいは出ることが多かったのだ。
 
 こうしたパフォーマンスが、たまたまある大学の学園祭実行委員の目に留まり、声をかけられたこともあった。
 何組かのスプレー絵師が一斉にパネルに描画、見物人の人気投票で優勝を決めるという企画に参加してみないかとのこと。
 面白そうなので「出ます出ます!」と即答。
 カラースプレー代は出るし、パネルも用意してもらえるしで、私は当日、足取りも軽く会場へ向かった。
 現地では水を得た魚だった。
 CDラジカセで「幻惑されて」なんかを流しながら、酒をあおって好き放題に描く。
 見物人が面白がって周りの出店で酒を買ってきてくれるのを、「いえ〜い!」とか言いながら一気飲みしてまた描く。
 フラフラになりながら描き続けると、投票ではぶっちぎりで優勝だった。
 優勝賞品は洋酒各種合計10本。
(なんぼほど飲まされんねん……)
 と苦笑しながらも、当時はけっこう飲む方だったのでありがたく頂いた。
(続く)
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2017年02月18日

祭の影9

 95年12月。
 8月公演で客演した役者さんが、年末に一人一座でオールナイトショーを行うと言う。
 ついては芝居に使う「人体模型っぽく見えるもの」を作ってくれないかという電話連絡があった。
 等身大で、できれば操作一つで内臓がドバッと飛び出すようなギミックが必要とのこと。
 加えて、会場のスペースを埋められそうな、何かサイズの大きな絵はないかという注文だった。

 ぜひやらせてください。自分一人で出来ることなら、なんでも。
 穴埋め作品の方は、パフォーマンスで描いていたスプレー画がたくさんあるんですけど、一回見てもらえますか?
 かなりアクが強いですけど……
 人体模型の方はこれからすぐ取り掛かります。時間が少ないのでぎりぎりになるでしょうけど、必ず本番には間に合わせますので……
 それにしても一人一座ですか?
 それは凄く面白そうですねー。本番を楽しみにしてます!

 こんな感じで話が決まって、少し手伝わせてもらうことになった。
 人体模型の方は竹ひご細工でトルソの概形を作り、スポンジ素材、ゴム素材などで臓物が飛び出す仕組みを作った。
 竹の組み合わせで骨格を作る手法は、中高生の頃からよく使っていた工作法だった。
 私が立体物を手がける時、よく使う手法がいくつかある。
 竹細工、ペーパークラフトや折紙の手法、そしてペットボトルやプラ鉢等の既成プラ素材の切り貼り。
 どれも子供の頃から工作で使ってきた手法で、それは今も変わらない。

 当日のショーは座長の役者さんが中心の小人数の芝居や、音楽などの各種パフォーマンスが集められた、盛りだくさんな一夜だった。
 深夜まで演目が続いた後は、客も演者もそれぞれに飲んだり語ったりして、とても楽しかった。
 役割分担の固定した「劇団」という形ではなく、各個人が得意なことをそれぞれ持ち寄って一夜のショーを創り上げるのが新鮮だったのだ。
 こうして激動の95年も暮れていく。

 年明けて96年。
 2月3月と、たて続けに所属劇団の公演がある。
 同一演目なので準備は一回で済むのだが、3月は劇団初の東京公演。
 これが最後だと思い定めた私は、その時点で出来ることは全部やろうと努めた。
 作演出との話し合いで、チェス盤のような舞台の上に、それぞれ色やイメージの違う「六つの扉」を配置するプランを立てる。
 手法はペーパークラフトを中心にする。
 私は元々、舞台美術でペンキを使用するのは好きではなく、素材自体の色を活かすことが多かったのだが、今回は「紙の質感、色」を使う方向で考える。
 チェス盤の色分けは壁紙の貼り合わせにし、六つの扉は角材の骨組みの上に紙を貼って作った。
 2月の大阪公演は勝手知ったるOMSなのでまず問題ないとして、初の東京公演のことも考えなければならない。
 搬入搬出する荷物はなるべく軽量コンパクトに、仕込みバラシはなるべくスピーディーに。
 屏風のように畳める襖サイズ×5の可変枠を二機作り、それを設置・固定して各扉を付ければ、ほぼ舞台の仕込みは完了できるようにする。
 搬入搬出の時は可変枠を畳み、中のスペースに小道具を放り込み、六枚の扉を重ねて蓋をすれば、ほぼハイエース一台分くらいで済むようにした。
 舞台の機能、デザインだけでなく、予算、労力、仕込みとバラシの段取りもスムーズに進むように、知恵を絞ったのだ。
 多少の不具合はあったものの、全般に見れば90点はつけられる出来だったと思う。
 私のペーパークラフト系の造形の、その時点での集大成には出来たと感じた。

 そして3月、東京公演。
 下北沢の劇場、舞台ソデでオペレーションをしながら、ああこの空気もこれで最後になるんだな、と思った。

 俺は舞台作るの大好きだったな。
 でももう、止めるんだよ。
 これからは一人で祭を探すんだよ……

 そんなことを考えながら、最後の舞台を終えた。
(「祭の影」の章、了)
posted by 九郎 at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする